− 小判鮫2・前編 −





11月9日、月曜日。
僕は仕事を終えて、最寄り駅直結の百貨店を出たところなんですが、
ここから一本道をおよそ2分歩くと、2DKの全室南向きの賃貸マンションへ帰り着きます。


「ああ、夕焼けが綺麗」


申し遅れましたが武蔵坊弁慶です。
九郎と一緒に京からこの時空へ跳躍したあとも、一緒に住んでいる腐れ縁、
まぁ、いわば彼とはルームメイト、と、この世界ではそう呼ぶ関係です。


帰る前に百貨店に寄ったのは、今日が九郎の誕生日だから。
そうですよね、何も僕が祝わずとも、彼にはもっと、誕生祝いに相応しい女性がいる。
それは僕も承知です。


けれど、彼女は、毎年それを、忘れる。
そういうところもかわいいのだが、と九郎は言いますが、
一日か二日遅れて祝われることがここ数年来続いていて、
実際9日当日はそれなりに寂しそうな表情で、携帯電話を握りしめていたりするのも事実なんです。


だからきっと、今年もそうなのだろうなと僕は、彼の元軍師・現ルームメイトとして、
当日の女房役を買って出ようかと、まぁそういう訳なんです。


オートロックを解除して、エレベーターを上がりつつ、
左手に抱えた紙袋と、右手のホールケーキの箱を交互に眺めて、
買い忘れがないかどうかを確かめます。
九郎の好きな赤いワインと、ケーキはそれほど好きではなさそうなので適当に見た目で、
あとはおつまみと柿をいくつか、買いました。


「うん、大丈夫ですね」


エレベーターは13階で止まって、歩いて5秒、
荷物を工面しつつカギ穴に金色の合鍵を差し込んできりと回しました。


「―――おや」


僕がびっくりするのは珍しいことです。
それでもびっくりしてしまったのは、玄関先に九郎の靴だけではなくて、
可愛らしい女性の小さな靴が、きちんと揃えて置かれていたから。
間違いなく、望美さんのものです。


苦笑すべき場面です。
実際邪魔者でしかないですよね、この場合。
だから、そのまま何事もなかったかのように、部屋を出て、今日は友人の部屋でも訪ねようかと思ったんですが――――


「弁慶か」


何故わかってしまうのか、いや、それも道理、流石は元・一軍の将です。


「えぇ、ただいま」
「お帰り」


仕方なく靴を脱いで、望美さんの『お帰りなさーい!』などの声を待ちますが、
待てど暮らせどありません。


(へんですね)


そういえば、九郎の声もどことなく、固かった気がする。
彼女と一緒に過ごしている割には、少し、なんというか低めの、
あまり機嫌が良さそうでない感じがするんです。


僕のこういう勘は、外れない。


出来るだけゆっくり廊下を歩いたつもりでも、2DKで稼げる時間などたかが知れていて、
僕は程なく、気まずい雰囲気のリビングに顔を出す事になります。


「おや、望美さん、来てたんですか」


一応、彼女は愛想笑い程度にはこちらを向きましたが、
天晴我が機転、などと悦に入っている場合ではありません。
場は、本当に気まずい雰囲気だったんです。


中央のまるいローテーブルにはコーヒーカップが二客、置かれています。
九郎は出窓の薄いレースのカーテンを凝視してムッツリと胡座をかいていて
望美さんは望美さんで、その隣やや空間を空けて180度反対側、
つまりフスマを凝視して同じくムッツリとした表情で正座しています。


さて、こういうのを、何と言うでしょう。
ええ、きっと、ケンカですよね。
こんなときに帰って来てしまった自分がいたたまれなくて、
つい誰かに同情を求めたくなる気持ちなわけです。僕は。


スーツのジャケットを脱いでそのへんに掛けながら、息も詰まりそうなネクタイを緩めつつ、
続きのキッチンへ逃れる傍ら、考えられる原因を探します。


1.やはり今年も望美さんが九郎の誕生日を忘れていたのがデート中に発覚し、
 ついに九郎の堪忍袋の緒が切れた為
2.誕生日とは関係ない理由でなにかがあった為


このうちのどちらかしかないですよね、多分。
取り敢えず、罪のないケーキとワインは冷やそうかと、冷蔵庫の取っ手に手を掛けたら、
リビングから貴重な資料が聞こえてきて、ビク、と肩をこわばらせました。


