白のわたげ
■前編■  






「っひゃぁ〜、ほんとひどい降りっ!」

天鳥船の、大きな石の扉前、二つのカサが立ちすくんでいた。
漸く帰り着いたのは良かったが、
いざ、カサを閉じて中へ、という瞬間に、弾ける雨音は最高潮に達した。
ここの扉は少々、重いよな、と、那岐でも常々思うくらいだから、
恐らく千尋が、カサを片手にひょい、と開けるということは、少し現実的でなく、
実際そのような光景を目の当たりにしたら、那岐としても複雑である。


だから那岐は、自分のカサを、窄めてしまって、肩を低くして千尋のカサに割り込んだ。
その、僅かの間にも、那岐の髪は濡れて、しんなりしてしまう程の大降り加減。
少なからず急いだので、柄を、少し乱暴に取り上げた形になってしまったけれど、

「わ、相合い傘だ。」

と、千尋は心底の笑顔で見上げ、少しも気に留めないふうであるのが救いだろうか。

「じゃあ那岐のカサは私が持って入るね。」
「うん、そうしてくれると助かる。」
「はーい。」

千尋は多くの場合、暢気でぽやんとしているけれど、
このように時として、言葉の足りない那岐のぶんを、量る事も出来る。
そんな背中を軽く促して、扉までのほんのわずかな距離を、二人一つのカサで歩いた。

那岐は、やや自由の利かない右の手で、扉に手を掛けて引く。
加えて、弾けるような、それも冬の雨粒に叩かれる手首に、それは常より殊更重く、
豊葦原でも建造物は、右利き用に作られているのが口惜しい。

「早く入んなよ。」
「ん、ありがとう!」

ぱたぱたと、高い足音を背に聞きながら、閉じかけたカサをもう一度広げて空を見た。
雲はなく、層は漆黒の一枚きりではあったが
数えきれない雨粒が、作られるところの、奥までは見通せなかった。


「雨じゃなくて雪にしてよ。」


はやく。


けれども、この雨では。
細い声は瞬く間に吸収されて、きっと、空の方も、聞き取れない。
はぁ、と、あからさまに肩を持ち上げ、大きくついた溜め息は、白くくもって雨に溶けた。




◇◇◇




星も凍るような季節になって、天翔る一行は、橿原に入っていた。
船の内部は更に人を抱えて膨らんで、その中には狭井君の姿もある。
那岐は初めてこの船を見上げた当初、何階建てなのか、数えるのも面倒だと思ったものだったが、
今やその膨大な数の船室をもってしても、まだまだ足りないくらいなのだった。
それなのに狭井君が、

『二ノ姫の御座所のある階には、女性のみが住まう事としましょう。』

などというおふれを出した為に、乗員のほとんどを占める男といういきものが全て、上の階へ押しやられた。
ことに、数も多く、豊かな羽をもつ日向にとってはまさに息も詰まることだろう。
それでも那岐はその出自を考慮されたのか、小さいながらに角部屋を一つ、与えられた。

『別に、いいよ、あい部屋で。』

と、言いかけてから、そこが千尋の部屋の直上である、という事に気付いて、
言わぬまま今日に至っている。


千尋の部屋には、張り出したバルコニーみたいなところがあるのを知っていた。
そこから更に、扉を隔てて外へ出る事も出来、小さな中庭のようになっていることも。
天気がいい午後とか、星のきれいな夜とかは、ふと窓から見下ろすと、
ちょこんとそこに、出てきていて、舳先で風に吹かれている後ろ姿を発見したりする。

「そういうのを、僕じゃない誰かに、できれば見せたくなんかないよ。」

何を思っているんだろう、と
この先を、その小さな両肩に乗せて、そこから何を見ているんだろう、と



きっと、那岐でなくても、思うはずだと知っていたから。



そんな千尋のことを、いちばん先に知っていたいという、とても個人的な理由で
那岐はここを一人部屋で貰う事を、黙って承諾したのだった。



今夜は雨で、そういう千尋を見ることはないが
その代わり、彼女は那岐のそばにいた。
那岐は、窓辺に吊るした一枚布をきっちり引いて、未だどこに座ろうか思案しているふうの、
夜着の千尋を振り返る。

「椅子でもいいし、ベッドでも。」
「べ……ッ……!っいぃいぃ椅子で。」
「別に何もしないよ。」



まだ雪も降らないし。



「……そういうんじゃ、ないけど!」

強情にも椅子を引いて、ポス、と力強く腰を降ろした千尋である。
それで この部屋の椅子は全てなくなったことになり、那岐はその正面やや斜交い、机に座る事にする。
千尋はその胸に、何やら大事そうに、あったかそうなものを抱えている。
正方形なのと、そのふわふわ加減から、クッションかなにかのようにみえた。


