12月24日の、クリスマスイブの日に
サンタクロースに宛てて、欲しいものリストを作って
枕元に置いて眠ると
次の朝、それが届くんだって。
小さい子供はその話を、ちゃんと信じて手紙を書くんだって。
でも、私はそういう事を、した覚えがない。
ひょっとしたらその他にも、私は色々と忘れてるんじゃないかって
最近少しずつだけど、そういう気がすることがあるの。
そういうときは、少し、怖くて
そうじゃない、そうじゃないって打ち消してくれる、
確かなものに触れたくなる。
きゅう、と誰かに抱きしめてもらいたくなる。
それなのに
こんなときに、あなたがいない。
だから、今年、初めて私は
サンタクロースに手紙を書くことに決めた。
スーパーマーケットの、中心部の列のうちのひとつで、
ひとしきり座り込んで、じーっと棚を眺めていた千尋が
「よし、これだ。」
そのうちの一つに狙いを定め、小さい方の箱をつかんで立ち上がった。
「―――きゃ!」
途端、短く声を上げたのは、後方から来た子供の頭とぶつかって、腰にどん、と鈍い衝撃が来たからだ。
ごめんね、というのを聞いているのかいないのか、子供はにこっと笑って走り去る。
そのすぐあとで、もう一人が脇をすり抜けていった。
「―――っ!ほんとに、あぶないから………って聞いてないか。」
このように、余り広いとはいえない通路にまで、いつの間にか人の波が溢れ返っていた。
子供の姿が目立つのは、いつもの買い物時間とは大幅にずれているからなのか、慣れた店とはいえ少し不安である。
「ちーひーろっ!」
「ん?」
明らかに知っている声で呼ばれて、俄に元気づく心。
人というのは案外単純に出来ていると思う。
同じクラスの友達が、早くも着替えて――――それも、かなりおしゃれな方向で
ニヤニヤ笑っていた。
その隣で、どこかのクラスの男子だろうか、ペコリと無言で頭を下げる。
「なーんだ、やっぱり一緒なんじゃん。」
「え?」
『やっぱり一緒』と表現されそうな相手に見当がない訳ではなかったが、取り敢えず360度圏内に見えない事は確かである。
一緒に来た覚えもまた、なかった。
視線をそぞろにしていると、友達は更にニヤついて続ける。
「さーっきチラッと見たんだよ、那岐くん。」
「えっ、い、いた?」
「いたもなにも。こんなとこで一人で突っ立ってる方が目立つのにね〜わかってないよねあの子。」
友達は連れの男子とウンウンと大袈裟に頷き合っていた。
「あは……まぁそれが那岐っていうか何ていうか。」
「ま、一人な訳ないと思ったんだ、ウン。」
「へ?」
「べっつに〜、今夜こそくっつくのかなぁ、なんてね。これでも応援してる訳よ。」
「………もう、そんな訳ないでしょ。私は夕飯当番の買い物に来ただけだし、那岐は那岐で、何か用事でもあるんだよ。」
「何言ってんの、今日はクリスマスイブでしょー!あーゆータイプはこっちから強引に行っちゃえば、どさくさにまぎれてくっつけるかもよ?」
クリスマスイブ、と改めて聞いて、そうか、それでこんなに家族連れが多いんだ、と、千尋は漸く理解した。
今年はイブと二学期の終業式が重なった。
千尋としても、それを忘れていた訳ではないのだが、意識的に考えないようにしていたフシがある。
正にいま、友達に言われたような事が理由だった。
いままでと、少し違う気持ちで迎える12月24日なのである。
「………那岐とはそういうんじゃないんだってばぁ。」
「しつこく否定するか。あのねぇ、一緒に住んでるとかさ、喉から手が出るほど欲しいんだよ、そのシチュエーション。」
「まぁ、シチュエーションだけなら自信あるけど……。」
千尋は力なく項垂れる。
カゴに入れそびれている、小さいサイズのカレールーの箱が頼りなく、軽い。
「あーあ、もう千尋ってば本気なの?そのメニュー。」
「………だって。」
