春になると、そぞろに足が外へ向かうのは
冷えた空気が綻んで、肌が柔らかい呼吸をはじめるから。
というのもあるけれど、やはり花が咲いて誘うからだ。
限りなく白に近い薄紅の、小さな花弁の群れる樹が、すくりと枝を伸ばして誘うからだ。
けれども、人がその樹に誘われるのは、そのたった短い間だけだったりする。
花が落ちて葉をつけて、そして、冬枯れの頃には、
はて、何の樹だったろうかと思うほど、シンプルな佇まいに、
所々、かさぶたの残ったような肌を晒すだけになってしまう、ゆかしいゆかしい樹である。
だから、一年のうちのほとんどを、じっと、春を待って過ごすふうに見えるのだろうか。
菜の花畑も眠りに落ちた、のどかな道をふたりで歩いて来た。
陽が落ちたあと、山にはいるのは流石にあぶないから、宮から一番近い桜を見に行くことにしたのである。
ちょっとした集会所といったふうで、剥き出しの土のならされた様子は、
ちょうど学校の校庭を思い起こさせた。
その真ん中も真ん中、ど真ん中に、桜はひとつだけ立っている。
門とはとても言えない簡素な木の杭が二本立つ間を、抜けてそれは遠目に浮かぶ。
「……あんなだっけ、夜桜って」
繋いだ手に少し力を込めつつ、千尋はそう言った。
「まさかとは思うけど、ライトアップとか期待した?」
「……そういう絵が浮かんでたの。向こうでそうだったから」
「まぁね、けど、こっちが本来の夜桜なんだろ」
褐色の枝は夜に同化し、花のぶぶんだけが、雨雲が降りたようにぼんやりとそこにある。
そこにだけ、厚い霞がかかっているみたいだ、と千尋は小さな声で言う。
「折角来たんだ、近くで見ない?」
「……近寄りがたい」
「けど、春だしさ」
昼間の桜は存分に謳歌しておいて、夜の桜は怖いだなんて、
それじゃあ、折角咲いた春の花に、あんまりな仕打ちだ。
那岐の思いはそれに近い。
もっとも、押し付けるつもりはない。それは、鬼道使いに特有の感じ方かもしれないからだ。
「行こう」
那岐は、渋る千尋の腕を、くんと引いて、三日月と桜の夜へ出た。
「意外とあかるい」。と千尋が言った。
現金なもの、するりと手をほどいて、届くか届かないかの高さの花に、
手のひらを差し伸べている。
こういうのを花灯りというのか、雨雲のように見えた花の群れだったが、
いまや見上げれば、枝の張り巡らす様子がよくわかる。
龍が寝そべるみたいだと思う。
それくらい、大きな樹だったのである。
那岐も千尋も知る由もないが、集会所の建てられる当時、それはそれは邪魔になった樹を、
切ってしまおうかとは誰も言わなかったらしいという言い伝えがある。
「―――っくしゅ!」
「えっ」
ムードを壊してしまったろうか、しかしこればかりは止められない那岐である。
夜は舞わないと聞いていたが、花粉とて生き物であるし、花の直下に佇むなら、
放たれて新しく飛ぶものくらいあるか、と悔しさに思う。
「ハンカチ使ってもいいよ」
「……やめとく、誰かが噂でもしてるんだろ」
「そうそう、病は気から」
めいめいに年寄りじみた事を言うが、これは風早の受け売りである。
長く彼と暮らすことで、染み付いたいろいろは他にもたくさんあるけれど、
いずれにせよふたりは、ひどくまっすぐに育ったようだ。
というのも、那岐と千尋は、
一日より長く、ケンカが続くことはなかった。
寝る前に解決しておかないと、次の日にひびきますからというのが風早の方針だったからだが、
どんな方法でも、どれほど酷いケンカでも、だから眠る前になって、
ふたりはいまでもちゃんと出会うことができる。
知らない間に物事は、こんなふうにちゃんと、受け継がれていく。
「那岐」
千尋はそこから手を伸ばした。
「一緒に見よ!」
「ん」
その細い指を、たたむように外側から全部、包み込んだ。
そういうとき、いつも思うのは、何度繋いでも慣れないということ。
目隠しをされても当てる自信があるくらい、千尋の手は覚えているけれど
ふにゃとした柔らかさに触れる時は、いつでも胸が鳴るのだ。
そう、このときも。
これが、いつまでも続けばいいと思った。