それもそれで気になったのだが、それより先に気になることがあった。


「髪、まだ濡れてるじゃないか。風邪引きたいの?」

指先で毛先を掬うと、千尋の頬がぴくとこわばる。
容易につられてこわばってしまう、那岐の指先である。
そう意識されると、わざわざベッドを避けて座った意味が、やや霞んでしまう気がし、
だから長く触れるのはやめて、腕は組んで、大人しくさせておく事にした。

「だって急いだんだもん。」
「何で、今日何か約束してたっけ。」

忘れているとしたら厄介である。
那岐は一応、一つ一つ、頭の中で、順繰りに思い返してみる。

今日は朝から雨の中、橿原宮まで出向いて、常世が宮から引き上げる為の手伝いをして
ナーサティヤが運び込んだと思われる、何に使うかよく解らない白い龍の置物が
えらく重くて腰に来て、ほぼそれだけで午前中がつぶれた事とか

昼に出してもらった飲み物が、スタバのチャイみたいで懐かしくて
それを作ったリブとは何だか気が合いそうだと思ったとか
新年は互いに常世宮、橿原宮で迎えるのがやっぱり落ち着くよねというような話を
そんななかでしあったとか

(だめだ、そんな事くらいしか思い出せない)

那岐は言い訳をするのも得意ではないが、
そういう時に、すぐに機嫌を直させる為の言葉も、余り多くを持ち合わせていなかった。

「ううん、そうじゃなくて。」

助かった。

「今日は、ひどい雨で冷えたから。」
「………は?冷えたなら余計に乾かさないと」
「あ、そうか。よく考えたらそうだね。」
「ほんとさ、しっかりしてよ……。」

那岐は机から腰をあげて、降りた。

「でもね、那岐、寒がりだから、早く仕上げたくて。」
「何を?」

箪笥から、なるだけ大きめの手ぬぐいを引き出しながら、うしろへ短く声を張る。
吸水性の良さそうなのが見つかって、引き出しを戻して、よし、と回れ右した。

「これ。」
「これ!」

那岐と千尋は、同時にそう、言って、
そして同時に、『これ』を持った腕を伸ばした。

「あ、タオルだ、ありがとう。」

そう、那岐が持っているのはそんなものだったが。
まさに『?』というような顔で黙ってしまった那岐の前に、差し出されているもの。
千尋がこの部屋に入って来た時から、大事そうに抱えていたものだった。

「はい!あげる!」

それを那岐の胸に押し付けて、千尋は那岐からタオル―――正確にはそのような布
―――をそそくさと引いた。

クッションのように見えていたそれは、那岐の手に渡って、そうでないことを種明かす。
正方形に、丁寧に折り畳まれていたけれど、その、心もとない編み目と模様は
どう考えても既成のなにかではなかった。

「ひゃ、落ち着いたらやっぱりさむっ。」

広げて使うものだという事は明らかに解って、でも、広げられないままに、その弾力を握りしめ。

「狭井君がね、編み物くらいはたしなみとして、っていうから作ってみたんだけど、初めてにしてもひどいのー。」

那岐は、ごしごし、と雑作も無さげに髪を拭いている千尋の手を、
ひとまわり外側から包んで止めた。

「那岐にしか見せられな―――――ふ。」

そのままタオルごと胸に押し付けたから、千尋の声はくぐもってしまった。

「そんなにしたら、髪が切れるよ。」

ほそくて、きれいな色の、猫みたいな髪が、擦れて傷んでしまうのを、
黙って遠くから見ていることに耐えうるようには、
那岐は、そういうふうにはできていない。

「もぅ、ちゃんと見てくれたの?」
「まだ。」
「えー?!ちょ、一生懸命作ったんだよー!」

千尋の抗議は激しくて、那岐の胸の中で跳ねに跳ねて、
金色の毛先が、布の端から抜け出そうとしているのを、
那岐は、もう一つつよい力で止めるのにやや苦戦した。
それでもやがておとなしくなって、できるだけやんわりと、タオルを額まで巻き上げたとき
蒼と碧の瞳が、ぱちりとあった。

「……へたくそだからいらない?」
「そんなに心狭い僕なら、千尋は好きになったりした?」
「――――。」
「少なくとも、千尋が好きになるくらいには、僕はマシな男に出来てると思うよ。」

那岐の手が、タオルを一枚隔てて、千尋の項を撫でてゆく。
ひとつぶずつ、絡めとってゆくように水分が気化するのは、髪だけでなく
千尋のからだから同じように、冷たいぶぶんが蒸気になって、頬までうすい紅になる。
それを那岐は、ゆっくりと生成りの布を動かしながら、たしかめた。

