■現代ED後の未来軸/ハッピーエンドですが、いっかい別れた後のお話なので、苦手な方はご注意ください■
子どもの頃を過ごした街を、車窓から眺めていた。
電車が速度を落として、脚を組んでいた身体が前のめり、
窓枠に引っ掛けるようにしていた肘も、同じように前のめり、
危うく舌を噛むところだった。
(つか、どんだけぼーっとしてんだって話だ)
自分でつっこみながら降りる支度をした。
街を出る前―――つまり学校から帰るのにこの電車に乗ってた頃は、
このあたりでスピードを落とすと、意識していた訳でもないがなんとなく身体が覚えていて
こんなふうになることは十中イチもなかった。
というか一緒に通ってた隣の家の女のほうは、それでも十中八九前のめったから、
それを片手で支えてやるのが俺のするべきことだった訳だ。
よろけてる暇はなかった。
腕を引けば細っこくて
やや大きくよろめいたときは腰だったりして、やらけぇなぁとか不埒なことを考えたり
ま、それもいい思い出だ。
正確に言うと、思い出に変わっちまった訳だ。
電車は更にスピードを落とし、きつくかけられたブレーキの音と共に
目の端で流れてく白いラインを見ている。
『彼女』なんて呼んだのは、その頃の、あんま長くはない期間だけ、
その前は幼馴染みだったし、そのあとはモトカノになった。
いまの俺にはあと何人かそういうのがいる訳だが、
そのうちの一番初めのモトカノがあいつだ。
あの頃手を繋いで降りたホームに、でっかい旅行鞄で片手を塞がれながら降りるとき、
海の匂いの厳しい風が、伸びすぎた前髪を攫って車内へ吹き込んだ。
春にしては、随分冷たく感じた。
江ノ電が巻き上げた向い風に、俺は睫毛を逆らわせるようにしながら、硬いコンクリートへ足をつけた。
忘れてねぇな、この感触、みたいな気分だ。
(……帰って来たか)
長いような、短いような、四年弱が過ぎていた。
改札はどっちだったか、と首を左右に向けようとしたが、
幸いあとから降りた地元の客が追い抜いてくれて、そっち方面に行けばいいことが知れた。
鞄を肩に掛け直し、既に遠い電車のケツを見ながら歩き出して、ん、と声に出してしまったのは、
前の車両から降りたらしい女の所為だった。
降りてきたままの方向を向き、まだ立ち止まっている。
スーツケースを傍らに置いて、困った風情で俯いて、長い髪を弄っている。
いまの風で、コートの留め具かなんかに引っかかったらしい。
桜色の髪は、括るより長くしてるほうが好きだったよな、と、
一瞬にして思い出してしまった俺だ。
忘れるはずのないその立ち姿に、次の歩を繰り出すことができなくなった―――
―――なんて、心の内ではそうしたいとこだが、俺の脚はつかつかと彼女に歩み寄る。
うっかりモトカノに遭遇して、気まずそうに無視して通り過ぎるなんて芸当が、
できるようにはできていない。
できるのは、何事もなかったかのようにして、弾みを付けて話しかけるくらいだ。
「お、望美じゃねぇか」
望美は、あからさまに身体をこわばらせた。
見向きもしないのは声で俺だと感知したせいだろうが、やや上からの目線で覗き見たところによれば、
『何で話しかけるのよ』
もしくは
『どうやって返事しよう』
みたいなことを思っているに違いない表情をしている。
髪を解くのを中断して、指に絡み付けたまま固まってしまった。
「望美だろ? 俺だって」
「……わかってるから何度も呼ばないで」
「わかってんなら返事くらいいいだろ」
傍に立って旅行鞄を投げ出した。
その音にびっくりしたような様子を繕って、望美はようやく顔を上げた。
もう長くほんものを見ていなかった、ふかい海の色の目だ。
「将臣くんが乗ってるなら次の電車にすればよかった」
「そりゃ随分だな」
「イコカが使えなくてきっぷ買ってたら電車来てて、走って乗ったんだよ。もうほんっ…ッと損した」
イコカとは関西圏で使われているスイカのことだ。
関西人にそう言うと、スイカのほうこそ関東で使われているイコカのことだと言って怒られることもあると聞く。
ま、そんなことはどうでもいい。
