土曜日は、大腕を振って二度寝出来る日である。
日曜のように『明日からまた学校だ』などという煩わしさもない、完全なる解放日である。
那岐は朝食をそそくさと済ませると、愛想もなしに自室に引きこもる。
その瞬間の至福があるからこそ、退屈なウイークデーが過ごせると言っても過言ではない。
ので、出来るだけ妨げられたくはない。
だが、一人で暮らしている訳でもなければ、妨害は実に遠慮なしにやってくるものだ。
「なーぎぃー!」
アルファー波の向こうで高い声がする。
襖はピッタリ閉め切ってあるというのに、それでもたかが襖である。
廊下が軋んだと思ったらすぐののちに、襖は開放された。
「今から花梨ちゃんと駅前に行って来るね!」
「・・・・・。」
「もう、那岐ぃ。」
この、目隠しにしている雑誌が目に入らぬか、と言いたい。
今、僕は寝ているのでお邪魔しないでもらいたい、とわざわざ言わねば解らぬか、とも言いたい。
が、千尋の場合、自分の意向を伝えたいというのが第一信条である為に、そのような整然とした理屈は通用しない。
不機嫌そうだとは言え、ちゃんと雑誌を外す那岐は、讃えられるべきなのである。
「・・・・休日に出掛けるなんて珍しいこともあるもんだね。」
「うん、風早もテストの採点があるとか言ってさっき出てったの。だから、那岐が出掛ける時は鍵をポストの下に隠してから行ってね、だって。」
「・・・・僕が出掛けると思う?」
「無いと思うけど、一応言っといた方がいいと思って・・・。」
「ご苦労さま、じゃあ、おやすみ。」
「もう、それだけ?」
「・・・・・これ以上何言えばいいの。」
「その、行ってらっしゃいとか、気を付けてとか。」
「じゃ、気を付けて行ってらっしゃい。」
「・・・・・はーい。」
もう一度目隠して、襖が閉じかける音を聴く。
パタン、となるその直前に、少しだけ声を張った。
「何しに行くの?」
再び音を立てて開き始める襖の音が、やや早く。
そして発せられる声が一段高く弾むのを、那岐は暗い視界の中で聞く。
「花梨ちゃん、七夕に浴衣を着るんだって!それはね、彼氏と一緒に過ごす為なんだって!だから、可愛いの選んであげるんだ〜ボキボキ腕が鳴るんだよ!」
「・・・・それじゃ折れてるじゃん、普通、『バリバリ』とか言うんじゃないの。」
「じゃあバリバリでいいや!何かね、部屋を暗くして二時間楽しい事が出来る日なんだって。花梨ちゃん、すごく気合い入ってるんだよ。」
「それ、意味、解って言ってるの?」
「うん、ちゃんと言ってくれなかったけど、私は映画見るに賭けてるんだけどな。」
「・・・・やっぱりね。」
那岐は、喉を突く笑いを抑えることができない。
息苦しくなって、再び雑誌を外した。
「そういう系統なら『天の川を見る』っていう選択肢もあると思うけど?」
「そっか!うんうん、それの方がロマンチックだね!よし、それに変更する。」
「きっとその方が正解に少しでも近づくよ。」
「行って来る!」
「はいはい。」
那岐は、今度こそ閉じた襖を、ぼんやりと見つめる。
「浴衣、ね。」
呟いても、もちろん返事など無い。
もう一度視界を暗くして目を閉じたが、どういう訳だか寝付けなかった。
眠りを妨げるものがあるとすればそれはいつも千尋で、折角留守になっても変わらないのが少々難儀だ。
「―――――案外可愛いかも知れなかったりして。」
そして、むくりと起き上がった。
その時、那岐にはひとつの確信があった。
昔造りの借家の、ひんやりと冷たい廊下を奥に進むと、8帖程のゆったりと広い台所がある。
テーブルも前の住人が置いて行ったもので、年期の入った重いものだ。
腰程の高さの食器棚の上にはポットや炊飯器が置いてあるが、それ以外にも郵便物や特売のチラシなどで色々と煩雑だ。
那岐は、そこに置いてあるべき三つの封筒のうちの一つを探している。
「やっぱりね。持って行ってる。」
