学校へ行く前に、慌てて干して出た洗濯ものが、
帰って取り込む頃にはなんとなくアスファルト色が積もっている気がするような、
そんなちっこい部屋に、四年ほど一人で暮らした。
出窓のない部屋で暮らしたことも
イコカの使える街に住んだのも、何もかもが初めてづくしの日々だった。
当時、引っ越しの荷物開けを手伝ってくれたのは母親で、
料理も洗濯も基準値に満たない娘を案じ、関西見物にかこつけてついて来てくれた。
予定通り、最初の一週間を泊まったあと、
まるい折りたたみテーブルの上、頑張って! という内容の手紙が置いてあるのを、
私は初めて暗い部屋に帰った日に見つけることになる。
その日は、子どもじゃなくなってから一番泣いた、記念すべき日になってしまった。
だけど、実際目の前で、
「じゃあ帰るからね、これからひとりでがんばってね」
なんて言われたら、泣きたくたって泣けないような性格をしているもんだから
母がした行動は、やはりに流石は母というか、
それとも母も、私と一緒では泣けないのか、どっちもとても、有り得ると今では思う。
うそみたい、とあの日、電気を消した部屋の隅で思ったこと。
いま、また出窓のある家に帰って来て、あの日のほうがうそみたい、と思うこと。
時々帰省はしたけれど、四年間ほとんど空けていた部屋なのに、
服はここ、小物はここ、というふうに、身体は迷いなく正しい引き出しを開けて、
まぁ、そう広くはない部屋だから忘れるほうが難しいのかもしれないっていうのはあるにせよ、
ふるさと、それは快適、間違いない。
それからもうひとつ、消えない習慣が残っていた。
寝る前に、つい出窓のカーテンを開けようとしてしまうのがそれだ。
正確には開けるというよりは、チラと隙間を作って覗くくらい。
向かいの、同じく出窓の部屋に、まだ電気が点いているかどうかが気になっていた頃の癖で、
ついてなければそのままベッドへ、ついていれば、窓を開ける。
ガラガラと、静かな界隈によく響き渡る音をさせるのはわざとで、
そうしてしばらく待っていると、向かいのカーテンが開く。
そして、
「なんだ、お前も起きてたのか」
みたいな、聞きつけて開けたに違いないのにそんなことを言って、
その顔を見たくて高い音をさせた、とは言えない私を、
将臣くんは上手く解してくれた。
高校生とは思えない周到な気遣いは、
高校生を遙かに超えた年齢を過ごしたことがあるからなんだろうけど
顔も髪型も、元通りに戻っている風貌とは少しちぐはぐで、
早く時間が将臣くんに追いついたらいいのになぁとか、思ったりしたのが昨日のことのようだけれど、
私たちは22になって、将臣くんもようやく、未経験の年齢を踏み初めたことになる。
変わっていくこと、変わらないこと、
それらはどっちも本当だということを、まだ上手く説明できない気持ちでいる。
鎌倉の会社にエントリーシートを書きながら、
始めようとしていることが、終わったはずの恋でなきゃいいけど、
と、心の深い深いところの潜在意識に、気付かない振りした私は、
使えなくなったイコカをまだ捨てられない。
別れの季節でもあるけれど
圧倒的に、出会いの季節であると思う。春。
何か新しいことを始めようとするときは、春だというだけでうんっと背中が押された気になるはずなのに。
始めただけで、できた気になってしまう。とも言う。
そして、何かを終わらせようとするときには
まだ迷っていても、その覚悟はなくとも、先に事のほうが終わっている。
そういう、それが、春という季節だ。
潮風が髪を巻き上げた、しばらくぶりの江の電のホーム。
降り立ったときの、靴の音。
どうしたって、同じ電車に乗ることになるのは運命なのか、というひとの声を聞いたとき、
そのとき、全てが、巻き戻ってしまう気がした。
いつかの冬に終わらせた恋は、綺麗に冷凍保存されていて
