◇
おうちのひとは留守だって。
おうちのひとは今日に限って留守だって。
そんな都合のいいことが、と問うと、蓬生さんは、
落ち着いて二回目の駆け落ちもええんちゃう? みたいなことを言った。
チェックアウトして、車の中でそう聞いたのだった。
夕飯つくりに来てくれへん? と言うから、
いいですよって返事して、ふたりで買い物をした。
だからそのことは承知の上だったのだけれど、
実際初めて上がった彼氏の家の、留守のキッチンでごそごそしてるなんて少し気が退ける。
どこに何があるのかわからなくて、引き出しだとか棚だとか、いろいろ開けちゃうし。
私は、大きなビニール袋からトリと大根(ハーフ)を取り出して、
探し当てたまな板に大根のほうを置いた。
ピーラーが欲しいところだけど、パッと見見つからなかったから、
これ以上の家捜しはやめて包丁で剥くことにした。
(薄く、薄く)
眉間に意識を集めるように集中して手を動かしていたら、
何か言われた気がし、聞こえなかったと振り向いた。
「プリン冷やしとく? て。横浜帰ってから開けるんやったらこのままにしとくけど」
「あ、冷やしてください。あとで一緒に食べたいです」
「ほな真ん中の段な」
「はい」
そうそうプリンがあったんだと、思い出せば元気が出て、
緊張がややほぐれた。
私はいい返事をして、再び手元に集中する。
冷蔵庫をぽふ、と閉じて、蓬生さんは隣に立った。
どうやらじっと手を見られているらしい。
せっかく緊張がほぐれたのに台無しだ。
「へぇ、前から思てたけど、ほんまに器用なんやね」
何度かつくったお弁当のことだろうか、
頑張ってつくったのだから褒められるのは嬉しい。
私は少しだけ目線を合わせて、わかりやすくにっこり笑ってしまった。
「……可愛えぇなぁ」
「…そ、そうですか?」
「ウチの台所にあんたがおって、夕飯に、て大根剥きながら笑ろてくれる。
俺は見蕩れるだけで手伝いもできん。なんやろ、このセンセーショナルな景色」
「ある意味夜景ですね」
「神戸の夜景はここにもあるか。―――ええね」
蓬生さんの声は、確かに真面目な響きだった。
だから、言い切った後で腰に回ったその手つきに、本当にびっくりしてしまった。
隣に立っていたはずの蓬生さんはもうそこには見えなくて、私の後ろにまわっている。
ぴたりと背中に密着する体温と、首筋を探ってくる唇にぞくと身を竦めた。
そのせいで、せっかく上手に桂剥き状態になっていたのがぷつんと切れて、
まな板の上にはらりと落ちる。
「蓬生さん、ちょ…ダメです、いまからごはん」
「危ないから、包丁は置いてしまい」
「そんな」
私がそれでも続けようとするだろうことを、蓬生さんはきっと読んでいた。
読んだから、改めて柄を握った私の手を外側から包んで、
手相の筋をくすぐるようにしてもぎ取ってしまう。
シンクに用意した洗い桶にそっと沈められるのが、右目の端でコマ送りに見えた。
同時に、左手に残った大根をどうしたらいい? と私は考えているのだけれど。
私は、夕飯を作りにここへ来たはずで、
いままでそういう空気で、このダイニングは動いていたはずで
追いつかないのは思考だろうか、それともむしろ、この場の空気のほうだろうか。
背中から鼓動が明確に伝わって来て、それは如実に私に感染り、答えが出ない。
「ええ絵やね。キッチンの彼女に欲情する男。エプロンしてないのが残念やけど、
制服っちゅうのも十分そそるわ」
「っ…だめ、ですってば」
「なんで? なにがあかんの?」
―――だってされちゃいそう
勘の良くない私でも、明らかに予感できる雰囲気に包まれていた。
だが私には逃げ場がない。
私の腰は、両手でしっかり抱かれている。
お腹にくい込むような圧力が、しっかりしっかりかかっている。
「や、ほんとに、ねぇ蓬生さ
振り向いたそこに、蓬生さんの唇があった。気付いた時には遅すぎて、
制止しようと呼んだ名が、甘いキスにつかまった。