思った通り、封筒は二つしかなかった。 持って行くかどうか、ひとしきり悩んだ末の事だと思われる。
千尋がどんな思いでその封筒に手をかけたか、思うと胸がこそばゆかった。
そして、同じように少々こそばゆい思いで、残った二つの封筒から一つを選ぶ。
次に、冷蔵庫にくっつけてある、黄色いトリのマグネットフックから鍵を一つ選んだ。
「ポストの下、って言ってたっけ。」
那岐が、土曜の二度寝を却下したのは、これで初めての事である。
∽∽∽ ∽∽∽ ∽∽∽
その日の夕暮れのことだった。
千尋は、炊飯器の前で意気消沈している。落とした視線の先には、一つの封筒が握られていた。
そこには風早の整然とした文字で、『食費・七月分・千尋』と書かれていた。
何度振っても、チャリチャリと小銭の音しかしない。
当然である。この中身は駅前で使い果たしてしまったのだから。
「あー・・・月末までまだまだあるのに。これからどうしよう。」
電気を付けなければ手元が暗いのだが、とてもそうする気になれなかった。
帰宅した玄関の前で恐る恐るポストの下に手を入れたら、カギがちゃんと張り付けてあり、家には誰もいないことが解って、ホッと胸をなで下ろした。
それがせめてもの救いだった。
だって、このような事が知れたらちょっと困る―――――それも、時間の問題だとは思うが。
やっぱり西日が射し込んで、髪が灼けそうだなあという心配もあるにはあったが、そこから離れる訳に行かなかった。
どう、工作すべきか。
家人が帰るまでに、その答えくらいは、見つけなければ。
「何してるの。」
「ひっっ!!」
あまりに後ろめたい時は振り向けないものなのだという事を知った。
千尋に残されていた余裕は、僅かにその声が風早でなく那岐であって良かったというくらいのものである。
これで、工作の余地は霧消したと言って良い。
「―――――やっぱりね。」
何がやっぱりなのか。
パタパタと近づいて来るスリッパの音に、背筋が凍る。
「やっぱり―――――」
首筋近くで聞こえる声に、後れ毛がふわり舞い上がる心地がした。
「那岐・・・・?」
「これ、千尋の封筒に入れておけばいいよ。」
「・・・・・え?」
那岐の腕が肩から回って、目の前でひらひらと、一枚の紙切れがそよいでいた。
「あ〜〜〜!一万円!いいの?ほんんっっとにいいの?」
「気が変わらないうちに入れたら?風早は使い込み、煩いから。」
「だよね、あり、ありがとう・・・・!」
那岐の指先でそよぐ一万円をそそくさと拝借し、封筒の中身は本日午前10時の時点に戻った。
漸く千尋はくるりと那岐を振り返ることができた。
「ほんと、ちょっと本気で家出考えてた。」
「そう?結構余裕に見えるけど。」
「どこが!」
「ちゃっかり着替えてるし。」
「――――――!」
そうであった。
腰に回った帯は、薄い桜の結び帯。咄嗟に隠そうとした腕には藍色の、幅広の袖が纏っていた。
「・・・・・ごめんなさい。花梨ちゃんの試着するの、見てたらすごく可愛いんだもん。」
「ふうん、案外趣味いいんだね。」
「え?」
「可愛いんじゃない?」
「な・・・・那岐・・・・・」
「な、なんだよ、変な声出すなよ!」
「だ、だって何ていうか、か、可愛いとか言うんだもん!」
「それは、普通――――――」
那岐の声は次第に小さくなり、何だか言い訳じみた事をボソボソと言った後で目を逸らしてしまった。
そして、どれくらいの沈黙が流れたか、定かではない。
気がついた時にはとっぷりと日が暮れて、灯りが恋しくなっていた。
「・・・・そろそろ風早が帰って来るだろ?脱がなくていいの?」
「・・・・ん、・・・だね。」
「それなら早く行けば?」
「うん・・・・着替えて来る。あの、埋め合わせはきっとするから。」
ほんのりと、那岐の肩を掠めて、千尋の淡い髪色が通り過ぎる。
何故、それを見送ることができない―――――
