◆Special Thanx for... 三崎様
そう言えば、イサトの話はよくしたな、と思っていた。
花梨と、それは時折と呼ぶのも憚るくらいの頻度でしか起こらないことだが、
ふたり連れ立って出掛けたときのことを思い出している。
別段話し上手というわけでもない勝真にとって、憎からぬ女を傍に置いてでは、
照れが勝って言葉数がいっそう減る。
折角出掛けて仕事の話ではあまりに華がなく、
しかし沈黙が訪れぬように話題を選ぶとすれば、イサトのことか、千歳のことか、
幾分身近なところから掘り出してくるしかない男であるのだと、
そう自分で気付いたときにはやや愕然とした。未だそう前のことではない。
(―――それで、あいつがイサトに興味を持ってしまった、ってことなのか?)
だとすればこの恋は、出だしから完全に失敗だったのだろう。
キュル、と勝真の腹の虫が泣いた。
もう昼か、と思い出したように空を見上げると、
秋晴れの高い、真白な雲がシュルと風に吹かれて渡る。
思いはどうあれ、身体は正直に、時間になれば要求する。
そして、自覚すれば確かに、何か口に入れたい気がした。
眼前船遊びの貴族たちも、今は船を岸に寄せては仕出しの料理を積み込んだりしていて、
あれはまた上流へ繰り出して紅葉弁当と洒落込むつもりだろうか、
いそいそと慌ただしい風情を醸し出している。
勝真は、ふうと短く溜め息を吐いて、ようやっと腰を上げた。
弓を脇に置いていたが、鍛錬のつもりで来たわけでもない。
ここへ来れば、何かが見つかるような気がしていたのだが、
結局、これまでにしたことと言ったら大堰川へ小石を幾つか投げ入れたことくらい、
あとは清流の、コトコトと流れ落つる音と、物見客の歓声を耳に入れたことも足そうか、
つまり、なんの成果も上がってはいないということになる。
「結局、ひとりじゃ何したってこんなもんだ」
振り切るように弓を掴み、ひとつ伸びをしてから、野草生ふる土手を足早に踏みながら渡月橋の詰りに出た。
西へ渡りつつ、河岸、南北にずらりと並ぶ茶屋を眺める。
その界隈は庶民的な、気の置けないこぢんまりとした店ばかりだが、
そして勝真は貴族の出自であるが、特に気にはならない。
むしろ、男ひとりの腹ごしらえに形式張った店に入ることのほうが場違いである気がし、
愛想が良くて旨いと評判の一軒に目星をつけた。
(……げ)
顔見知りに会わねばいいが、と思っているときほど偶然が重なるものである。
赤い小さな暖簾がひらひら揺れるその店の入り口に、
確かに見知った顔が棒立ちになって何やら茶を飲んで川のほうを眺めている。
勝真とは違って着崩し一つない身だしなみもさることながら、
いつものように帯刀し、背筋を伸ばし、
昼食のときにも緊張感を解さないらしい男は、どこから見ても頼忠だ。
人と話す気分ではなかった勝真は、まずいな、と踵を返そうとしたが、
頼忠の千里眼はそれより早く勝真の姿を捉えた。
ん、と明らかに気付いたまなざしを向けられては、引き返すわけにもいかなくなった。
「よ、よう。お前も飯か」
くらいの挨拶はせねばならなくなるではないか。
頼忠は肯定し、近く予定されている院の紅葉狩りの為に下見に来た旨を告げた。
「この時勢に院様は暢気に船遊びか」
そう多分に嫌味を込めて言い放ったことで頼忠の不興を買い、
面倒にも言い合いになりそうになったが、
いやいや目下、青龍同士の絆を深めようと頑張っているひとりの女の顔が目に浮かんだのはふたり同時であったのか、
どちらからともなく気遣いを見せ、いきり立つ気を鎮めあう。
「……っと、なんだ。……そうそう、この茶屋は風情は何だが味はいい。
仕出しならここで頼んでもいいのではないか」
「そうか。私はものの味など区別もつかず、些か困っていたところだ。
お前がそう言うなら、こちらを奨めてみようと思う」
悪い気はしない。勝真はやや胸を張る。
「聞いたところに依れば、このあたりの名物は茶ダンゴ、とか」
「ああ。それそれ、餡の乗ってるのが旨いぜ」
「院もお喜びになるだろう。進言かたじけない」
「あーあー、んなことで礼とか勘弁してくれ」
店先には長椅子が幾つか置かれ、今日のように天気の良い日にはそこへ腰を下ろして食べている客が多かった。
