* ヘヴンズ・ダイナー *






駆け落ちをするとかしないとか、そんな話をしたあとで、
ふと会話が途切れた。
神戸の街がきらきらと点描にひかるのをまっすぐに見つめる私たちの間を、
すうっと気持ちいい風が吹いて、蓬生さんの髪の匂いが私のところへ届いた。


そんな、絵にかいたようなシチュエーションの中で、
少しだけ期待していたのはキスだったけれど、実際にはキスは来なかった。


「神戸と言えばなんやとおもう?」


そう、あなたがぼんやり聞いたから。


「神戸プリン」


私はおもいつくまま正直に答えた。
ご当地グルメみたいなサイトとか、テレビで芸人が差し入れするのも見たことがある。
そうそう手に入らないから、でも、手が届かないほど高尚なものではなさそうだから、
どんな味がするんだろう、神戸に行ったら食べたいなと、長年思っていたものの名を挙げた。


「なんやプリンか。そこは『蓬生さん』って答えるとこと違うん?」
「だって神戸プリンも食べたいんです」
「プリン“も”?」
「え?」
「なるほど、俺のこと“も”食べたいと」


そんなことを言ったのではない、と私は赤くなって一応反論したけれど、
蓬生さんは笑いながら、一応引き下がったように見えたけれど、


確かに、プリン“も”ということは、文法的に解釈すると、
他になにか食べたいものがあるということになる。
神戸プリンも食べたいけれど、他にも何か食べたいものがあるということに―――


―――中華街は横浜にもある。
ケーキは昼間既に、異人館であーんして食べさせてもらった経緯があるとすれば、
残りは。


「あ、あの、こ、神戸も夜景が綺麗なんですね!」
「横浜のもええけどね。ここは俺の生まれて育った街やから、…いや、それだけとちゃうな。
 あんたもここにおるからやな。なんや特別に見えるわ」
「はい」


それは、私の潜在意識だったのかもしれない。
神戸プリンと同じくらい、お取り寄せしたかったものは、
注文通りに3日後には届くようなものじゃない。



だから、私がやってきた。



蓬生さん、私は夜景でごまかして、うんとは言わなかったけれど、
本当は、もっと一緒にいたかった。
それなのに夜景を見終わったら、


「ほな、またな」


って。


「今度会う時は、神戸プリン持って迎えに行くわ」


って、そんな近所の彼氏みたいにヒラヒラ後ろ向きに手を振って。
颯爽と車に乗って帰らないで欲しかった。
助手席には東金さんが乗っていたから、食い下がったり泣いたりはできなかっただけで、
だって泣いたらまた花がないって言われそうだから
私は精一杯の気丈でもって、


「あの…っ! できればチョコレート味のも持って来て欲しいです」


って、半分開いたウインドウに縋り付いた。
無論、鋪道から見て運転席は向こうがわなので、
私はやや遠い蓬生さんに向かってもともと太くはない声を張り上げたことになる。


「だってさ、蓬生。どうやらこいつは意外とリサーチしているようだ」
「せやね。けど、チョコレート味くらいで満足してもろたら困るなぁ」
「神戸プリンがプリン味とチョコレート味で全てやと思とるなんてな。東の人間っちゅーのはほんまごっつ気の毒や」
「―――えっ?」
「千秋も関西弁しゃべるんやで? 小日向ちゃん、知らんかったん?」
「……しってるわけないですし」


私はウィンドウから手を離し、舗道へ三歩ほど引いた。
なんだろう、この置いてきぼりのかんじは。
手のひらにはエンジンの微振動が痺れるように残っていた。
私はそれを、ぎゅっと握る。


「おいかなで、部屋割り決めるぞー」


幼馴染みが呼ぶ声がする。
そう、ここは今夜泊まるホテルの前だ。
駅前の、なんとなくいいかんじのところを至誠館のひとたちが選んで来てくれていた。


「あとで!」
「あー? けっこういろいろバリエーションあるぜー? 和室にツインだろ、
 シングルはウェルカムフルーツ? だかなんだか付きシングルとふつーのシングルと」
「残り物でいいから!」


“残り物には福がある”


と、そんな諺は、その時の私の脳裏に浮かんでいたはずもない。
そんな余裕があったはずもない。


それより何より気になっていたことは、
ウインドウの向こうでニヤニヤしている神南高校三年生コンビのことだ。
蓬生さんは、私より東金さんのほうの肩を持つというのだろうか。
ふたりセットで考えすぎだと言ったのは東金さんなのに
少しも考え過ぎではない気がするではないか。