「………ん?」
「ん?」
「…っ……っん、ぁ」
晩ご飯を作るために私はここにいる、確かそうだったはずなのに。
空腹が、違うなにかで満たされていく。
舌でされることを、されるとおりに仕返している自分に気付く。
左手の力が緩んで、根菜をごろりと取り落とす。
「―――っ、」
じん、と濡れたのがわかって我に返った私は、思わず蓬生さんを押し返した。
が、外れない腕と、怯まない目線で見返されては、自分が小さく小さくなった気がする。
息は上がっている。目は潤んでいる。まるで力が入らない。
「なぁ、」
「……あ…」
もとそうだったように、くるんとキッチンのほうへ向き直らされた背後から、
蓬生さんが着衣を緩める衣擦れがした。
スカートの中に片手が入って、下着に指先がかかって、
おもちゃみたいに簡単に、それは太腿あたりまで下ろされた。
「晩飯も別腹もええけど、まずは俺から食べてぇや」
背中からしっくりと潰されそうだ。
キッチンと蓬生さんとで板挟みにされて、濡れたまな板に手を付いた。
そのとき足の付け根にくっつけられたものは、指なんかではなかった。
「う、そ…こんないきなり…っ」
「わかる? めっちゃ食べ頃やで」
熱いまるい先がほんの少しだけ中へ入ろうとして、ぬると滑った。
そんなに濡らした自覚はなかったが、反して私は最初の声を出してしまった。
「ええ返事、っちゅうことで」
拒むそぶりも間に合わない。
蓬生さんが溜め息のような声と一緒にぐっと先端をさしいれた。
まだかたい入り口の、綻びをひとつひとつほどくように、
ゆっくり広げられていく感覚と、相反して塞がれる感覚で、急激に身体が熱くなる。
この違和感をやらしいというんだと思う。
はいった初めの快感は鋭いくらい大きくて、深まる都度に高い声を上げてしまう。
「まだはんぶんやで」
「ほんとにはんぶん…?」
「せや? 言うてるやん。なんで?」
「だって……いっぱいで、…んッ……!」
蓬生さんのほうが正しかった。
改めるようにした次の動きで、いっぱいだったはずのところの、更に奥を開いた。
「あぁぁ…!」
「これが『いっぱい』はいった感じやって。よう覚えといてんか」
そして、蓬生さんのするのは覚えさせようとする動きだろうか。
先にほぐされなかったから、捻るようにして密着させる根元の太さにちかちかする。
でもなに、すごく気持ちいい
慣らされていないぶん、じかに擦れるようで、
背筋をぞくぞくと込み上げる快感を噛むようにして堪える。
「ん、ぅん…っ、は……っ」
「めっちゃ熱なってんで。溶かされそうや」
「……脱がせて」
「…は?」
私は何かおかしな事を言ったのだろうか。
顔が見えないから確かではないけれど、蓬生さんは一瞬真顔になったような声で聞き返した。
「だ、から…っ、暑いから、脱がせてくださいって」
「……俺がしてええん?」
それは、なんという今更だろうか
私が少し積極的に出たからって
そんなふうにきかないで
許可もなくいきなりあなたがしたことで
私の身体はまだまだびっくりしているというのに
私は、いやならいいですと少し拗ねた。
はいったまま振り返ることの辛さ、
それを耐えて、きりと睨んだ顔を見せないといけないと思った。
困っているかと思ったのに、期待はずれにきょとんとした顔はこう言った。
「いやや」
「え」
「嘘やん」
「……いじわる!」
一瞬にして、脱がされたくない思いがかたくなに私を占領した。
制服のボタンをきつく握って、外されないように皺を寄せたけれど、
十分に抵抗するには不利なことに、私は蓬生さんに繋がれていた。
「あっ、あ……や…ぁぁぁん」
脱がさないでのひとことが、しゃべれなくなる。
蓬生さんがうごくたびに、全身が汗を吹いたみたいに熱くなる。
じんじんしてくすぐったくて、泣きそうになる。
声を上げる隙間をついて、リボンはただの一枚の布になって、はらりと床に落とされて、