「ま、那岐くんがそれでいいんならアレだけど。出口んとこの自販機前にいたから、とっとと回収してあげなさい。っじゃ〜ねぇ〜!」
友達は派手に肩をひとたたきして、連れの男子はまた無言でぺこりと頭を下げて、腕を組んだふたりは人混みの中へ小さくなって行った。
「だって、気合い入れ過ぎって、言われそうなんだもん。」
自販機前にいるという、今夜のメニューの駆け引きの原因となっているひとが、
得意とする呆れた表情を思い浮かべた。
誕生日とか、クリスマスとか、そういう記念日的なものを
那岐が殊更に嫌がるようになったのは、高校に上がる少し前くらいからだった。
だからこの1年ほど、葦原家で大掛かりなイベントはしていない。
同じ頃、那岐は千尋の身長を追い抜いた。
小さい小さいってからかっては遊ぶ事が、当然ながらその頃から出来なくなり、
本当はもっと前からそうだったのかもしれないが、
ある朝洗面所で、並んで歯を磨いている鏡のなかみに違和感を感じたのが
それくらいの時期だったのである。
「あれ、那岐、背伸びた?」
「伸びたんじゃない?」
「うっそ、いつのまに!」
「………知らないよ。」
「知らないよって」
「コップとって。」
「あぁ……はい。」
「どーも。」
泡いっぱいの中でしたもごもごの会話は、意図的に切られたのだと、
何となく今ならわかる。
今ではもう、10センチくらい高くなった肩と、同じ鏡に映る時に、
少なくとも何かを演技しないといけないくらいには、
那岐の事を、意識しなければならなくなっている。
なんでもない。
那岐は、那岐――――
好きとかじゃ、ないんだから。
そう言い聞かせないと、今までのようには一緒に、いられない気がしていた。
これからも、ずっとこの家で、一緒に暮らしていくのだから。
今年のクリスマスパーティは、そういう訳で意図的に、縮小の方向で考えていた。
プレゼントも用意していなかったし、ケーキの注文も見送った。
風早も同じように思っているのか、
終業式が終わって、ホームルームも終わって、
さぁ帰ろう、というタイミングで千尋を呼び止めて
「今日、忘年会があるらしいんです。ちょっと、行ってこようかなと思ってるんですけど。」
とか言った。
これはイコール、クリスマスパーティーはしないよね?ということなのだろうな、と、千尋は理解した。
「お酒飲んだらちゃんと代行呼んでね。」
「あは、そうします。ありがとう。」
ああ、なんてわたしたちは、こんなにもきゅうに、大人になっていくんだろう。
言葉にしなくても、先を先を、巡らせて
言葉を選んで、よみとって。
そのぶん、お腹の奥の方に、ぎゅうっと押し固められていくものが
どんどん膨らんでいく気がする。
言葉にできないなら、それが、あふれるときに
どうやって伝えたらいいのだろう。
どのようにうまく、蓋をすればいいのだろう。
「ねぇ、那岐。」
千尋は生鮮売り場の、キノコの歌の流れるところで、
それを何巡か聞いてから、そっと腕を伸ばして、
特売のエリンギと、特売でないブラウンマッシュルームを籠に入れた。
「たぶん、カレーに合うキノコだと思うの。」
気合い入れ過ぎに見えないように、クリスマスプレゼントを紛れ込ませるには
千尋にとってこれ以上、選択肢がなかった。
混み混みのレジをやっと抜けて、
思ったより膨れてしまったレジ袋に、顔を顰めつつ歩く。
出口の自販機前まで歩く間に、本当はリップクリームくらい塗り直したかった。
それくらい、ドキドキ胸を鳴らしながら来たというのに
そこに、那岐はいなかった。
「なっ………なによ!ぜ、ぜんぜんいないじゃないっ!」
待ち合わせた訳じゃない。
まず、待っていたかどうかも怪しいくらいだ。
千尋は先程友達に、自分で言ったはずだった。
『那岐は那岐で、何か用事でもあったんだよ』
それなのに、どうしてこれほどにも腹立たしい。
勝手に期待して、待っててくれると期待して、
何でこんなに私ばっかり
那岐の事を、考えるの?
