ところどころ、色合いの違う、古ぼけた屋根瓦が見えて来て
那岐は、少しずつ緩く、ブレーキを掛け。


完全に止まりきる前にひらり、あおい自転車を降りた。


そのまま少し押して歩いて、家を囲むブロック塀を入ったところに、立てかけて鍵を外した。
短い石畳をひとつずつ、歩く那岐の指先で、
くるくると、キーホルダーが回っていた。


空は既に夕焼けを通り過ぎ、山の端まで群青の層が出来ている。

「………こんなときに。」

思ったより手こずった、と思っていた。


正確にはこの日、ここで自転車を降りたのは二度目だった。
だから、ヒラリなんて軽く、羽みたいにして、降りることができた。
後ろに誰も、もう乗せてはいなかったし、
カゴの中身は既に預けたし、今頃はちゃんとカレーになっているはずであり、
かすかに漂って来る香りからも、それは明らかだった。


玄関の引き戸を、なるだけ音を立てないようにして開けた。
それは、少なからず後ろめたかったからである。




チャリンコ日和。
■後編■    






抜けるような青空の下、前と後ろに重い荷物を載せて
――――そのうち一つには、間違っても重いだなんて言えなかったが
河川敷の舗道を、家に向って走っていた。


キノコのカレーを作る、と宣言した千尋の腕が、腰にきつく巻き付いてしまったから、
飛び出しそうになっている動悸を、巧く隠せたかどうか、微妙なところだった。
『それはいい』、と同調して、
次にペダルを踏み込む時、二人から同時に、同じ歌が突いて出た。

「きのこーのっこーのこげんきのこっ♪って、キノコ売り場でずっと聴いてたら離れないの。」

無論、実際口に出して歌ったのは千尋だけで、
那岐は脳裏に浮かべただけだったが、
そのタイミングが正に同じだったので、なんだかくすぐったいみたいな気持ちになって
それまでよりも一層に、背中に当たる胸の感触を意識した。

(なんだ、わりとあるんじゃないか。)

那岐の名誉のために断わると、
彼にとって千尋の胸が、あるか、ないか、ということは
彼が彼女をひとよりも、というか、だれよりも、
可愛いと思う気持ちのうちの、特に数に入れるべきものではなかった。


ただ、初めて、視覚でなく触覚で、確かに知ったということが
大事だったのだ。


クリスマスとか、誕生日とか、そういうイベントじみたものに対して
確かに疎んじていた那岐ではあったが
もしかしたら今日、この日、これをきっかけにして何かが



――――なにかを



始められるとしたら、それはそれで悪くないのかも、
そんな、少しだけ邪な気持ちで、からからと車輪を進めた。

「ま、その罰だと思えばわからなくもないけど。」

こそばゆかった正午の空は、いまは既に、空の四半も、西へ沈んだあとだ。

『むこう』から紛れ込んでくる、禍つものの気配を感じたのは、
キノコカレーのための、野菜を切るのと味付けの係は千尋だとか、
洗いものと生ゴミを捨てにいくのは那岐だとか、
着々と、午後の予定が決まりかけていた頃の、ことだった。

少なからず、胸躍る会話を切るのは、那岐にしても簡単なことではない。
だが、風早は忘年会だかなんだかだと聞いていたし、とても彼に出番を請うわけにもいかなかった。

「でね、夜になったら、サンタさんっていう人に宛てて、欲しいものリストを書いたり、寝る前にこっそり枕元に――――」
「千尋。」
「ん?」
「ちょっと、用事思い出した。」
「あ、何か買い忘れたんだっけ?」
「そうじゃなくて………ごめん。」



大事な用なんだ――――



そう言った。
ほとんど、千切れそうな心で、そう言葉にした。
家の前まで千尋を送って、重い袋を手渡して、
もういちど、ごめんと小さく謝った。

「大丈夫大丈夫!自転車使っていいから、その代わり、早く帰って来てね。」
「………楽しみにしてる。」
「よぅーし!頑張っちゃうからきっとびっくりするよー。」
「うん、びっくりさせて。」

じゃあね、と漕ぎ出したら、暖まっていた背中が急に凍えた。


(大事な用、ね。)


