素直に閉め切っていればいいものを。
と、那岐は溜め息混じりに窓を開け放した。
手のひらでそっと押せば開くようになっている、
雨戸と言うには薄すぎるし、閉めておいても陽が射し込むよう、ストライプ状に木枠が嵌め込まれているから、
結局雨戸にはならない扉がついている。


利き手には濡れたハンカチを握っていた。
昼寝は好きでも、できないときに無理にするようなものでもなし
それに、眠ればさっきのケンカがなかったことになるわけでもない。
だから寝台は降り、用事を始める前にしておこうと洗っておいた。
くしゃみを堪えながら、見上げた空は晴れている。
これならよく乾きそうだ。


洗濯を自分でするのは、随分久しぶりなのである。
とはいえ、たった小さなハンカチくらい、洗濯とも言えないのかもしれないが。
那岐は、ストライプになっている木枠の隙間に、ハンカチを広げて通した。
手を離すとひらりと、僅かに端が翻り
同じく風に乗って部屋に侵入して来ているであろう花粉に思いが至る。


春の窓辺は、那岐にとって禁忌に近い。
ハンカチ一枚くらいでなく、もっと本格的な洗濯をしなければならなかった頃から
この季節に好き好んで、那岐の部屋の窓が開けられることはなかった。
だから、洗濯ものの中から自分のものを選び取り、
几帳面にも部屋干しにしたものだ。


『口で息するしかないんだから、適当に加湿にもなって助かってるんだ』


なんか陰気じゃない? と眉を八の字にする千尋に、
そんな言い訳をしたこともある。
だからさっきも、千尋のハンカチをつい部屋干しにしそうになった。
自分のものでないことを思い出さなかったら、きっとそうしたに違いないが、


(うん、確かに陰気なんだ)


どんなに上手くやっても、閉め切った空気で乾かしたものは、
どことなくくたりとしてせつない。
陽の匂いとは遠い出来上がりにしかならないから。
千尋が持つものなのだから、そんなではとても、似合わないだろうなと、思うから。


「……って」


僅かに出っ張った窓枠に、いつしかついていた頬杖を、
那岐はきまり悪そうに外す。
誰が見るわけでもないけれど、顔が熱く、赤くなる。


「いま思いっきりケンカしたばかりじゃないか」


それなのに、どうして気を回したりするのだろう。
いっそ当てつけに、せつない出来上がりのをつき返したって、いいはずではないか。
思い出すのは、いつでも千尋のことばかりだ。
こんな、ときでさえ。



“知ってますか、那岐”



不意に、遠い記憶。
まだ大学に通っていた頃の風早が、不貞腐れる那岐少年にかけた言葉だったように思う。
その時も春で、
やはりに那岐は、鼻と頭の不快に悩まされていて
それが原因だったのだろうがすこぶる機嫌が悪い日で、
家族を背にして部屋に引きこもったことがある。
随分時間が経ってから、ふすまがそっと開けられたのだった。
三角に座る那岐の背は、ちょうどそこにあった。


「入っていいですか」
「……開けてから言う意味は?」
「あは、そうだよね、ごめん」


軽い声の後ろに隠れるように、千尋の気配があるのを感じていた。
シャツの裾をぎゅうと握って、こちらを窺っているのに違いなく
背を向けていても、それを感じ取れるだけの第六感を、その頃から那岐は持っていた。


「夜、行きませんか」
「は?」
「だから、お花見」


それは、風早なりに編み出した、那岐と千尋の仲違いをなんとかするための、
いわば折衷案だったのである。


「那岐が悪いよ、さっきのは」


身に覚えがありすぎて、膝の間に顎を更に埋める。


「頭ごなしにいやだと言ったら、そりゃ千尋だって傷つくよね」
「……そ、そうだよ傷ついた!」
「っ、るっさいな! わかってるって」


キと目尻を三角にして、思わず見返ってしまったほど
図星は少年のこころさえもかき乱すものだ。
千尋がそそくさと風早の影に入ったのは言うまでもない。
それもまた、那岐にはおもしろくなかったのである。


「まぁまぁ、千尋も、那岐が辛いのはわかってあげないとだめです」
「……」
「……」


思えば、あの頃から進歩のないふたりなのかもしれない。
那岐は17になって、同じ時間をもう一度過ごすと、今度は18になるというのに
ケンカの種は時を止めているらしい。


「花粉が舞わなきゃ、いいんでしょ?」
「いつでも舞ってるだろ」
「と、思うだろう? だけど、知ってますか、那岐」


風早の声は自信ありげだった。
花粉は、朝舞い上がると言う。ひとや、車が巻き上げるのだと言う。


「舞った花粉は、そのうち地面に落ちて積もる。朝になると、ひとが起きて来て踏んで巻き上げるんだけど、
 夜なら、ひとも動物も眠りにつくから、舞い上がるものはごく僅かになる」