「千尋が言ったとおりだ」
「私が?」
「満開だって」
「今日のうちに来て、良かったでしょう」
「だね」
こんもりとしたかたまりの下で、那岐は押し黙った。
花灯りとは馬鹿にできない。
陽のひかりとも、燃してつくるあかりとも違う、そこにあるものがつくるあかりは、
優しく、まるく、眩しくさえある。
好きな子と、手を繋いで桜を眺めることが
こんなに特別だとは思わなかったのである。
これが桜でなかったら、ここまでこうは、ならないのに
そう思った理由はわからない、ただ、そう思う。
ただ、春に咲く花だから。そうなのかも知れない。
散らぬように、散らさぬように、
指先は思うよりも早く、確かめるように、握り込む。
「カップルで花見に行くなんてさ」
那岐は、積年のこだわりを、つい口にした。
千尋は、花から那岐の横顔へと視線を移す。
「すっごいバカみたいだって思ってた」
まるでまるっきり絵に描いたようで
そういうふうになるように、誰かに用意された何かみたいな感じで
「そんなのに乗っかりたいなんて、一回も思った事無いんだ」
「………じゃぁ、いまは?」
「もう一回見れたらいいのにって、思ってる」
「うん。また来年、だね」
頭上いっぱいの花、全部でいくつあるだろう、その無数は果てしない。
いずれは風が、或いは自ら、落ちて地に降る花であろうと
いまはただ、そこに咲く。
みるべきものが、それだけだったらラクなのにという気持ちで、
今度は那岐が、横顔の千尋を窺う。
ほんとうに、花灯りとはよく言ったもの、目の色も、頬の色も、ちゃんとわかる。
だから、つい、指先で触れてしまった。
「赤くなってる」
「……なってる?」
「なってる」
薄紅の花が、照らす範囲だけ、手の届く範囲だけ。
どうせ、向こうから見たら雨雲にしか見えないなら
外でも、かまわないじゃないか
むしろ、その花びらのひとつひとつに、記憶して欲しいとさえ、思うくらい。
見ているのが、満開の夜桜だけならと、
朧なひかりの真ん中で、
近づくふたつの唇は、こっそり小さなキスをする。
◇
「じゃ、ここで」
千尋の部屋の僅か手前、那岐は自室の扉の前で、そう千尋に告げた。
けれども、ためらいを多分に含む手と手は、なかなか離れようとしない。
じゃぁ、と意識的に指を解こうとする千尋を、那岐は一歩進み出て改めてつかまえる。
「……那岐?」
「って、帰すわけないし」
「―――!」
「どうする? 僕の気持ちはいま言った」
「じゃぁ私は……帰らない」
千尋の返事は良く、那岐はほっとしたように笑んだのだったが、
王の宮に暮らしていると、こういう時少しの面倒がある。
異世界で暮らした頃のように、敷居を跨ぐとすぐベッド、というわけではない。
まずは前室、ここに釆女や夜警の詰めている小部屋があるが、
千尋の手を引いて通るときは、その何秒かを双方明後日のほうを向いてやり過ごすことになる。
それから応接の為の広い主室を通り、寝室はその奥の扉の向こうにある。
数にすればたった二部屋、と言えばそうだが、逸っているときはとてもそうは思えない。
寝室の扉を開けて、那岐は千尋を急かして先に入れながら、
音を立てて扉を閉めるのだったが、空いた方の手は性急に伸ばして、
千尋の手首をつかまえる。
灯りのついたままなのは、出るときに消す余裕がなかったからだ。
会いに行くか、行かないか、日がなあぐね、行こうと決めたときにはただ身体が前に出て、
窓枠でなびいているハンカチを引き抜いたその脚でこの部屋を出たのが、
数刻前の那岐である。
「……っん…」
入るなり唇を奪われた千尋は、されるままに後ずさるうちに、壁にとん、と背が当たった。
鈍い衝撃と、かまわずかけられるしっくりとした圧力に、やや顔を顰めている。
「那、岐…っ」
唇の隙間を、ちゅる、と微かな水音が上がる。
本来なら、こういうキスをする前に、「昼間はごめん」とか、言うべきだと、
ふたりともがそう思っていたはずだった。
菜の花畑を抜ける間も、夜桜の下でも、何とはなしに機会を逃し、
