※マイ設定注意:このお話は、配信イベントが2011年9月3日(土)に重なることを前提にしたものです







* In the Middle Tide 〜月齢5 *






―――神戸での宿泊先は、有馬温泉に決まった。
新神戸の駅から、電車でも行けるけどバスなら乗り換えがないみたいで、
どっちのルートでも30分だ、と東金さんが土岐さんの助手席から説明する。


「なるほど。それなら僕たちは土地勘がないですから、小日向さん、」
「はい。バスがいいと思います」


ぴたりと意見を合わせた私たちの手に、
後ろの席の芹沢さんから宿までの地図が渡された。
裏面には周辺の見どころや湯けむりそぞろ歩きスポットなどの紹介が写真付きで載っている。
東金さんによれば、デジカメやPCを駆使して急ごしらえに作り上げたと誇らしげだが、
恐らく実際に作ったのは芹沢さんだと思われる。


「みなさんのぶんも用意してあります。小日向さん、渡しておいていただけますか」
「はい」


左端はきちんとクリップでとめられている。本当に面倒見がいいらしい。


「六甲山から眺める夜景がええんやで。有馬からやったら確かロープウェイで繋がっとったはずや。
 肩並べて眺めたら、あんたらの恋も、急速に深まったりして」
「は、はぁ……?」
「おい蓬生、あまりユキをからかうなよ。……と、至誠館のやつらの姿が見えねぇようだが」


東金さんはロータリーの面々を一瞥してそう言った。
天音のメンバーは演奏会に向けて先程電車で出たあとだった。
星奏のメンバーはバスの時刻を確認したり荷物の見張りをしたりしていたが、
そういえば言い出しっぺのはずの至誠館のメンバーがいない。


「道理で、静かだと思いました。……あ、ご、ごめんなさい」
「ハハ、同感です。何でも、先に行って部屋を取っておくとか。当日になって決めたもので、
 電話やネットより直接交渉でいい部屋を押さえたいと言っていましたね」
「そうなんですか、すごく気合い入ってますね」
「へぇ。さすがはユキの仲間だな。見所があるじゃねぇか」
「ええ。自慢の仲間たちなので」


と、いうようなわけで、私たちは神南のメンバーと分かれ、バスに乗り込んだ。
窓から見える景色はそろそろ夕暮れ、9月に入って最初の土曜日、神戸の街は人波で溢れ返っている。
これから夕食に繰り出すのだろうと思われ、私のお腹も減ってきた。


「おいかなでー、チップスター食うかチップスター」


後ろからヒョ、と頭を乗り出してきたのは私の幼馴染みだ。
八木沢さんにも「どうだ、うまいぜ」とか言っている。
それを諌めたのは隣のハルくんだ。


「響也先輩、子どもじゃないんですから落ちついて下さい。これから宿で食事なんですよ。
 チップスターを食べている場合ではないでしょう!」
「行楽ッつったらチップスターって相場が決まってんだよ。そっちこそきゃんきゃん騒ぐな」
「なんですって?!」


八木沢さんは苦笑いで、「では、一枚だけ頂きましょうか」と言ってその場をまるく収めた。
なるほど、さすが至誠館の部長さんだけあって、騒ぎをまとめる手腕は本当に鮮やかだ。


「小日向さんも」
「は、はい、ありがとうございます」


チップスターはほぼ口許にあり、私は反射的に口を開けていた。
が、八木沢さんは驚いた顔をした。それも、ものすごく驚いた顔だ。


「あの、僕があなたの口に?」
「っ、違ったんですか? ごめんなさいてっきり」
「いえ、……その、あなたがいいのなら、かまわないのですが」
「は、はぁ……いただきます」
「ええ、では、どうぞ……」


なんだか妙な雰囲気になってしまった。
あーんではなくて手渡すつもりだったのだろう、
そうだ、なんたって清楚な八木沢さんのすることだ、
八木沢さんに限って自主的にあーんとかするはずがないではないか、
というのを学習しながらも、こうなったらひっこみがつかず、
私は一応口を開け、パリ、と前歯でまるいのに噛み付いた。


(……っ)


