私と響也の間に、大きな変化が訪れた夏だった。
住むところが変わった。それもひとつだ。
それより何より変わったことは、“幼馴染み”から“つきあってるひと”になったということ。
これは特筆に値する変化だと言える。


そして、特筆すべきことと言えばもう一つある。
私は、つきあってる同士になれば、いろいろと変わると思っていた。
いろいろとはなにかと言うと、その、いわゆるいろいろだ。


そう、特筆すべきは、響也はやっぱり、
「好きだ」と言ってくれないということ。


響也の名誉のために注釈すれば、一度だけ言われたことがある。
ファイナルのあとの打ち上げで、呼び出されたプールサイドでのことだ。
響也は照れながらも一応ちゃんと言ってくれて、だから私たちはつきあうことになった。


それっきり、およそ一週間が経ったいま、
一度は多いか少ないか。


神南のふたりが薦めるだけあって、神戸は本当にいいところだった。
夜景なんか本当に素晴らしかった。
横浜とよく似た景色だったけれど、日常を離れた旅先ということもあって、
私としてはものすごくドキドキしながら見ていた。


この夜景に触発されれば、
隣の響也も、ひょっとして手をつないでくるかもしれないとか、
寒いだろ、とか言って肩を寄せてくるかもしれないとか、
最終的には「好きだぜ」なんて言うかもしれないとか。


だから横顔をなるだけ可愛く見えるように工面して待っていたというのに、
結局その三点は、実現どころか打診されることさえなかった。
だから痺れを切らした私のほうが抱きついたのだが。


響也と私は、同じ田舎から横浜に出てきて、
同じ学校に通って同じ部活に入って同じ寮に住んでいる。
だから慣れすぎてしまったのだろうか、さっきも、好きだと言ってとねだったらものすごく赤くなって、
オレとお前はいつでも話ができるだろと言う。



そうだよ
いつでも話はできる。
いつもそうしている。



それなのに今のところ覚えがないが、
明日帰って同じようにねだったならば、話の合間に言ってくれたりするつもりだろうか。


「……ないな。ないない」


私はベッドの中で寝返った。
灯りを落とした白い壁は灰がかった藍色で、もちろん向こうが透けて見えたりはしない。
けれど、今夜は寮でない。男子棟と女子棟で隔てられたりしていない。
今夜だけは―――



―――この壁の向こうには



ホテルには旅行とかで、何度か泊まったことがあるけれど、
カードキーを使うのが初めてで、私はうまくドアを開けられなかった。
廊下にエラー音を連発で響かせている私を、隣のドアを開けようとしていた響也が見咎めた。


「ったく、相変わらず不器用だな。ほら、貸せ」


手渡したカードキーを、響也は所定の差し込みへ滑らせて、
ドアはそのたった一度で緑の解錠ランプを点灯させた。
確かに開かなくて苦労していたのだが、その瞬間、なんだもう開いたのかと思ってしまった。


だって、開いてしまえばそれで、今夜はおひらきになってしまう。


「じゃーな。明日寝坊すんなよ」
「うん」
「……おやすみ。かなで」
「……うん」


隣のドアは今の流れをもう一度繰り返したしかるのちに、間もなく開くだろうと思われた。


「きょ、響也!」
「あ?」


振り返った表情に、私はどんな感情を読み取ろうとしていたのか、
いつもと変わらないようにも見えたし、何か言いたげにも見えた。
私の顔も、またそうだったろうか。


「あ、あのえっと、そのー」
「なんだよ」
「……なんでもない。おやすみ」


結果的に、私は挫けたことになる。
ちょっとコーヒーでも飲んでいかない? なんて言おうにも、
コーヒーは必ずしも部屋に備え付けられているとは限らない。
というか、部屋にある飲み物なら響也も響也でそのうち目の当たりにすることだろう。
送られ狼にでもなりたいのかと言われて然るべきだが、正直にそうだよと答える訳にも行かない。