それでも、帰る頃には距離がちゃんと縮まって、何とはなしに仲直りできてしまうのは、
長くふたりでいた時間が後押しするものだとしても
それはそれ、これはこれでないと―――
―――頭では、わかっているのだけれど。
改めて言葉にするのは、初めの頃よりもずっと、しにくい気がし、
那岐は口付けながら、千尋の手にハンカチを握らせた。
きちんと畳まれていたそれは、深く舌を絡め合う間に、手のひらの中でぎゅうと皺になる。
「っ、は……! も、息できないよ」
ついに千尋が苦言する。
けれども、はいそうですかなんて素直に受け入れるような那岐でない。
唇の外れたのをいいことに、腰をしっかりとくっつけるようにして抱き寄せた。
小さく揺れ始めた青い目を逃がさぬように視線で捉えて、
そこが硬くなっているのを、千尋にもちゃんとわかるようにする。
「……!」
「そういうことだからさ」
更にぐ、と押し付けると、千尋の、一度は結び直した唇がまたほどけてしまう。
「ぅん……っ」
「濡れた?」
「……さわってみたらいいんじゃないかな」
「へぇ」
千尋の言ったのは、確かに意外だったのである。
少なくとも昼間は、したことでケンカが酷くなったのだから。
だが、那岐が、まるいまるい目をする間に、千尋の表情は大きく変化していた。
瞬きの度に、零れそうに潤んでゆく瞳と、ほんのりと笑むのは照れというより、
夜へ深く、誘われているような気持ちにさせる。
―――灯りが邪魔だ。
「消して」
那岐が言うと、千尋は目線と腕を上げ、ツマミを捻って火を消した。
それで全てではないが、それだけでも、ふ、と落ちたように暗くなる。
「うん、このほうがずっと可愛い」
「か、わいい……って」
「こういう時しか言わなくてごめん」
さっきはあれほど妖艶に見えた千尋が、ぽかんと本来の顔を、一瞬見せた。
このまま我に返らせるわけにはいかないと、
那岐は、利き手で千尋の衣装の裾を割る。
いつもの絢爛な衣装でなく、簡素な夜着であるから、素足まではすぐに届く。
既にしっとりと熱をもっている柔らかな肌を、手のひらぜんぶで撫で上げる。
千尋の息づかいはすぐに甘くなった。
「んぁ、は、はやく……」
「そんなに?」
さわってみればいい、自分でそう言っただけあって、と捉えるべきだろうか、
千尋は那岐の手首あたりへ触れて、そこでないと暗に示す。
煽られるのは不快ではない。那岐は千尋の夜着の中で、指をまるく立てた。
「なんか、千尋今日やらしい」
意図のある目線にして、用意した指を滑り込ませた。
「ぁあっ、あ……!」
「なるほどね。濡れすぎ、ってわけ」
ほんの入り口に当てただけで、関節のひとつぶんが埋まってしまうくらいに、
そこは十分にぬかるんでいた。
たったそれほどの刺激で、周囲が絡み付くような動きをする。
とても、初めにいれるときの温度ではなかった。
指で届くぶんを全て差し入れて、ゆっくりと抜き挿しを始めると、
千尋は高い声を繁く上げた。
背中を壁にたっぷりと凭れさせて、そうしないと、
ふるふると震える脚ではとても立ってはいられないようだ。
「いや、やだ、そこ、や……っ」
味わうような表情をして、千尋は喉元を反らしていく。
「いい顔するね」
「も……あぁんっ、見ちゃ、や、だ……っ」
「じゃぁこうする?」
言葉は挑発的だったが、火を落とした燭台の下、
朧に浮かび上がる肌に誘われないでいられるはずもなく、
那岐は千尋の首筋へ急いたように唇を当てて、やや強めに吸い上げた。
そこが感じるのをわかっていて、
薄紅の痕を、たくさんたくさん残すようにして、繰り返し口付ける。
「っん、……あ…っ、あ、もう、那岐……ぃ」
いれたところは溢れていた。
つつと指を伝って流れるものを、那岐は更に絡めて埋めなおす。
泡立つような水音が立ち、千尋は、硬く張りつめ始めた内側を酷く収縮させた。
「那岐…や、やだ……そんなにしたらいっちゃう」
「いいよいっても」
「や……あ、あ、い……っ―――!」
昇りつめて、がくんと膝を落とすのを、那岐は片手で抱かねばならなかった。
利き手は中で絞られているから、これはほんとうは少し、辛い。
