* In the Middle Tide 〜月齢5 -第二話*











「いくら何でも食べ過ぎちゃったー」


寝室から彼女の悔しそうな声が聞こえる。
食事から戻るなり、少し横になりたいと言って初めは畳の上で長くなった。
「制服が皺になるから」と僕が言ったら、這々の体で起き上がって
「…そうですね、ベッドにします」。と、奥の洋室に引っ込んだのだけれど。


何か早合点したのかな。
ベッドでも畳でも、制服が皺になることは変わりないはずで、
彼女はそういうふうに、時々僕の思ってもいない行動をして驚かせる。
苦笑も漏れるけれど、そういうところが可愛らしい。


僕の誕生日ということもあるのか、夕食のメニューは質も量も目を見張るものだった。
言葉のとおり至れり尽くせりで、少し申し訳ないくらい。
男でもやや手を焼くほどのお膳立てを、彼女はひとつも残さずに平らげたから、
これは腹ごなしができるまで、風呂に行くのは控えたほうが良さそうだ。


僕は和室の整理棚から備え付けの浴衣と帯を一対ずつ揃えた。
ひとつは寝そべる彼女にこちらを着てもらうため、もう一つは僕が湯上がりに着る。
洗面の道具と一緒に小脇に抱え、寝室の彼女に顔を出した。
仕切の奥は照明がぐんと抑えられていて、間接の柔らかい色に落ちていた。


「小日向さん」
「……うー、神戸牛の大群がぁぁ」


半分寝かけているのかな。思わず吹き出さずにいられない。
うつ伏せになって小さくうなっているのを見ると、本当に苦しいみたいだ。


「お先にお風呂をいただこうかと思ったのだけれど、」
「……ん?」
「ひとりで大丈夫?」


僕は畳からフローリングへ一段上がり、彼女の枕元に浴衣を置いて、
彼女の耳許へ声をかけた。


「ほら小日向さん、ここに置きますから、ちゃんと着替えて」
「っ……ん」
「おやすみなら、制服では皺になってしまいますから」
「……皺になったら八木沢さんの着る」
「……完全に寝ぼけているな、これは」


こころを鬼にして肩を揺すると、彼女は甘えるように喉を鳴らして、指先をキュ、と掴んできた。
はんぶん寝ながらにして仕掛けて来ることだから、この所作には多分に本音が現れているのだろうなと、
そのとき僕はやや自惚れたのだと思う。
そのまるまった指先の頼りない力が可愛らしくて、和んで、
風呂に行きかけていたのをひとたび置いて、ベッドに腰掛けた。
浴衣を膝に乗せて上体を捻ると、彼女のまるい頭がある。
空いた手で頬にかかる毛先を掬い上げるようにして、髪に触れてみる。
柔らかい髪質は撫でるたびに指に纏わりつくような甘え癖があって、
いまにも寝付こうとしていた長い睫毛が、ちりちりときしむのに目を奪われた。


「……ん、くすぐったい…です」
「目が覚めて来た? 眠る前に着替えないと」
「お腹が重いんです起き上がれないの」
「確かにいい食べっぷりでした。見ていて清々しかった」


そこで彼女はなにか言いたげにして瞳を開いた。


「でも太っちゃうんですよ」
「女の子は少しくらいぽっちゃりしていても可愛らしいと思うけれど」
「……本当ですか?」
「気にする女性は多いようですが、痩せているとか、太っているとかではなくて、
 僕は小日向さんが好きなんですから」


言うと、握られた指がぴくと反応した気がした。


「どうかしましたか?」
「……八木沢さんの殺し文句が出たと思って」
「殺し文句? あは、やだな。僕はそういうタイプでは」
「ほら。自覚がないのが一番困るんですよ」


返す言葉に詰まっていると、彼女はうつ伏せから寝返った。
その時に初めて、僕は彼女が、制服のボタンを幾つか外していたことを知った。
言葉に詰まるどころか息を呑んだ。
仰向けになった彼女の制服は、たった一つのボタンだけで辛うじて全開を免れているだけ、
羽衣のような下着の生地が、どうしても目にはいってしまう。
僕の目線に気付いた彼女は、思い出したような声を上げた。