そうは見えないかもしれないが私は一応蓬生さんの彼女である。
少しの時間でも構わない、助手席には私が座りたかった。いや、何なら後ろのシートでも構わない。


「チョコレート以外に何があるんですか」
「あるんだよな、これが」


東金さんは自慢気にそう言って、蓬生さんの肩にポンと手を置いた。
男と男の友情に女が入っていける隙間について。そのあまりの狭さについて、
私は女だからよくわかる。女が置いてきぼりにされるのは、たぶん男のせいだ。
いつもなら少しくらい我慢もするが、けれど今日だけは、悔しかった。
なぜなら、今日の私は、悔しがる為に神戸に来た訳ではない。


「ま、観光客くらいしか食わねぇもんだが、地元として知らねぇでは通らねぇ」
「情報は常に最新にしとかんとな」
「……ふたりにしかわからない話ですか」
「そういうことだ。飲み込みがいいじゃねぇか」
「と、東金さん退いて、そこ退いて!」
「無茶を言うな、俺のうちは広大な敷地なんだぜ、歩いて帰ったら夜が明ける」
「ちゅうことやそうや」
「〜〜〜〜蓬生さんまで!」


私はできる限り抵抗したつもりだ。
だが、しかるのちに無常にも車は走り去ってしまった。
ハイブリッドかもしれないし、マフラーから排気ガスの煙が出ていたかどうかは定かでないが、
網膜がしばつくように感じた悔しい気持ちを、そのとき私以外の誰がわかっていただろう。


私は一応紅一点ということで、部屋の設備に気を使ってもらったり、
荷物を持ってもらったりしつつルームキーを手にしたが、
こころはやっぱり晴れなかった。
夜を徹してGREEで賭けようとか、天音のディナーショーで音楽的見聞を広めようとか、
いろんな誘いを断わって、結局ひとりで部屋の扉を開けた。


小さな部屋が、ものすごく広い気がした。
ここは神戸なのに、私はもうひとりになってしまった。
一歩踏み入れて、ぽつねんと荷物を下ろす。









適当に荷解きをして、カーテンを開けて窓を開け、空気を入れ替えている。
夜の空気は好きだけれど、ひとりで吹かれていると持て余すことも確かで、
淋しい気持ちを、お風呂に入って忘れるか、ごはんを食べて忘れるか、
どっちにしようか考えるために、ベッドに寝転がった途端に携帯が鳴った。
携帯は鞄のサイドポケットの中だ。
横たえたばかりの身体を起こすのは本来より重く感じるものだけれど、
その時の私は颯爽と弧を描いて起き上がった。
絶対に蓬生さんだと思ったからだ。


「もしもし!」


そして、なぜ予感が当たったのかは定かでない。


「いいえ、寝てません!」


正確には寝転がっていたが嘘ではない。
蓬生さんは、安心したと言って私の名を呼んだ。
そう言われて、少しくらい嘘を言って不安にさせればよかったと思ったけれど、
そんな思惑は私の場合、いつも後になってから閃く。
たぶん向いてないんだと思う。


「東金さんと一緒なんですか?」
「いや、大人しゅう帰ったで」
「…そうなんですか」
「せやから、ゆっくり話でもしよかと思て」


頬が緩んでいくのが自分でもわかる。
ゆっくりと言われているのに、腰を落ち着けていることができなくて、
私はベッドに座ったりデスクの椅子のほうにしたり、
やっぱり立ち上がって歩きながらにしたり、
どこかから見えたら滑稽だろうからカーテンを閉めた。


「で、でも電話なんて珍しいですね」


それは実際にそうで、蓬生さんから電話がかかってくることはあまりない。
そして、かかってくる時はだいたい「別に用事やない」ときばかりで、
いまのように話をしようなどと切り出すことは初めてかもしれない。
そう言ったら不思議そうな答えが返って来た。


「電話と違うよ」
「? 電話ですよ?」
「ちゃうて。なぁ、はよ開けてぇや」
「開けるって……」


目下この部屋で開けられるものは大きく分けてふたつある。
私は、カーテンと扉と、どちらを開けて欲しいかを尋ねた。


「ここ何階やったっけ?」
「五階です」
「せやんな。流石の俺もスパイダーマンにはなれへんわ」


同意して、私は扉を見つめた。
何の変哲もないホテルのドアだ。
が、もしかして、その裏側に彼がいるのだろうかと思うと特別に見える。



―――会いに来てくれた?



