ユビキリオニゴ -2-





チャイムが鳴っても、ガタガタ机を動かしたり、慌てて廊下を走る、上履きの音が聞こえたり。
午後一の授業はこんなものだ。
ということは、昼休みならもっと煩雑なのが教室で、その喧噪にまぎれて、生徒がひとり、学校を抜け出しても、早々目敏く見つけるものはいない。
だから

「きりーつ」
「れー」
「ちゃくせーき」

となって、教師はぐるりと教室を見渡して、初めてその異変に気付くことになる。
生徒も同じく、そのへんのタイミングで気付くことになる。
この日、千尋のクラスの午後一は日本史であった。

「あれっ……?」

日本史担当教師、ならびにクラス担任でもある風早は、ある空席に目を止めて不可思議な顔をしている。
出席簿を数枚戻って、更に首をひねった。
そして、その席の一つ後ろで、同じく首をひねっている千尋に向って尋ねてみる。

「朝は居ましたよねぇ。葦原さん、何か聞いていますか?」
「那岐のこと?」
「ええ。」
「いえ、知りません。」
「そう、ですか。」

千尋が知らなければ恐らく他の誰かが知っていることはない。
そう判断して、風早は日本史の出席簿の、那岐の名前欄に、一応×印を記入した。

「それでは教科書は13ページ、【日本の夜明け】からー。番号一番、有川くん、読んで下さい―――――」

生徒の朗読にふんふんと耳を傾けつつ、どこか上の空の千尋のことも視界に入れながら、机と机の間の通路を、ゆっくりと進む。
そして、千尋の傍を通る時に、小さく耳打っておく。

「那岐の分も、ちゃんと聞いておいて下さいね。あとで教えてあげないと。」

千尋は、はっとしたようにして、弾むように頷く笑顔を見せた。
これで一安心、と風早は思っていたし、現に今に至るまで、この時のこれ以上の顛末についてはそれほど気にしてはいなかったが、
知らぬは親ばかりなり、とは、降って沸いた諺ではないのである。

だから、ホームルームもそこそこに校門を飛び出して、
息急きながらで玄関を開けて、その手で日本史のノートを取り出して、
那岐の部屋の襖の前に立った千尋の落胆については、知る由もなかったのである。

「那岐ぃ〜!学校サボってどうしたのー!」

返事がない。おや?と思ったが、許しなく襖を開けるともれなく怒られるので、
もう一度声を掛けてみる。

「ほらぁ、優しい千尋がノートとって来てあげたよ〜?」

すかさずぺた、と耳を当てると、中の空気が、少しだけ動いた気がした。

「なぁぎぃ〜?」
「入るなよ。」

どくん、と胸が鳴った。いたんだ、という安心と、突然の拒絶が一度にやって来て、こころがすぐに着いてゆかないことの証拠だ。

「……なんで?」

そして、次の言葉に、漸くこころは、『痛い』という方向に動き始める。

「……今会いたくない。」
「……それは………しかたないね。」

そう言うより他に、どうにも言葉が出て来ない。
胸の早さはさっきより、どんどん早くなっていたけれど、会いたくない、と言われて癇癪を起こすのが適当なほどの、親密な関係ではないではないか、
と、そういうブレーキがかかってしまった。
痛いし、悲しいのだけれど、そのとき、まだそれは千尋だけの問題だった―――――
少なくとも千尋は、そういうふうに思っていた。

が、そのあとの夕食にも出てこずに
風早があとで部屋に運んでいくのを目撃したときには
流石に癇癪の一つや二つ
もしくは地団駄の三つや四つくらいは起こしたい気持ちになった。

これは、想うが故の反動と呼んでいいものだろう。

「ね、風早、那岐どうしたの?」
「さぁ、呼んでも出て来ないので、取り敢えずご飯だけ置いてきました。お腹がすいたら食べるでしょう。」
「なにそれっ!」
「何怒ってるんですか?」
「………別にっ!」
「無断早退なんて珍しいし、何か事情でもあるんでしょう。じゃ、俺は風呂に入って寝ますから、何かあったら呼んで下さい。ふわぁぁ〜……」

暢気なんだから、と小さく悪態をついて、千尋は、バスタオルを肩にかけた、眠た気な背中を見送った。

「なんだっていうのよ、ほんと!」

記憶の限り、そこまで臍を曲げられるようなことはしていないつもりだったし
学校でも特に何があった訳でもない。
頬杖を付いて日本史のノートを眺めていると、ムズムズとやりきれない思いが沸いたし
熱めのお湯につかっても、髪を洗っても、
考えるのは同じこと。