「そういちいち昔の事を掘り返さないで下さい」
「元はと言えばお前に原因があることだろう、何故俺がとがを受けねばならん」


………。
僭越ながら僕の経験から言わせてもらうとすれば、
こういう会話は、男女関係のもつれの結果でしょう、きっとそうでしょう。
望美さんの過去の恋愛かなにかが明るみになり、それが九郎の逆鱗に触れている。
男として許しがたい場面ではあります、わかります九郎。
しかし過去は過去です九郎。


これから僕たちは、前を向いて歩いていかなければ、
あの世界にはもう、戻れない。



君の未来は、彼女に預けた、そうではありませんか。



シンクの蛇口が、ぽつんとひとつ、雫を落とした音がして、
僕は、どちらの味方をしたいのかわからないままに、冷蔵庫の扉を開けました。


「―――これは」


僕が買ってきたものと、ほぼ同じラインナップが、そこには既に入っていました。
白い、四角四面のホールケーキの箱、赤いワイン、チーズと加工肉と、それに柿が幾つか。


僕のと違うところは、それらにかわいいラッピングがされているという事で、
九郎が自分で買ってきたのではなく、女の子が好きなひとの為に心の細やかなところを使った事が、
いやでも窺い知れるものだったということです。


「………望美さん」


彼女は、覚えていた。
そう、今年こそ、覚えていたという事になります。


それなら、どうして彼らは、喧嘩になったのでしょうか。


先程僕が羅列した、ケンカのうちの第一の理由は、当てはまらない事になる。
そうなると、やはり本当に男女関係のもつれ……?


(そんな)


僕は、何とかしてケンカの本当の理由を、聞き出さないといけない。
元・八葉として、彼女の味方でありたい、
しかし同時に、九郎の味方でもありたい。



どうしたらいい?



しばらく考えて、僕は、邪魔にならないように自分の買い物をしまって、
冷えた方のワインを持ってリビングに戻りました。


「望美さん」
「はい」
「このワインは?」


リビングは、九郎も含めてぎょ、っとした雰囲気です。
けれど、ここで僕はめげてはならない。
グラスをみっつ用意して、ふたりの向かいに腰を下ろしました。


「僕がこの銘柄を気に入っている事を知っていて買ってきてくれたのかな、なんて、勝手に思っているのですが」
「え」
「おいべんけい」


ちなみに僕は酒に弱い。
勢いづいてキリキリと開封していますが、飲む前に止めてくれないと、
明日の仕事はあきらめないといけません。
それなりにプレゼンとか営業とかあるんで、ねぇお願いです――――


「弁慶さん!」


あぁ、流石は、元・神子。
喉はひりひりと灼けていますが、一口で済みました。
なんて、渋い。


「何をやっているんだ、お前は。弱いくせに」
「いいえ、言ったようにこの銘柄は好きなんです」
「うそつけ!」
「嘘で悪いですか!望美さんが僕の為に買ってきて下さったなら、なおの事上等」
「なんだとォ!?」
「ああもうふたりとも、やめて下さい!」


僕の襟元をつかんだ九郎の、手首が彼女によって外されました。
そして、倒れたワイングラスを、直したり。
少しやりすぎたかもしれないですね。


「………風呂に行って来る」


思ったとおりの展開です。
九郎はこういう場面にとても弱い。
九郎か、彼女か、どちらかが席を外す事、これが僕の狙いでした。
どちらも意地っ張りだから、顔を突き合わせていては、言えない事もあると思ったんです。