そうだとしか考えられないけれど、そんな小説みたいな展開が、
普通実際起こるだろうか、という気もする。


部屋番号はどうやって知ったのか、
もし扉を開けてそこにいたら、それを最初に尋ねようと思いながら、
開ける前に一応まるいのぞき窓の前で片目をつむった。


「プリン?!」


魚眼レンズを挟んで私の目に飛び込んで来たものは、
神戸プリンの緑のパッケージだった。
私は一目散になって扉を開ける。


「蓬生さん!」


そこには確かに、
お土産用の小袋を胸のところまで持ち上げて、小さく揺らす蓬生さんが立っていた。
私たちは、ふたり同時に携帯を閉じた。
つまらない質問のことなど、頭の片隅にさえ残っているはずもない。


「ほ、ほんとに?」
「そないにびっくりせんでも」
「だって…!」
「小日向ちゃんの中では、神戸と言えば、これなんやろ?」


激しく首をタテに振り、私はそれを受け取ろうと両手を伸ばした。
だが、不思議なことに動かない。


「……うん? ありがとうございます」


今度はお礼を言ってからひっぱってみたが、やはりプリンは動かない。
見上げる顔は、相当ぽかんとした表情に見えていることだろう。


「タダであげるわけやないで」


と意地悪そうに、蓬生さんは、目線を私と同じにしてからこう言った。
あまりにもいきなり、甘い空気を纏ったように見えた。
プリンと引き換えに、私からなにが欲しいというのだろう。
身体がかちんと固くなってしまうのは、答えに予想がつかない訳ではないからだ。
これでは腕を引っ込めることもできなくなってしまい、
私はひたすら見つめられながら、背中に冷や汗の流れる気分になる。


「チェックアウトしよか」
「―――へ?」


思わず腑抜け声が出たくらい、それは予想外の条件だった。
キスか、それ以上か、もっとそれ以上か、
そういうコトを思い浮かべていたから、急速に心が安堵へ向かっていく。


「プリンをダシにして、あんたのことさらいに来てん。あ、バナナ味もあんねんで。千秋からのプレゼントや」
「バナナ味…!」


それは珍しい。リサーチした中にはなかった情報だ。
俄然前のめりになってくる。


「神戸プリンはな、小日向ちゃん。普通のんとチョコのんはいつでもあるんやけど、
 時々期間限定の、こういうんが出るんよ」
「東金さん…」


じーんとした。
さっきは退いてなんて言って、激しく嫉妬とかしてごめんなさい。
次に会えたら謝らないといけない。


「さっきはいけずしすぎたかもしれへんて、アレでも気にしてるみたいやったわ。
 バナナ食べて機嫌直してて言うてたよ」
「バ、バナナを。」
「あ、バナナやのうて、バナナ“味”やったね」
「っ、そ、そうですよね、“味”でしたよね」


何故か赤くなってしまった。私はなにか深読みしていたらしい。
東金さんがそこにいたら多分絶対にからかわれただろうと思う。
ニヤリとやらしく笑んで顎を擦るさまが目に浮かぶようだ。


「ほら、他の男のことばっかり考えんで、チェックアウトやで。ここで待っとくからはよ用意し」
「―――はい」
「ええ返事やね」


ご褒美のつもりだろうか、頬にくすぐったいキスをされた。
さっき開けたばかりの窓を閉めて、ほどいたばかりの荷物をもう一度まとめて、
入って来た時とは打って変わって、颯爽と鞄を持ち上げる。


「お待たせしました!」
「できた? 忘れ物ない?」
「ないです、たぶん!」


ドアを開けて待っている蓬生さんの腕をくぐって敷居を跨ぐ。
蓬生さんは、入り口からにゅっと腕を差し入れてルームキーを抜き取ってくれた。
ゆっくりライトが落ちていく。


「大事なもん忘れてるやん」
「……でした」
「ほな行こか。ふたり神戸の街まで駆け落ちや」
「ふふ」


蓬生さんは、始終冗談とも本気とも取れる声で話したのだけれど、
私は、冗談でもたとえ本気でも、蓬生さんが連れて行ってくれるなら、
どこまでもついていきたくなってしまっていた。