ボタンをとかれた制服は、肩からぐいとくつろげられて、肘のところで波になった。
「へぇ、暫く見いひん間に随分丸うなって」
蓬生さんは、私の胸のことを言っているらしい。
輪郭に手を這わせて掬い上げて、中心を指の間に挟んでくりくりとする。
「っん、や……」
くすぐったさはすぐに物欲しい感覚に変わって、
外側から硬くツノが立っていく。
蓬生さんが意図したとおりになっていくから、自分で見るのも恥ずかしい。
「知っとう? 女は抱かれたぶんだけ丸なるんやて」
「あっ、ッあっ…待っ……んんっ」
「そんなもんかと思てたけど、こうして見るとほんまやな。そのうち肩やら、腕もそうなるんやろか」
例に挙げるところを、甘く噛まれていく。
痛いのではないけれど、しなやかに吸い上げられる感覚は、きっと痕がついたと思った。
上半身も、下半身も、うずうずする波に包まれてしまう。
「っ……、も、だめ……っ」
キッチンにぺたんと肘をついてしまったら、腰を突き出すかたちになる。
立ってられない不可抗力、どうしようもない。
ボードの上で胸がつぶれて、ひんやりとした心地よさに、心は既に寝そべっている。
「やらしいことするわ」
蓬生さんは、私が突き出したところを更に引き寄せた。
指をくい込ませるようにしてしっかりと腰を支えられて、
そしてひとつ突き上げられたとき、なかにうまるものの角度がかわる。
「ぅん……! っぁ、や、あ、あ、ああぁん」
じっくりと飲み込んだものがすごく硬いんだとわかる。
間髪ない抽送で、奥から掻き出される濡れたのが肌を伝って流れる。
がくがくと視界が揺れても、濡れることと声を出すことしかできない私は、
いったいなにになってしまったんだろうと思う。
背中の裏側に擦れるんじゃないかと、そんなふうに感じるほど、
蓬生さんはいちばん奥までいれた。
「あ……ぁ、そこだめ、ッん、んは……っ」
ぽっと火照らされた内側は、きめ細やかな動きを始めた。
それはきっと、蓬生さんにも伝わっていると思うけれど、
止めようとして止められるものではない。
「男で良かったと思うわ」
「、はい?」
「男やから、あんたにいれられるし、あんたが熱いのんでくるめて酔わせてくれるし
あんたのこといかせてあげられるし」
「…っそんな言い方……ンぁ……!」
「ほんまに、良かったわ」
言葉は一瞬、しんみりするくらいのいい言葉だったと思う。
けれど、それで我に返る時間をくれないのが、彼のいいところなのか
それとも欠点なのか
どちらともつかないけれど、私はそれを、好きだと思っている。
「ちゃんとするよ」
ではいままでのはなんだったのか、ほら、思い浮かべる暇もない。
言って、くいくいと注意を引きたがるような、遊ぶようないれ方をした。
「あっ………ッんやぁ……っ、だめ、だめ……!」
「感じた?」
「感じ…た…すごく気持ち、い…」
私は半端に脱がされていた制服から腕を抜いた。
ようやく少しは爽やかな空気を、素肌に感じることができると思ったのだけれど、
そこへ、彼の熱さがぴたりと貼り付いて、また塞がれてしまった。
うなじに絡み付くような長い髪は、蜘蛛のように私をどこへも逃がしてくれない。
背の高いのを上手く使って、いつの間にか目を合わされているのも然り。
「あんたのいくとこ見せてくれへん?」
「や……」
「いややなんて言うの、いまだけやん。知っとうよ」
目を逸らそうと、首を向こうへ回そうとしたけれど、
「あかん」
その甘えたような言い方に、すっぽりと唇ごと食べられてしまう。
「…っ、ん…!」
蓬生さんがうごくたびに、やや下方で水音が響く。
間違いなくふたりで作る音だと、思うだけで震えてしまう。
高められてびくびくしてるところに、またこそばゆい刺激が埋まって、
一回ずつ声が泣いたみたいになって、恥ずかしいのに止められない。
でも、いやじゃないの
もっとして、って思ってしまう
