ホテルにしようと提案したが、全力で拒否られた。
繁華街の裏通り、そうするにはちょうどいい界隈を歩いていたし、
どうせ泊まるなら、俺としても足を伸ばして寝られるほうが快適だ。
ホテルがだめなら残る選択肢は俺の部屋しかなくなるわけで、
そうなると、俺はソファで寝ることになるわけで、
つまり膝から下が肘掛けから外へ出ちまう。
が、成り行きはそういう具合にしか俺たちを運んでくれなかった。
現在俺は、灯りを落とした自室のソファ、
ベッドから毛布一枚だけ抜かせてもらって寝転がっている。
(とてもじゃねぇが、寝付けねぇ)
予想通り、そんな気分だ。
窮屈なのもある。だがそれ以上に、
掛布に大袈裟に潜り込んで、後頭部しか見せてくれない望美の、
枕からはみ出してる髪の毛とか、まだ寝息じゃない呼吸とか、
目の端に映るその他諸々、圧倒的な存在感に目が冴える。
「…望美ぃ」
物欲しそうに聞こえるだろう、そういう声で、背中に呼びかける。
もう何度目かになっていた。
最初の一度くらいは、こちらを振り向いて答えていた望美だが、
今は声音に不快が混ざり、身体を翻すこともない。
「……だから、もう寝たらって言ってるじゃん」
「お前だって寝てねぇじゃねぇか」
「わかった。もう返事しない」
「おい望美って」
宣言通り、望美は返事をしなくなった。
呼んだ理由が特にあったわけじゃない、っていうのを
俺は読まれているんだと思う。
だが、男女が同じ部屋で、あっちとこっちで横になってるってのは
一緒に寝てるよりよほど不自然な空気を作る。
何かでそれを埋めないと、と、刻々と目覚めていくのが男のほうの正直な気持ちだ。
特に好きな女でなくてもそうなら、望美との場合は生殺しに近い。
たとえ、もうずっと前のことでも
知らないわけじゃない、寧ろ覚えてる。
俺として、望美がどういうふうになるのかってことをだ。
―――俺は紳士じゃねぇ
が、どこまでが許される範囲か、予め計算に入れた境界を、
蹴破って飛び出すことができるほどの非紳士にもなれない。
いや、正確には、考えるための余裕と時間が必要なんだが―――
そういうのは、九郎のほうがうわてだったな、
と、ふと、敵方の将の顔が浮かんだ。
あいつは、壇ノ浦の船の上、兄との決別に泣いた。
嗚咽さえ隠さない声を聞いて、男のくせにかっこわりーなんて、不思議と少しも思わなかった。
それは、あいつの涙がそれっきりで、乾いた後はまっすぐにした背中しか見せなかったことが大きい。
あくまで俺の私見だが、あいつの中には、白と黒しかない気がした。
グレーは、そんなあいつの前に屈して、グレーのほうからどちらかに翻る。
引き換え、俺の場合は全てがグレーだ。
グレーだってことをわかってて、どちらかに染まった振りをする。
そんなだから、ここに帰ってくるまでに、馬鹿みたいに時間がかかった。
平泉にいる間中、片時も忘れずに考えてたのは平家の事情だ。
だからって手を抜いたつもりは一つもないが、
終戦して、望美の手をすぐに掴めなかったのは、まさしくそういったグレーの事情で、
落ちつくまで時間が欲しい、落ちついたら必ず帰る
そんな、不安すぎる条件を突きつけて望美を待たせた。
白と黒
平家と望美
俺は、二兎を追ったつもりでいた。
どちらも手に入れたつもりでいた。だから戻って来た。
そこに、驕りがなかったか、どうか。
やがて、そのうちの一つ、望美が
するりと俺の腕を擦り抜けて、思い出に変わってしまったときに
そして、いま、望美の中で俺がまだ、思い出の域を出ないことに直面して
二兎は追えないことを実感している。
諺は伊達じゃない。
一つ、寝返りを打ち、望美の背中に相対する。
江の電の終電は既に行った後だった。
二駅ぶんほどを、手を繋いだり離したりしながら歩いて、
家に着いたときには深夜になっていた。話す声も、自然と小声になる。
譲まで寝てるんじゃもてなしもクソもなく、
酔い覚ましに途中で買ったペットボトルくらいしか飲むものがなかった。
会話は幾らも続かないうちに寝る方向に流れるだろうことは推して知れた訳だ。
「将臣くんの部屋なんだから」と、望美は自分がソファに寝ると言ったが