う、と下腹に力が入り、袋は突如軽くなり、ずんずん歩幅を増して歩く。
サンタの衣装でクリスマスケーキの特売を呼び込むのにも、見えない振りをして自動ドアを擦り抜けた。
「こんなことなら買わなきゃよかった!」
那岐がいやがるから、
せめての選択でキノコのカレーにした。
那岐がいやがるから、
シャンメリーではなくコカコーラゼロの2リットルボトルにした。
やっぱり那岐がいやがるから、
チキンのあしを焼いた先に飾りのついたのではなくおつまみみたいな唐揚げにした。
上手い具合に、那岐がいやがるケーキなんか、入る余裕がなくなるくらい
いつの間にかカゴの中身はいっぱいいっぱいになったから
自転車で来て正解だったと思ったのに
「ぜんぶ、ぜんぶ却下!」
勢い言い放ったときには、おおきな駐車場を渡って、
舗道の際の自転車置き場まで来ていた。
「………。」
ぐ、と袋の重みが甦って来たのは、立ち止まったからではなかった。
色とりどりの自転車の中で一際目立つ、千尋のあおい自転車に、
跨がる人がいたからだ。
学校帰りらしい、指定のコートと制服で
まるで椅子に腰掛けるみたいに、
靴の裏をぺったんと地面につけて、膝を曲げて、
前のカゴにだらんと凭れるみたいにして
そのひとは携帯をひらいては閉じてはしていた。
「何よ!」
その、きれいな金色の後ろ髪に向かって、勢いのまま声にしたら、
さすがにそのひとはびっくりしたみたいに振り向いた。
「何よって、待ってたんだけど。」
「それ私の自転車!」
「………知ってるけど?」
「何で那岐が乗ってるの!」
「何怒ってるの。」
「だってっ―――――!」
言いかけて、詰まる。
『待ってた』と彼がいう以上、それに突っ込む事は出来なかったし、
それ以上にムカムカしている理由は、寧ろ千尋の勝手であり
口に出して伝えてしまったら、こっそり祝おうとしていた意味がない。
きり、と睨み上げる他になく、黙ってしまった千尋に、
那岐は喉の奥で少し笑った。
「笑わないで。」
「ま、怒るのは勝手だけどさ。」
那岐は携帯をポケットに仕舞ってから、その腕を千尋に向かって伸ばした。
「これ。」
「なによ。」
「鍵。」
「へ!?」
きれいな爪をつけた指先に、ぷらんとぶら下がっているドナルドのキーホルダーは、
よく見なくとも確かに千尋のものだった。
「チャリの。ついたままだったんだよ。」
「あ………そ、そう。」
顔から火が出そうなのは、最早怒りの為ではない。
手のひらで受け取ったキーホルダーは、人肌に暖まっていた。
言うまでもなく、これは那岐の温度だ、と、そう意識して、
小さなその重みが、手の中で確かに色づいた。
「なんか大荷物みたいだけど、乗れるの?」
「………乗れる。」
「途中の坂で絶対転ぶよ。」
「ころばない。」
「へー、大した自信。」
覗き込むように、いまだ跨がったままの那岐の顔が、一つ近づいて、
どき、と胸が鳴った。
「鍵かして。」
千尋は反射のように、言われた通りにするしかなかった。
本当は、受け取ったばかりで何故、と言いたかったが、
僅かに見上げられる視線は慣れなくて、浅く込み上げる呼吸がかかってしまいそうで、
せめて那岐の温度のする、この小さな重みから、自由になりたかった。
「僕が乗る。」
「え?」
那岐が後輪を跨いで腰を屈めて、きゅ、きゅ、とサドルを高くして、
差し込んだ鍵が、カチャン、と音をさせるまでを
長く長く感じた。
「千尋がこのまま意地はって、これに乗って帰るって言うなら、僕がこの荷物を持って歩いて帰る羽目になるだろ?」
「どうし」
「こんなの前のかごに乗せて走られたら、僕の心臓が保たない。」
「………ん?」
「それに、そんなの持って歩くとか、僕だってあんまり歓迎したくない。だから、僕が乗る。」
言われている事は尤もだった。
千尋がこれを乗せて帰れないくらいの運動神経だと、どうにも思われているのなら、
これ以上抵抗するのは無意味だと思われ。
袋の重みは、さっきからひしひしと指に食い込んで来ていたし、
持って帰ってくれると言うなら、手ぶらで歩くだけですむのだし。
と、大きな袋を那岐に渡した。
「………わかった。じゃぁあとでね。」
「千尋はうしろ。」
「――――んん?」
「持ってて欲しいものがあるんだ。」
那岐が顎で示した先は、自転車の前カゴだった。
覗き込んで、息が止まった。
小さな白い箱は、明らかにケーキが入っているということがわかる形のものだった。
「こ………これっ!?」
「早くとってくれないと、これが置けないんだけど。」