気がついたら、那岐のことばかり考えている。


「もー!なんで私ばっかり!」

だから、お風呂から上がったあとで、
頭からも湯気を昇らせたい勢いで、再び襖の前に立った。
そして、勢い開くと同時に、溜まりに溜まった嫌味を放った。

「お先でしたっ!お風呂掃除はおいてありますからっ!」

意図的に順番を破っておいたのだった。
めんどくさがりの那岐のこと、きっと噛み付いてくるはずなので、まずはきっかけ作り。千里の道も一歩から、話はそれからだ、と踏んでいた。
が、噛み付きどころか、うんともすんとも返事がない。
それより以前に、開け放った部屋は暗くて、那岐の姿さえ見えなかった。

「………那岐?」

千尋は漸く我に帰った。
暗順応で目が慣れると、枕もとに、ペットボトルのレモンティがころん、と転がっていた。
こんもりと膨れた布団の端から、那岐の柔らかい髪の毛が、少しだけ見えている。

「もー、寝てないで、お風呂空いたってばぁ。」

発する声が、少し遠慮がちになってしまうのを悔しく思いつつ、
千尋は少しずつベッドに近寄って行った。そして、足元で何かに滑った。

「きゃ―――――!」

脚の裏に張り付いたものは、どうやら薄い、透明のフィルムである。
よく見たら二枚もくっついていた。

「なにぃ?」

片足で立ってよろけたのと、起こすついでもあるし、とベッドにポス、と腰を降ろすと、酷く布団が熱いのであった。
そして、鼻腔に届く匂いもまた、熱をもっていた。
千尋は布団から飛び退いて、恐る恐ると顔を近づける。
とても放っておけないくらいの熱がある、ということは、それだけで十分に解ってしまった。

「那岐―――――」

呼びかけようとして口許を押さえた。

(だめ、起こしちゃ。)

千尋は抜き足で押し入れまで進み、そっと開けて、冬の毛布を引きずり出した。
そして、取り敢えず上から掛けてみて
よくよく見れば、枕元に転がっていたものは、レモンティのペットボトルだけではなかった。
水銀の体温計は直ぐさま拾い上げて、その脇に転がっていたケースにしまい、机の上に安置したり
キリトリ線を大幅に外れてビリビリに開封したあとの冷却シートの箱もあった。

(……さっきこれに滑ったか。)

やや赤面しつつ、新しいシートをめくった。

「起きないでね………」

そっと毛布に手を掛けると、那岐は顔を埋めるようにして眠っていた。
シートに前髪を巻き込んでいるのは、とても気持ち悪いだろうな、と思う。
一人で、手探りで、朦朧としながらやったんだろうな、と。

「なんで言ってくれないのよぅ。ばかぁ。」

不器用なのに、髪が引き攣れないように剥がすのは、とてもとても、大変なんだから。
こんなに浅い息をしている那岐を見るのは、とてもとても、苦しいんだから。
熱い吐息を手首に感じながら、青いシートを貼り直す途中で、涙が出た。
布団と毛布を掛け直したあとで、その上からぱふん、と突っ伏せた。

「こんなに近くにいるんだから。私がいるんだから。」

とてつもなく淋しくて、千尋は、ベッドに右の腕を差し入れる。
熱帯雨林みたいになっているシーツに手のひらを這わせて、その中の、何処かにあるはずの那岐の手を、手探りに探す。
もう、起こしちゃいけないとか、そういうことは、考えられなくなっていた。
汗で濡れた背中から、触ったことのない温度の、脇の下に触れて
千尋よりも全然硬い腕を、そろそろと下降する。

「ここに、いるんだから。」

そして、その先に繋がる手のひらを、きゅう、と握った。
那岐が僅かに身じろいで、緩い緩いちからだったが、その、熱い指先が、確かに握り返して来たのは、千尋の気の所為ではなかった。
きゅん、と、こころがまた、痛んだ。



本当は、自分の部屋で寝るつもりだった。
夜中、呼ばれた気がして目を開けると、陽に灼けた畳の匂いがして
どうやらそのまま眠ってしまったのだと理解した。
それに、繋いでいたはずの手はいつの間にか解けていて、
ほっぺたとおでこを畳に押しつけるようにしていたみたいで、剥がすのが大変なくらいにかなり痛かった。

「千尋ってば。」
「ん………」
「馬鹿!なんでこんなとこで寝てるの。」
「だって……いたたっ」

身を起こそうとしたら、頭がとても痛くて、重くなっていた。
畳の所為だと思っていた痛みは、どうやら頭痛のようである。

「……って、何、もしかして――――」
「平気」
「じゃないだろ。」

那岐の手のひらが額に当てられて、ぴくりと肩が震える。

「………やっぱり。」
「え?」
「信じたくないけど、さっき僕の手、握ったの千尋?」
「だって、すごくすごく熱かったんだもん」
「―――――だから会いたくないって言ったんだ。頼むからそういうことしないで。」
「………ごめんなさい。」
「ほんと、馬鹿。」