言えないから、声に偽りのないことでわかって
そこから
全部きいてくれていいから
全部みてくれていいから
やらしくやらしくなってしまう私のことを、せんぶ知ってくれていいから
味わうように息を継いで、背中を反らして伸び上がる。
「あ、あ、蓬生さんっ、そんなのい……ッちゃう」
狭くせまくしぼるのは、まるでかたちを覚えようとするみたい。
これも私がすることだろうか。
「ああぁ…っ、いや、そこいや……!」
「いやよいやよも、か? 唄の文句はよう言うたもんやね」
引き寄せられた入り口で、根元がふかくぐるんと弧を描いた。
そのとき先の括れで撫でていったところが好き。
ねだってねだって、そこがいいと伝えるために、
私は何度も頷いたり、首を振ったりした。
「っ、ぁ、だめ……っ、ぅん―――ッ!」
そのとき脳裏はなに色だったろう。
弾けた瞬間は朦朧でなかった。明確に感じた鋭利な液体の熱さが、
つるつると滑って降りてくる時に、ようやく意識が白濁する。
ふたりぶんの、ごく似通った異質なものが、確かにまざってしまうときに、
ああやっと、ひとつかもしれないと思うみたいだ。
◇
寮の食器とは全然ちがう、「なんとか焼き」みたいな器。
そこに、できたての煮物を盛りつけていた。
「俺、あんまり食べへんねん」
って言うから、まぁこぢんまりと。
先に言って欲しい。そしたらこんなにつくらなかった。
大根とトリが入っている、肉じゃがじゃなくてぶり大根じゃなくてトリ大根。
煮タマゴを半分に切ったのを沿えると私の好きなものになる。
彩りに小松菜と、フルーツトマトも一緒に煮ている。
「割とゲテモンやなかったね」
向かいの蓬生さんが言う。
箸の先でトマトをもういっこつまみ上げて、眼鏡の向こうの目をホゥとまるくした。
「……ゲテモノ?」
「トマトがっさー入れた時は正直逃げよかと思たけど」
「美味しいって言ったじゃないですか。私嘘言いませんよ」
「そうやったね」
蓬生さんはもう一口食べて、もう一度出来映えを褒めた。
それでも、その食の進み方からして、お替わりするみたいなことはないみたいだけれど。
朝ご飯にもう一回出して、嫌がらないといいなと、私は地味に案じている。
私は、ぱくと大根を頬張って、蓬生さんを上目に見つめた。
乱れた着衣は、いまはちゃんと綺麗に整えられている。私もまた然り。
ふたりきりのダイニングキッチンは、さっきまでとは打って変わって日常の風景に戻っている。
同じところで起こっていることとは信じがたいけれど、事実というのは不可思議である。
「どないしたん? ほんまに、めっちゃ美味しいで」
「そ、そうですか。なら良かった。です」
「なぁ、もうですます取ってくれへん? 先輩やのうて恋人やろ?」
「……でも、私はこれが心地いいんです。いまのところは」
「そうなん?」
「いやですか?」
言うと、蓬生さんはひとつ息をついて、少し考える素振りをした。
「―――いややって言いたいとこやけど、ええよ。あんたがそれでええんやったら」
「……蓬生さん」
「けど、なんやろなぁ、まだそういう段階なんやったら、ちょっと早いかもしれんな、と思て」
「なにが、ですか?」
「ま、ええか。もう冷えたやろから、持って来てみ」
蓬生さんの視線の先は冷蔵庫。
もともとさほど盛りつけていなかった器は、どれもカラになろうとしていた。
私は素直に立ち上がり、冷蔵庫の真ん中の段から神戸プリンの小袋を持って来た。
「ずっと食べたかったんです。蓬生さんはなにがいいですか?」
「小日向ちゃんは?」
「せっかくなのでバナナにしようかと」
「ほな俺はチョコのんにしよか」
「はい」
小袋の封をぷつんと切って、手を入れようとしてハタと止まった。
プリンの容器が幾つか重なっているいちばん上に、
どうもプリンではないかんじの、リボンのかかった小箱が乗っている。
「見つけた?」
「……見つけた」
蓬生さんはかたんと音をさせて立ち上がり、私はその場で腰を下ろした。