春がそれを、みるみると溢れ返らせて、溶かしてしまうんじゃないかって
望美、と、その名は
彼が呼ぶと、ああ私の名前なんだって
何故そんなに、改まって、私の耳は感知したのだろうか。
つい思い出しそうになる気持ちを、
「ダメ、絶対」とふたたび凍らせる為の、次のチャンスは花冷え。
ゆらゆらと、足元の覚束無い気持ちなんか、薄い花びらにして飛ばしてしまいたい。
一度溶けたものをもう一度凍らせると、余りおいしくないとかいうんだっけ。
もったないけど、惜しいけど、
もう関係ないじゃない。
二度と食べられないような味になったって
もう、なんだっていいじゃない。
「ねぇ」
カーテンに向かってひとりごと。ばかみたい。誰が答えてくれるの。
それもこれもぜんぶ、何日経っても唇の感触が消えない所為。
「ふー」
今夜もまた習慣に負けそうになって、
つい出窓に向かいそうになった踵を否と修正した私は、
投げ出るようにベッドへ沈んで、枕に顔ごと埋まって溜め息をついた。
これからは、この出窓の向こう
厚く閉ざしたカーテンの向こうには―――
―――ついに同時に開けてしまったそのときは、何の話をしようか
まだ、わからないの。
◇
学生でも社会人でもない、折角のモラトリアムを過ごしているのに、
全く休んでいる気がしない。
三日と空けずに、似たような誘い文句でメールが来るからだ。
(将臣くんて、こんなにしつこかったっけ)
今日も今日とて携帯が震え、私はやや困惑していた。
だって異世界にあってすら―――夢の中で待ち合わせしたときのこと
あのときだって、会えるなら会えるだろ的な約束しかしなかった訳で、
日にちも時間もアバウトに、将臣くんは上手くいきゃラッキー方式のひとなんだと思っていた。
まぁ、そもそもあのときは、
夢の中の約束が、現実世界に繋がってたことのほうが驚きだった訳だけど。
(そのうち夢にまで出て来るんじゃない…?)
その可能性は否めない。
だって1日24時間のなかで、将臣くんのことを意識する時間が、明らかに増えている。
そして、明らかに濃くなっている。
ゆっくりしたいのにモトカレのことなんかで、こんなふうにさせられたくない。
(…のになぁ)
頭をくしゃくしゃ、とやって、声に出した溜め息をついた。
さぁ、今日はなんて言って断わろう、と近頃は、
来る前から頭を悩ませていたりするくらいだ。
・家族がご飯に連れてってくれることになってるから。
・人事のひとに呼び出しをくらっちゃったから。
・美容院に行くから。
どれもこれも、使ったなぁと、送信済ボックスを辿りながら考えている。
そろそろ断わる理由がなくなってしまったわけだ。
背水の陣。
一連の攻防は、ホームで鉢合わせた日の、『飯でも食いにいかねーか?』から始まった。
家族がご飯に云々はそのとき返事した内容だ。
確かに断るために打った訳だけど、別に嘘をついたわけではない。
離れて暮らしていた娘が戻って来たとあっては、いつもは質素なウチの食卓だって、
外食の少々豪華なバージョンにもなるという、不思議ではないただの事実を簡潔に述べたまでだ。
ていうか将臣くんの家も似たようなことになっているはず、
そんな日にカノジョでもない私を誘ってご飯に行こうなんて、
いくら傍若無人な長男でも流石に空気読むべきだと諭したら、
『なるほどな』
でメールは素直に途切れて、ほんとにホッとしていたというのに。
(キスしたのがいけなかったな)
思い出すと、いまでもあ〜あ、と顔が歪む。
両親にはいいお店に連れて行ってもらったのに、好きなものばかり食べたのに、
唇はモトカレが奪ってった不躾な柔らかさがずっとずっと邪魔していて、
味なんか全然しなかった。
それはその日眠るまで続いて、いまでもまだ続いている。
今日来たメールは、飲みに誘うものだった。
ふたりとも二十歳を過ぎて、確かに大手を振って飲みに行ける歳だけど、