問題は、望美がスイカでなくイコカを持っている理由のことで、
それはつまり俺とは違う地域の大学に進学したことを示している。
関西人に怒られる云々については、進学当時望美と電話で話した内容のうちの一つだ。
まだモトカノじゃなく、カノジョだった望美と。
「んなの俺に言ったって知るかよ。別に選んで乗る訳でもねぇし」
言うと、そうだけど、と望美は更にむくれて、
解け始めていた髪が更に巻き付くんじゃないかというような仕草をした。
更にそのまま歩き出そうとする。
スーツケースを寄せる為に腕を伸ばした、たったそれだけで引き攣れて、
見てるこっちが痛みを覚える。
「ほら待てって」
「もうなに!」
「髪。絡んでんだろ、かしてみ」
案の定大層な拒否反応を喰らった。
そうでなくとも意地っぱりな性格をしていることはよく知っている。
遠恋になって、どのくらい彼女でいてくれたのか数えると切ないが、
その、だが季節ひとつ変わらないうちとは決して言えない、短くはない期間の中で、
望美はたったの一度さえ、淋しいと言わなかった。
『大丈夫』
そればかり言っていた。
というか、そう言っていた望美しか、俺が覚えていない。
俺がバカやったせいで、ついに別れることになった日に、最後に聞いたコトバもそれだ。
新幹線で会いに行ったが、改札をくぐることさえ許してはもらえなかったという、
『一歩でも出たら白龍呼んであっちの世界に送ってあげる。二度と送り返すなって言ってやる』
望美なら、できないことはないと思うと身の毛がよだった。
万一実行された日には、関係の修復は一生出来ないことになる。
いまは、と涙を飲む気持ちだった。
思い出すだけでも寒い、ちなみにクリスマスイブの話だ。
髪を絡ませたままスーツケースを引いてずんずん進んでゆく望美と、
追い掛けて留めようとする俺と、
何だかあの頃が重なる気がして、
どうしても呼び止めて、髪の一つや二つ、この手で解いてやりたくなる。
「望美」
「大丈夫! ひとりでできる」
「いや、そうじゃなくて」
「……なに?」
「ジュースおごってくれねぇか」
「―――ハ?」
「喉乾いてんだ。お前も相当乾いてるだろ、そんなケンケンしてたら」
ちょうど自動販売機の前だったのは都合が良かった。
さも必然を装って、顎で指してやる。
望美はしばらくやはりケンケンしていたが、やがてふかく溜め息をつく。
呆れた顔を再び俺と合わせるまで、何を考えただろう。
「ケンケンしてません」
ゴロゴロとカートの転がる音が近づいて来る。
「……どれがいいの?」
望美は、腕にかけた小さなバッグから、揃いの色のサイフを出した。
前のと違うのか同じなのか、覚えてないことに内心愕然としている。
同じなら俺が誕生日に贈ったものがそれなんだろうし、違うなら違うヤツがそうしたのか、
自分で買ったのならいいが、なんて思った。
「マジか、気前いいな」
「ジュースの一つや二つ」
「んじゃ、お言葉に甘えとくか、って言いたいところだが、」
俺はポケットからスイカを出した。
読み取り部に翳そうとして、望美の顔を窺う。
何してんの? 的な表情であろうそれを。
「え、何してんの?」
「これで買えるんだよな」
「ちょ、待ってそれなら」
「あー、イコカはダメだぜ。残念だがスイカ限定なんだよ」
「あっ! いまイコカのことなにげに馬鹿にしたでしょ!」
「んなめんどくせぇことするか」
すっかりニワカ関西人となった望美に、俺は焦燥と呆気、
そして同時に、何故か可愛げさえ感じている。
「ほら早く選べって」
カードを翳して、しばし待つ。
何が好きだったのか、覚えていれば格好もつくがそうも行かない。
この四年弱で―――というか俺とわかれてから、
好みがガラッと変わった可能性もある。
「将臣くんが選んだのがいい」
「―――あ?」
望美は、甘えたような顔は全くしていなかった。
それどころかとても強気だ。台詞とあまりにそぐわない。期待はずれもいいところだ。
そういうのは可愛く甘えて言うとこだろ、とつっこめるなら幾らでもつっこみたいが、
それもそれで、モトカノに対して言うにはあまりにそぐわない。