理論上は、と付け加えて、これで手を打たないかと、風早は誘うのだ。


「夜桜なら大丈夫じゃないかな」
「ほら、だいじょうぶだって」


千尋がまた顔を出したらしい。


「だから那岐も、一緒に行こう?」


結局、千尋の、やや窺いの混ざったその言葉に、
那岐少年は腰を上げた。



“今回だけだからね”



と、条件をつけたのだったと思う。
それからの春も、千尋は那岐を誘うことを忘れなかったが、
学校の行き帰りに眺めるくらいでお茶を濁していた。
それに千尋も、だだをこねる年齢は次の春までに過ぎてしまい
頑として譲らないようなことは起こらなかった。


「のにさ」


今年はまた、あのときの千尋のように
ケンカしてまで一緒に行きたいと言う、聞き分けない千尋に戻ってしまったみたいだ。
それが何故だか、理由は本当にわからないが。


「……今回だけ、か」


あのとき付けた条件を、外してみようか、どうしようか。
那岐は、ひらひらとなびくハンカチを眺める。




* 折衷問答歌 ・2 *






その頃。


「はぁぁー」


王族の住まう宮殿からやや離れた建屋にある官軍詰め所では、
柊が敷居を跨ぐやいなやたいへん長い溜め息をついていた。
この男がこのように内面を明らかにするのは珍しいことで、
詰め所にてしばしの休憩時間をくつろいでいた忍人は、
飲み物を机に戻して目を上げた。


「どうした、覇気のない」
「それはいつものことです」
「……そうだったな。しかし、」


妙だ、と忍人が思ったように、
柊は忍人の向かいに腰を下ろし、顔は上げずに肩を落とした。


「……もう、ダメかもしれません」
「だからなにがだ」
「今度という今度は、わかれるかも、しれません」


忍人はやや呆れ顔を浮かべ、しかし膝を進めてじっくり話を聞く姿勢は見せた。
まあ飲め、と、新しい器に茶を満たし、柊にすすめる。


「浮気でもしたか。言語道断だがお前のことだ、聖人君子ではいられぬ夜もあろう。
 然るべき理由があるというなら、俺が口利きを買って出てもいいが」
「私のことではありませんよ。しかも私は特に浮気に興味はない」
「ほう」
「我が君と那岐様のことです」
「―――なんだと?!」


忍人の驚くのも無理はない。勢い余り、机を叩き半腰になったほどだ。
何故なら柊の言ったふたりがわかれるとなれば国を揺るがす一大事と言っても過言ではない。
まだ正式にめおととなったわけではないにしろ、
「そういうこと」として進めていた国の今後の展望までガラっと変わってくる。


「あの、倒れてますが」
「んぁっ?」
「お茶が」
「……これは失礼」


フキンフキン…といった一幕が暫し展開された。


「痴話げんかをなさることは日常茶飯事だが、今度もそうではないのか。頼む、そうと言ってくれ、柊!」


柊は左目を伏せ、穏やかに首を横に振った。


「たった今そこで那岐様付きの釆女のひとりから聞きかじった情報故、根拠は確かかと」
「なんということだ……」
「何しろ那岐様は、それなりにコトにお及びになったあとで
「コト?」
「真っ昼間から『なさった』」
「…………」


忍人の脳内ではやや激しいいろいろが思い浮かんでいる。
白昼コトに及ぶなら、睦まじすぎるほど睦まじいではないか。
何故、わかれることになるのか。


「そう、ここからが問題なのですが、なさったあとで那岐様は、我が君に対し、
 風早や君などをお奨めになるようなお言葉を」
「風早や……―――俺だとっ?」
「のようです。そして、我が君は私の言葉を頼りになさるようなお話をなさったとか。
 つまり、コトは双方名残の一回だったのではなかろうかと彼女は耳打つのです」
「お前のほうには覚えはあるのか」
「あったら悩みませんが。しかし我が君那岐様双方がお望みということなら、私たちは青柳のごとく
 風に吹かれるより他にありません。体面上或いは君が、風早が、私もですが、
 三人が三人恋敵となる未来が用意されているとも言える」
「……人生、何が起こるかわからないな」
「ですね」


複雑な未来を思い描き、官軍詰め所は妙な気まずさに包まれた。
降って湧いた逆玉の輿の可能性に、ふたりの食指が微塵も動かないかというとウソになる。
しかし、それは私情である。
少なくともこのふたりは私情より先に公のことを考える癖がついている。
それはもう、長い間の習慣なのである。


「待て」
「は」
「ということは、世間は俺たちをどう見る」
「当然、泥棒猫」
「そうだ。岩長門下が三人揃って、国に牙を。お前は常世にも縁があるとすれば、
 尾ひれがついて妙な憶測も呼ぶかもしれない。那岐様に至っては傾国の親王だ」
「そう。そのようなことが有り得て良いと思いますか」
「断じてない! 俺はこの別れ話を阻む! 断固としてだ!」