「んなかっこわりーことできるか」そう答えた。
その一部は本音だったが、ぜんぶがぜんぶ本音じゃない。
俺と泊まって来ることを望美は決めていたようだが、
なるほど、泊まることと一緒に寝ることは同義じゃない。
俺としても、そこは許されない範囲だってことはわかってる。
少しずつ、順番踏んで、とりあえず今日こそは絶対に飲みに連れ出す、それだけを決めていた。
だから、
わかってる、はずなんだが。
『30分はかかるから』
その文面を読む頃には、俺は出掛けるときの恰好に着替えていた。
なんたって今日こそ連れ出すと決めてたんだ、部屋着なんかで誘えるかって話だ。
やっと引き出したOKに、3分後には望美んちの門前にいた。
そこで30分弱を待ちながら、俺は、三月の夜霧は割と身に沁みるものだってことを知った。
だから、なんだろうか。
懐かしいドアが開いて、出て来た望美が、まるで初めて見る女みたいに見えた。
服は俺が知らないのを着ていて、髪の毛なんか巻いていた。
美容院を理由に誘いを断わられたことがある俺としては、
いつものようにまぁちょっと毛先でも揃えてくる程度なんだろうと思っていたから
帰って来たってのに
隣同士に戻ったってのに
全然そんな気がしなかった。
望美が、こんなに俺の、知らない女になっていたんだってことを
息を呑みながら、実感していた。
『遅ぇって』
言った俺は、
せめて俺くらいは、いつもどおりでいるべきだろと
それしか考えていなかった。
髪を巻いた望美
そう強くはないようだが酒を飲むようになった望美
おばさんに、俺と別れたことを言えない望美
どれもこれも、俺の範疇にない望美だった。
そして、以下は江の電のホームに降りたときに知ったことでもあるが
春の風の色を、望美に見た気がしたこと
何年も会わずにいたあとでも、見紛うことができなかったのは
俯いたまるい頭の角度から、絡んだ髪に苦心する指先まで、
その存在感が圧倒的なものになっていたからで
いつのまにだ、って
三年ってそんなに長かったかって
望美をそんなに綺麗にしたのが、少なくとも俺じゃないということが
圧倒的な事実になって
春の嵐になって
俺の指の隙間を吹き抜けた。
何で、俺の両手はカラなんだ
何で、俺の手は、いつもカラにしておくなんて
そんなことを思っていたんだろう。
俺の片手に太刀があった頃は
それを、カラにできることがかっこいいと思っていた。
いつも、望美を守るために空けていることが
グレーな俺にできる最大の誠意だと思っていた。
今も、間違いだとは思っていない。
間違ってはいないが、言い切るには俺が青すぎた。
空けておいた手のひらは、青い俺には隙にしかならない。
だからこそ、そのあいだに、何人の男が俺の懐を盗んでいったか
つまり、何人の男に望美のこと、渡すことになったのか
望美を、俺の知らない女に替えられてしまったのか
塞いでおけば、俺たちは、
ふたり積み上げた純愛ってものを、今頃はもう知ってるんだろうか。
「なぁ望美」
答えない、そう言った背中にもう一度呼び掛けた。
不自然なまでに、さっきのまま動いていない姿勢だ。
「望美」
動かなくても、返事はなくても、起きている、
確信して毛布を捲ってソファを降りた。
僅かな衣擦れと、脚の軋んだ音に、望美が反射のように飛び起きた。
俺がこういう態度を見せたら即、そうしようと、
ずっと決めていたというふうに見えた。
貸したパジャマは望美にはサイズが合わなすぎて、中で泳いでるみたいだ。
「そっちに行くと壁だぜ」
かと言ってこっちに来ると俺。
すなわち望美には逃げ場がない。
ベッドの中央で迷う間に、深く片膝を沈ませた俺には、
もう望美しか見えていない。
苦し紛れに望美がしたことは、素早く枕を取り上げて、俺との間にボス、と置いて
ささやかすぎるバリケードを作ったことだ。
「これ越えたら」
「白龍呼ぶってか」
「―――」
俺の中に呼び戻される、クリスマスイブの改札が、膝先の枕に重なる。
望美の中でもそうなのか、あのときと同じ目をして俺を見据える。
価しねぇと思った俺は、 あの改札をどうしても抜けることができなかったが、
いまの俺は、どうなんだ?