お湯は張れていない、と僕は一応言いましたが、
それでもいたたまれないのでしょう、部屋からバスタオルを持ち出して、
九郎はバスルームへ消えていきました。


さぁ、ワインがまわらないうちに、僕はふたりの仲を、取り持たないといけません。









弁慶さんに、九郎さんの為に買ってきたワインを飲まれた所為じゃない。
僕の為に、って勘違いされた所為でもない。
泣くつもりなんか、本当になかった。
それなのに、九郎さんがバスルームへ続く脱衣所の、扉を閉じる音がした、
その瞬間に、私の目から零れたのは、大粒の涙だった。


「我慢してたんです、ずっとずっと」


言い訳みたいに言った。
彼氏のいないところで、別の男のひとの前で泣くなんて、
例えばそんなことしたって友達に相談されたりしたら、
あんた思わせぶりなのよって、突っぱねちゃうところ。
それを自分がやっている事の後悔、しかし、とまらない。


「聞いてくれますか、望美さん」


向かいに座る弁慶さんは、いつものように、優しい声で言った。
私は赤いワインの色で染まったフキンを、ぎゅうと握って、
思わずそれで涙を拭いそうになったのを、あぁ、と笑ってハンカチをくれた。


「昨日の事なんですが」
「昨日?」
「ええ、九郎の誕生日の、前日、ということになりますね」


弁慶さんが話した内容は、しみじみと私の心に沁みてきた。
寒くなってきたのに、暖房も入れないで、床にぺったんと座っている事とは、
多分別のしみじみ。


九郎さんが、私がいつも誕生日を忘れてしまう事を、
本当はすごく気にしている、っていう事を、初めて知った。


「昨日は夜遅くまで飲んだんです。僕はオレンジジュースでつきあったんですが」
「すみませんでした」
「いいえ、それは構わないけれど、君が今日来ているなんて、驚いたな」
「………はい」


止まりかけていた涙が、また落ちた。


「ふふ、九郎は昨日、僕に一言言いました」
「―――なにを、ですか?」


つい前のめりになってしまう。
九郎には言わないで下さいね、と弁慶さんは言って、
そんな内容を、私が聞く事を、本当はいけない事なのかもしれないと思いながら、
どうしても好奇心に勝てなくて、頷いた。


「『こう毎年忘れられるとは、さほど愛されていないのかもしれないな』って」
「―――そんな」
「僕は九郎の親友として、君に聞かないといけない。本当のところ、どうなんですか?」


弁慶さんは、笑みを消していた。
言葉は柔らかいけど、確かに本気の色をしてる。
男のひと同士の友情とか、そういうのは、女の子から見ると少し、入っていけないみたいな気がして、
それに、弁慶さんは、九郎さんの一番の腹心。私よりもずっと、長い間、命を預けあってきたひと。
たとえ嘘をついても、すぐに見破られるような気がして、



だから、恥ずかしいけど、本当のことを言った。



「大好きです」
「本当に?」
「初めて、男のひとを好きになって、これからも、多分、九郎さんがずっと好き」


涙は、ハンカチでは押さえきれないくらい、溢れてしまった。
まるいテーブルに突っ伏して、
もう制服ではなくなった二の腕を覆う、少し高めのブラウスに、
涙のあとがいっぱい染み込んでゆく。


弁慶さんが言ったように、
私は、毎年毎年、九郎さんの誕生日を忘れて
それどころかクリスマスとか、そういう記念日的なものを悉く忘れるほうで


狙ってるんじゃないの、前の日まではちゃんと覚えているのに
ねぇどうして、



こんなに、だいすきなのに。



だから今年は頑張って覚えていたのに、どうして、こんなことになっちゃってるの?


「僕には、今ひとつわからないんです。何故、ケンカになったのか」
「……え?」


少し顔を上げただけなのに、いっぱいの涙が零れて落ちた。
慌ててハンカチで鼻から覆う。


「だって君は、九郎の誕生日を覚えていた、んですよね、今年は」
「―――どうして知ってるんですか」
「冷蔵庫見ればわかりますよ」
「そっか……」
「……まぁ僕が必要以上に勘ぐるタイプだという事も、多分にありますが」
「勘ぐる……」
「……性格悪いのかな、僕って」