だから、断わりたいのは年のせいじゃない。
将臣くんと飲みに行きたかったのはもっともっと前の話。
いまじゃないからだ。
(「部屋着になっちゃったから」。はどうだろう)
着替えりゃいいじゃねぇか、って返ってくるのが画面に見えるようだ。
なんなら手伝ってやるぜ、もついてくるかも知れない。断じて却下。
「……」
下手な言い訳はやめて、今日こそ私は直球で返すことにした。
もうそれしか選択肢がない。
『行きたくない』。
その前後に「悪いけど」とか、「また今度」とか付け足したくなる前に、
そして、指がほんとにそうしてしまう前に、
目をぎゅうとつむって送信した。
「よし」
無視してたらそのうち諦めると思って、携帯はベッドに放り投げ、
その足でお風呂に行くことにした。
これでどうあっても、私は30分は返信できない。
そして、髪を乾かしたり鏡に向かったりしているうちには、行くべき店も仕舞うのだ。
我ながらいい作戦である、と私は悦に入った。
◇
―――はずなのに何故、私の前にはお酒が運ばれているのか。
隣には将臣くんがいるのか。
「美容院なんて、口実だと思ってたんだがな」
言葉に笑った声音を乗せながら、将臣くんはまるい目をして、
ふわふわとカールさせた私の、腰あたりにかかる毛先を、グラスを持たないほうの手で取り上げた。
元幼馴染みだからって随分と気安いものだ。
ま、いいけど。
「そう言ったでしょ。たまには巻き巻きにしてみようと思ったの」
「へぇ。珍しいこともあるもんだ」
「……春だから」
小さい頃から、まっすぐ長くした髪型以外を知らないはずの将臣くん。
私はその髪型でいるのが好きだから。
長さは多少変動するが、パーマとかは一度もかけたことがなかったのが私の髪である。
「もっと早く出てくりゃ、旨いもん出す店も開いてたんだがな」
将臣くんは残念そうだ。
言うようにだいぶ夜が更けてしまったこの時間、
開いているのは本当に酒を飲むための店と言うか、
カウンターとバーテンしかいない感じの細長い店ばかりで、
そのうちの一つに私たちは入った訳だ。
こういう所には、私は余り来たことがない。
爪先をつけるには高い椅子、組んだ脚は気がつくと所在なく揺れている。
「しかし、よく出て来たな」
そう、来るつもりなんかなかった。
諦めてなんて思いながらも、お風呂から上がってからも、
5分置きに確認してた私も私だとは思う。
まだ来ない、やっぱり来てない、って、
ちょっと切なくなっていた私も私だと、ほんとに思う。
『行きたくない』
のあとで、私の目は、何度か新しい文面を読んでいた。
そのめげてなさは、やはり将臣くんにはしつこいところもあるんだということを
新たに私に植え付けた。
それでも、ドライヤーとかヘッドホンとかで無視を決め込んでいたんだから、
そのうち来なくなったなら、ヤレヤレとばかりに安心すればいいはずだ。
それなのに、私がしたことといったら
ふてくされて機体を手の届かないところまで放ったり、やっぱりやめて枕の下に埋めたり、
とにかく、何度も触ったということは、それだけ気にしていたということなんだと思う。
だから、二時間くらい放置されたあとで、ベッドの端っこでぶる、と振動したのを、
釣り上げたばかりの魚をつかみ取るみたいにして取り上げて
パカ! と開くまでを一息にしてしまったときは
我ながら情けなかった。
寝てないことはバレてんだからなみたいな、ギョッとなる文面だった。
言ったように将臣くんの部屋は私の部屋の向かいにある。
それはつまり、電気が点いてることが将臣くんの部屋から確認できるということ。
返信しないのはわかっててやってた、ってことが、
将臣くんまで筒抜けだということ。
私はようよう観念し、
いよいよ返信する前に母の鏡台からホットカーラーを借りたのだったが、
そのとき思っていたことはこうだ。
