ユビキリオニゴ-1-
那岐の顔を見なくなって、数日が経った夜のことだった。
天鳥船は、千尋の知識では『奈良』と思われる場所に降り立ち
周りの者が言うには、そのあたりは『飛鳥』と呼ばれる土地だということも覚えた。
風早曰く、「ちゃんと授業で教えたはずなんですけどねぇ」らしい。
らしかったが、それを覚えていたかいなかったかということは
千尋にとってそれほど重要なことではなく
ただ
橿原宮が近くにあり、千尋自身も船の内部も、今までよりもぴりぴりしてきている
戦況に関しては、もうそのことだけで十分なのだ、ということである。
何だか前よりも、勘がよくなって来ている、そんな気がする。
「ごちそうさまでした。」
千尋は両手を合わせて、軽く目を瞑り
それと一緒に金色の頭が少し下がる。
心に何か引っかかることがあっても、それだけは癖のようなもので
工程を省いたり、おざなりにすることはない。
これはもう、ずっと習慣であった。
三人で暮らしていた時分は、三人がみんな食べ終わるまで待ってから
みんなで一緒に、そういうふうにする、というのが決まりだった。
千尋の前には那岐が座って、お誕生日席には風早がいて、というのがいつの間にか暗黙の了解になっていて
この船に乗ってからは、お誕生日席はサザキのものになったけれど
千尋はやっぱり那岐の前でないと、落ち着かなくて
ずっと、そのようにしている。
ごちそうさまを言うタイミングも、計っている訳でもないけれど
なんとなく一緒に。
なのに、ここ数日、千尋の前は空席のままなのであった。
朝空いているのは珍しいことでなく、逆に居る方が不自然なのだが
流石に夕食にいないなんてことはない。
一日くらいなら、今日は食べずに寝るのかな、で済ませられるけれど
暢気な顔も三日まで。
千尋は限界に来ていた。
次々と席を立ち、それぞれの部屋へと散り散りになって行く仲間たちを目で追いながら
時折、おやすみなさいませ、などと声を掛ける者に返事をしたりしながら、
千尋は、最後に席を立とうとした風早の、上着を留めている紐を素早く引いた。
「―――――っと!……どうしましたか、千尋?」
彼の好物であるはずの雑穀ご飯を、3回お替わりしたあとのもう一杯を、
手を付けぬまま残しているなんて、絶対おかしい。
それに、数あるおかずのうち、キノコの和え物だけ全く手を付けていないようだが、
風早がそれを嫌いではないことも知っている。
そして、それが数日、続いているということも。
「那岐は?」
「………はい?」
何処かから拾って来たみたいな笑顔。
こういうときは、何か隠し事があるということを、
まだ隠し通せているだなんて思っているのだとしたら
『知らぬは親ばかりなり』という言葉をかけてやりたい
こういう時に使う言葉なんだと、勘だけど多分間違っていないと思う。
風早の手は、雑穀ご飯をこんもり盛った茶碗に掛けられていた。
「それ、夜食にするの?」
「えー……っと、どうしてそんなことを聞くんですか?」
「風早って寝るの早いよね?」
「そ、そうだったかなぁあははは、………まぁ、夜更かしは良くないですよね。」
「それ、風早の分じゃないでしょ。」
「あー………」
これも勘でしかないが、風早は多分、今まで千尋に嘘をついたことはなかった。
だから風早に聞くのが一番早いと思って、この機会を待っていたのだ。
今日も、昨日も、荒魂との戦いは起こったけれど
那岐は朝から顔を見せず
誰に聞いても気の無い答えばかりが返って来た。
柊など、
「おや?そういえば居ませんねぇ。私も、時には暇を頂けば、同じように気に掛けて頂けるのでしょうか。」
なんて、話題逸らしもいい所だったし、布都彦はぎょっとしたみたいにして、
「も、申し訳ありません、その件に関しては私の口からは何事も申し上げる訳には参りません!」
などと、ひたすら謝って先を急ぐ。
それだけで殆ど、口を割ったようなものだと思ったが伏せておいた。
船に帰って、すぐに那岐の部屋を訪ねてみようとしたけれど、
禊の準備がどうのこうの、とか何とか、着せ替え人形になったり難しい話を聞かされたりで、結局叶わなかった。
「千尋、お願いですから、深く追求しないでください。」
「那岐の所に持って行くんでしょう?それ。」
「………。」
風早の、もの凄く困った顔。
それを見ているのは、正直、つらいのだけれど。
でも、多分、もっともっと、那岐がつらいことになっているんだっていう
そういう気がして仕方がない。
「私が持って行っちゃ、だめ?」
「いけません。」
「っどうして?」
「千尋は明日から禊に入るでしょう?もし、那岐の風邪が感染ったりなんかしたら――――あ。」
「………やっぱり。」
「………すみません。そういうことなんです。」
勘は正しかった。
これ以上千尋に何かを言われる前に、という風情で、
風早はそそくさと、お盆にご飯とキノコの和え物を並べている。
あぁ、このままでは―――――
がたん、と大きな音をさせて、千尋は椅子から立ち上がった。
それは殆ど反射みたいなもので
わざわざ立ち上がってまで、何がこんなに悲しいのか、解らなかった。
風早が心配してくれるのは当然だということは解る。
それならそれで、那岐も静かに寝てた方が確かに早く治るだろうということも解る。