勝真も同じように腰を下ろし、注文を取りに来た娘に茶ダンゴ(餡付き)と渋茶を頼んだ。
「昼に甘味、か」
頼忠は意外そうである。
勝真は特に甘いものを好むというわけでもないのだが、腹の虫が泣くから来ただけで、
もともと特にがっつり食事をという気ではない。
まったりと甘いものでも口にして、気合いを入れたいときもある、というふうに、
本音がつるりと滑り出た。
言うのと同時に、抑えていたイライラがまた、腹の底を圧してくる。
実のところ、それを静めるために嵐山に向かったのである。
清らかな流れでも眺めていれば、そのうち落ちつくのではないか、というような。
ああ、しかしどうやらそうではなかったようだ。
「お待たせしました、餡ダンゴと渋茶です」
「……」
運ばれて来た盆をひったくるようにして、膝に置いた。
なにか粗相でも、とびっくりしているらしい娘に、
頼忠が申し訳ありません的なことを言って謝っているのを頭上で聞いて歯を噛んだ。
訪れる沈黙が重すぎて、ダンゴを取り上げることもできない。
俯いた勝真を、頼忠が明確に咎めないのは衆目上、身分の差からであると思われたが、
自分に非があるのは重々承知。
貴族の勝手を腹立たしく思っていながら、いざことが起きると、自分もそう変わらないことを、
このようにして知らさせることは頻繁だ。
勝真は、せめてもと隣に腰掛けるよう促した。
「……何か話せよ」
「生憎、話すのは得手ではなく」
それは嘘ではないようで、待てど暮らせど、頼忠は手の中の湯のみを握り直すばかりだ。
そのことで、痺れを切らした勝真が少しばかり心中を吐露できたことは、幸か不幸か。
「……あいつんとこ行ったら休みだとさ」
「『あいつ』? 友人のところへでも?」
「何故そうなるんだ。花梨のことに決まってるだろ」
「神子殿か」
頼忠ら院の勢力の元にある者は、花梨のことを早くから神子として認めているようだったが、
勝真たちから見れば反勢力であった。
ここへ来てようやく認めつつあるとはいえ、
手のひらを返したように神子などと呼び始めるのも、気恥ずかしいものがある。
だから勝真は、変わらず元の呼び方―――あいつ、とか、お前、とか、花梨、とかで呼んでいる。
青龍を解放したのは記憶に新しいところだが、矢継ぎ早に次の試練がやってきて、
目下明王の札とやらを取りにいくことを目的として動いているのであるが、
勝真より先に頼忠が試練を突破したのはつい先日のことで、
勝真としては自分も早く、と焦る気持ちは当然ある。
そうでなければ、いつまでも明王の札は手に入らず、京の穢れもまた解けない―――。
勝真は、串に三つ並んだ餡ダンゴを、一気にふたつこそげた。
甘ったるい。絡み付くような粘質の餡が、口内をねっとりと埋めるのを、
渋茶で喉へ押し流す。
折角の名物も、一瞬で胃に収まってしまえば、味わうべくもないものに変わる。
「人がやる気を出してみればこれだ。とんだ無駄足だったぜ。
だいたい、俺たちがこんなとこで油売ってられる状況なのか。この大事なときに、なにを考えているんだ」
「……妙だな」
「だろ」
「いや、そうではない。私は本日、神子殿がお休みになることは事前に報せをいただいて承知していた。
故に自分の仕事をと、下見に精を出したのであって」
「ちょっと待て、聞いてただと?」
話の腰を折った勝真に、頼忠はゆっくりと頷く。
言われたように、妙である。周知の事実であったなら、勝真にも話があって然るべきだ。
知らせるべき八人のうち、ひとりくらいは忘れられることもあり得るが、
それがたまたま自分であったならそれはそれで複雑だ。
「……あれか、院側のやつらと俺とでは、扱いが違うという訳か」
「勝真、慎め。神子殿はそのような方ではない」
「お前もだ! なにかってーとミコドノミコドノ懐きやがって!」
勢いづいて新しい串を頬張れば、再び、口の中は餡でいっぱいになる。
が、渋茶のほうは切れていた。潤いなく、喉にひっかかりそうな甘味に盛大に顔を歪めた所為で、
見かねた頼忠が、飲みかけの湯のみを差し出した。
「私ので良ければ飲むか」
「……」
無言でひったくって一口に飲み干す。