拳を握った忍人の決意は固い。そして、柊も珍しく神妙に頷いた。
奇しくも王族ふたりのケンカは、同門ふたりの長きに渡る亀裂を修復させたことになる。









「陛下、どちらへ」


釆女は衝立の裏で井戸端会議に勤しんでいるものだと思っていて
だからその隙に部屋を出ようとした千尋だったが、
仮にも陛下付きの釆女である。感付かないわけがなかった。
穏やかだが厳しさをたたえた顔が覗き、千尋は扉前で顔を顰める。


「……ちょっとそこまで」
「陽が落ちました。用事なら明日に」
「用事じゃないからいま行きたい」


釆女は衝立を出て、ふむ、と思案げにした。


「それなら尚更明日になさいませ」
「少し頭を冷やしに、回廊をひとまわり」
「……回廊を」
「それなら、いいでしょう? こんな気分じゃ眠れないよ」


千尋は俯いて、夜着の袖口を握る。
気分というのは昼間の悶着のことだろう。
若いうちならさもありなん、と釆女は口許を緩めると、
回廊だけ、と念を押し、肩から上着を羽織らせて、扉は細く開かれた。


「ありがとう」


そうして一歩、千尋が廊を踏んだところで、
足はぴた、ととまってしまった。
釆女はおやと、肩越しに視線の先を眺めたのだったが、


(なるほど)


眠れないのは、何も陛下だけではないらしい。
よく似た髪の色をした、同じ血を宿すひとが、あぐねてそこまで来ているのだ。


「殿方とご一緒ならば、なお安心でございますね」


釆女は、そう小さく小さく耳に入れた。
私は先に休みます、とも付け加えてから、背中をそっと押す。


「あ…うん」


千尋が釆女を振り向く間に、
釆女は那岐と目配せて、那岐も応えて頷いた。
そして、扉は閉ざされる。
いくらも沈黙を聞いて、二歩だか、三歩だか、それくらいずつ近づいたふたりである。


「借りてたから」


那岐の開口一番は言い訳だった。
春の風が乾かしたハンカチを、千尋は受け取ろうとしたのだったが、
つ、と引いても動かない。


「な…っ」


別に、ハンカチくらいあげてもいいが、
返すと言われて一旦手を出したものを、素直に渡されないのはやきもきする。
売り言葉を投げて来たままの関係なのだから、
こうした悪戯を無邪気に笑うことができない千尋がいる。


「も…、返すの返さないの?」
「返すよ」
「だったら…!」
「けどその前に、連れて行きたいとこがあるんだ」


言って、那岐は目を逸らした。
ハンカチはすると千尋の指を抜け、那岐の衣服に隠される。
質に取ったということだろうか。
あまりに頼りない、薄くて小さな質である。
那岐はくるりと踵を返し、先に歩き始めた。


「来ないの? 来ないとずっと返さないよ」
「……どこ行くの」


那岐が足を向けているのは部屋の方向ではない。
食事は済んだし、市はとうにしまっているし、
ほんとうに回廊をひとまわりでもしようと思っているのか。


「返していらないから来ない、なんて、言っても聞かないよ」
「………じゃぁどう言おうかな」
「来る、って言ったら?」


声が、千尋の鼓膜に近くなる。
振り向いた那岐は、きまり悪そうに手を伸ばしていた。
いつもなら、千尋は一も二もなく取るだろう、那岐の手のひらだ。


「繋ぐの繋がないの?」
「だって」


かたくなな千尋に、那岐は溜め息をついた。
言わずにびっくりさせてやろう、というような演出を好むタチではないのだが、
昼間あれほど拒んだものを、今度は自分から誘うことに、
言葉にできない照れがある。ハンカチを質にしたもの、ただそれだけのことである。
が、言わないと連れ出せないなら、選択肢はひとつしかない。


「僕と見たいんじゃなかった?」
「―――」
「夜なら花粉がマシだって聞いたこと、思い出したんだ」


千尋も、思い出しただろうか。
街灯が灯り始めてから、借家のカギを閉めて出掛けた夜のこと。
風早が真ん中になるように位置どって、千尋から遠くなるように歩いた、
話しかけにくいことを、距離のせいにした夜のこと。


「あのときは、ごめん」


でなく、さっきはごめんと言うべきだと、
それは、本当はよくわかっている那岐だ。


「ってことで、どうする?」


那岐は、改めて腕を差し伸べた。


「……つなぐ」
「正解」


包まれる前から、汗が滲みそうな千尋の手のひらだった。
繋いで、ぺたぺたとしなければいいけれど、と、千尋の足はそんなふうに躊躇う。
今更だ。
那岐は、ぐ、と持ち上げるようにして、しっかりと繋いだ。