なんとなく、私が触れるべきでない気がしたのだ。
その判断は正しかったようで、私が手を離した小袋へ、
こんどは蓬生さんが手を入れて、小さな箱を取り出した。
彼の手の上では、本当に小さなものに見える。そしてかわいい。
「今日な、異人館のお土産んとこでうっかり見つけてん」
「うっかり」
「目に入ってしもたら、買わん訳にいかんなぁ、いう意味の、うっかり」
「……はぁ」
スルスルとほどかれていくリボンのなかみ。
その箱の大きさから、そして私と彼との関係から、
たぶんそれはあれだろうと予想できる行間は十分に用意されていた。
「それって、もしかして……あの、あの…!」
「なんやと思てるんやろなぁ。開けてがっかりされたらどないしょう」
思っているとおりのものだとしたら、それは、好きなひとから一度はもらってみたいものだ。
けれど、私自身は好きなひとから一度ももらったことがないものだ。
だから、本当にドキドキしている。
そう、だから、実際に開いた小箱から、本当に指にちょこんとはまるだけの円形の、
かわいい輪っかが取り出された時には、まるで予想もつかなかったような驚きが来てしまった。
私の目は夏草の色をしている。
けれどもいまだけは、多分にシロクロしているとおもう。
「手ぇ出して」
「ど、どっちの」
「左やん普通」
蓬生さんは、小さな指輪をふたつの指の間につまんで、
テーブルの中央へ寝そべるように、べったりと肘をついた。
ねぇだらしないです。
でも、すごく似合います。
肩に垂れる髪まで、しどけなくて綺麗です。
「泣きそう」
「ええよ、泣いても」
そう、あなたがぼんやり言ったから。
左から2番目の指に、つつとはまってく感触に、素直に涙を零してしまう。
「あんたが月の石をくれたんは、夏のど真ん中やったけど
こんどは俺が、秋の初めにあんたにあげるわ。ナントカいう星のかけらやて」
「ナントカってなんですか」
嗚咽を堪えて言葉にしたのに
「細かいことは忘れてしもた」
「か、肝心なとこだと思います…!」
「なに言うてんの、肝心なんは、俺がこれをあんたにあげたいっていうことのほうちゃうん。
ここにはめたいっていうことちゃうん」
いま、私の左の薬指は、人生でいちばん重くなった。
「なんていう星か忘れたけど、カケラなんていうんは多分嘘や。そんな高いもんとちゃうかったしな。
せやけど、予行練習にはこれくらいでちょうどええと思わへん?」
「予行練習?」
「いつか、ほんまにあんたにプロポーズするまでには、ほんまの星のカケラを探しとく」
「―――」
「俺がそんなに待てへんから、目ぇ更にして一生懸命探すで。信じてもらえへんかもしれんけどね」
とても嬉しかったから。
しんみりしないために、私は大粒の涙で泣いた。
いっそ清々しく思ってもらえるように。
「せやから、そのときはうんて言うて。おねがいや」
「はい」
「何回言うねんて思うやろけど、好きやねん。ほんまにあんたが好きや」
「はい」
私がごしごしと涙を拭うと、蓬生さんはだらしない姿勢をやめて、
向かい側に座り直した。
「こうしてると、ほんまに駆け落ちみたいやね」
「はい」
はいしか言えない私の口許に、
お箸でつまんだ大根が近づいて来る。
これで蓬生さんの器は完全にカラになる。
含めるだけの大きさに口を開けて、
煮汁を噛みしめる、そのやや日常的に過ぎる苦みのこと。
駆け落ちのわりに、ねぇ、なんて色気のない光景でしょうか
けれど、一生忘れない。この夜のこと。
小さな小さな、ひんやりした星のカケラが、私の指を通った日。
初めて駆け落ちをした日。
いくらもいない残り物の部屋をチェックアウトした日、
あなたと私をすっぽりとつつんだ、小さな小さなダイニングの匂い。
テーブルの上に、確かに幸福がある。
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