カラになったのを返したとき、さすがに頼忠も苦笑したのだったが、
そっぽを向いた勝真には映らなかった。
「……お前に限らず、院側の八葉はみんなあいつに甘い。さっきも―――」
言いかけて勝真は口をつぐむ。
額の裏に反芻するのは、無駄足を踏んだと言った今朝の光景だ。
ごく、個人的なわだかまりであり、こういう事情は親友ならいざ知らず、
同じ四神に属するというだけの頼忠に口外すべきことではない。
「どうした」
「……いや、そのだな。お前らも聞いていたなら、フラフラ遊ばせてないで、
こうもっと神子らしく粛々と過ごすように忠告するとかだな」
「しかし、神子殿は明王の課題に着々と近づいている。あとはお前のほうを残すのみだ。一日くらいはお体を休めるのも」
そうだそうだ、尤もだ。
思えば思うほど、苦々しい思いが込み上げる。
―――大人しく休めていたのならばこんなことは言わない
勝真は確かに焦っている。
頼忠が既に手にした最強の術というものを、自分も早く手に入れたいと思っている。
それが、見つかる気がした嵐山に、だからひとり、出向いたのであり
だが、山に分け入って、生い茂る草を掻き分けて見つかるものではなかった。
清らかな川の流れの、ついでのようにしてこんこんと湧き出てくるものでもなかった。
だから、肩を落とし、三角に座って思ったことは、
それは、ひとりでは到底、手にすることができないものなのではないか
神子が、花梨が、その手でもって勝真に託すものなのではないかということだ。
せせらぎを眺めながら、傍らに弓を置くのも悪くはない。
だが、それが、弓でなく花梨であったなら、もっと、心は違うふうに動くだろう。
手に入るような気がするものは、動いた結果に手に入る。
草にかぶれ、腰を折って探すのでなく、この身体のどこか深い、どこか柔らかいところから
あくびさながらに目覚めてくるのではないかと
そういうふうに、思うのだ。
しかしそうするには、心がぽきりと折れてしまった。
花梨がそのこころで信頼―――若しくは恋情とも言えるだろうか
―――を寄せているのは、勝真でなくイサトなのだと、
勝真はこの朝、うっかりと盗み見てしまった。
言葉を切ったままの勝真を、頼忠はしばらく眺めたあとで、
新しい渋茶をふたりぶん注文した。
「……なんだよ、気ぃ使ってもらう必要はないぜ」
「私は院側の勢力だが、ケチではない」
「……うるせー」
口がもう一つ、滑りそうな気がした。
花梨は休みだと聞いて、仕方がない、それなら帰るつもりであったのだが、
「ここではなんですから」と、客間に通された勝真であった。
行商の物売りならいざ知らず、曲がりなりにも貴族の男が訪ねて来たとあっては、
迎えたほうとしてもとんぼ返りさせるわけにはいかない、却って品位を疑われる。
―――そういう事情が京にはある。
中庭を囲む長い廊を、案内がてら前を歩いたのは邸の主。
未だ幼い、しかし同じ年格好のどこの貴族の娘より、
気品あり心さやけきこの少女は、星の一族の末裔と囁かれる、その名を紫と言い、
異界から降って来たと自己紹介した花梨を、いちばん最初に疑いなく神子と呼んだ上で、
それからはずっと邸内に住まわせている。まさしく先見の明と言えよう。
いまは、御簾と几帳を隔てた向こうに下がっている。
勝真は、暫くは案内されたとおり、客間の中央に設えられたまるい茵に腰を下ろし、
大人しく正しい姿勢で言葉を交わしあっていたのだったが、
そろそろと足の裏が痺れ出し、端近に出て秋の花を眺めている。
暇を切り出さなければ、と思っていた。
特段、蝶や花に興味のある種類の男でないし、
几帳越しに対面しようと思っていた相手も紫ではない。
翡翠といったか、あのように物腰軽く口から言葉のついて出るタチであれば、
折角案内されたのだ、半刻くらいはここで過ごしても良いのだろうが、
勝真ではどうにも、間が保たない。
小エビを集めて粉と混ぜ、まるくのして焼いたらしき菓子が出されていた。
高杯に幾つか盛られたそれらはたいへん旨いもので、勝真はもう一つ、とつまみ上げる。
これがなくなったら帰ろう、と心に決めたとき、
小エビの向こうがわやや遠目に、見知った風情を捉えた。
(……イサト?)