いや、答えてしまってからの響也の反応のほうが怖かったのかもしれない。


だから、持て余して、いつもならまだまだ起きている時間なのに、
私は早々とベッドに潜り込んでしまった。


「………はぁ」


ベッドの中でつく溜め息の、なんて情けないことだろう。
ねぇ、響也はどうだろう。
この壁の向こうがわ、彼は今頃、何を思っているだろう。



聞きたい
会いたい
好きって言って



私はシーツから腕を出して、軽く拳を握った。
三回にしようか、五回にしようか、
もし、呼ぶ音がそっちにも聞こえたら、今夜きっと聞ける。


きっと会える。


願をかけるように、月色の壁に向かって、私は拳でノックした。




* 初恋オールウェイズ *






かなでのことは物心ついた頃から好きだと思っていた。
かなでも、物心ついた頃からオレのことは好きだったろうと思う。
いや、別に自惚れじゃない。
その頃の「家族のような」好きじゃなく、
「恋」という意味の好き同士に、オレたちはこの夏変化した。


そして、これも前から知っていたが、改めてへんなやつだ。
オレを呼び出すのにわざわざ壁を叩く。
この世には携帯もメールもあるってことまでまさか忘れた訳じゃないだろうが、
それらがなかったとしても、壁でなくドアを叩けばいいことじゃないのか。
「それも風情」らしい。悪いがその風情については全くわからなかった。


「……響也も起きてたんだ」
「あ、ああ、まぁな」


へんな雰囲気だ。それもものすげぇへんな雰囲気だ。
なんで来ちまったんだろうなと、内心やや後悔している。
その格好で寝ようとしていたのか、キャミソールみたいなパジャマ(?)だ。
夏のど真ん中でもあるまいし風邪引くぞっつーか目のやり場に困っている。
いたたまれなくなったオレはテレビをつけてさっきからそっちに集中するようにしていた。


このへんな雰囲気は室内に踏み入れた時からずっとで、
かなでが起き出した後らしい、やや乱れたベッドに座るよう言われて、
更に膝枕するよう言われて、断わるにも断わりきれなかった。
ま、オレってのはいつもそんなもんだ。


だが、背中から脇の下からいろんな汗が噴き出していることを、
かなではどこまで知っているだろうか。


膝枕自体は初めてじゃない。
それこそ、つきあう前にだってやらされたことだ。
ちょうどいい固さらしい。
尤もかなで以外には試したことがないから、客観的にどうなのかはわからない。


もとい、当時は改めて頼まれたというよりは、遊ぶ間に自然にそういう姿勢になって、
かなでは本を読んでいたり、オレはPSPやってたり、その間に少し学校の話をしたり。
そんな他愛もない、オレたちにとっては日常の延長だったはずのことが、
いまこうなって、膝が固まっちまったのかと思うほど、平常心でいられないオレがいる。


ふと、かなでが身を起こした。
テレビの画面が見辛くなって伸び上がったところで、番組はプツンと消された。
唯一の光源がなくなって、突如、静けさに圧迫されたような気になった。


「な、なんだよ、おもしれーとこだったのに」
「見てないじゃない」
「あ? 見てるだろ」
「いつもなら笑うとこで笑わないから。それに、膝固いし。耳痛いし」
「……」


どこまでも読まれている。
ほぼ身内と変わらないかなでを、ごまかしきることは難しい。わかってる。
普段すっとぼけてるくせに、時々こういうふうに急に鋭くなるのがかなでだ。


「あーあー、そりゃ悪かったな」


膝の上のかなでが起きて、テレビも消えて、
気まずさのピークに達したオレがこの部屋にいなければならない理由は既にない。
オレはなるだけ颯爽と見えるように腰を上げた。
早いところ部屋に帰って、ひとっ風呂浴びて着替えて不貞寝だ。


「待って!」
「……はァ? ―――って」


それはひどい力だった。
立ち上がったオレの背中がぐっと後ろへ引かれる。
力任せの引っぱりの所為で、制服の下のTシャツが、ズボンから半分は出てしまった。


だけでなく、バランスを崩してベッドに沈んだオレの上に、
何故かかなでが跨がっている。


「っ、な、なんだよ」
「ねぇ好き?」
「―――あ?」


思わず聞き返してしまった。
何と聞かれたのか、もちろんこの距離だ、聞こえなかったワケがない。
だが、オレにはなぜ今そういう話になるのかがわからなかった。
前の会話とも繋がらないし、第一この場の雰囲気は真逆だ。