「―――っ那岐?!」
くん、と腕の付け根に衝撃が走って、千尋は反射的に振り返った。
手首を、しっかりと握られて、少々痛むくらいだった。
目が合った先の那岐が、今まで一度も知らない顔をしていて、どくんと大きく胸が鳴る。
目線を逸らせずに
それ以上言葉を紡げずに
ただただ、耳の中のこころの音が、煩い。
―――――――これは、昨日の放課後
30まで待つと言った那岐の、早めのカウントダウンを聞いていた、あのときの気持ちに
とても、とても、近い。
「着替える前にさ。」
「・・・・・。」
振り払えないちから。
否、本気になれば、すり抜ける事は出来るのだと思う。
けれど――――――
「これ、つけてみたら?」
「な・・・・・何?」
ゆるり、手首は解放されて、どちらの汗とも解らない水分が蒸発する、涼しさを感じた。
解放されたというのに、やはりそこから動けずに、千尋は那岐をただ見つめる事しかできないでいる。
ポケットを探った那岐は、そこから何かを取り出して、千尋に一歩、近づいた。
「ちょっと、髪、触るよ。」
「う・・・うん・・・・。」
こう言っては悪いが、ちょっとどころではない。
今風早がここへ入って来たとしたら、間違いなく抱き合ったりしているように見えるのではないかと思う。
どうしてか解らないけれど、それは、とても恥ずかしい事のように思えた。
那岐の匂いが鼻先に埋まって、心臓が丸ごと飛び出してしまいそうだった。
少しの後で、那岐は離れた。
何だか少し、離れがたい気がした。
もう少しだけ
例えば、二時間くらい
もしかして天の川とかを眺めながら、こんなふうに灯りを落として
那岐と二人でいられたら、那岐の胸の中にいられたら
ちょっと、嬉しいかも知れない
「うん、やっぱりね。」
「え?」
「似合うと思った。」
いつの間にか、髪が解かれていて。
気を確かにして思い返すと、那岐の指先が髪を掬った感触が
頭皮に少しだけ残っていた。
両耳の上から頭頂へ、結い直された髪のてっぺんに、何かが挿されているのだと解った。
「・・・・何をつけたの?」
少々雰囲気を壊したのには自覚があったが、千尋としてはそれを確認することができないのだから仕方が無いと思う。
似合うと言ってくれているのだから、きっと可笑しくはないものなのだろうけれど。
「部屋で見たらいいんじゃない?どうせ今から着替えるんだから。」
「・・・・・そうだけど。」
「早く行かないと、ほんとに風早が戻って来るよ。その恰好見られたら、僕の一万円の意味が無くなる。」
「そ、そっか!解ったすぐに着替えて来る!!」
千尋が廊下の向こうに消えて、襖の音が高く響いた。
「さあ、どう言い訳をしたもんかな。」
那岐は、もう一度ポケットを探って、チャリチャリと小銭ばかりになった封筒を吊り上げて思案する。
『食費・七月分・那岐』
浴衣までは行かずとも、千尋に似合う髪飾りを、と思ったら、結構な値段になってしまった事は否めない。
それでも、とてもよく似合っていたから。
『埋め合わせ』と千尋は言ったのだったが。
「もう、貰っているけどね。」
もう、どうにでもなれってことで、という風な事を呟いて
那岐は手探りで、炊飯器の傍に、三つ目の封筒を戻した。
∽∽∽ ∽∽∽ ∽∽∽
「あ、これかも!・・・・・あったー!!あったよ那岐!」
「ほんとに?ちょっと見せて。」
那岐は、長持をひっくり返した衣装の海の中で、小走りに駆けて来る千尋に苦笑う。
「ほら、ね!あ、り、ま、し、た!」
ぱふんと那岐の胸に飛び込んで、千尋は那岐の睫毛の先にそれを揺らした。
細く繊細な銀のチェーンが無数に垂れた、蒼い石のモチーフをゴシックな装飾が囲んでいる髪飾りは、千尋には少しばかり艶やかだ。
―――――と、周りのものは思うのだろうな、と那岐は思う。
「うん、よくできました。確かにそれだ。」