次の言葉が出ないなんて、俺らしくもないことが起きるもんだ。
「間違えなかったら、髪の毛解かせてあげてもいいよ」
「そう来るのか」
「ジュースとか、どうせ言い訳なんでしょ」
「……悪いか」
全ては、読まれていたのだと知った。
だてに龍神の神子をやっていた訳ではなかったよな、と、俺は、
望美の見極めた太刀筋と、合わせたときの重さを、改めて思い出していた。
◇
一つ一つの間隔が、少しずつ離れているタイプのベンチだった。
駅の利用者はたいてい大人な訳だが、大人が座るには小さいよな、といつも思うサイズだ。
四つでひと並びになっていて、そこに、俺と望美は何故か間に一つ空けて座っていた。
空けたとこにはピンクのスーツケースと変哲もない旅行鞄が前を占領している。
だから、他の利用者が来たら少しばかりKYな大学生として映るだろうなと思う。
だが、誰かに座られたら正直困る。
今日だけ、いまだけ、少しだけ、許して欲しい気持ちでいる。
「ずるいよねー」
「あー? なにが」
だから会話が少しでかい声になる。
「ココアとか。女の子ならだいたい好きじゃんこういうの」
「だが、『間違い』じゃねぇだろ」
「私が好きなのを買って欲しかったのに」
「嫌いってわけでもないはずだ」
「そうだけど!」
言いたいことはだいたいわかる。悪いと思ってもいる。
が、そうするしかなかった。
自販機の前で選択肢はみっつだった。
望美が好きだろう銘柄を、必死こいて思い出そうとした上で結局思い出せなかった苦肉の当てずっぽうを買うのがひとつ。
そんなの知るか、と正直に言い放ち、俺の好きな銘柄を買うのがもうひとつ。
そして、最後の一つを俺はとった訳だが、
それが、当たり障りないものを買って、とにかく間違えない方法を選ぶことだ。
望美が好きなものを、間違うのは耐えられなかった。
ずるくてもいい。ケツボソでもいい。
幼馴染みから敵同士になって、それから彼氏になって
とうとうそのうちのどれでもなくなってしまった俺は、
せめてこんなちいさなことくらいで、望美に失望されたくなかった。
何故なら理由は簡単だ。
これから知ってけばいいなんて、言ってる場合じゃねぇだろ
あの十七年と、少し歪んだ三年半と、取り戻した季節を足して、
その、長いとも短いとも言えない、恋したことしか覚えてないような時間の中で
望美と俺が共有したものはなにひとつ、わざわざ学習したことじゃない。
髪は長くしているのが好きで
まっすぐなツルツルのが自慢で
テストの順位だとかどっちが好きかだとか、とにかく勝負をしたがって
やっぱ意地っ張りで
そんな望美の全ては、なんでもない日々が教えてくれたことでしかなかった。
そうやって、全部知り合って、わかれあって、わすれあって
俺たちはこれから互いについて、いったい何を知ってくって言うんだ?
「でも、私もそうするかも知れない」
望美は、言って一口飲んだ。
「あっま」
「ちょっとくらい甘み足せ。ツンケンしやがって」
「だからツンケンしてないってば!」
「それがそうだっつってんだろ」
黙った望美が、次に口にした言葉を、過ぎてく回送が掻き消した。
折角解いてやった髪が、また絡むんじゃねぇかって心配になるような向かい風が、
やや遅れて吹き荒れる。
まるで、春一番みたいだった。
コートをぎゅ、と寄せた望美が、その所為でひとまわり小さく見えて、
髪に触れたあとの照れくささに勝てずにベンチをひとつ分空けたことを
俺は後悔したのかもしれない。
「なんだってー?」
「もう言わない!」
「言えって!」
「言わない!」
望美もそうだが俺も、どれほど意地になっていたか、声はつもり以上に怒ったものになっていた。
あからさまに苛ついて、旅行鞄を脚で向こうへ追いやった挙げ句、望美のスーツケースも転がして、
尻をひとつぶん、望美のほうへ移動させた。
これだけで急速に近景になった。目はいいほうだが、遠近感が保てない。
ジーンズが擦れそうで、膝が所在ない。
「言えって」
「……近いよ」
「小っちぇー声でも聞いてやれるようにしたんだ。だから言え」
その、近い近い距離で、覗き込むようにして見た望美が、