ううん、冗談か本気かってことよりも、
はるばる神戸に来た私のことを、ちゃんと迎えに来てくれたことのほうが、
いくつもいくつも大事な事実だった。









並んで歩くだけでどきどきした。
蓬生さんと遊ぶときは、いつもわりと車だったからかもしれない。


蓬生さんのマンションの近くにある、普通のスーパーマーケットに行った帰り。
急だったし、旅先だし、エコバッグなんて持って来てない。
スーパーのロゴが入ったビニール袋は、蓬生さんが持ってくれていた。
私は小さいほうを持っている。卵だけを別にしたのだ。
できれば、いっこも割れてほしくないから。


マンションまでは10分くらいの住宅地を歩く。
外灯はぽつぽつとあるくらいで、少し暗い路地裏だけれど、
怖い感じはしないのは、それぞれの家から漏れ来るあかりとか、
食事の用意の物音なんかがカバーしているからかもしれない。
私たち以外に歩いている人はいなかった。


なにを話したのか覚えていないほど、普通の会話しかしなかった気がする。
スーパーでは「なに作ってくれるん?」とか、
「ほなトリも買わんとあかんね。こっちやで、おいで」とか、
商品のあるところへ蓬生さんが手を引いて連れて行ってくれるのが、
なんだかすごくうれしかった。


「目利きはでけへんからあんたが選び」


ということで、私はよく見て選んだパックだとか野菜だとかを蓬生さんに渡していった。


「ふうん、これが小日向ちゃんのおめがねにかなったんか」
「…たぶん」


なんだか面白そうな顔をして、私が渡したのをかごに入れてく蓬生さんを見てるのも、
やっぱりすごくうれしかった。


昼間とは打って変わって地味な光景だ。
スーパーなんて、ほとんど毎日行ってるし(横浜のだけど)
レンガでできているわけでもないしアンティークな飾り棚もないけれど、
蓬生さんもいつもの格好に戻っているけれど、
どうしてこんなに楽しいんだろうって、
レジに並ぶ間も、ふたりで袋に詰めている間も、店を出てからも
心臓はずっとうるさいままだ。


「もうすぐおうちですよね。あの角を曲がるんでしたっけ」


さっき、行きがけに目印にした赤いポストの曲がり角が見えてきた。


「へぇ、車停めて来ただけやのに、よう覚えてるね」
「ほんとは方向音痴なんですよ。でも、好きなひとの家だから。
 それに、覚えておいたら“会いたかったので来ちゃいました!”みたいなサプライズができますし」
「かなんなぁ。そんなこと言われたらドキドキしてまうやないの」


私は、ドキドキしてくれてもいいですよと言った。
それでも私にはきっとかなわないですからって。
そう主張していたら、やがて蓬生さんは「負けたわ」みたいなことを言って少し笑った。
それから、ふと顔を近づけて私を見つめた。
心なしか歩調がゆっくりになった気がし、私はもともと狭い歩幅をさらに小さくした。


「…なんですか?」
「卵の袋、あっちの手ぇで持ってくれへん?」


そう言う蓬生さんは、あっちの手、つまり車道側の手に持っている。


「さっきから待ってるのに、ちっとも持ち替えへんから痺れ切れたわ」
「どうして?」
「わからん?」
「はい」


蓬生さんのあきれた顔は何度か見たことがある。
けれども私としては、蓬生さんのほうがやや説明不足なんじゃないかと思っている。
苦言したこともあるけれど、直す気はないみたい。


「…仕方がないじゃないですか。私はそんなに勘がよくないんです」


だって男のひととつき合ったのは、蓬生さんが初めてだったんです。
わからなくても仕方がないと思うんです。
呆れてないで、そうやね、しゃあないねって言って欲しい。


「せや、俺が持ったらええんか」


蓬生さんは、思いついた独り言みたいに言って、私の右手から袋が取り上げられた。
そして、向こうの大きな袋と一緒に持つ。


「あ、割れないように…っ」
「わかっとうて。それより手、繋ご」
「―――」


そういうことだったのか、
と、私はカラになった自分の手を見る。


「一遍やってみたかってん。手繋いで家まで帰る、いうの」


持ち上げられた私の手は、
蓬生さんの指でふんわりと握られた。
その歩き方と同じに、ゆっくり時間が流れ始める。


明日の朝には帰るのに、なぜそんなふうに感じたのか、
理由はよくわからない。
彼の傍は、ゆっくりゆっくりしている。