苦言する割に、今にも笑い出しそうな顔をして、那岐は大きな袋を片手で揺らした。
「そ、そだよね、ごめんなさいっ……。」
「はいはい、そやって大人しく、抱えて乗ってて。」
「……はい。」
ひざっこぞうよりも少し上の、スカートのプリーツの狭間に
ちょこんと箱を乗せて、片手を那岐の腰に回したときの、
千尋の心の中身は、とても那岐には知られたくないものだった。
(どうつかまればいいんだろう……)
けれども、走り出すときの自転車のうしろは、思うよりも不安定で
千尋はひぃと小さな声を上げて、頬を那岐の背中につけた。
「そ。そのままぎゅってすればいいよ。」
「ぎゅ……ってそんなの……っ!」
は、はずかしいよ、と
呟くくらいの声にしたのに、背中できっちりくっついている所為で
那岐に筒抜けだったのは大きな計算違いだった。
「何で?別に僕なんだからいいじゃないか。」
「そ、そうだけど、そう……だけど。」
那岐だから、なのに。
今度は声にしないで、心の中で止めた。
顔が見えない分、前を向いてぐんぐん走る分、那岐の声はいつもより大きくて、明確で
そんなふうに、意識してないみたいな言葉を
はっきりと音韻にして風に乗せるから
まっすぐ、痛いくらいにしみ込んでくるっていう事を
知らないんだ、このひとは。
だから、もうひとつ、かけるべき力が入らない。
那岐のお臍の辺り、と千尋は意識していたが、
腕はしっかり回しても、指先がその辺りで浮いたままなのだ。
「でもケーキも抱いてないといけないし……」
信号待ちなのか、自転車がキュ、と止まった。
那岐の背中が僅かに動いて、腰が捻られる。
ん、と顔を上げたら、碧の目がしっかり合った。
「――――っ、な、なにっ!?」
このひとを、いま、私は抱きしめているんだ――――
「よく解ってないみたいだから言うけど。」
「は、はい。」
「例えばこの先の坂道で、僕がハンドル操作を誤りでもするとして。」
「うん。」
「ケーキはいくらでも代わりがあるの。」
「………。」
信号は再び青になり、那岐はもう一度、前を向く。
「だから、しっかりつかまってなよ。」
そう、多分真顔で言ったと思われるトーンに、千尋は今度こそ、
指先までちゃんと力を込めて
身体を少し前に捻って、ぴたり、と、頬と胸とを背中につけると、
ぐん、と景色が早くなる。
那岐が心配した坂道は、何の事もなくぐんぐん下った。
髪と髪とがばさばさと、絡まって風に吹かれていった。
12月も終わりの、冷たいはずの空気が、少しもそうではなく。
いつもならこのへんで、そろそろ耳が痛くなって来る頃合いなのに、
少しもそうはならずに。
小さなキーホルダーを温めていた体温を、いま、この手でしっかり掴まえているんだという
ただ、それだけのことに
ねぇ、もうすぐに、蕾が膨らみそうだよ
春まで待てない薄紅の
想いが、ひらきそうだよ
合わせた胸が、微かに響いた気がした。
「ん?那岐、なにか言った?」
坂道を下って、加速のついた中で、那岐の声量をとり零さないようにするのは
案外大変なことだった。
だから、もう少しだけ身体をくっつけて、
顔を上げたら鼻の頭に、まっすぐの毛先が滑っていった。
「鈍感って。」
「何が?」
「別に。いいからしばらくそのままにしといて。」
「……ふぅん。」
それから、家までの道を、那岐が漕ぐ自転車は少し遠回りした。
その間に、他愛ない話をたくさんした。
河原の、冷たそうな水の匂いも
枯れた芝生の色も、
それからそこをゆくふたりも、
なによりも
上から包み込む、ひかりの色が違う気がした。
「ケーキとかよく買ったよね。」
「呼び込み断われなかっただけ。そんなに金持ってなかったから、まるいのじゃなくて、ちっちゃいの三つなんだ、それ。」
「そういうの、那岐だね〜。」
「………うるさいよ。千尋こそこんなに買ってさ。」
「ふふ、パーティとか、しちゃおっかなぁー。」
「冗談だろ……。」
「さぁ、どうでしょう?」
「ほんと勘弁してよ。」
予想通りの不機嫌な声色に
カラカラと笑って見上げたお昼前の空は、雲一つないあおい空だった。
こんなに風を切っていても、空はのっぺりと、そこで広がっている。
今日が想い出になっても、また同じ空を
ふたりでこんなふうに、見上げることができるんだと
その時の千尋は、まるで当たり前のように信じて
あおい空を見ていた。
だから、来年の今頃は、もう少し勇気が出るといいなんて
余裕で信じてあおい空を見ていた。
そして、胸いっぱいに呑み込むように、大きく息を吸い込んだ。
「だからね、今日はキノコカレーにします!」
「うん、そのくらいで丁度いいと思うよ。」