辛いけれど、このときの、100%の重みが、自分だけのものだと思えば
辛いより確かに、嬉しいのほうがいくらも勝る。
「いまの、流石に聞こえてたと思うよ、ぜったい」
「……だって…」
限界、と、千尋は掠れた声で加えた。
限界は、那岐もまたそうである。
◇
昼間と同じ、吊り布の奥へ、隠れるように。
文机の上だとか、寝台との境だとかの、
灯したまま出て来たあかりは、隠れる前に全部を落とした。
腕の間に組み敷いた千尋の身体へ、那岐はひとつ律動する。
「……っん!」
思わず声が出そうになるのはこちらのほうだ、と思っていた。
いまのだけでも、背筋がぶると震えるのを、歯を噛んで堪えている。
「あー……その声さ」
酷く火照って、堪らなくて、一枚だけ残っていた上の着衣を脱ぎ捨てた。
そして、直上から視線を落とす。
「……うん」
「あとその顔もさ、なんとかなんないの」
「……って?」
「どこまで好きにさせるつもり? って意味で」
千尋がぐうと押し黙る。答えられないのは尤もだ。
わかっていて聞いている。
波立つ想いが、溢れた先に、何があるのか、なんて、
これでじゅうぶん、なんて、ないよ
不安にさせるつもりでない。
言葉にできないから、素肌にした身体を低くして、胸をぴったりと合わせた。
打つものの音で伝わればいい、というのを建前にして
酷く疼く甘みを、こうして堪えている。
前髪から指を梳きいれると、気持ちが幾分優しくなり、千尋はようやく笑みを見せる。
「私も好き」
「うん」
「大好き」
だから、そんなところで貼り付いてないで、はやく動けというのだろうか。
那岐は少しだけ胸を離して、隙間から手のひらを這わせて、
胸のまるみを掬い上げた。
しっくりと馴染む柔らかさを、揉み込むようにしながら、
指先で中心に触れる。
「ん……ぁ」
つんと硬くなるまではすぐで、そうなったのを舌で含むと、
千尋は腰を小さく揺らして反応する。
なるだけ動かさないようにしているのに、そういうふうにされると、
じわじわと血流の集まり始めたものは、そのままでいられなくなってしまう。
「あ、っんぁぁ……もっと……して」
「どっち?」
「……どっちも」
舌先を硬くして、角の立った輪郭に沿わせて転がしながら、
ひく、と身体を緊張させた千尋の、締めつけの強くなるところから、
半分ほどを引いては挿しいれる。
根元からつつと筋がいき、太さが増してゆくことで、擦る度にわずかな隙間さえ埋まってしまう。
「んぁ、すごく……い、っぱい……」
「うん」
ぐ、と熱を上げ、摩擦の増した内側は、酷く心地が良かった。
胸に吸い付いているのも、それはそれで捨てがたいが、
思うように動けないのがだんだんとじれったくなる。
千尋が少しずつ声を高くするのも一因で、
どういう顔でそうしているのか、いれたところはどれほど濡れているのか、
こうしていては、見られないわけで。
千尋の素足が、甘えるようにして那岐の腰に絡まったとき、
その我慢はぷつりと効かなくなってしまった。
「……っ、もうだめ、するよ」
「うん……?」
せっかく巻き付いた脚だったが、那岐は膝裏に手を掛けて押しやると、
堪えていたぶんを勢いにして深く奥へ突き上げた。
「あぁっ……! や、あぁぁん」
千尋にとっては、いきなりの明確な刺激だった。
それまでゆるゆると解されていたところを一気に貫いてゆく感覚に、
ぞく、と身を震わせる。
「うん、これでよく見える」
「……や、やだ、やめ……あっん!」
那岐が下方に据える視線は、繋がったところそのものにある。
捩じ込むような動きをさせながら、千尋の脚を広くして、
くちゅ、と沁み出るものを指先で掬った。
「気持ちいい?」
答えの明確な問いかけをするのは、多分に優越感を生んだ。
言葉でなく、こくこくと頷く千尋の、いちばん感じるところへ、
濡らした指で触れた。
「あぁっ…!」
まるみのある小さな芽の、根元を軽く掘り起こすようにされるのが、
すこぶる好きなのを知っている。
いれてないときにするのでも、涙目にして声を上げるほど、
そこを触れられるときの千尋は乱れてしまう。