たったいま、手放した声よりも、
これ以上、大事な用なんて、どこにあるというのだろう。


少なくとも今日はクリスマスイブで、
普通は好きな子と過ごすのに、大手を振っていい日であるはずで。
しかし大手を振るほどの心意気に達していない那岐としての、
小さな偶然をかき集めて、つくりあげたはずの午後だった。


学校帰りに、スーパーマーケットの前で足を止めたのも
その自転車小屋にあおい自転車を見つけたのも
その自転車に鍵がついたままだったのも


ありふれた偶然のうちの、みっつにすぎなかった。


「ほんと、暢気者にはかなわない。」

呆れ心半分、可愛さ半分、そんな気持ちで鍵を抜いた。

店の中に入って、最初はそのままスーパーの中を探そうと思っていた。
が、恐らく今日は、千尋は大荷物になって出て来るはずで、
うっかり行き違いになって、歩いて帰らせることになるのは避けたかった。
家族連れやカップルがしきりと行き交う出入り口で、
だから一人突っ立って待っていたが、それが相当な場違いだということに気付いた頃、
追い打ちのように、呼び込みに引っかかって思わぬ出費をして、
これ以上他の何かに引っ掛けられても、財布の中身がついていかないという事もあり

那岐は大人しく自転車小屋で待つ事にした。
ここなら千尋を見逃す事もないし、予定外の出費もしない。


そうやって、巧く千尋を掴まえることができた帰り道なのだった。
ちょっとインチキだけど、二人きりのクリスマスイブが手に入ったと思ったのに


これから、というときになって邪魔が入る。


相対したものはほんの小物で
いくつか鈴なりになって来たけれど、篭手技でどうにでもできるくらいの
荒魂とも言えないくらいのバカバカしいものだった。



―――――何処かに、まちがいなく、あるものは



こんなにバカバカしい、ちっぽけなものが
うっかり忍び込んで来れるくらいの



不確かに過ぎる境目―――――



例えば、どれほどの力で、つかまっていてと願っても
胸をしっかり背中につけて、抱きしめていてくれても



ひとまき、ふたまきと手繰り寄せてゆこうとする、
それはあからさまなちから。
あからさまな貪欲さで渦を巻いた、気が遠くなるほど遠い道が



何処かから、繋がっているのだと



ほんの目の先に見えるような気がした。
だから余計に腹だたしかった。


いま、この細い腕で、出来る全ての力で
集められる限りの、この鬼道で


「―――――きみの為に、終わらない魔法が、かかるなら」


いくらでもばら撒いてあげるよ


既にピクとも動かなくなっている残骸に、幾度も術を放って
完全に透明になって、砂のように気化してしまうまでつきあっていたら
帰り道は夕焼けになっていた。


あおい自転車を、脚がもげるくらいに漕いだ。
軽くて真っ直ぐな金色の髪は、瞬く間に風に浮いて
額が全開になるのは似合わないのだけれど、そんな事はもうどうでもよかった。


あかいあかい陽の光に、黒眼が灼けてしまいそうに、眩しくて
しかめ面を作っても、まだまだ眩しかった。




◇◇◇



那岐は、悪い事をしたときのような抜き足で、廊下を進む。
突き当たりのダイニングのドアを、そっと開けたら
千尋は机に突っ伏せて寝入っていた。
ほっとしたような、拍子抜けのような、そのどちらもである気持ちで
腫れ上がっていそうに重い足を、その傍まで進めた。
上下する肩に、手を伸ばそうとして引っ込める。

甘い匂いが感染りそうな気がした。

「どんな夢見てるの。」

手のひらの代わりに声だけで、ふわり上下する肩を越えたのに
それは、あからさまに誤りだった。

項にかかる、色素の薄い後れ毛を、唇でくすぐってしまいたい衝動を
那岐はほんの、一瞬にして、抱えてしまった。
そう、うしろでリボンにしたエプロンのひもに、手を掛けて、ほどいて
あったかくこの背に押し付けられた、小さな胸の膨らみを
いっぱいに、抱きしめたい。