「淋しいじゃねぇか、一緒に寝ようぜ」
「私は淋しくない」
「もういいだろ、ほんとのこと言えよ」
「……嘘じゃない」
「嘘じゃねぇのとほんとのこととは違うだろ」
「………」
「なぁって」
ほんとなら、
何でそんなに泣きそうなんだ
だから、わかっちまうんじゃねぇか
お前がほんとは何を言いたかったのか
あのときから、今も、ずっと、
言葉にしないぶん、全部全部、お前は
そうやって、綺麗な顔して
たまんねぇほど可愛い顔して
―――越えて来い、って
言葉にしたら、きっとそうなるだろう顔だ。
圧倒的な境界を、蹴破って来いと
今頃気付いて、今更越えるんじゃ、遅すぎるんだとしても。
「なにバカやってんだ」
「あ!」
俺は枕を片手で床に投げた。
半端な軽い音が後方で上がったのと、膝を進めたのとは同時だ。
望美が同じだけ後退るから、平行線なのが難儀だが、
幸いベッドはシングルで、壁までもすぐなわけだ。
「もう少しマシなもんで仕切りゃよかったな」
ずるいもんだ。
壁に追いつめた女を抱き竦めるなんて、雑作もないことで俺のものにしようなんて。
望美が、腹筋の全てを使って俺を剥がそうとしてるのがわかる。
だが、俺は男で、望美は女で、
俺はそう簡単に、望美に突き飛ばされたりしない。そういうふうにはできてない。
「俺の負けだ」
胸を叩く小さな拳を無視して、
強く強く、隙間を圧迫していきながら言った。
涼しく繕った声なんか出せなくなっていたことに、言ってから気付いた。
「恋愛なんか勝ち負けじゃねぇが、……完璧俺の負けって言える」
「……じゃぁ何で諦めないのよ」
「んな綺麗になっちまってるからだろ。許されるワケねぇってわかってて、声かけずにいられなくなるだろ」
「将臣くんがほっとくからじゃない」
「るせー」
「……なっ、」
誰がした、
何人くらいいた、
なんて、聞いたって、名前も知らない奴らだ。
聞いたら聞いただけ腹が立ちそうで、ものすごく絵にならない部分を見せてしまえる自信がある。
「な、なによ自分だってっていうか将臣くんのほうが先に」
「だからだろ…!」
「っ」
そう、想像しただけで、その何人かのやつらの顔が、見える気がして
向け様のない矛先が望美に向かってしまう。
敵意を剥き出しにした、こんな顔になってしまう。
胸の中にいる望美が、やや萎縮して声を詰まらせているのをわかっていて
どこまでもかっこ悪い男になってしまうのを止められない。
望美が痛がって、少しだけ腕を緩めた。
見るものは、長く垂らした望美の、まるく巻いた毛先ばかり、目を合わせる気にならない。
「んなことは、一生聞きたくねぇ」
「……将臣くん」
「お前を見てるだけで、十分思い知らされる。頼むから、何があったとか、言わないでくれ」
望美の懐というものに、俺は甘えているのかもしれない。
それは、向こうの世界でも、帰って来てからも変わらない。
最後の最後は、わかってくれ、と、言外に
しっぽのぶぶんを望美に託す。
「ずいぶん勝手な言い分だよね」
「勝手で進めねぇと、手に入らねぇモンがある。駅でだって、メールだって、
何のためにあんだけしつこくしたと思ってんだ」
「……」
「お前は本気で綺麗になってた。そんなお前を、何でだろうな、俺は見るに忍びなかった。
だが、目は釘付けって裏表だ。それならこれから俺ができることは、
俺の手で塗り替えて、それ以上にしてやることだけだって思った。マジで………そんなのお前だけだ」
珍しく長文で言い切った俺のことを、流れのままにモトカノと夜中にふたりになって、
ついその気になって、どうにかして口説けないか必死になってると、
そう思われているかも知れなかったが、望美が言ったのはこうだ。
「……したいだけかと思ったら」
声のトーンは変わっていて、胸にふと重みも増した。
懐かしい重さだ、そう思う。
これは、俺の記憶が確かならば、望美が甘えてくるときの重みだ。
「……したくねぇって訳じゃないぜ」
「すぐ調子に乗る」
言われたように調子に乗りやすい俺は、裾から僅かに手のひらを侵入させていた。
男物のパジャマの上からじゃなくて、素肌の望美を抱きしめようとしていた。
が、両の指先が括れた腰に触れたとき、そんな初っ端から、動きが止まってしまった。
望美がいや、と声を上げたのもあるが、それよりも、あまりに柔らかすぎた。
どうだったか、と