唇の表面で、八木沢さんの指先を掠めた気がした。
一瞬だったけれど、さらりとして、とてもあたたかかった気がする。
これがいわゆる「人肌の温度」なのだろうか。
人肌を人肌で感じるときの、温度なのだろうか。
塩気を拭き取るフリで、指先でそっと唇に触れる。


「ぱ、ぱりぱりしておいしいです」
「はい。久しぶりに口にしましたが、たまにはいいものですね」
「そうですね…!」


何故だろう、こんな会話でさえきゅうに意識してしまって、
ぼんやりしていたら膝と膝とが擦れあってしまいそうで、
私は、八木沢さんから視線を外し、
緊張した身体を窓に貼り付かせるようにして景色を眺めることに集中した。


(温泉に泊まるのか……もしかして一緒の部屋とかにされたりして)


至誠館のメンバーが先に部屋を取りに行ったという事実が
今になって大変なことのように思えてきたのである。


いまごろフロントで彼らは何を話しているか―――


1. 彼らは私と八木沢さんがつきあっていることを当然ながら知っている
2. 旅館の部屋は普通2、3人〜5、6人で泊まれるようにできている
3. 学校別にわかれて泊まる場合、星奏の部屋と至誠館の部屋にわかれることになる
4. 私は星奏なので星奏の男達4人と共に川の字+リの字になって寝ることになるが……


(……それはちょっと、まずいよね)


何故なら私は一応女性である。星奏の中に彼氏がいれば問題は半減するのだが、
私の彼氏つまり隣の八木沢さんは至誠館の部長である。
では私だけがひとりの部屋で寝ることになるのか―――


―――それとも


5. つきあってるんだから部長と一緒に寝たらいいじゃん ←いまここ
ものすごく、こうなっている気がする。
今頃きっと彼らはフロントで、私と八木沢さんを二人にするための部屋を。


「……日向さん?」


い、いや、憶測に過ぎない、過ぎないが。
これは女の勘だろうか。やけにビシビシとした予感を感じる。


「あの、小日向さん」
「はっ! は、はいっ」
「大丈夫ですか? バスに酔った?」
「い、いえ。私船にさえ強いんです」
「あは、頼もしいね」


正確には他のことでやや酔っていると言えるかもしれないが伏せておいた。
八木沢さんはそんな私を、いつものように笑って見つめ、
眠くなったらどうぞ、とか言って、肩を少し寄せてくれたりした。


「……ありがとうございます」
「いいえ。これくらいのことは」


彼女が隣でこれほど邪なことを考えているというのに、なにも知らずにいい顔で笑うひとだ。



―――ああ好き。大好き。



だから、どうすればいいのかわからない。
眠くはないのに、頭を乗せたくなってしまう。
けれども、これほどドキドキしていては、制服の皺を潰しあったあわいから、
狸寝入りが筒抜けになってしまうから。


「で、でも、たぶん、眠くはならないと思います。30分で着いてしまうんでしょう?」
「とても楽しみですね。ほら、このあたりだそうですよ。風情があっていいですね」


と、八木沢さんは、芹沢さん作のプリントを開いて私に見せてきた。
ぎゅっと腕が触れる。


「―――あ、すみません。いま腕が」
「い、いえっ、ぜんぜんっ、私は!」
「はは、駄目ですね。どうも僕は、こういうことに慣れていなくて」
「……私も、ですけど、あの、大丈夫なので、」


どうぞと何度か言い張って、ようやく私たちは、ひとつのプリントを二人で見ることができた。
八木沢さんが、有馬温泉の歴史や、何故これほど有名なのかについてを説明してくれているのに、
申し訳ないことに全く頭に入らない。
キリキリと返事だけはしているが、ごめんなさい、あとでもう一回聞くかもしれません。


バスはいよいよ都会の喧騒を抜け、一転山手の道を順調に進み始めた。









ある程度予想はしていたが、旅館の入り口で待っていた至誠館のメンバーは、
予想を越えるサプライズを用意していた。
三年生の狩野さんが代表してルームキーを持っていたが、


「よし。じゃ、打ち合わせ通りにいけ。新!」


というような号令のあとで進み出た新くんが、


「八木沢部長! 誕生日おめでとう!」


と言ってクラッカーを鳴らした。
伊織くんと火積くんは舞い降り来る色とりどりのゴミを受け止めたり拾ったりする係であるようだ。
なるほど、至誠館の団結はここまで徹底されているらしい。
と、それもさることながら―――


