綺麗な三角の山頂が、赤い陽に映えてゆく。
それは、学校から眺めていたのと、同じ景色だと思う。
生きている意味も
人を思う事の範囲も
何もかもがワンスケールは簡単に広がってしまった今も
空の景色は変わらず、ここにある。
そして今では、千尋はこの夕に染まる空を、一日のうちのどの空よりも、好きだと思えるようになっていた。
王の職務も、この時間には全てが終了して、あとは明日の予定に目を通すくらい。
ものの整理が巧くない千尋が、初めての勅命を
『机だけは大きいのを入れて』とし、文官の失笑を買ったのは三月程前の事だった。
笑われはしたがそれを我慢しさえすれば、簡単に望みは叶い、
耳成山を一望出来る大きな窓際に、広い机が手に入った。
「うーん、綺麗だ!」
書類をくるくると巻き終えて、背もたれにうーんと大きく伸びをした。
うっとりと頬杖をついて、もう一度赤い空に目を馳せる。
同じ景色ではあるけれど、確かに、山が近い。
王宮を囲むこのあたりは家々がまばらで、向こうのような背の高い建物もないから、そのように思うのだろう。
ちょうど、下校のチャイムが鳴る頃か。
世界が濃いオレンジに染まる頃、校内の喧噪が一時静まって、夜が落ちるほんの少しの間の一瞬の色を、瞳に焼き付けろと言われているような、そんな気分になったっけ。
それは生徒の多くが下校した後だから、という尤もな理由はあるのだろうけれど
それだけではないのではないか、という漠然とした気持ち。
それを、ひとりで悶々としていただなんて。
よくも、こんなに大きな事件に繋がる思いの前兆だったなんて。
「ただのちっぽけな女の子なのに。」
そう思うと大変可笑しく、頬杖の掌に唇を突っ伏せて、千尋はくっくと笑う。
と、ふわりと耳の側で、自分の毛先が揺れるのが見えた。
「また夕陽の評論?」
声の主が、秘かに自慢にしている綺麗な指先。
その人差し指と中指の間に、千尋の髪を通して、つるりと遊んで放す。
元の位置に戻るまで、少々あっけない程の時間だった。
「那岐。」
だから、思わず不満げな声が出た。
「王の居室に入るのに、やっぱりノック位した方が良かった?」
「・・・・うん。」
心の準備の問題だ、というのは伏せておいた。
「じゃ、これからはそういうことで。」
那岐は、ノックして入るべき王の机に、どっかりと腰を落ち着ける。
そして上体を僅かに捻り、大きな窓の外を見る。
白い頬も、色素の薄い瞳も、夕陽の色に、なる。
「いつもそう言うのに、一度もしたことないよ?」
「そうだっけ。」
「え?あったんだっけ?」
「ないかもね。」
「・・・・・だよね。」
問題がいつの間にかずれているのだが、千尋には既に過去の事となってしまっており。
心を占領するのは、ただこの胸の高鳴りを、どうにかしたいという一点に絞られていた。
「千尋。」
「っ、、、なに!!」
「何その顔。」
そっちの顔こそ急に振り向いて何と言いたい。
どうしてこうも、心の準備をさせてくれないのか。
何の愛想も無い顔でも
滅多に笑ってくれなくても
笑ってくれても口の端がちょっと歪んでいるのでも
その顔と目が合うだけで心拍が唇から零れてしまいそうだ。
「いや、もうすぐ七夕だなって思っただけ。」
「―――――あ、そうだね。シャニの村に今年も行ってみる?」
「去年は屋台食い損ねたし?」
「・・・・・そんなの出てたの?」
「出てたよ、葡萄の甘煮とか、豚の角煮みたいなのとか。」
「知ってるなら連れてって欲しかったのに。」
ぷぅと膨れてしまうのは仕方の無い事だと思う。
知っていながら興味の無い振りをしていたのだとしたら、男として何ともサービス精神に欠ける。
―――――解ってるけど。
千尋は言葉を噛んで俯いた。
こと、と那岐の靴底が、床に降りる音がする。
さらりと衣擦れて、そして突如、那岐の匂いに鼻先が埋もれた。
柔らかい絹の衣
せめてしょっちゅうこうやって、ふわふわ抱きしめてくれでもすれば
こんな風にどきどきしなくたっていいのに
「だから今年連れて行くってことでいいだろ?」
「・・・・・那岐、ずるい。」
「何が?」
「だって。」
「そうかもしれないね―――――」
お前と二人でなきゃ、いやだったから
そんなことを、たまに抱きしめられるだけの腕の中で聞かねばならないなんて
つまり、断わる振りさえ、出来ないということ
知っているのだろうか
「ほんとうに、ずるいよ、那岐。」
「じゃあずるいついでにもう一つあるんだよね。」
「・・・・・?」
「持って来てる?」
聞かれて顔を上げると、那岐がにこりと笑っている。
短くなった千尋の髪を、耳にかけながら思案顔をする。
そして、少し顔を引いて、言う。
「短くても、似合うと思うんだけど。」
「――――――あ!」
千尋は椅子の上でくるりと身体を戻して、引き出しをあけた。
カラ!
