年の瀬を迎えた大晦日。
今年の仕事は今年のうちに終わらせなければならない。
できるだけ早く、うん、だから私は急いでる。
執務室でなく、私室で仕事をしていた。
何故なら年の瀬には臣下の多くが里帰りしてしまって、
足りない人手でいつものように、仕事のためだけの部屋を整えてもらうのも悪い。
私が使うとなればお掃除は勿論、いくつもある火鉢に炭を熾したり、
いい匂いの香を焚いてくれたり、たくさんの手間があるのを知ってる。
忙しいときはお互い様、私はこの部屋ひとつあれば、それだけで十分だ。
仕事と言っても、残ってるのは書簡の所定の位置に判子を押すだけになっていた。
文机に向かい、揃いの椅子に行儀よく腰掛けている。
王になって半年、姿勢も大分よくなった。
手首が残像になるほど早く上下させて、私は右の山から一枚とってまた一枚、ぱくぱくと印を押していく。
衣装は祭礼用の、持っている中で裾の折り目がいちばん多いのを着ている。
両側から摘んで持ち上げても、ドレープはぜんぶ広がらないくらい、その折り目は多いのだ。
大事な行事のときにはこれを着させられるけど、今回は、面倒くさい、っていわなかった。
それは、とても、便利な使い方を教わったからに他ならない。
耳打ちに聞いたときはポンと手を打つほど、なるほどと思った。
もう軍師ではないけれど、はかりごとを持ちかけるのは上手な人。相変わらず。
「ひっぱらないで」
私は机の下にきちんと揃えた足元に向かって、空気みたいな声を出し、
引かれた裾を整える。
「よしできた」
こんどは大きめの声で言って、机の隅に伏せてある、ハンドベルみたいなのをカラカラ鳴らした。
こうすると、次の間に控えている釆女がやってきて、
終わった仕事を引き上げて、関係省庁へ持って行ってくれるという図式。
顔を出した釆女も、夕方には宮を出て、しばらくの休暇に入ることになっていた。
「今年も一年、ありがとう」
「いいえ、楽しゅうございました。また新しい年も、どうぞお傍に」
「勿論です。あ、あなたのも許可証、ハンコ押しておきましたから」
「ありがとうございます。これで大手を振っておヒマをいただけます」
「ふふ」
「ホホ」
許可証というのは年末年始の休暇を取る為の申請書だ。
官吏から順番に判子を押して、最後に私のところへまわって来るから、
とても期日までに追いつかなくて、見切り発車で休暇に入ってもらっている。
だからこれは、形ばかりのものだけれど、それでも出すだけは出さないと休みはもらえない。
「こっちがお休みの関係のでしょ、」
まずは一山、彼女の腕へ。
「で、こっちが年始のご挨拶の申込書。取り敢えずついたちのぶんだけ。これで、今年のお仕事は全部終了です」
追加で一枚、ポンと重ねて置く。彼女は細いけど力持ちなのだ。
だから、その迷惑そうな顔は、重さに関してではない。
「ついたちからお目通りを申し込むなんて……陛下、お受けになったのですか」
「別にヒマだもん」
「まぁ。あまりお気安くお顔をお出しにならないよう。陛下なのですから」
「はいはいっ」
「お返事は一度」
「はい」
それから、一通りの挨拶を済ませて出て行く釆女と擦れ違いに、
交替でやってきた新しい釆女がまた一通り挨拶したりして、
私は座ったままではあるけれど、頭はこの短い間に何度もお辞儀を繰り返した。
漸くひとりになると、はぁ、と溜め息が出た。
それを察して、裾がまた引かれる。
さあ、お仕事は終わり。これからはプライベートな時間である。
急いだのは当たり前のようにこのためだ。
そろそろ出してあげないと、と思って裾を少し持ち上げた。
いちばん裾の折り目の多い服、と言ったが、それはひとが一人隠れるのに十分の広さがある裾という意味。
私はそこに、大好きなひとを隠して仕事をしてたという意味なのだ。
彼は既に書類を提出し、私はそれに判子を押して関係省庁へ送ったあと、
だから、このひとはもう正式に、年末の休暇に入っているはずのひとだもの。
いるなら隠しておかないと。
裾の中の空気が入れ替わる頃、彼の姿が露になる。
長身が膝を三角にして小さくなってるところなんて、そうそう見られない珍しいもの。
「ごめんね、狭くて」
「そろそろ窒息するかと、辞世の文句を考えておりました」
その、笑えない冗談はやめてというのに、気にもしないで、
避難訓練が終わった子どもみたいな仕草で机の下から這い出るのはかなりかわいかったのである。
「柊」
「何でしょう、我が君」
私の隣に立った柊は、裾が静電気で撫でた所為で巻き毛が少し乱れていた。
まだ黒革に包まれた指でも、手櫛を入れては梳き流すところなんか、見蕩れそうに綺麗だと思う。
「休暇の申請は、ガセですか?」
「ガセだなんて人聞きの悪い」
「だって、じゃぁどうしているの? その所為でお部屋から出られないじゃない」
執務室でなく私室で仕事をしていたのは、そういう理由もあったのだ。
うっかり置いて行って見つかったらコトである。
王の私室はつまり王の寝室でもあるのだから、いち臣下が自由にノビノビしていたらおかしいのだ。
―――少なくとも傍目には。
「柊のおうちは出雲でしょう?」
「まぁ、そんなところですが」
「すっごい遠いじゃない。今から出ても元旦に着かないよ。新幹線もないのにどうするの」
「しんかんせん」