あんなだったか、と
思いめぐらせたものはいつしか色褪せていて
直に触れた望美の肌は、記憶なんかでとても語れるもんじゃなかった。
これに、これほど長いこと触れられなくされたことに、今こそ俺は得心する。
触れられなくて当たり前だ。ぴしゃりと門前払いで当然だ。
正直に言えば、たった一度の過ちで、と、憤慨したこともある。
気持ちはお前だけだった、なんて、安っぽい本音で、電話口で泣かせたこともある。
そんなもんで取り戻そうなんて
甘すぎた。青すぎた。俺は、馬鹿すぎた。
だから、それ以上触れられなくなって、ほんのりとあたたかい服の中から手を抜いた。
胸を離して、ようやく望美と目を合わせる。
「どうしたの?」って顔してる。
薄闇で抱き合った時間のぶんがそう見せるのか、大きな目は一見、潤んでいる。
が、それに甘えてのらくらしてると、いつの間にか見切りを付けられてしまう、
まるでその瞬間が見えた気がした。
「望美」
「ほんとにどうしたの」
望美が言うのは、いつにない俺の表情のことだと思われる。
俺は、その目で見ようとしていた。流石に真面目にもなる。
ここ数日、俺は流れに甘えて、キスしたり手を繋いだり抱きしめたりしたが、
そんなものは、望美がさっき作った、枕のバリケードとさして変わらない。
望美の本当のバリケードは、
もっともっと奥のほうに、もっともっと高く、
堅牢に作られたものが立てられている。
望美のこころの中で、俺たちはまだ、しっかりと、
あっちとこっちにわけられている。
けじめを付けるならいましかない。
俺は、黒か、白か。
いま、この命題に、答えなければ、抱けない。抱いてもきっと、意味がない。
良く出来て、また傷つけることくらいだ。
「好きになってくれねぇか」
「……って」
「あんとき改札くぐれなかったぶん、必死んなって掴みに行くから、
もう一度だけ俺のこと、好きって言ってくれねぇか」
自由にした手の、行き場がなくて妙な気持ちだ。
何もしていないとき、手は、どういうふうにしているんだったか、
答えを待つとき、顔は、どういうふうにしているんだったか、
当たり前のことが、何でこんなにできないんだ。
「将臣くんって、いくじなしだったっけ」
「―――あぁ?」
ようやく表情筋を動かすことができた。
望美は呆れたように深く息を吐いて、それから俺の手をとった。
手の行き場もできて幸いが重なる。
しっくりと、細い指が両手を包む。
「『好きって言え』とか言うのかと思ったんだけどな」
「……そんくらい言えりゃ良かったんだが」
「じゃあせめて、『お前は俺を好きだよな?』とか、私が綺麗になったって拗ねるんなら、前のお前に戻れとか、
将臣くんらしく言ったらいいのに」
塗り替えるより、と、最後に付け加えた言葉が震えていた。
そうだった。
そもそも、何故望美が、いま俺の部屋で泊まることになっているのか。
望美は、俺と別れたということを、家族にさえ話していない。
綺麗になることは、女にとって決して忌むべきことではないだろうが、
変わることには違いない。
それは、果たして望美自身が、望んだことだったか、否か。
―――答えは、俺も、同じだ
「戻って、いいのか」
「当たり前でしょ」
「だが」
「綺麗になった、なんて」
不満そうに力を込めた、望美の手のひらの中で、締められた俺の指先が動く。
この柔らかいケージを出て、抱きしめたくて、動こうとする。
「将臣くんしか知らない私は、それだって、十分綺麗だったのよ」
聞いて、どれくらい時間があっただろうか、
こっくりと俯いたのは、涙が迫り上がって来るからだ。
望美が先に泣いてくれたなら、俺は、もらい泣きだとでも言えるんだが、
生憎望美は、体のいい言い訳をくれなかった。
ああ、言葉通り、泣くほど望美が好きだ。
どのツラ下げて言おうかって、三年ほど考えたが答えが出ない。
出ないどころかこんなじゃあわせる顔もない。
「泣き落としのつもりじゃ、なかったんだぜ」
「私だって、もらい泣きじゃないんだから」
「そっか」
そう、例えば、その涙を拭うために、俺の手はある。
いつまでもかわりなく、望美を抱きしめるためにある。
「好きだ。お前が好きだ。だからお前も、好きだよな?」
望美が頷いたのは、さらさらとした髪を撫でる途中。
「ん、なら、いいんだ」
泣きじゃくったんじゃなくて、頷いたんだと、信じてる。
|