「・・・・・まさか、その中から探そうっていう?」
「あは・・・整頓が苦手で。」
「そんなに大きな引き出しにするからじゃないか。せめて中に仕切でも付けてさ。」
「だって・・・大きくないと机の上がどうしようもないんだもん。」
「言い訳はいいけど、探すの?探さないの?」
もう、不機嫌な顔に戻っている。
「―――――探す。」
「はいはい。」
ガサガサと引き出しを掻き回し始めた千尋の傍で手を伸ばし
那岐は大きな机の端っこの、ランプのツマミを捻った。
七夕キャンドルナイト
きーんこーんかーんこーん・・・・・
終礼の鐘と同時に、教室は喧噪に包まれる。
6限目の終了と同時にホームルームに移行するという過酷な時間割であるにも関わらず、チャイムが鳴り終わる頃には生徒の数が半分程になってしまう。
特にこの日のように、土日を控えた放課後は顕著である。
どのように準備すれば、そのような芸当が可能なのか、千尋には今ひとつ解らない。
黙々と鞄にノートや弁当箱やなどを詰めながら首を傾げるのは日課であり、金曜でも月曜でも変わらない。
「ちひ!」
「あ、花梨ちゃん。」
花梨というのは千尋の友達である。
ちょっとおとなしめで、何かとペースがゆっくりしているので、千尋とよく気があった。
「ふふ、明日なんだけど、ちひヒマだったりするかな?」
「うん、特に何もないよ。」
「じゃあ決まりだね。橿原駅に10時に待ち合わせね!」
「うん。何処行くの?」
「だってもうすぐ七夕でしょ〜、行くべきとこは一つだよぉ!」
「そうなの?」
「あれ、あんまり楽しみじゃないっぽい〜?」
「中学校までは楽しみだったよ。毎年『七夕書道コンクール』に応募してね、七日の朝刊に入賞作品が掲載されるの。那岐と風早と、目を皿のようにして探すのがもう楽しくって!」
「そ、そうか、ちひ習字得意だもんね・・・・・。」
「でもね、高校生になったら対象外なんだって。だから今年はちょっと消沈していたの。」
予想外の返答にすぎたのか、花梨は暫く薄笑いを浮かべたままだったが、気を取り直して千尋に一歩にじり寄った。
「よし!じゃあ今年は楽しみ変更するのに絶好の年ってことだよね!」
「何かあるの?」
「ふふふ〜、奈良の女の子なら、七夕と言えばジャジャジャーン、これです。『七夕ライトダウン』!!」
七夕ライトダウンとは、地球温暖化対策の啓蒙として世界中で実施されている『アースクールデー』における、奈良県橿原市としての参加形態である。
午後八時から市の施設を筆頭に一斉に消灯し、『七月七日の七夕に、灯りを落として天の川を眺めましょう』といううたい文句がついている。
「注目すべきは『二時間一斉消灯』ってとこ。行政的に認められた消灯ってことはぁ、彼氏と二人っきりの部屋で灯りを消しても誰にも怒られないってこと!ね、ね、これ超よくない?」
「二人でいるのに灯りを消すの?顔が見にくいよ?」
花梨よ、ここでめげてはならない。
「で、でね!二時間ってことはホラ、丁度いいじゃない色々と!折角だから浴衣を着て、いつもとは違うアレコレを、楽しんじゃおぅっていうっっっ!きゃ〜〜〜今から超赤面〜!!」
「何を楽しむの?」
「へ?」
「あ、そっか、二時間かかるなら映画とか見るんだ!それなら暗い方がいいもんね!」
花梨は千尋を誘った事を少々後悔していたが、ときは既に遅かった。
「と、とにかくそういうことで、皆気合い入れて新しい浴衣を買いに行くって言ってるの。だから、ちひにも見立てて欲しくって。」
本当はともにキャッキャ言いながら選びたかったのだが、少々心づもりを変更せねばならない花梨である。
「うん、わかった!じゃ、明日10時ね!」
「ありがと。・・・・・・ね、ちひ。」
「ん?」
「ちひってさ、好きなひととか、いないの?」
「・・・・・・え?」
「・・・ってことだよね。変な事聞いてごめん。じゃ、明日ね〜」
ガラガラ、、、カタン!
ドアが閉まると、教室には千尋ひとりになっていた。
背後から射し込む西日が強くて、髪が灼けてしまわないか、少し心配になるほど。
「みんな、早いなぁ・・・・。」
口に出すと、何やら心細い思いがした。
こんな気持ちは初めてで、花梨の言葉がぐるぐると、頭を回っている事ばかりが意識された。
「七夕ライトダウンかぁ。」
好きなひとと過ごす日、と花梨ははしゃいでいた。
そういわれて思い返してみれば、クラスの女子がグループで話すとき、最近やけにひそひそ小声だったような気もする。
時折、きゃぁという黄色い声が上がったりしていたようにも思う。
ガラリ!
突然ドアが開いて、千尋はびくんと視線を上げた。
敷居を踏み、ドアを足で押さえながら腕を組んでいる、見慣れた姿がそこにあった。
「いつまで待たせるの?帰らないの?」
「あ、ごめんね、すぐに行く!」
「千尋のすぐは当てにならないだろ、飢え死にさせる気?あと30秒だけ待つ。いーち、にー、さーん」
「待って那岐、それ早いよ!」
がたがたとひどい音をさせながら、千尋は鞄に荷物を詰め込んだ。
時折細かいものを取り落としたりしつつ、容赦ない那岐の早めのカウントダウンに息急く。
(那岐は、誰かに誘われたり、したのかな。)
ドキ、ドキ。
耳の中で、高鳴りゆくこころの音が大きくなる。
あと20数えるまでに、彼のもとへ走らなければ、置いて行かれてしまう。
だから、こんなにこころが煩いのだと
千尋はこのとき、いまだこの、こころの名前を知らず。
――――――全くの、勘違いをしていた。
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