それは弁慶さんの機転だったんだろうか、
少しの沈黙のあと、何だかとても、可笑しくなって、ふたりして小さく吹き出した。
部屋の空気が俄に軽くなったみたいで、気を許して鼻かんだりした私の腕を、
弁慶さんがふとつついた。
少しドキッとする。確かに弁慶さんは九郎さんの親友だけど、
私にとっては向こうの世界でとてもお世話になったひとだけど、
いま、九郎さんがいないから、後ろめたい気持ちになる。


「あの……?」
「君を、泣かせるような九郎より、いっそ……」
「……なんでしょうか」


警戒していると思われないように、さりげなく腕を引いた。


「―――その前に、僕が、大切にしている写真をお見せしたほうがいいかな」
「……写真、ですか?」


弁慶さんは一旦立ち上がって、私はひとつ息を吐いた。
マガジンラックに掛けたジャケットのポケットをごそごそして、
携帯電話を持って戻って来る。
そして、私の向かい、さっきと同じ場所に座った。
心に、再び緊張の糸が張る。


私を、泣かせるような九郎さんより、
いっそ私に相応しい何かが、その携帯に入っていると、
そう弁慶さんは言いたいのだろうか。


「これです」


幾ばくかボタンを繰ったあとで、その画面は私に向かってくるんと回された。


「―――これって」
「いつかのお正月だったかな、九郎が僕に送ってきたメールに、添付されていたものです」
「ジンベイザメ……!」


私は思わず携帯を握って、目の前まで持ち上げてまじまじと見た。
そう、温泉券が当たったお正月、ケンカして仲直りした水族館で、
九郎さんがうんと腕を伸ばして撮ってくれた写メだった。
九郎さんと、私の顔が、すごくすごくくっついて映っている。
それに、自分で言うのもなんだけど、すごく幸せそうに映っている。


私も、九郎さんも、



ジンベイザメのしっぽのあたりが見切れて入っているのも、
くっついてるコバンザメも、
全部、ぜんぶ。



「このときも、喧嘩した、という電話が入って、けれど、心配なんかしなかったんです。だって僕には自信がある」


携帯は、弁慶さんの手のひらに戻って、
いつもみたいにふわりと笑った顔ではなく、真顔で覗き込むようにされて、
忘れかけていた緊張が、私をまたこわばらせた。


「あ、あの、べ」
「望美さん」


どうしたらいいのだろう、身体が動かない。
自信がある、なんて言って、一体弁慶さんは、
私と九郎さんが喧嘩して、心配しないとしたら、その理由は―――


―――いざというときは、毅然としなければ。


と、私は高尚すぎる勘違いをしていた。
次に弁慶さんが話したことは、私を完全に初心に返らせてくれたのだ。


「君を泣かせる九郎より、君を笑わせているときの九郎を、愛してあげてはくれませんか」
「―――」
「もちろん、君たちは、喧嘩しながら愛を育んでいくふたりだと、解ってはいるんですが」


どうしてそんな、簡単な事を
私は忘れていたんだろう。



誕生日は覚えていた。
けれど、一番大事な事を忘れて、どうするの。



大荷物の私を玄関に迎えた九郎さんは、


『どうした、何の用意だ』


なんて言って、それはとても真顔だった。
めげずに、誕生日でしょう、って言ったら、今度は何と言ったかというと


「『なんだ、忘れていたのではなかったのか』ですか?」
「そ、そうです、どうしてわかるんですか!」
「何年も彼の軍師をやっていれば、おのずと。そうだな、多分、怒ったみたいに言ったんでしょう」
「……はい」
「なるほど」


弁慶さんは、携帯を持って立ち上がる。
ジャケットのポケットに戻して、そのままそれを着てしまって、
お財布とかも確かめて、どこかへ出掛けるような感じの仕草。


「では、僕は、これで」
「え!弁慶さんのお家ここですよ」
「ふふ、僕は、こんなときに行くところもないくらい、可哀想な男に見えますか?」
「っ!い、いえそういういみじゃ!」
「ありがとう」


そして、誰もいなくなった。
カーペットまでよそゆきに見えてきて、
正座の足がなんだか急に、ちりちりと痺れる。




>>>>>>>>>>>後編へ