そのあと、那岐は、掠れた声で、小さく小さく苦言した。

「弱ってるときに、歯止めなんて利かないんだから。」
「………ん?」
「何でもないよ。それより、ちゃんと部屋で寝ないと。歩ける?」

頷いて立ち上がったまでは良かったが、頭痛で上手く歩けない千尋である。

「ミイラ取りがミイラにっていうのは、こういうこと言うんだよ。」
「………うん。」
「わかったらつかまって。」
「う、うん。」

部屋まで支えてくれた那岐の身体は、まだ熱の匂いがした。
豆電球の灯りの中で、さっき千尋がしたようなことを、逆に那岐にされながら、
ベッドの中にいる気持ちは
とても不可思議で、とてもドキドキして
でも、そのてきぱきとした手や、涼し気な表情を見ていたら
少しは元気になったのかな、と、自惚れる気持ちもないわけではなかった。

その間に毛布は三枚重ねられて、ポスポスと端っこを押さえられて、
流石にかなり重くなった。
だが、それでもふる、と寒気がある。

「具合どう?」
「うん……まだちょっと寒い、かな。」
「そうなんだよな。だけど、重ねてどうなるもんでもない、んだよ。」
「そうなんだ。」
「うん、そうなんだ。」
「………。」
「………。」

しばらく、目が合った。
多分、考えていることは、同じ――――
千尋がそう思う根拠は一つだった。
この、寒くて熱くて重いのが、さっきまで那岐の中にあったものだとしたら、
きっと、那岐も、同じ気持ちでいるはずだ、と。

千尋は、折角端を押さえてくれた毛布を浮かせて、手を伸ばす。
震えそうな空気が入って来たけれど、それでも、この手は、那岐の手のひらの中に
握ってもらう必要がある。

重ねても重ねても、足りない分は、同じ温度で温めてもらわなければ
それ以外に、欲しいものなんて、ない。

「帰らないで。」

那岐は、少しだけ迷ったようだったが、そのうち同じように手を伸ばした。
頼りなく浮いている千尋の指先を、柔らかい皮膚が包んだ。
自分が今、どんな顔で那岐を見上げているのか解らない。
そして、そんな千尋の瞳に映る那岐も、
今まで一度も、見たことのない目をしていた。

「そんなとこにいたら、ぶり返しちゃうよ?」
「じゃ………一緒に、寝る?」
「――――いぃの?」
「どうせ僕の風邪だろ?うつったんならもうどうしようもないし。それなら千尋が寒くないほうがいぃし。」

但し、と、那岐は一つ条件を出した。


これからこういうことがあったときは、絶対僕に会いにこないで。
ほんと、心臓に悪いから
僕を、助けると思って、鬼になって。


「できる?」
「約束する。」

千尋が確認出来たのは、那岐がそっと毛布をめくって、肩を一段低くしたところまででで、
ベッドが軋んだ瞬間に、急激な動悸に襲われて、くるんと背を向けてしまった。
耳の先から、湯気が出そうな熱さで、きっとこれは、風邪とは別の何かが働いていることは、誰に教わらずとも身体で解った。
その鼓動が治まらぬうちに、背中に那岐の体温がぴったりとくっついて、
お臍のところまで腕が回る。
千尋の身体は、まるで一回り小さなマトリョーシカみたいになって
そのなかにすっぽりと包まれてしまうのだった。
なんとか、この、飛び出しそうな胸の音をごまかさないと、と、千尋は重い頭をぐるぐるさせる。

「きょ、今日の日本史はね、日本の夜明け。」
「ふーん。」
「縄文時代っていう名前は日本人がつけたものじゃなくて、えーと、誰だっけな、外国のひとが」
「エドワード・シルベスター・モース」
「そうそう、そんなだった!」
「ノートとってくれたみたいだけど、それ、骨折り損だと思うよ。」
「………そう。」
「嘘、ありがと。一応。」

そんな、たった一言で、千尋の心はほんのり色付く。
硬くなっていた身体がほぐれたのも確かだったが、
それと同時に、やっぱり思い通りにはしゃんとしない。
難しいことを考えたからだろうが、那岐には有用な情報でもなかったようだし、
もう、いいや、と手放して
千尋の背中は、那岐の胸の中に沈んでゆく。

「………あったかい。」
「………早く寝なよ。」
「は、い。」
「………千尋。」
「ん?」
「これ、風早には内緒で。」
「……いぃけど、どぅ」
「どうしても。」

言い切って、腕はひとつ、強くなった。そして、微かに震えていた。
背中から伝わって来る胸の音は、いつしか千尋と一つになって
どちらがどちらの発するものか、意識しても、数えることができなくなった。