「ゆっくり見てたらパサパサにしちゃうんじゃないかって、思ってさ。」
「……っ。」

耳の傍を、那岐が指先のかたちで拭ったとき、それまで辛うじて合っていた目が、
派手に瞬いて逸れていった。

「……千尋。」
「っ……じぶんで、するから。」

夜着の下で、ちょこんと揃えているはずの膝小僧が、僅かに擦り合わされたような
千尋の脚が、そんな風な動きをしたのを、那岐は一つも見逃していなかった。

「僕が、する。」
「今度はちゃんと、そっとするからぁ。」
「じっとして。」

半分涙目になっている千尋に、那岐は背を半分に折って、唇を寄せる。



「あ……」



逃げようとしていたからだが、その瞬間に、受け入れる方向に動くことを、反射という。
その唇が重なって、どういうふうにからだがざわめくか、知ったときから有効になる、
教えあったそのひととしか、しかし有効ではない、反射。



ぴたりと、ごく僅かな、ふたりぶんの細胞だけを隔てて、ひきあうあかい唇を
もっと、もっと、そばに。
何度も、濡れないところがなくなるまで、零れるまで――――

「ん……ぁ……」

甘く声を漏らした千尋の顎が、く、と角度を上げて
那岐は指先に繋ぎ止めていた、タオルいちまいぶんの力を、手放した。
そして、千尋が一生懸命つくったという、柔らかくてあったかいものも、椅子の背に滑り落とした。
未だ千尋の髪が乾ききっていないことを、十分にわかっていながらも
この指先で触れるところは、直接の肌の感触でなければ、たりない。



大事に大事に作ってくれたのを、十分にわかっていながらも
両手で触れなければ、たりない。



全然、足りないのだ。



口付けながら、直接の指先で項をかきあげて、指の腹で耳たぶを撫でると
千尋も同じように、追い掛ける。
そんなことに神経を削いで、キスを疎かにされたくはなくて
那岐は少しだけ唇を離した。

「僕はそんなとこじゃ、かんじないよ。」
「っ、ん……じゃぁ、どこ?」
「……いいからキスして。」

差し入れた舌先は、一つ、また一つ、深くなり
そのぶんだけ、からだがざわめいてゆくのが、鼓膜の奥で残響を増す、鼓動の音でわかる。


それに似た、雨音もまた鮮明で、それはいまだ一粒として、
雪に変わってはいなかったけれど


息継ぎの合間に、切迫した願いを、紡ぎたくなるほどに
那岐にも、千尋にも、残った余裕はたったそれっぽっちだった。



例えば、ふたりおなじ、抜けるように白い肌を、雪の代わりにして
いま、この瞬間を、約束の日にしちゃ、やっぱりだめかな。


「ね、千尋。」


と、那岐は、唇の露が乾かぬよう、囁くような声を使ったが、
しかし一方で強気に、
サンタクロースというものが、もし、いるならと前置いて、決めた事があった。



こんなにも、可愛い人と思うひとを目の前にしているこの、
那岐が、手を伸ばそうとも思わぬ程の、ところから



高い高いどこかから、
雨の隙間を縫うように、それを、覗いていると、前置いて。


『朝、窓を開けたとき、白い息がのぼったら
 それから初めて雪が降った日に
 僕の一番欲しかったものを、強請ることにしていい?』


――――ほんとに、降らせてくれる気なんか、ある?


本来、去年願ったことを、一年経たぬうちに、あっさり反故にされたのは那岐の方だった。
『間違っても、不確かな境目の向こうへと、手放すことがないように』
と、那岐は確かにこころから、願ったはずだ。



――――だけど、ちゃんと返したじゃないかって、憤慨して、余りに見るに耐えないなら、
    その視界を、 雨じゃなくていますぐ雪に、変えるといいよ――――



「千尋。」
「ね、那岐ぃ。」
「ん……?」
「あの、ね。いま――――」

言いかけた言葉を、那岐は指先で止めた。
自分で濡らしたもので、指の腹がしっとり湿る。

「僕が言うから。」
「え……」
「大丈夫だよ。多分、言いたいことおんなじだから。」

那岐は、こくんと頷いた千尋の手を引いて腰をあげさせて、
千尋は、ちょっと待って、と、那岐が椅子の足元に落とした、未だ畳んだままのものを拾い上げた。
手を繋いで歩くついでに、あいた方の手で、部屋を明るくする為のものは全て消してしまって、
最後に窓辺の、ろうそくの前まで来て、吹き消そうとする那岐を千尋が止めた。