「はやいのりもの」
「あぁ」
今の説明でわかったとは思えないけど、柊はそれ以上つっこまなかった。
基本、どうでもいいと思ったことは瞬間に流してしまうひとだ。
そういうとこ、イラッとするときもあるけどかっこいいとも思ってることは言ってない。
「私の休暇は、里帰りの為に申請した訳ではありません故」
「……え?」
「おや、我が君はお読みにならなかったのでしょうか、申請理由の欄を」
「……普通この時期の申請は十中八九里帰りなので」
「私は残りの一二だったわけで」
私としたことが、柊がいつも異端なのを忘れていた。
そもそも未だに常世の模様の服。それとてなにを考えているのか。アバウトにもほどがある。
私が黙認しているから今では誰もつっこまなくなったけれど、
ここは中つ国の王宮で、さらに王の寝室で、あろう事か私はそんな柊を、
裾に入れて匿うまでする。
「十把一絡げとは悲しいことです」
それを聞くまで、上記に挙げたような内容を苦言しようと思っていた。
が、私の、ちんと揃えた膝の前、身体を低くした柊の、
私は、その顔にどきんとする。
私の椅子はやや高い。
柊は膝を抱えるようにしてかがんで、そうすると私を見上げる格好になる。
「柊……」
「どうせ私などあなたの、たくさんいらっしゃる官吏官僚、そのあたりのみなさんと同じ」
「そ、そんなこと……」
私と同じ色の左目を、そういうふうに使って
同情を引こうとしてるんでしょう。
そんなの
わかってるんだから
(わかってるのに)
一杯に腕を伸ばして、顔ごと包んだ。
そして、しっかりしっかり声にした。
柊はちゃんと、大人のひとだけど、私は子どもに諭すように言ったのだ。
「そんなこと、ひとつも言ってない」
「星の数ほどいる臣下でも私は、あなたをたった一人、愛しているというのに」
こちらが下手に出れば、まだそんなことを言って、悲しそうにそっぽを向く。
それも手の内なのを知ってる。
だから、何を言わせたいのか、考える。
言わせたい事を言うまで、そうやって拗ねたフリするんだから。
素直に振り回されていたら夜が明けてしまう。
けんか―――といっていいのかどうか怪しいけれど、
このまま新しい朝が、来てしまうのはいや。
「裾に入るくせに」
「おや」
「どこの官吏が王の裾でかくれんぼするんですか。ばか」
「ばかとは」
「そんなばかにはこうしてあげます」
私は、包んだ頬へ鼻先を寄せ、形のいい唇へ、おなじところを重ねてゆく。
「こんなことするの柊だけ」
「そうでしたか」
「知ってるくせに」
そう、息継ぎの合間に、ちゃんと喋れるようにだってなった。
初めてのときは、窒息するかと思ったくらいへたくそだったキスを、
上手に変えていったのは柊のくせに
「ん……ぁ、そんなのだめ」
「何故、お好きでしょう?」
「あ、あ……っん」
祭礼用のお化粧の、少しだけ色のついた私の唇は、
緩いあわいから挿し入れられた柊の舌で舐めとられて、すぐに素肌になってしまう。
濡れた舌先が絡まりあうのを、薄らと目を開けて見てる。
これも、最近になってできるようになったこと。
それがどういうふうに動いて、私をじんじんさせるのか、その一部始終を知りたい。
頬を包んでいたはずの手のひらは、上から柊の黒い皮の感触で握られて、
どんどん身体は、前へ前へ、柊の胸の中に、やがてすっぽりと収まってしまう。
「……っは、ぁ、」
「良いお声」
「……ばか」
「またそんな」
柊の唇までも光らせてしまったから、
離したときに、親指の腹でそのぶんを拭ってあげる。
「陛下」
柊がこの呼び方をするときは、なにか私にして欲しいことがあるとき。
この場合は人払いだと思う。
「暗くなって参りましたね」
「そう、だね」
「では、そろそろ納め時でしょうか」
「ねんぐ?」
「ではなくて、あなたを」
「では私は柊を」
言って、片手でハンドベルを取り上げた。
人払いするにもいったん呼びつけねばならないというのが、王という立場の、侭ならぬところだ。
「ほらはいって」
ベルを鳴らす間にもう一つの手で裾を持ち上げて、柊はその中へ隠れた。
隠したそれはもう、酷く悪戯な手で
さっきのように大人しくしている訳では全くなかった。
つつと太腿の内側を上へ上へ、手のひらが撫でのぼる。
中で手袋を外したのだろう、少し冷たいめの感触だというのに、
指先を少しまるくして、やらかい肌をくすぐるようにするから、すぐに火照ってしまう。
「も、やめて……っ」
扉が開き、入ってきたひとに向かってではなく、小さく下方へ、咽を擦らせて叱咤する。
柊は聞こえないフリも得意なのは知ってる。
けど、今それを発揮しなくたっていいではないか。
声を振るわせないように、今夜はもう休みますからって、
疲れてしまったのでって、
鍵はかけておいて下さいねって
来年もまたよろしくってちゃんと挨拶まで
どんな気持ちでしたと思うの?
年の瀬まで酷いひと。
でも好き大好き。
このひとは自分のことを、無数にある星のうちの一つ、だなんて表現するけれど
私のことは、この世でたった一つの天体、つまり太陽だって言うけれど
あなたこそたったひとつ。
どうしても星がいいって言うんなら、せめて私は月でありたい。
あなたとふたり、輝ける場所へ、
昇るのも、沈むのも、一緒がいい。
>>>>>>>>>>>後編へ
|