「んー、豊葦原ではちょっと見られないよね、こういうの。」
「まあ、機械細工だからね。あの頃の僕の食費から工面出来るものっていったら、これくらいだよ。」
「ううん、そんなことない。あの日、部屋に帰って鏡を見てね、そしたら、すごく、すごくね――――」
「うん。」
「可愛いと思ったの。」
「そう。」
「うん。」
「それ、解って言ってるの?」
「え・・・・」
――――――僕も、そう、思うよ。
そう、言い終わらないうちに、那岐は千尋の肩に手をかけて
散乱した、色とりどりの衣装の海に雪崩れた。
「ちょ・・・那岐・・・・!?」
「あんまり知らないようだから、そろそろ教えてあげようかと思ってさ。」
腕の中に千尋をすっぽりと囲い込んで、胸の下に柔らかな膨らみを感じると、抑えて来た分の感情が一度に噴き出してしまう。
ゆらゆらと、ランプの黄色いひかりが作り出す、千尋の鼻筋の陰影が、どうしようもない劣情を引き出すのだ。
「あっちももうすぐキャンドルナイトだし。」
「花梨ちゃんは今年も浴衣を買うのかな。」
「あ、そういえばお前、持って来てないのか。」
「うん・・・さすがにね。」
「ま、髪飾りだけでいいよ。それつけて、出雲の夏祭り、行こうか。」
「今年はちゃんとお店も回ってくれる?」
「いいよ。」
「踊りの輪にも一緒に入ってくれる?」
「いいよ。」
「えー、ほんとに!?」
「但し。」
「ん・・・?」
那岐はもう一つ、身体を沈ませる。鼻の頭がぴたりと触れ合った。
「七夕キャンドルナイトの二時間、彼氏と二人で過ごす事の意味、ちゃんと解ってくれてから、だけど。」
「えっと・・・・それは、今から?」
「そう。なに、怖じ気づいた?」
「う・・・・。」
「ふーん、出雲の森からなら、天の川綺麗に見えるだろうにね〜。」
「ち、違うもん!そ、そう、予行練習は、しておいた方がいいと、思うし。」
「なんだ、結構解ってるじゃん。」
「でもね、ちょっと怖いから・・・・・ちゃんと、教えて?」
「――――――はいはい。」
涼し気に那岐はあしらったが、この演技を、いつまで繰り出していられるか、内心ヒヤヒヤしていることを、千尋が知る由もなく。
沈めてゆく身体の下で、千尋の柔らかな熱さを感じるだけで、それこそこころが飛び出しそうだった。
街灯も、ビルの灯りも無いのに
机の端っこでゆらゆらひかるランプの灯りだって、結構明るいものだと思っていた。
だから、少しだけ重ねたつもりの唇の
僅かに開いた隙間から
二人にだけ聞こえるくらいの淫靡さで、響く水音を意識する。
重ねる柔らかさが気持ちよくて
ひたすらに独り占めにしたくなる気持ちを
もう、怖いだなんて思わない。
「あ・・・・・」
「そういう声出されると、ほんとに止まらなくなるんだけど。」
「そんなこと言われても・・・気持ち・・・よくて・・・。」
「―――――そう。」
那岐は、二年越しに、髪飾りを千尋の髪に通した。
「うん、やっぱり、可愛いかも。」
「・・・・何で『かも』って言うの?」
「千尋。」
「・・・・ん。」
「七夕の夜、誰かと一緒に過ごすなら、千尋とでなきゃ意味ないと思ってた。」
「うん。」
「どうせ七夕祭りなら、これ着けた千尋と、二人で歩きたいだろ?」
「ふふ、浴衣があったらもっと良かったね。」
「それはまたおいおい。」
「うん。・・・・・ね、那岐ぃ。」
早く、続きを―――――
「何?」
「ううん、何でも無い!」
二人で、ゆらゆらと揺れるひかりの中に
重なって
影になって
言葉にしなくても、きっと、解り合えるはず。
好きなひとがいるということの
胸と胸とが、とくとくと響き合っていると感じることの
たったそれだけのことで。
大切だと思える事のどれほど幸せだという事が
いま、やっと、わかるきがします。
〜Fin
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