「……ね、好き?」


かなでは元気ぶった声で、強気な顔で追い込んでくるが、その実かなり不安そうだ。
オレが乗らないからなんだろうが、いや、できるなら乗ってやりたいし、
こんなことでキライになったりするはずもないが、わざわざ好きと言いたい気分かというと、
答えは絶対に違う。


男というのは、―――オレだけかもしれないが、単純な生き物だ。
そういう気分じゃない時に、雰囲気を押し退けてまでイエスと言うことは複雑な事情そのものだろ。
加えて、好きな女に雰囲気が悪いからといって好きじゃないと言うことも、複雑だ。
つまり八方塞がり四面楚歌、もうひとつおまけに万事休す。


「……お前な、さっきから」
「さっきも言ってくれなかったじゃない。いまならふたりだけだし、いいでしょ?」
「いや、なんつーか、だからだな」


はっきりしないオレに向かって、斜め45度上から見下ろすかなでがなにをしたか。
かなでとの付き合いは長いが、こんなことをするかなでを少なくともオレは知らない。
完璧に黙ってしまう。唾を飲んだ音まで聞こえてそうだ。
初めて見る顔になったかなでは、そんなオレの手をとって胸にしっくり当てていた。



やらけぇ
とか言ってる場合じゃねぇ



言ってる場合じゃないはずなのに
そのままぎゅ、と力を入れられると、潰しそうな弾力が手のひらを押してきて
放したくなくなる。


「ドキドキしてるの。わかるよね」


わかる。わかり過ぎるから困っている。
かなでのすることだ、払って振り払えない力じゃない。
だが、かなでの着てるキャミソールみたいなのが、本来よりずっと薄く思えてしまい、


気まずいどうのこうのなんか、どっか行っちまいそうで
自制心なんてのは、簡単に吹き飛んじまいそうで
オレは確かにせめぎあっていた。


「……響也は?」
「そ、そりゃ、オレだって」
「じゃぁキスしよう! キスならいいでしょ」
「―――?!」


待て
なんでそうなるんだ
それはマジで、絶対にやべぇ


「ってお前な、んなことしたらキスじゃ済ま
「幼馴染みじゃなくてつきあってるんだから、いいじゃないキス」
「話を聞け!」
「ふ、普通だよね、うん全然普通!」
「普通って、おま、まじちょっ、待―――」


そしてオレは知ってしまった。
かなでの唇のこと。
かなでの唇は、喋るためだけにある訳じゃないということ。


普通の女子がそうであるように、
かなでも、キスをするんだということ。


そうなっちまったらオレの手も、
大人しく弾力の上に乗っかってるだけじゃなかった。
そのかたちを確かめるようにして、円を描くようにまさぐってしまった。
しようと言われたのはキスだけだ。十分わかっていて、どうしても止められない。


「ん、んぅ……」


初めて聞いたかなでのそういう声は、ものすごくいい声だと思った。
オレの中で、かなではこのいくつかの瞬間でガラリと変わっていた。
かなでの中のオレもまた、そうなんだろうか。
いまかなではオレのこと、どんなふうに感じてんだろうか。


こんなにかなでがわからないことも初めてだ。


「…すっげやらけぇ」


唇を離した後の第一声の、情けねぇ声。
とてもじゃないが、繕えない。


「…そう?」
「いつだったか、貧相とか言って、悪かった」
「……うん。で、でも大きくはないんだ」
「これでか?」


指の間で波打ってる薄い生地は、ソースをグラビア誌に限った場合、
確かに盛り上がりには欠けている。
まじまじと見ているのがバレたのか、かなでは更に誘って来た。


「見てみる?」
「やべぇって……そりゃ幾ら何でもやばすぎだろ」
「たっちゃった?」
「ばっ……おっおまっ、なに言ってっ、いい加減に
「ねぇ言って、私の見てそういうふうになっちゃう?」
「……ンなこと言えるか!」