急に泣き出したときの俺の焦燥といったらなかった。
何を堪えていたのか知らないが、火がついたように、というのはこういうことを言うのかと思った。
顔一杯を手のひらで覆って、指の隙間から沁み出させるように、
望美が言う。
「『なんでこうなっちゃうんだろう』って」
「……ん?」
「ここで初めてキスしたのに。何でここで、私はツンケンしてるんだろうって」
望美が螺子を巻いて、少しずつ喚起されてく記憶は、いつもの電車を乗り過ごしたときのことだった。
夕焼けが過ぎた海の、波の音がしていた。
小さくなる緑の車体の、ぼやけていく赤いランプを見ながら、
ああもう少し、このまま。
そう思って浜辺に降りた時の音がする。
本当は、海にいるうちにしたかったことを
まだまだケツの青いガキだった俺は、望めどそうも行かなかった訳で
二本か三本あとの電車でこのホームに降りてから
まだいいだろとか適当なこと言って―――
「その時も、ジュースおごってくれって言った」
「……マジか」
進歩のないヤツだ、と俺ならそうつっこむ。
「甘いのがいいって言ったら、ココアでいいかって」
「んじゃそれで合ってんじゃねぇか」
「ココアじゃなくてミルクティがいいって言ったの」
「……へぇ」
「完全に忘れてるね」
「うるせー。こまけぇこたいいんだよ」
顔を上げた望美は、少し涙を乾かしていただろうか。
少なくとも、更に零すようなことはない、というような顔でこちらを向いた気配だ。
代わりに俺が、望美の顔を見られなくなる。
踏切の音がカンカンと響き始めて、やるならいまか、と思っていた。
初めての彼女に口付けたときと、
モトカノに口付けるときと、
どちらがより、緊張するか、答えはいっそ明解だ。
いまに決まってる。
「ここで、将臣くんが甘いのを買ってくれて、それは何も変わらないのに、私たちは変わっちゃったんだって」
「……変える気はなかったんだけどな」
つい口に出てしまった。あまりにその通りだったからだ。
望美は、いま言われても困る、と言って、また泣きそうになった。
「いや、やっぱり変わったのかもしれねぇな」
言ったことは、どちらも本音だった。
望美とわかれてから、一度も口をきいてなかった。
それは真正直に、電話もメールも含めてだ。
大部分は望美の、清清しいまでの拒否によるものだが、
そのうち、ここまでさっぱりできるのか、と、自分でも信じられなかったくらいに
モトカノになった望美は、急速に俺の記憶から消えてった。
そして、また、急速に色づいて戻って来る。
何だこのデジャウ゛みたいな心地は。
どちらかといえば不快で、同時に、手放すのがとても惜しい期待感に溶かされる。
次はなにを言うんだ、続く未来はどうなっていくんだ、
見える、そこにしっぽが見える気がするから
幻影の先がいまに繋がればいいと
いつしか手を伸ばして、引き寄せたくなる。
望美の前髪を梳かすフリで、ついでのようにして肩から抱いた。
収まる感触まで前のままだ。
―――ということを、こんなことばかり瞬時に思い出してしまう、ずるさ
記憶というものは、えらく選り好みをするんだと知った。
腕の中で望美は、申し訳程度に暴れたように思う。
大人しくなったのは、諦めたのか、それとも俺と、同じような理由からか。
できれば後者であって欲しいと思う。
「電車来ちゃうよ」
「だから来る前に、ここでお前とキスしたい」
「もう彼女じゃないのに」
しっくりと、背中に食い込む指が痛い。
身体的なものじゃない、むしろ心地よいくらいの感触が、痛い気がしてならない。
レールを軋ませて入って来る、江の電のドアが開く前に
確かめたいのは、問い質したいのは
―――それほど、順番なんて、大事か。
「モトカレとするキスじゃ、ダメか」
半ば無理矢理近づけた顔は、まっ赤になって俯こうとして、
まるで俺は、長い髪に隠されてくみたいだ。
それはいい匂いで、やっぱ望美の匂いで、
揺り動かして、頼むから目を合わせくれと、言外にせがみ倒す。
「なぁって」
「……モトカノとするキスでいいなら」
交わしあった言葉は、いまの俺と望美の、偽りない距離感を証明する。