そうすれば、ずっと
ここで、二人で、いられるのかな



長い睫毛が閉じた先の、緩く合わされた唇に、自分の唇を近づけてゆく事に
自制の効かない那岐がいた。


そして、殆ど、紙一枚の距離まで近づけて
千尋の呼吸が、頬の上で湿度になったとき
瞳の端でそれを見た。


折った肘の中に隠すようにしてそれはあり
だから、このように、邪な気持ちを起こさなければ、
那岐が知る事はなかったはずのものだった。

とても読み辛い、女の子の文字が並んでいた。
『欲しいものリスト』と大きく書いたその下に、
ぐるぐる、と幾重にもした曲線で潰された文字があった。


しかし、言ったように那岐が知るはずはなかったリストだから
その潰し方は甘かった。
だから、ふたつのひらがなが、ちゃんと解読出来るだけの周到さで
那岐の脳まで届いたのだ。



『なぎ』



ボールペンでぐちゃぐちゃにしたその下で
はっきりと、ひとつ、かかれていた。

「―――――っ。」

思わず大きく息をのみこんだ。

「………ん……?」
「っ!」
「……なぎ?」

薄らと開いた青い目に、この距離を、どう言い訳すればいいのだろうか。



――――――そんな方法は、きっと、ない。



ここまで近づけたのは那岐の意思で
このリストを書いたのは千尋の意思で
それを那岐が見てしまったのは、ただの事故だったとしても


いま、キスする事を躊躇うような理由は、きっとひとつも、ないはずだ


「何の用事だったの?」
「それよりさ」
「私には、言えない事?」
「それより―――――」

那岐は、ひとつ強めた語気で千尋の言葉尻を切った。

「千尋に、キスしようと思ってた。」
「―――――うそ。」
「嘘のはずないだろ。」
「うそ……。」

漸くその、鼻先の、不自然な近さを理解したか、千尋は背中を最大限に反らし、
それからはっとしたみたいにして、腕の下のリストを取り上げて、手のひらに隠した。
それを、同じ早さで追い掛けて、那岐は上から握り込む。

「嘘じゃ、ないんだって。」

目線を強くして覗き込むと、千尋の目が震えた。
二度、長い睫毛が瞬く間に、那岐の視線は口許を捉えてゆく。

「これ、何?」

ぎゅ、と手に力を込めて、わかりきっている事を訊いた。

「ま、まだ書いてないっ。」
「ほんとに貰えるんなら、僕も今夜書こうかな。」

欲張りかもしれなかった。
クリスマスプレゼントにしては、分に過ぎた願いなのかもしれなかった。


だが、那岐は。


もしも、ほんとうに、サンタクロースというものがいるとして
少しでも、後ろ髪の先にでも、この指先が届くなら―――――


来年の今頃も
千尋がここで、キノコのカレーでも作って
傍らの空気を温くして、笑ってくれていることを、一番に願う。


間違っても、何処か、遠いところへ
不確かな境目の向こうへと、手放すことがないように
あおい瞳が、曇ることがないようにと。



僕は、そのためなら、どんな欲張りにだってなるよ



「……那岐は、なんて書くの?」
「僕が一番欲しいものって書く。」
「一番欲しいものって?」
「キスしてくれたら言ってもいいよ。」
「―――――えぇ……っ!?」

そう、千尋が高い声を使った矢先、
タイヤがぎゅん、と砂を踏んで、門口に止まった。
那岐は握る手を更に固くする。

「だ、代行っ。」
「そんなの関係ないよ。」
「ダメだよっ、か、帰って来るよ!」
「千尋。返事は?」
「〜〜〜〜っ!」

玄関先でくどくどと礼を述べる、微かな声と、小銭の音。
明らかに上機嫌に酔っぱらっているらしい、風早の声だった。
多少酒が入って、縺れる足で靴を脱いで、ここまでやって来るまでに
どれくらいの猶予があるのか


那岐は、反射的に身を捩ろうとする千尋の身体を
つよくつよく引き寄せた。


そんな事は、考える暇もないと思った、
それが一番正しい。


「ねえどうなの。」
「……っ、したらほんっとに言ってくれる?」
「風早が入って来るまでに、だからね。」
「じゃぁ、し、しよう、かな。」
「心配ならゆびきりする?」
「……うん。」

指切りするには小指を立てねばならない事を知っていた。
しかし、千尋の指は、全て那岐の手のひらの中にある事も、知っていた。
那岐はその手を、緩める素振りは一つも見せずに
千尋にしても、それを期待した訳ではない。