「あ…!」


彼女は慌てて胸元を隠した。
同時に僕も、彼女の頭から手を離して、膝に置いて正面に向き直った。


「ごめんなさい、苦しくて、開けてたの忘れていて」
「いえ、僕のほうこそ、気付かなくて」


身体が固まったようで、そして何故だか心臓がとても早く打っている。
打ち消さなければと思えば思うほど、目の当たりにした胸元が思い出された。
下着から零れそうになっていた気がする、クッキリとした谷間と、まるく盛り上がった白い肌が
額の裏に何度も何度も反芻される。


(着痩せするんだな…)


僕の頭の中ではそんな結論さえ出ていた。
不躾に過ぎる仮定で解析して、これは本当に僕の頭がすることだろうか。
普段女性に対してそういうふうに考えることがなかったから戸惑いを隠せない。



―――いや、そのほうがおかしかったのだろうか



ふつふつと、背中の向こうを意識した。
外していたボタンはもうかけ直されてしまったろうか
あの、可憐な下着に隠した胸元は―――
触れたら、どんなにか柔らかいだろうと、明確に抱くこの気持ちは紛いもなく劣情だ。
そして、つまり彼女は紛れもなく女性だった。そんなことは知っていたのに、
何故、僕は今頃知ったように思っているのだろう。


“戻ったら、一緒に入りましょうね”


なんて、何故僕は、あのときあんなに簡単に?
いや、決して彼女を見くびっていた訳でない。
身体のことに、思いが至らなかっただけで、


ただ彼女とふたり、同じ湯船に浸かったなら、ひとりで入るよりきっと心地がいいだろうと


考えたのはたったそれだけだった。
例えば、同じ目線で月を見たり。
例えば、肩に湯を掛け合ったり、それさえ、僕には日常の延長でしかなく
ただそれだけの絵として、思い浮かべていたのだ。



駄目だな。やはりに僕は、ずれているみたいだ。



実行に移してしまう前に、満腹のあなたが気付かせてくれて良かった。
僕が一体に何をしようとしていたのか。
制服も、下着さえも滑り落とした彼女を目の当たりにすれば、
やはりきっと僕はこの気持ちを知っただろうことが、今なら切々と理解できる。
知れば、抑えようもなく僕は、
9月3日の月齢の下で、彼女を抱いたに違いないことも


それこそ、どんな手を使っても、済むまで部屋に帰すことができなかっただろうことも


恋をして、どんなふうに心が動くのか
どんなふうに身体は動きたくなるのか
当たり前のことを、彼女から教わるまでわからない。
それが、僕という男であるらしい。


僕は、男で
彼女は、女で
今夜、ここで、二人きり


遅まきながら意識して、思い浮かべた絵は赤裸々に過ぎ
彼女の全てを知りたいと、欲深い思いを抱いている。


(いや、そんなことが、許されていいはずがない)


振り返った。
ボタンがかけられているといいと思っていた。
けれども、彼女はそうはしていなかった。
両手で胸元を握りしめてはいたけれど、その風情は先程のまま、
そこ以外は本当に頼りなく開いている。


その手に触れたのは、彼女が閉じようとしないなら僕がと思ったからだ。
戸惑う彼女にはかまわないで、襟元をきちっとあわせた。


「や、八木沢さん」
「かなでさん」


呼び名は口をついて出た。


「……八木沢、さん?」
「苦しくても、ちゃんと着ておかなければ」


着て寝かせれば皺になる、皺になると明日困るだろう制服のボタンを、
僕は心に逆らって、ひとつひとつ閉じていく。
彼女はくすぐったそうに身をよじった。


「ぁ……ふふ、くすぐったいです」
「っ、そんなつもりでは」
「……そうですよね」
「……そうですよ」


目をやれば、彼女は多分に沈んだ横顔を枕にうずめている。
そんな顔をされたら、僕はまた自惚れたくなってしまう。
閉じないで、開いてくれたらいいのに、と、そう期待されているのでないか
なんて、思ってしまいたくなる。


「あの、ゆ、雪広さん、」


次に目を合わせた時に、彼女は僕をそう呼んだ。
慣れない響きに照れが来て、きっと僕はそういう顔で見返したのだろう。


「ご、ごめんなさいやっぱり恥ずかしいですね、あ、あの八木沢さん」


彼女は元の呼び方で言い直して、それから僕の手を握って止めた。


「あの、ボタン、閉めないで」
「…かなでさん」
「閉めないで、外してください」
「―――」
「だって、一緒に行くんですよねお風呂っ」
「その話ですが、」
「その、いいんです、いやとかじゃ、なくて」
「……はぁ」