―――八木沢さんの誕生日。


今日は9月3日、土曜日だ。
私はいま初めて知ったことだったが、八木沢さんも忘れていたようで、
狩野さんからルームキーを受け取りながら目をまるくしている。


「お前と小日向さんには、この宿一番の露天風呂付き客室を用意した。まぁ、楽しめ」
「「え!」」


私と八木沢さんは同時に同じような声を出して驚いた。
だが、そのあとの反応はやや違っていた。
私は赤くなっていたが、八木沢さんは少し心配そうなのを除けばほぼいつもの顔色だ。


「この宿の一番なら、きっと安くはないはずだよ。大丈夫かい狩野?」
「(……ていうか露天風呂付き客室って)」
「水くせぇこと言うな。お前には三年間、数えきれない思い出をもらった。なぁ火積」
「あんたにゃ……俺のことでいらぬ手間もかけさせた。感謝してもしきれねぇ」
「ボクも、同じ気持ちだよ」
「そうそう、それに〜、部長もそろそろ自分の幸せ考えるべきですよ!」
「みんな……」


前から思っていたが、なんていい学校なのだろう。部長のためにここまで。


「響也、ハルくん」
「ああ」
「ええ」


私たちも今後律くんや大地先輩のためにがんばることについて話し合わなければならない。
そんな律くんと大地先輩を見れば、二人でホロリとしている。やはりである。


「いや、小日向。俺たちには優勝杯があったな」
「そうそう。奇跡は既にもらっているからね。ちなみに俺の誕生日なら12月だから、
 まだ間に合うよ、なんてね」


それから、口々に八木沢さんへお祝いを言ったりして、
食事の時間までとりあえず部屋にわかれることになった。
星奏の部屋と至誠館の部屋、そして、私と八木沢さんの露天風呂付き客室に。
それぞれ仲居さんの後についてぞろぞろと、私たちはこぢんまりと並んで歩く。


「どんな部屋なのでしょうね」
「そ、そうですね」


露天風呂が部屋についているということだけは決まっている部屋だ。
せっかくだから使うべきだろうか、使うとしたら二人で使うべきだろうか、
そうでないとわざわざ部屋についている意味が霞む気もする。
男湯と女湯で別々に入るなら、普通の客室だってかまわないのだから。


(……そういう意味だよね)


八木沢さんはにっこり笑っているけれど、私は作り笑いが今にもひび割れそうだ。
彼氏と一夜を二人きり。まずそこから、私は初めてだ。









設えられた庭の奥でシシオドシがぽくんと鳴いた。
私は、仲居さんの煎れてくれたお茶を、静かに静かに飲んでおり、
八木沢さんは、同じく仲居さんの煎れたお茶を、向かいで普通に飲んでいた。


そんなにものすごく広い部屋ではないが、普通の大きさの部屋がふたつ連結された形。
畳張りの方の部屋に今はいる訳だが、奥はフローリングで一段のぼる洋室になっている。
その寝室を、まだ見に行ってはいないが、ちらりと目の端で伺う限り、
でっかいベッドがいっこしかないのを私は知ってしまっている。


「お風呂は向こうから行けるのでしたっけ」
「は! えっと」


どうやら、私は仲居さんの説明を全く覚えていないらしい。
八木沢さんは立ち上がり、「向こう」と言った方向、つまり寝室とは逆の奥へ、


「見てきませんか」


と言って私を誘った。
確かに、露天風呂自体は好きだし、どのようなものか俄然興味はある。
興味はあるが、緊張する。
私は、差し伸べられた手のひらを、汗ばんだ手でとって、指先だけを握った。


「ね、ねぇ、ほんとに私たちだけしか入らないんですか?」
「贅沢ですね。ふたりじめだなんて」
「―――」



ふたりじめ?



私の手はいよいよ汗を握る。
このひとは涼しい顔をしてサラリと何を言うのだろう。
ふたりじめということは、つまり一人占めの複数形なわけだから、
ふたりで入ることを前提とした言葉である気がするが?
私はひとりずつ入る線もまだあきらめた訳ではないのだが、
彼の中では既にそういうことで落ちついているのだろうか?