耳がウサギのように、長く長くなるくらいに
もうすぐに、からから、と軋むはずの引き戸の音にそばだてながら

二つの唇は、確かな意思で近づいた。

「約束ね。」

吐息でそう動かした、小さな唇が、静かに静かに重なった。
初めてのキスは、2方向への動悸に支配された、余りに危なげなものだった。


だからといって、これだけは
おざなりにしたくないもので


那岐は、もう離れようとする素振りを見せる、千尋の甘い輪郭を
確かめるようなちからでもって、含み直す。


『キスをするなら絶対に、千尋とする』と
いったいいつからだったろう、那岐はそう、決めていた。


それが、千尋にとってもそうなのだと、信じるというよりは無理くりに、
見るもの全部が薄紅にぼやけた、その弾力を、やわに潰してゆきながら、
那岐は頭のなかで、ぐちゃぐちゃになった千尋の筆跡を巡らせる。
ドアが開くまで、ギリギリまでそうしているつもりで
腰のリボンの上から、手を回して引き寄せた。

「ん……」
「まだ。」
「―――――っ」


浅い息は、きっと快感とかではなくて
千尋が身体いっぱいで焦っている事の証拠でしかない。
それを、わかっていながら離せなかった。



来年の今頃も、なんて願ったけど
そのときまで、ここでこうしていられるという、保証ができでもしたのなら
いくらでも解放してあげるんだけど



残念ながら、君には言えない事の所為で
僕はいっぱいいっぱいなんだ


たとえ、今日がクリスマスイブであったとしても
僕と君との間には、ままならぬ不確かな道が、確かに横たわっている。


だから、今、この唇で手にした魔法が
有効であるのは、そう、ほんとうに



いまだけなんだ―――――



だから、もう、あと、1秒だけ
いや、その半分だけ



僕の唇を、知っていて。



ただいまぁ〜、と、やけに明るい声を、扉の向こうに聞いて
瞬間千尋は離れた。
那岐にとっては、いっそ清々しいほどの機敏さだった。

「っは、……っ、ね、したよ。言って、欲しいもの。」
「千尋は?」
「え……そんなのずるい!」

千尋はあからさまに苦い顔をした。

「僕は一度も、いま言うとは、言わなかったよ。」
「―――――わ。そう、だったか。そうきたか。」

那岐は、聞いて、と小さく声にして
千尋の頬に手のひらをかぶせた。

「いま、言えないぶんは――――」

もし、このさき、なにが、あったとしても。



変わらず君が、そばにいたら



君を、この手で、守れたら



「そのときに、ちゃんと、伝えるよ。」
「……そのときって?」
「あんまり長く、ならないといいけどね。」
「んー、じゃぁ、来年!」
「……来年、ね。」


ちくりとした胸の痛みは、予感だったろうか。
君は、その資質でもって、何かを感じていたんだろうか―――――


「じゃぁ、来年までに、私も一番欲しいものを、こんどはちゃんと、書くね。」

と、ふわん、と撓む唇に、
もう一度、那岐は触れたくて止まなかったが
無情にもときは流れている。


ダイニングの扉は開き、新しい空気が流れ込んだ。


その時までに、那岐と千尋は、コンロに並んで立っていた。
那岐は鍋をとろ火にかけて、お玉を千尋に手渡した。

「顔、赤いんじゃない?」
「那岐のほうが赤いよ。」
「……まだリップの味がするんだよ。」
「じゃぁ、こっちを味見してくださいっ!びっくりするよ〜、とってもいいダシだよ〜!」

キノコのカレーのスパイスに、なったかどうだか知れないが、
顰めた声はとろとろと、溶けてみえなくなってゆく。







■次話へ





長かった現代編……おつきあい下さった方にはほんとうに、大変お疲れさまでした、平謝……><

時空跳躍までに那岐と千尋にやっててほしいこととして、個人的にキスまでは全然推奨したいクチです。
まだ那岐×千尋とは言えない段階だと思うけれど、お互いの気持ちは決まってるとしたら、む、我慢はよくない(言い切った)
しかしこの続きは豊葦原まで持ってって下さいという感じで、あれ、これだと那岐生殺し推奨ってことか;;

次でようやく完結です。イブまでにぜったいに幸せにしたい……ッ!
ちゃんとRがついてしかるべしな感じのにできるといいな!
こんどこそ那岐をかっこよくできたらいいな!(…)
全ては希望でありますが、頑張ります。


2008.12.13 ロココ千代田 拝