まるで尋問だ。
女に馬乗りに跨がられて、さっきから男の沽券的なものはガラガラ音立てて崩れまくってるが、
それでもオレには、かなでがものすごく色っぽく見えている。


「じゃぁ好き?」
「だから、言わせようとすんなって」
「だって聞きたい」
「あのなー、かなで」


いや、オレの男の沽券なんて、最初からあまりない。
わかっているが、何でもかんでも女からじゃ、あまりに情けなすぎるだろ。
初めてのキスを彼女に奪われた男なんて、クラス中探してもそうそういないに決まってる。
オレは、かなでの胸から手を離した。ちなみに断腸の思いだ。


「かなで。降りてそこすわれ」
「……やだ」
「すわれ」


怒ったように聞こえたか、しぶしぶながらかなでは降りて、圧迫されていた下腹が漸く解放される。
俯いてしゅんと正座した風情が、やっといつものかなでらしく見える。ような気がした。
少しだけもったいない気持ちもあるが、
やっぱオレは、そっちのかなでのほうが好きだ。


いつものかなでが、やっぱり好きだ。


「さっきも、夜景んとこでンなこと言ってたな」
「言った」
「お前の言うのはわかんねぇ訳じゃねーよ。だが、言えって言われると、
 こう、構えちまうことってあるだろ」
「……そうかな」
「いつも一緒にいるのに、ンなこともわかんねーかって、オレ的にはそっちの方なんだよ」


かなでは更に俯いた。
元来素直な性格だ。こっちが誠意を持って話した言葉に、無下に反論したりはしない。
それでも食らいついてくる時は、何か本当に伝えたいことがある時で
そりゃもう火になって、どこに隠れたって追っかけてくるようなやつだ。


今も、聞くだけ聞いて、ぱっと顔を上げた瞬間のかなではそういう顔で、
「でも」だか「とは言うけど」みたいな事を言おうとしたんだと思う。


オレはそれを、仕切り直すための唯一のチャンスだと捉えた。
これ以上こんな膠着を続けてたら、朝まで言えなくなっちまう。
時間が経てば経つほど、どんどん言いにくくなってしまう。


だから、言わせる前に塞いでやった。


「っ、ん…っ」


二度目のキスは、さっきのとはまるで違う、少しだけ女々しい抵抗を感じた。
そして、さっきより全く短いキスにしかならなかった。
手はベッドにつけたまま、オレもかなでも、唇以外は相手に触れはしなかった。


多分、こんなの下手極まりないだろう。
だが、オレは、これを初めてにしたっていいくらいだと思ってる。


「好きだぜ」
「―――え」
「ほら、な。言えるときは言われなくたって言えるんだよ」


抱きしめたいときは、言われなくったって抱きしめる。
そんなもんだろ。


なんて、オレにしちゃかっこつけて言ったから、
照れくさくなって抱きしめたというのが本当のところだが。


「好き。響也が好き。ずっと好き」
「お前の場合は言い過ぎだ」


きっと、かなでとオレはこんなふうに、この先も変わらない。
恋人同士になっても、オレにとっちゃずっと、幼馴染みには変わりない。
それが、オレたちというふたりにとって、大事なとこだと思ってる。


だが、たまには口に出して言わないと、伝わらないこともあるかもしれないと
オレはこの夜、冗談みたいなかなでを目の当たりにしたことで、
或いは知ったのかもしれなかった。


腕の中のかなでの、突っかかりそうな心拍を感じていた。
負けじと胸を押し当てて抱き込んだ、
最後に残った底だまりの自制心では、とても帰るなんて言えなかった。


「お前にばっか誘われるのもなんだからよ」
「うん…」
「なんつーか、アレだ。一線越えてみっか」
「……越えてみる」


イエスと言われてから焦りまくったのは特筆すべくもないことだ。
いざかなでの服に手をかけるまで、数知れない悶着があった。
今にも自分から脱ごうとするのをなんとかとどめて、
オレがやると大見得を切ったが。


「……どやって脱がすんだこれ」
「すっぽり、首から」
「く、首からだな」
「……見たまんまじゃないかな」
「るせー」


どう頑張っても、指先が震えるくらい緊張してんだ。
こんな気持ち、そう易々とわかられてたまるか。