「那岐、こっちもって。」

持たされたのは編み物の、端っこの四角い感触だった。
千尋はもう一つの端を持って、ぱっと離れ。どんどんとむこうへ、離れてゆくあいだに、
幾重にもたたまれていた襞がそれぞれに皺を伸ばし、ひんやりと、一段冷たい窓辺の空気が、
ひらり、舞い上がったところで、ぴん、と張った。

「ね、寒がりだから、二人で入れるように、大きいのにしたんだよ。」
「……がんばりすぎ。」
「だってクリスマスプレゼントだもん。」
「――――いいかもね。」



君が、プレゼント、って言うんだから、今日がきっと、そうなんだ。



那岐の記憶の限りでは、 決して器用とは言えない千尋が、初めて手編みの、
たぶん、毛布のつもりで作ったもので、ふたりごと、ごっそり包んで、隠されて。
三角に折った膝の間に千尋を引いて、那岐は声を顰めた。

「さっきの続きだけど。」
「ん。」

もう、さほど待てないので、なるだけ端的に、短く言葉にした。

「いま、抱かせて。」
「抱く、というのは、そういうこと?」
「そうだよ。」
「っ……。」
「千尋は違うこと考えてたって?」
「……いっしょ。」



ただ、いま。まさにいま。



ふたりしがみつくように抱き合って、鼓動を感染しあって
少しずつ、那岐の手が、意志を持って動いてゆく。
それは結果的に、一度も触れたことのないところばかりになる。
そんなところを触れるのを、千尋がどう、思っているか、珍しく気になって、
不安にさせる前に言っておこうと思った。


「好きだよ。」


千尋の、身体いっぱいに張り詰めていたちからがやや弛んで、
裾が少しだけ広がった、ワンピースのような白い夜着。
それを千尋がかわいいと言って気に入っているのを、何度も聞いた。



その裾に、手を入れて乱すなんて、少し申し訳ない。



那岐は確かに、そう、一瞬だけは考えた。
それは、ほんとうのことだ。



けれど、すとんと、胸まで何の支障もないかたちの夜着は
まるで誘われているような気がして、脱がすより先に触れることを急いた。
滑らかな腰の窪みから、上に、上に、撫でてゆく手は
その速度は決して緩やかでなかった。

「や……も、那岐っ!」

千尋があからさまに苦言するほど、前触れも何もなく、その手のひらで、まるい膨らみをやわにおしつぶした。

「はぁ……」

その瞬間、堪えていた溜め息と一緒に、かくん、と首を折ってしまったのは那岐の方だった。
だからといって胸から手を離す訳でなく、むしろしっかり、包みなおした。

「ど、どしたの?」
「いや……なんていうかほんと……けっこうあると思って。」
「も、もぅ……。」

背中で、コート越しにしか、知らなかったまるいものを
白い生地の下、確かにさし入れたこの手で、触れているのだと、思うだけで、
殆どはち切れそうな那岐である。
が、この難関を、果敢に越えていかなくては、欲しいものは手に入らない。
那岐は、もう一度だけと決めて、大きく息をついた。
そして、手のひら全部で包んでいた胸の、多分、ここだと思う一点に、人差し指の先でふれた。

「っん……!」

柔らかだったそこは、僅かに指先を動かすだけで、すぐに芯をもって、小さな、硬い弾力に変わる。

「どんなふうになってるの?」
「や……見ちゃやだ。」
「やだっていわれると、余計に苛めたくなるんだけど。」

那岐が、裾をめくり上げて、露にしようとする方の手を、
千尋は握り込んで止めようとしたが、胸の先で染まってゆく粒を、
二つの指でころがされると、すぐにその力は緩んだ。

「……あっ、んっ、や……だったら……」
「ほら、そういう声出すのも。」

那岐が難関だと気負ったことは、こんなにも、簡単なことになってしまった。
白く浮き上がる、何にも邪魔されない千尋の肌が、既に那岐の目の前にある。
指先に力を入れると、したままのかたちに窪んで、やわに押し返してくる、すべすべの胸も
その真ん中で、つんと立ち上がっているものも、裸にしても、ちゃんと括れている腰も


全部がきれい過ぎた。


その全てから、一度も目を逸らさずに、那岐は、千尋の首からすっぽりと、夜着を通して抜ききった。

「可愛い。」
「―――――ん……え?」
「何でかわかんないけど、なんかいま、すっごい千尋が可愛い。」
「那岐……?」
「それしか言いたくない。」

言った通り、ほんとうに、それ以外に何も考えることができなくて、
那岐は、やや乱暴な手つきで千尋を押し倒す。
二人で隠れた不揃いの編み模様が、千尋の背中で波間になった。





■後編