嘘はつくもんじゃない
『美容院に行くから』と言って誘いを断わったことがあるのを、思い出して本当に良かった。
長さを繕うことはできないから、あの口実を有効にするには、
毛先を巻き巻きにでもしておくしかない。
パーマでもかけてきましたよというふうに、工面しておくしかない。
『30分はかかる』
『迎えに行く』
そんな遣り取りをして、30分後に玄関を開けたら、
門のところで既に将臣くんは待っていて、
なんか寒かったみたいで、
「遅ぇって」
って苦言した。
「……だから30分はかかるって言ってるのに」
夜露の中、門で待たなくたって、出窓から見てればいいじゃない。
そうやって、私が出てから出て来たって、十分間に合うじゃない。
将臣くんの部屋からあの立派な階段を降りてここまで、1分だってかからないじゃない。
そこまでして、私に会いたいことの意味を、
正直はかりかねている。
「長いことメールも寄越さなかったくせに」
私は、そんな言葉で、途切れていた会話を繋いだ。
グラスが底溜りだったので、続きにバーテンを呼んで新しいのを注文した。
「打っても返事来ねぇのわかってたからな」
「そうだけど!」
「つか、不用意にメールして、空気読め、って状況になってるってことも、有り得るだろ」
「……って?」
「そういうときに『トモダチから』とか、言い訳されたくなかったんだよ」
―――勝手なこと言って
最初にそう言い訳したのは誰だと思っているのだろうか。
覚えてないなら喚起させてあげることも、こちらとしてはやぶさかでない。
そのとき新幹線で二時間の距離を繋げたのはメールじゃなくて電話だった。
受話器を手のひらでふたをしたらしいその向こうがわ、
私はトモダチってことにされたのだということを、
訓練された源氏の神子の、この耳は聞き取ってしまった。
そっちにいるのは平家の神子か、そんなことは知らないけれど
彼女はテレビの音ってことにされた。
テレビの音はそんなふうに、空気をビリビリと振るわせたりしない。
ドキリとこちらの胸に、響いてくるような温度を持たない。
聞いてますかー、あなたテレビの音らしいですよ?
って、トモダチ的には言ってあげたかったくらいだ。
どっちにも、大変失礼だ。
テレビの音に、受話器をフタして話しかける将臣くんは、
その瞬間に私の中で、いったい何に成り下がったのだろうか。
あれから三年、いま将臣くんは、私の中で何になろうとしているのだろうか。
マルガリータです、とか言っただろうか、
バーテンが置いた新しいグラスを、私は、コースターごと引いて来てがぶりと飲んだ。
ああ甘い、そして刹那に、蒸留された苦い後味が舌の根を追い掛ける。
「おいおまっ、それ口あたりはいいが結構」
「強いのは知ってます!」
「いや、酒よりお前が強いなら別にいいんだが」
「……それはしらないけど!」
まさしく、あ〜あという表情をした将臣くんに、グラスは持って行かれてしまった。
「なっ、返して!」
「だめだ」
ヒョ、と子どもから何かを取り上げるような仕草、
カウンターでつんのめる私は、周りからどういうふうに見えるのか、
いや、そんなことを気にする気分ではなかった。
「もー返して!」
「潰れても知らねーぞ」
「返して……ッ!」
だってそれは
それは、わたしのなんだから
私のものを横から攫われて、あとでひとりで泣くのは
もう金輪際そんなのはいや。
私は10本の指先を全て使ってでも、それをこの手にしなければならない。
眉毛斜め上方で、からりと硝子を叩く氷の音まで、ぜんぶぜんぶ、手に入れなければならない。
「ゆっくり飲むって言うなら返してやる」
「返してくれたらゆっくり飲む」
「ほんとだな?」
と、夜の色の目が、近くちかく覗き込む。
本当はそれが、ずっとずっと欲しかったものだったのだと、
もう少しで言ってしまいそうだ。
届いてしまいそうだ。