今度こそ帰るから、と、きりりと方向を変えたうしろの、
座り心地が漸く馴染んだ気がした。
◇◇◇
くつくつと、いい匂いに仕上がって来た鍋の中身を
薄い小皿に取り分けて、つつと啜った。
「ん!いいダシ!」
ダシもなにも、カレールーの前に全て吹き飛んだ気もしたが、
一応、頑張って炒めたタマネギや、マッシュルームやエリンギのうまみとやらいったものが
溶け出ている事を確かめたかったのである。
辛さがいっぱいに広がる奥に、なんとなくだがコクがある、
そう、思いたかったのである。
そうでなくては、もうすぐ帰って来るはずのひとに、
申し訳ないと思うからだ。
とはいえ、いつ帰って来るのか、確信がある訳ではない。
『早く帰って来てね。』
とは言ったけれど、
そう言ったときの、那岐のもの凄く申し訳なさそうな顔が離れない。
大事な用がある、と、
家の前まで千尋を送ったあとで、那岐はそのままの方向へ自転車を走らせていった。
それは、耳成山に通じる道である。
耳成山―――――そのなだらかな山の端を、思い描くと、少しだけ心がざわめく。
那岐がわざわざ用事をつくってでかけるほどの、何かが、
その方向に、あるのだと。
それプラス、
『キノコカレー、楽しみにしてるよ。』
と背中を向けたときの声が、耳から離れなかった。
言っている内容とは相容れず、なんだかとても、かなしそうに、聞こえた。
そんな顔をして、その山へ
ねぇ、何をしに行くの?
私に、何を隠しているの?
こんろのとろ火を、見るにたえない気持ちがして、つまみを戻して止めた。
その手でダイニングの椅子を引っ張り出して、
座って頬杖を付く。
「………んー、頑張り過ぎて疲れたのかな。」
エプロンをとって、楽になろうと思ったのだけれど、
その前にしておきたい事があった。
このまま眠ってしまって、起きたら朝だった、なんてことは流石にないと思うけれど、
もしかしてそうなってしまうかもしれないから
予行練習くらいしておいてもいいと思うのである。
千尋は、ん、と腕を伸ばして、テーブルの真ん中に常備してある、
広告の裏の白いのを四つ折りにして束ねたもの―――――よく、風早の文字で「今日の買い物リスト」とかが書かれていたりする
――――から、一枚をぴ、と破った。
そして、同じくその脇に常備してあるボールペンも取り上げた。
大きく、カギかっこを書いて、
その中身を『欲しいものリスト』と埋めた。
「………それは、ものでないと、だめ?」
サンタクロースというものが、いるならと仮定して声にする。
「私が欲しいのは、必ずしもものではないかもしれないの。」
例えば、この、理由のよくわからない不安を
きつく抱きしめて消してほしいと思うひと。
それは、彼でないと、だめな気がする。
そんな事は、思い出さなくていいんだって
言ってくれるような気がするひと。
あるいは、そんな難しい事じゃなくても
香ばしい匂いをさせて、出来上がってゆく鍋の中身を
一緒に味見とかしたい人が、いるの。
『ちゃんと火加減見てないと、焦がすよ。』
って、傍で言ってくれないから
少し炒め過ぎてしまったのを、どうやってごまかそうかって
結構、大変な思いをしたのだ。
なんか言い訳してたけど、一応彼が、この日の為に買ってくれた三角のケーキは、
きっちり冷蔵庫で冷やされている。
それが、固くなってしまうまえに、
そのひとと一緒に、食べたいと思うの。
ほしいものは、ひとつ。
千尋は、四角い紙の真ん中に、ひらがなで二文字、かいた。
『なぎ』
「――――――な、何書いてんのっ!」
その、自分の丸い文字でかいた二つのひらがなを目視したとたん、一瞬で我に返って、
ぐるぐるとその上から、何重にも丸を書いた。
「もぅ。」
しかし、その名前を全て塗りつぶすことができなくて
中途半端に浮き上がったままで止めた。
予行練習でこれでは、先が思いやられる。
千尋は大きく溜め息をついて、その上に突っ伏せた。
「早く、帰って来て。」
目を閉じると、まだうっすらと、身体が揺れている気がする。
片手でしっかりつかまった、那岐のコートの匂いが掠める気がする。
途中から、自分のものか、那岐のものか
判別が付けがたくなった、動悸が甦って来る気がする。
それは、人肌よりも熱くなった指先から、
とくん、とくんと伝わって、耳の先まで赤くした。
誰かを好きになることを、音にすると、きっとこういう風に聞こえるのだと思った。
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