まるでうだつの上がらない返事を続けた僕に、恐らく彼女は業を煮やした。
うん、と下腹に力を入れて上体を起こすと、ベッドの上で正座になった。


「ていうかまくらもとにこれが」


言って、彼女はスカートのポケットをごそごそとやり、
僕におよそ4センチ四方の薄いものを突き出した。
受け取った僕はパッケージ越しのその質感から、
そして浮き上がっている円形の輪郭から、
なかみがなにであるかを否応無しに知ってしまった。
彼女は蒸気でも噴き上げそうな風情で俯いていた。


「………あのこたちは全く。どうやら仕込まれましたね」


僕たちが到着する前にこの部屋に入って、彼らが誂えたのであろう工作だ。
冗談にしてもタチが悪い。
僕はこれで枷が外れたようなものだけれど、
僕より先にこれを見つけてしまった彼女は、嫌でも覚悟を決めなければならなかったのではないか、
何故なら今日は僕の誕生日で、それを恐らく今日この日、初めて知った彼女にすれば、
どうにかして祝ってくれようと、恐らくきっと思っているはずで、



僕は確かに男子校の吹奏楽部の部長だけれど
ああなんてこの日は
男の都合ばかりで動いているんだ



気持ちだけ受け取って、あとで彼らの部屋を訪れて、つき返そうと思った。
ついでに小言のふたつやみっつ。本当に、そう思っていたのに。
それから、やっとの様子で顔を上げた彼女が、
一言一言絞り出すようにして僕にくれた言葉は、俄には信じられないものだった。
信じられなかったのは僕の固定概念のせいか、それとも、彼女が突飛なのか、
それとも、わりと世間の時流はそういうものなのか。


「お誕生日、おめでとうございます」
「うん。ありがとう」
「私知らなかったから、あげるもの何も用意してなくて、でもさっきこれ見つけて、
 これがあるなら、私をあげられるんじゃないかって思ってるんです…自惚れかもしれないですけど」


自惚れだなんて
それを言うなら、僕のほう
彼女はひとつ距離を詰めると、爪の先で持っていた例の物体ごと、僕の手を握り込んだ。


「ちょ、かなでさん」
「い、いっそもらっていいと思うんです、それ」


ギリギリと、固い塩ピのカドが手のひらに刺さるようで
これではまるで、本当に彼女を―――かなでさんを、僕は
プレゼントに貰ったような気になってしまうじゃないか


「それから、これはあくまで私の考えなんですけど」


と彼女はそう前置いた。
続いた言葉は、さらに僕をびっくりさせたし、そして煽った。


「一緒にお風呂に入るよりさきに、しておかないといけないことがあると思うんです」
「しておく、とは……?」
「………お風呂でいきなりハダカを見せるのは恥ずかしいので、その前に見ておいて欲しいと言うか」
「………」
「うまく言えないんですけど、私としては、一緒にお風呂に入るのは、
 い、いわゆるエッチの次の段階だと思うんです」


もしかしたら、と、ある仮定が僕の中に浮かんでいた。
彼女は、僕があの浴室で言った迂闊なひとことを、
まさしく正しく理解していたのでないか。
僕さえ気付いていなかった、けれど確かに僕の中に潜在する邪なぶぶんを
暗中を疑心に模索していたのでないか。


だとすれば、僕は彼女にこのさき
きっと一度もかなわない


僕はもう一つ上体を捻って、片膝をベッドにのぼらせて
そうすることで、やっと彼女と正面切って相対する。
不思議なことに―――と、敢えてそう表現するけれど、
正座の彼女がものすごく、心から、きれいに見えた瞬間だった。


「そんなに恥ずかしいことだったとは、正直思いませんでした」
「……私がへんなのかもしれないです」
「いいえ、恐らく僕が。恋する気持ちに疎すぎた」


そして、口付けは彼女のほうから。
ついばむような感触を、何度か受けて、返して


「…っ、ぁ!」


非常な近距離で、鼓膜は聞き慣れない声色を拾った。
真正直に、直接心を動かすような声だった。
いや、心でなくて、動いたのは身体だったかもしれない。


「参ったな。あなたにここまでされて、僕が二の足を踏む訳にはいきませんね」


彼女の頭をそっと寄せて、彼女がしたのよりもう少し、しっかりと
感触までちゃんと伝わるように、くっつけあうキスをした。