「本当だよ」
まるくした手のひらの中に返ったグラスは、
包み込むと、将臣くんが握ってたぶぶんだけが浮き上がるようで
そこだけ氷が溶けたみたいだと思った。
◇
中座して戻り、やや高い椅子に弾みをつけて座り直したときだった。
「鳴ってたぜ」
将臣くんが指すのは私の携帯だ。
コースターの傍に置いていた。
規則的にLEDが点滅している。
「あぁ、メールかな」
「さぁな」
将臣くんは、背の低いグラスを、やや深く傾けて飲んだ。
私が携帯を開くと、続けざまにまた飲んだ。
(ふーん)
なるほど、である。
誰から来た何なのか、将臣くんが横顔でしきりに気にしているのは、
多分その一点だ。
―――ふたりの間にある、空白のじかん
空気を読みすぎてメール一つ寄越さなかった間の
知られざる私の時間について。
「もう行かなきゃ」
画面から顔を上げずに言った。
そうしながらパチパチと返信の文面を打つ。
「……誰からだ?」
「誰でもいいでしょ」
文末に絵文字を入れて、送信した。
ぱちんとフタをして、取り上げた鞄につっこむ。
もとの場所に戻さないのは、もう行くっていうのを知らせるため。
座ったばかりの座面から軽く降りて、まっすぐ戸口を目指す。
「ちょ、待てって望美!」
厚い扉を押し開くと、まずは階段になっている。
雑居ビルの中の一つ、すぐに表に出られないのが難だ。
エレベーターもあるけれど、ランプの示す階床から計算すると、待っている間に足がつきそう。
支払いをしている間に駆け下りて、撒けるかどうか、私は脚を速めた。
狭い踊り場に自分の足音を響かせているのがとても気になる。
将臣くんは足音だけで、私の行く方向を、きっと聞き分けられるから。
そのように訓練された耳を、私と同じように彼もまた、持っているから。
掴まえられないように、降りて降りて、息急きながら最後の数段を飛び下りた。
大通りから一筋入ったこのあたりは、
同じような雑居ビルが乱立する場所で
外灯は少なくとも店の看板がひしめいていて夜でもかなりの明るさがある。
左右、どちらに進むのかを決めて、
一歩走り出してしまえば、細い抜け道がいくつもある。
よし、と決めて、くるりと鋭利に向けた踵は、
最初の曲がり角だけを目指していた。
曲がれば、隠れることができる。夜に紛れて息を殺して、彼から逃れることができる。
溶かさないで、悔しいから。
トモダチにされてモトカノになって
それでも春がやって来て、私の心は揺れている。
たくさんの季節を越えたあとで
幾つかの恋をしたあとで
額の裏に思い出せる顔はそれなりにある。
それなのにそのなかで、それでも将臣くんだけ特別のままだなんて、
誰より私が認めたくないんだから―――
―――春なんか、来なければいいのに
冬のままで、良かったのに。
「望美、」
ほらまたそうやって、追いついて。
もうすぐだったのに、隠れる直前にぐん、と引き戻してしまうひと。
体格差をいいことに、後ろから羽交い締めにして。
抗えないのは、走りすぎたからだ。
繁く浅い息をする胸は、私も将臣くんもそう変わらず、
その、体温を上げた身体から、どうにかして擦り抜けたいのに、
しっくりと狭くなってくる二の腕を、ぎゅうと皺にすることくらいしかできなかった。
「千鳥足」
掠れた声がそう言った。
巻いた髪の隙間を、じわじわと鼓膜まで染み込んでくるようだ。
「だからゆっくり飲めって言っただろ」
「だって走るなんて」
「想定外、だったか?」
「―――」
そう、こんなに早く、ボロを出してしまうことも。
行く宛なんか、なかった。
あるとすれば辛うじて、小さな辻の夜のほとり。
それさえ取り上げられてしまった今は、将臣くんの腕の中くらいしか
かえるところがないみたい
どうやら私は、そうみたいなのです。
悔しいけれど、こうなって、逃げるための力が
どこからも湧いて来ないのです。