「いや、あ、や……おねがいどっちかにして…!」
「だってどっちも好きなんだろ?」
「好き……って、ち、違!」
「ごまかしてもダメだよ。わかるんだから」
圧し込んだ先が、襞にすっぽりと包まれてしまうことで、
脈打っているものを、それが蠢いて絞り上げることで、
ふやけてしまうくらいに濡らされることで、
「ほら、感じてるんじゃないか」
「そんなふうに…っん、言わ、ないで」
「可愛いって言ってる」
「も……知らないぃ…っ!」
硬くなった芽をこりこりと引っ掻いた、その裏側へ、那岐は狙って突き上げる。
はふ、と濡れた息を吐いて、千尋は目尻に涙を滲ませた。
全然良くない、と昼間そう言った千尋だが、
確かに、そうであったかもしれないと思わせるくらい、
いまの反応は比べるべくもなかった。
そして、それは那岐にも言えて、
制御の効かない律動のせいで、千尋の小ぶりの胸が形を変えながら揺れる。
ぎりぎりまで腰を引いては、改めて挿し入れる度に、千尋は爪先を緊張させてシーツを皺にさせていた。
「やぁぁ……あ…あぁ……」
きゅうと中を狭く貼り付かせて、那岐の形を浮き彫りにするようにして、
千尋は、深く、緩慢な吐息を上げ、
枕をぎゅうと掴んでいた指の力が、スゥと抜け落ちてゆく。
こうなると、もうあとは、
那岐のすることを、いちばんの高みへ向かって感じるだけになる。
「………僕も、イくよ」
言って、括れた腰を掴んだ。
薄く汗の纏う肌に、指が滑ってくい込む。
脈拍のとおりに、締めつけるのに逆らって、息を呑みたくなるほどの、蕩けた最奥を開いてゆく。
「あ、あ、あ…!」
たぷんと波打つ蜜蝋を、掻き出すようにして、
根元までを数度、打ち付けたろうか、
千尋は、声にならないもので喉を絞って、大きく背を撓らせた。
「―――ッぁ……!」
千尋が酷く熱く収縮させるところへ、那岐は、早さの増した律動を叩いた。
「千尋……い、く…!」
まるで吸い出されるようにして、誘われるままに放つときの
なにも見えなくなる感覚が、途方もなく好きだ。
◇
どうやって眠ったのだったか、
激しく抱いたそのあとのことは、少しも覚えていないのに
まだ白みきらない寝屋の中で目覚めるとき、ちゃんと掛け布を着ているのは不思議だ。
「……ん、なんだ起きてたのか」
ちりちりと目を開ける様を、同じ枕に沈むすぐ隣の顔が、始終見ていたらしい。
「そろそろ、戻った方がいいかと思って」
「釆女が心配するって?」
那岐は、出掛けに目配せあった、千尋付きの釆女を思い浮かべた。
多かれ少なかれこうなることは、読んでます、という顔をしていたと思う。
それが、「私は先に休みます」という言葉に現れているのだと思う。
全てをあからさまな言葉にするのを、王宮は好まない。
「どうせわかってるだろ、ここにいることは」
「そうだけど」
そして、本来なら、こういうことになるのなら、予め踏むべき手順がある。
戻ったときの前室で、那岐付きの夜警に明後日の方向を向かせたりしない為には、
前もってそれを匂わせておいたほうが、千尋の上げる声をわざわざ聞かせたりしないで済むわけだ。
とはいえ、全てが終わったあとならば、いまからどうしようもないが。
決して入るものかと思ったこともあった王宮だが、我ながら馴染んだものだと、
那岐はくすくすと喉を鳴らした。
「どうしたの?」
「いや、結局、仲直りってこうするしかないのかってさ。
花見が原因なら花見でと思ったけど、とてもそれだけですまない」
その顔見てたら、と言って、那岐は千尋のほうへ寝返る。
起き抜けの顔を覗かれたり、素足の絡まったりすることを、
なんとなく気まずく思った日は、いつの間にか遠い過去になっていて、
千尋のほうもそうだろうか、完全に開ききらない瞼を瞬かせては、頬をすり寄せてくる。
「甘えるなら今のうちだからね。朝になったらまた花粉が飛ぶ」
「ん」
わかったのかわからないのか、返事はすれど、またすぐに忘れて、
鼻の頭を赤くした、仏頂面になった那岐に苦言したりするのだろうが。