「や、やぎさ」
「確か、こちらだったかと」
「あの、ちょ……」


畳の部屋から扉を二枚開けたところだった。
いずれも引き戸で、木製の格子状の枠がはまっていて、軽い音でカラカラと開く。
その間足元はおおきめの敷石になっていて、濡れた裸足で歩いても気持ち良さそうなかんじだ。
八木沢さんの開けた扉の先を、肩越しに背伸びた。


「……わぁ、すごい」


現金なもので、不安が少し飛んでしまった。
内湯サイズを標準とすると、箱庭といった風情とでもいうか、
小さいけれど、ちゃんと垣根が作られていて、シャワーの設備がひとつある。
張り出した屋根も立派な造りだ。


「浴槽は檜のようですね。掛け流しなんだな」
「かけながし?」
「源泉の湯をそのまま、一度だけ使うんです。流れたら、おしまい」
「……もったいない」
「ふふ、そんな気もしますね」


石造りの床面に、湯けむりがたゆたゆと流れていた。
触ってみたいが、生憎裸足ではなかったので、
八木沢さんの背中から物欲しそうに眺めることしかできない私だ。
いつしかおぶさるようにして、ぺったりくっついていた。


「………」


固い、というのでない。柔らかい、というのでない。
なんて言ったらいいんだろう、この感触は。ぶあつい?
傍目から見ているより広い気がする。着痩せするタイプなんだろうか。


「って、ごめんなさい! くっついちゃって」
「いいえ、こちらこそすみません、僕が前にいては見辛かったですね」
「……あ、いえ」


そうだけど、気にしているのはそういうことではないのだけれど。


「さぁ、では、まずは夕食へ行きましょうか」
「そうですね、そろそろですよね」
「戻ったら、一緒に入りましょうね」
「はい。―――え」


私の手は再び八木沢さんに引かれた。
来たとおりに戻るだけだが、来たときより遥かに心臓が打っている。
サラリと約束をしてしまったが、ちょ、ちょっと待って欲しい。
私は頭の中で八木沢さんの言った言葉を反芻した。


“戻ったら、一緒に入りましょうね”


まるで兄弟か男同士で言うような言葉づかいだった。
まず、私たちはこれまでに、まだ一度もハダカになりあったことがない。
お風呂もそうだし、それ以外でもハダカを見せあったことがない関係だ。


それならば、まだ無垢な男女の関係として、
このような場合は例えば↓


「戻ったら、一緒に入りますか?」
「や、やだ、八木沢さんたらエッチ!」
「ハハハ、冗談だよ。なんて、冗談じゃなかったりして」
「も、もう!」


とか、こう↑いう腹の探り合い的なやりとりを挟むものではないだろうか。


八木沢さんは今、荷物をほどいて着替え等をあるべき場所へ収納する作業をしている。
きちんと正座した後ろ姿は背筋が伸びてとても綺麗だ。
さらりとした直毛はとても清楚だ。
だが、なにかが違う、という気がしてならない。


「小日向さん」
「は、はい!」


このやりとりも本日もう何度目か。


「小銭入れだけ持って行けばいいと思います。あとの貴重品は金庫に」
「あ、はい」


私は全くほどかれていない荷物の中から財布を出し、八木沢さんの隣に座る。
自然と正座になってしまう。そして、漱石を一枚だけ抜いてあとは八木沢さんに預けた。


「カギの使い方はよく見ておいて下さいね」
「はい」
「こうして―――」


キレイな指、キレイな顔。
だめだめ、ちゃんと聞いてないと、あとで聞いてなかったんですかって怒られるかも。
いま大事なことはカギの使い方であって、八木沢さんの顔でない。
わかっているのに。



ああ、私はあの夏から、あまり進歩していない



ねぇ八木沢さんは、わかってるんですか。
私は、一応八木沢さんの彼女なんですよ。
一緒に入りましょうね、って、そんな簡単に、どうして。


今日は八木沢さんの誕生日。
そのお祝いのために、この部屋が宛てがわれた訳だけれど。
ちゃんと祝ってあげられるのかどうか、いま私は本当に、自信がない。