たった一度きりの、大切な大切な夜だった。
指切りこそ、しなかったけれど
千尋は、その夜の約束を、律儀に守った。


本当を言うと、鬼になんて、なりたくなかったけれど
ミイラ取りにも、なりたくなかったし
また、同じようにして、那岐に心配かけたくも、なかったし


そのうち、それは習慣になって
それはとても喜ばしいことに思えるけれど
同時に、困ったことに、約束はいつしか風化する。


律儀であれば、あるほどに、そういうものなのである。


千尋は、干し草のベッドの中で、漸くその風化を、解いた。



◇◇◇



次の日目覚めたら、那岐がベッド脇にいた。
寝起きの顔を至近距離で見つめられて、平気でいられるような関係には、二人は未然であったはずである。
千尋は慌ててシーツを引き上げて、くぐもる声で呟いた。

「お……おはよ……。」
「いつまで寝てるの。今日禊なんだろ?」
「………うん」
「結構遠いし、早めに出るみたいだよ。早く着替えて朝飯来なよ?」

声だけ聞いていると、まだ少し掠れ気味だったが、
その、淀みない口調の限りでは、どうやら風邪は良くなったらしい。

「二度寝したら、もう起こしに来ないよ。」
「………。」

目は覚めているのだが、この顔を見られたくないという
いたいけな乙女心を、どうにも解っては貰えないらしく、千尋はむっくり起き上がり
ベッドに腰掛けて俯いたまま、もういちどおはようを言い直した。
ついでに、申し訳程度だとは思うが、跳ねた髪は直しておく。

「そういえばさ。」
「ん?」
「なんか、泣かせたみたいでごめん。」

千尋ははっと顔を上げた。そして、首を横に、数度振った。

「私も、約束忘れててごめんなさい。」
「一応、ちょっとだけ待っといたんだけど、来なかったから。」
「うん。鬼になってみた。」

そう言って、やや恥ずかし気に笑った千尋に、那岐は一歩、近づいた。
そして、ふんわりと抱き締めた。

「な――――」
「こういう風にされるなら、鬼にもなってみるもんだって、思わない?」
「………い、いま、初めて思った。」

好きなひとの腕の中でどうかと思うが、
誰が見ても、びっくりしている、というような顔しか出来ない千尋だった。

「………言ってみるもんだね。」
「――――ん?」
「いや、まだこれ以上言わないけど。」
「………そ、っか。」

これを、予感と呼んでいいのかどうか、
とても、ただの自惚れだとは思えなくて、
もう一つ、近くなった那岐の顔に、千尋は吐息を飲み込んだ。


男のひとが、好きな子にキスしようとするとき、こういう顔をするんじゃないか、と
そして、それが本当になったら、どんな気持ちがするだろう、と


だが、那岐はそうはしなかった。
その代わりに、今にも触れそうな唇で、新しい約束を紡ぐ。

「………全部、おわったらさ。」
「うん。」
「そんとき、千尋も僕も、風邪じゃなかったらさ。」
「うん。」
「続き、させてよ。」

―――――熱が出そう
そんな額を、那岐の胸に押し付けて
千尋は、皺になるくらいにその背を抱いた。


何と返すのが可愛いのか、どうにも解らない分の
声にならない分のちからで


どうにか、肯定の気持ちが、伝わっていればいいと願った


そんな、うわごとみたいな祈りが
どうか、あなたのこころに、届きますように




〜Fin









あー、えーと、言い訳のしようもないんですけども、風邪っぴき那岐を書きたかっただけですごめんなさい(平謝)
大変ベタであります。そして、ベタ好きであります(自明)
この那千は那岐の書に入ってませんが、たまにはこういうのも、いいかなと思いまして、気楽なゆっくりペースの2人を書いてみました。 遙2でいう『急展開』な気もしますが(汗)

豊葦原跳躍前から、片想いしあっている那千が好きです。
それでもってちょっとだけいかがわしいボーダーを掠っているといいと思っています。
特に那岐ですが、隠そうと思って、抑えようと必死になって、それが高じ過ぎます。
そういうとき、何かの拍子にほろっと零しちゃう、割と脆いとこがあるような気がしていて、更に妄想していくと、そのいかがわしいボーダーというのが、図らずも、ではなくて、ちょっとだけ意図的なんではないかと(もう救いがたい)。

那岐は「風早には内緒」などと言ってますが、実際ばれないわけないとも思います。
が、ばれないといいなという、千代田の勝手な祈りを込めました。
ていうか、も、なんでもいいから、きみたちはひたすら幸せになれっ!
かなり本気で、思っております 笑




2008.10.21 ロココ千代田 拝