花粉症も辛いけれど、千尋にそういう態度をされるのも、同じくらい辛いんだと、
そう、今のうちに言っておこうと思ったとき、小さな手のひらが頬を包み、
開きかけた唇を、不意に奪う。
「………!」
こういうのには、まだ多分に驚かされる。
全く前触れもないことを、ときに千尋はするのである。
微睡みに似た甘いものを、ふたたび呼び起こすようにして。
「なに、おはようのキス?」
「ううん。早くよくなりますようにのキス」
「……かわいすぎ」
千尋は満更でもない顔をする。
そうでしょう? とでも言いたげだ。
まぁ、そうなのだが。
那岐は更に半転し、そうすると、千尋の背中は敷布に沈み、
那岐はその上に重なることになる。
まるくなる瞳を、伏せてしまうべく、今度は那岐から口付けた。
千尋がしたよりも、少しだけ、深いのを。
離すときに、ちゅ、と音のするようなのを。
「……早くよくなるよのキス?」
「もあるけど、まだ帰さないよのキス」
「…!」
詰めているはずの夜警が、サボって寝息を立てていてくれるといい、
そう思いながら、千尋の反論を聞くより先に、
那岐は、改めて唇を塞いだ。
◇
三輪の山に朝陽がかかり、可憐な鳥が鳴いている。
橿原宮はチュンチュンと、絵に描いたような夜明けを迎えていた。
官吏軍役はそろそろ朝起きの良い者が出勤してくる時間であったが、
それよりも早く出勤して、門で待ち構えているふたりの青年がある。
ひとりは水も滴る長身で、巻き毛の長髪を陽に透かすようにしてアンニュイに立ち、
もうひとりは普通の身長で、普通の長さの黒髪は陽に溶けそうではなかったが、
帯刀し、ピンと背筋を伸ばして立つ様は颯爽と清々しい。
待ち構えている、と表現したように、彼らには待ち人があった。
彼が出勤してくるであろう方角を、それぞれ射抜くように見つめている。
やがて、彼はのどかな風情でやってきた。
いつもの時間、いつもの服装、いつもの髪型で歩く彼は、やはりいつもの表情である。
彼は、名を風早と言う。
那岐と千尋が暮らした世界の保護者でもあるが、門前で待ち構えるふたりの旧友でもある。
抜群の視力でもって彼らを見つけた風早は、早くからそのあらぬ雰囲気に気付いていた。
「遅い!」
言われるだろうな、と思った事を言われたわけだが。
「え、別に遅れてないはずだけど」
当然のように反論したが、黒髪の忍人は首を横に振る。
抗議のまなざしが突きささるようだ。
言葉の足りない忍人に代わり、柊が静々と進み出た。
手のひらで口許を覆いながら話し始めた彼は、
自分の声がただでも囁きレベルであることに自覚がないようである。
「実は、本日の朝議で、那岐様或いは我が君より、驚くべき事実が明らかにされるやも知れません。
ここでは人目があります故詳しく話すことはできませんが……」
と、ちらほら門をくぐりつつある官吏軍役に鋭い目線を向ける。
このふたりにしては、確かに切羽詰まった様子であることはよくわかった風早だったが、
那岐と千尋が発表することに、それほどのおおごとがあるだろうか。
風早は首をひねる。
その様子を、やはりと見て取った忍人は、お前は甘いと一蹴してから続けた。
「そのときになってから慌てても遅い。何故ならどんな事実であろうと、
俺たちは岩長門下として、頑となってそれを回避する必要があるからだ」
「そうなんだ。なにか、不穏な話?」
「しッ!」
柊の口許に黒革の人差し指が立てられ、左目はギリと風早を睨み上げる。
ひょっとすると忍人にも勝る厳しさをたたえており、風早はホゥと目をまるくした。
確かに、昨日と今日の間に、なにかが起こってはいるらしい。
「あとは俺の部屋で話すとしよう。ふたりとも、ついて来るといい」
忍人はクルッと背を向けた。
続くふたりも、歩調を合わせた。
朝議の前の作戦会議はこのようにして始まろうとしていたが、
肝心の王族ふたりが朝議に随分と遅れ、ふたり赤い目を擦りこすり、
手に手をとって入ってくることになろうとは、まだ知る由もない。
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