だが、千尋の理性と身体とは、今、全く噛み合ってはいないことを、
彼女だけが気付けないでいる。
気管支が、きゅう、と音を立てるみたいにして
縮こまって、震えた。
「風邪なんて……そんなの、全然へっちゃらなのに。」
「へっちゃらじゃありません。」
「感染らないからぁ!」
「感染ります。」
「そんなの勝手に決めないで!」
そして、涙まで零れてしまった。
「――――千尋。」
風早、と呼んで、どうにか面会の許しを得たいのに
喉を突いて出るのは、ただ、那岐の名前だけなのだった。
消え入るような、掠れた声が、甘く湿度を帯びるのを、風早はどう聞いただろうかと
先程彼に宛てた諺が、どうか今も有効であるように
千尋は泣きながら、祈るしか出来ない。
「これでは、どちらにしても、怒られてしまいそうですね。」
「……ん?」
「でも、那岐がなんて言うか解りませんから、ここは俺に、行かせて下さい。」
「………那岐?」
風早の言葉を反芻するに、那岐が千尋に会いたくないと言っている、というふうにも取れた。
仲間たちが明言を避けたのも、そういうことなのだろうか。
見舞さえも避けられるほどの、何か嫌なことでも、言ったりやったりしてしまったのだろうか。
まるで覚えのないことであったが、何のこと、と聞くより早く、風早は言葉を続ける。
「それに、千尋を泣かせてしまいましたっていうことは、話さないといけないでしょうね。うーん、多分、怒られるだろうけど。」
「―――――え?」
ふふ、と風早が笑うのに、腑に落ちないながらも、千尋の涙は少し乾いた。
「ちゃんと謝ってきます。」
謝って、というか、癇癪を起こしたのは自分であるのを、千尋は自覚していた。
だから、せめて
部屋で、暖かくして、待っていて下さい
そう言う風早の言葉には、素直に従うことにした。
そして
「千尋は、那岐が、とてもとても、好きなんですね。」
そう言った風早の言葉にも、素直に頷くことにした。
部屋に帰って、夜着に着替えた。
麻の、すとんとまっすぐのワンピースのような形は、結構可愛くて気に入っている。
七分丈の袖口がやや寒い季節になって来たので、上から白い毛の上着を羽織る。
薄い生地で、ふわりと軽いのだが、かなり暖かい。
前を軽く留めて、とくとくと鳴っている胸のあたりに手を当てた。
「確か、待ってて下さい、って言ったよね。」
ということは、あとで迎えに来てくれるということなのだろうか。
そしたら、那岐に会いに行ってもいいということなのだろうか。
「そういうこと、だよね。」
ならば、と、『会えたらすること』を指折り考える。
ちゃんと、大丈夫?って聞く。
食欲あるのかとか、言づてあったら聞く。
「で、なんで避けてるの?って聞く。」
場合によってはちゃんと謝ることも一つとして数えたら、何だか緊張するのである。
高鳴ってゆく鼓動を紛らわすにも、残念ながら退屈しのぎのグッズなど、皆無に等しい世界であり
ただそわそわとベッドの周りを往復するうちに、風早は、暖かくして、とも言っていたことを思い出した。
暖房器具も、無いに等しいこの世界。
敷物を敷いてあるとはいえ、その下は真っ正直な石である。
千尋は、裸足の足裏を意識する。
「いけないいけない!これじゃぁそのうち冷えちゃうよ。」
千尋は、ごそごそとベッドに潜り込んだ。
この部屋の中で、一番暖かいのはこの中である。
鼻先までシーツを引っ張って、枕に顔を埋めると、干し草がいっぱい詰まった、いい匂いがした。
太陽にやけた、黄金色の匂い。
緩く目を閉じると、なんだか、畳のそれのようで、酷く懐かしかった。
千尋が、豊葦原へ戻る前に住んでいた世界の家は、古い木造の建築であり、
千尋の部屋は板敷きだったが、畳の部屋もあったのである。
新しいとどんな匂いがするのかは知らなかったが、
窓を開け放って過ごす間に陽に灼けて、幾分香ばしくなったのが、
千尋の知る『畳の匂い』である。
三人の中では、那岐の部屋がそうだったなぁ、とか、
あそこでころりと転がって寝入ってしまうと、起きた時額や頬に痕が残って
結構痛かったんだよなぁ、とか、
少しずつ、千尋の中に甦って来る記憶があった。
「あ……」
そして、千尋は、思い出す。
この、匂いの中でした、ひとつの約束のことを。
記憶は、多分に熱っぽい、少し掠れた那岐の声で、
脈打つ胸の奥から喉元をとおり、ゆっくりと、閉じた瞼の裏側まで届き
やっと、一つの言葉になる。
僕を、助けると思って、鬼になって。
千尋はぱちりと目を開いた。
「――――ダメだ。会いにいっちゃ。」
そして、せっかく開けた目だけれど、意図的にきゅう、と閉じ直す。
こんなに大事な約束を
とてもとても、優しい言葉を
どうして、今まで忘れてしまっていたんだろう。
風早が呼びに来る前に、眠ってしまおう、と思った。
那岐に会いたくて泣いていた、なんて聞いたら、きっと、許されてしまうんだと
那岐は、そんな千尋を、許してしまうんだと
呼んで来て、って言ってしまうんだと思う。
だから、その時までに、深く、深く、眠ってしまえばいい。
(ごめんね。)
そう、あの約束が、まだ有効なのであれば
千尋は今、那岐に会いに行ってはならないのだ。
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