「携帯貸せ」
「やだ」
「じゃぁ誰んとこ行くのか言え」
「やだ」
「……聞き分けねぇの」
拗ねたように言って、腕が少しだけ緩んだ。
私は多分にホッとして、だから確かに油断したのだと思う。
将臣くんのぬくみが離れるのと同時、手首から鞄がふいに抜き取られてしまうまでは、
ほんの僅かだったのだ。
「や、返して…!」
酔っぱらいは同じことを繰り返し言うというけれど
ねぇそんなの、地でいくつもりは毛頭ないんだけど。
こんどはカウンターじゃなくて狭い辻をつんのめり、
届かないその腕を掠めて、追い掛けたり背伸びたり。
「ねぇってば!」
「うるせぇなぁ」
と、鞄だけが返って来たって何の意味もない。
まずいのは、見られては困るのは、抜き取られた携帯だ。
将臣くんの手のひらの中で、おもちゃみたいになっているそのしかくい機体だ。
私は腕にしがみつくようにして、ぶんぶんと振った。
怒るよ、とか、お願いとか、牽制したり懇願したりしてみたけれど
結果は徒労、私の手では届かないところ、夜空に突き立てるようにして、
パカ、と開かれてしまったあとは、もう涙目になって俯くしかなかった。
そのよい目で、その文面は、どのように見えていますか。
「……なんだこれ」
「……おかあさん」
「は、わかるんだが……」
『泊まってくるわよね?
カギ締めちゃうわよ。』
っていう、そういう内容だったのだ。
将臣くんは歩を緩めて、私は更に、腕に巻き付く。
恥ずかしさの極みに負けたのだ。
「おばさんの中では、お前は誰と出掛けたことになってんだ」
「……将臣くん」
「俺と泊まってくることが、おばさんの中では普通って意味か?」
つっこまないで欲しかった。
お願いだから、そのことは、そっとしておいて欲しかった。
「……だって言ってないんだもん」
「何を」
「将臣くんと、わかれたっていうこと」
「―――はぁ?」
びっくりしないで恥ずかしいから。
言い訳のしようがなくなって、四面楚歌で吐露しているんだから。
三年間、それは長いか短いか、
それだけの間、私はどうしても知らせる気になれなかった。
将臣くんの彼女じゃなくなった私のことを
言葉にして、文章にして、空気や電波に乗せてしまいたくない。
私の放つ言霊のちから、やがて五行に溶けてゆくというそのちからは、
放ってしまえば本当になってしまう気がして
せめて、誰かの記憶に残る私は
いつも、いつまでも、将臣くんの彼女でありたい
将臣くんだけを好きでいる私でありたい
新幹線の改札で、今はと背中を向けたとき、そう固く固く決めた。
「大した戦術だ」
「どうも」
携帯は、直接鞄に入れられた。
「これで、おばさんに言い訳する必要はなくなった、ってことだからな」
「言い訳って……」
「今度からお前を誘うときは、凍えてないで堂々とチャイムを鳴らせる」
まだ許した訳ではない、と、私は勿論主張した。
腰に手を回しでもして、あからさまに彼氏気取りなんてされては困る。
「許して貰おうなんて思ってねぇよ。それだけのことした、それはわかってる」
ぽっかりとした夜の空へ、将臣くんはあっけらかんと言った。
許されることと、もう一度私を好きになることは別だと言った。
そうならば、許すことと、もう一度将臣くんを好きになることも、別としてしまっていいと、
彼はそう言うのだろうか。
「さて、どうする?」
「……何が?」
「泊まってくかどうか」
カギは、かけといて下さいって、返事をしてしまったものだから
そして、将臣くんには、それを読まれてしまっているものだから
「……千鳥足なので」
そう言って十分通用するくらいには、酔っていて良かった。
アルコールの蒸発し始めたふたりの身体に沿うようにして
ほころびはじめた夜気が過ぎてゆく。
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