凍ったままの時間が、未だそこに貼り付いていることの証明だった。
「いいぜ」
意識して、きち、と合わせたらしい望美の膝の、ふたつのまるみを隠すようにして片手を置いた。
ぴく、と僅かに震えるのを、何故気付いてしまうのだろう。
それだけで、込み上げるものに背を押されるようにして、
迷いの紙一重を進めてしまった。
輪郭のはっきりとした唇は、遠慮がちに沈んだ。
力が入っているのは無理もないが、もっと柔らかく、頼りなく
ほどけたときのことを、
この唇が覚えている。
「怖いとか言うんじゃないだろうな」
「……っ、」
「だったら前みたいにすりゃいいじゃねぇか」
「……将臣くんこそ」
ふたりして、遠慮のカタマリみたいなキスをしていたらしい。
「……悪い」
「はい、やりなおし」
心なしか、口元を綻ばせた気がした望美は、
俺の緊張を上手い具合に解いていき
いま、この瞬間から、俺は望美にもう一度、恋をするんだと思った。
電車の入ってくる音を背中で聞きながら、
傾いてく望美の顔を、どんだけ綺麗になったんだと思いながら、
二度目に寄せた唇は甘く落ちる。
電車の窓は透明だが、流石に音までは聞こえないと踏んで、
まるで、深いのをするときのように、わざと水音をさせた。
扉が開くギリギリまで、その間だけ、
間隔の広いベンチの隙間を埋めるようにして、唇も膝も、押し付けあうことで、
この、突如に膨らみゆく思いが伝わればいいと思う。
追い風が拭った拍子に、大事なものが零れてしまわぬように
抱え込むようなキスをした。
高い金属音を上げて電車が止まったとき、
望美は弾けるようにして身体を離した。
それから、立ち上がってスーツケースを寄せて、回れ右するまでは本当に一瞬だった。
「じゃ、じゃぁね帰る!」
「おい、ちょ、待てって」
「ひとが降りてくる前に帰りたいの…! 絶対見られてる!」
それなら俺も是非追い掛けたい。
この状況でひとり残されたらまるでフられた男だ。
―――違いないが
乗客一人一人に説明して回る訳にも行かず、重い鞄を申し訳程度に引っ掛けて、
並んだ改札機をスイカと切符で通り抜けた。
懐かしい景色がそこにあったが、感慨深く眺めている暇もない。
望美は早足だった。
「だから、もういいだろ」
言うまで全く緩めなかったから、
追いついたときにはふたりともやや息が上がっていたくらいだ。
隣に並んだのは進歩だったが、手を繋がせないつもりなのは明らかで、
望美はわざわざスーツケースを俺側に持ち替えた。
そう、盛り上がっていたのは俺だけで、
あれは確かに、モトカレとモトカノのキスだと銘打っていた。
突きつけられて、内心肩を落とした。
「で、帰省か?」
だから情けなくも世間話だ。
「帰省っていうか、就職?」
「奇遇だな」
「将臣くんも?」
「あぁ、向こうでしてもよかったんだが、なんとなくな」
「そ、そうなんだ」
世間話の隙間を、微妙な何かが通り過ぎた気がした。
潜在的なものだったかも知れない。
向こうでなく、こちらに帰ることに決めたとき、
こちらなら、ひょっとしたら、また隣同士になれるんじゃないか、
そうすれば、ひょっとしたら、また望美がこの手に戻って来るんじゃないかという
少なからず、期待を込めてのことだった。
「入社いつからだ?」
「四月一日が入社式で、それからしばらく研修。普通に」
「へぇ」
何? と望美は尋ねたが、別に、と流しておいた。
時間はあるな、そう思った。
カノジョに戻ってくれる保証はない。
が、今日から取り敢えず、俺と望美は向かいの部屋で、
また前みたいに、電気がついたり消えたりするのを、
それなりの感情と共に見つめる日々だけは戻って来た。
「お互いしばらくニートか」
「ニートじゃないでしょ、モラトリアムだと思う」
「ん、だな」
社会人モラトリアム、同時に、恋愛モラトリアムでもある。
四月一日が来て、ぜんぶ嘘でしたなんて言われないように
春の口、俺は再び、幼馴染みの淵に立つ。
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