ドキ、と心の臓が打つ。
先程の勝真と同じように、女房の先導で邸を案内されているらしき彼は、勝真の乳兄弟である。
長く赤い髪は、今日も良く櫛が入っているなぁなどと思っている場合ではない。
彼もまた、休みの花梨を訪ねて客間に加わり、茶の一杯でも出されるのならいざ知らず、
女房の行く方向は、どうやら花梨の部屋だ。
手を頭の後ろで組み、調子良く吹き上げる口笛を注意されてはつむじを曲げているようだが、
ちっ、と鼻を向けた先が、そのうち勝真の目線と合った。
(っと…!)
ヤベぇ、と思ったのはお互いだろうか、
双方反射的にそのような顔になり、慌ててあさってのほうを向く。
勝真の心の臓は、いろいろな意味で高く打ち始める。
(何であいつが花梨の部屋に通されるんだ……?)
自分は、花梨は休みと言われてここにいるのだよな、と記憶をもう一度掘り起こす。
そうだ、間違いない。
それなら、花梨の休みの理由とは、休んでまでふたりで会いたい相手がいたとも言い換えられるかも知れない―――
―――それが、まさか、イサト
そもそも、イサトと花梨とは取り上げて仲が良かった。
聞きかじったところによると、花梨が初めて京に降り立った日、ここへ連れたのがイサトで、
京については右と左しかわからないという彼女を日毎見舞い、花梨も早くから心を開いているらしいのだ。
年が近いというのもあるのだろう、乳兄弟の勝真より、
最近は花梨のほうがきょうだいのように心安く接しているのをよく目にする。
なんだろう、クラクラする。秋晴れの高い陽光が目に悪い。
「勝真どの、いかがなさいましたか?」
御簾を挟んだ声がする。
紫は勘がいい、勝真のそぞろに気がついたらしい。
「い、いやその、」
「ご気分でもあしゅうごさいましたら、お薬湯を」
「いやそうじゃない、そうじゃ…!」
勝真は、着物の裾をバラバラと見目悪くしながら立ち上がると、
噛みそうな舌で暇を告げた。
今から思えば、そのままクルッと踵を返して、まっすぐ玄関へ向かえば良かったのである。
だが、そのとき勝真の足が濡れ縁伝いに目指した先は、
イサトが案内されていった花梨の部屋であった。
確かめなければ。
自覚しつつあるこの想いを、ここで終わらせるべきなのか、どうかを。
そのような気持ちが、知らず働いていたのかもしれない。
◇
「よう、花梨。来たぜ」
「イサトくんおはよう! 待ってたよ」
弾むような声をかけたイサトに、手を止めかけた花梨を、
そのまま、とイサトは制してどっかりと腰を下ろす。
「お、できて来てるじゃん」
「うーん、でもぶきっちょなのがよくわかる感じだね」
「なに言ってんだ。要は気持ちだって」
イサトは手のひらでポンポンと二度胸を打って主張する。
口は悪めだが気が優しいのである。
「そうそう、忘れねぇうちに渡しとかないとな」
「ごめんね、手間取らせちゃって」
「いいっていいって。お前いつも忙しいもんな、街に出るヒマなんてねぇだろ」
下げて来た袋の口を解いて、イサトが中から取り出したものは、まるくした毛糸玉だ。
それを、花梨の手元の編み目に比べて色を見ている。
すとんとまっすぐになら編める、と言って、始めてそろそろ半月になるだろうか、
相談を受けたイサトは、二つ返事で道具を揃えて届けたのである。
「よーし。おんなじだ」
「ありがとう! これで続きができるよ」
花梨はカパッと笑い、その頬を染めながら毛糸を継ぎ始める。
要は気持ちだ、と先程イサトは言ったのだったが、こう傍で手つきを見ていると、
替われと言ってやりたくなる。
だが、それはどうしても抑えなければならない。
何故なら、花梨が編んでいるものは、なにも花梨自身のために編むものではないからだ。
頬を染めていることからも明らかなように、想う相手に渡すものだと聞いている。
手出しは無用である。
「それさ、襟巻き……じゃなくてなんていうんだっけ」
「マフラー」
「それ! まふらー。すっげぇあったかそうだよな。ちょっと羨ましいぜ」
「イサトくんは首にもう巻いてるじゃない」
「ま、そうなんだけどさ」
イサトの思いを代弁すれば、自分にも、思ってくれる相手が現れて、
そういうひとからそういうものをもらいたい、という意味で言ったのである。
花梨に好きな人ができたというのを知ったとき、まるで自分のことのように嬉しかったのは、
同じく大人の階段を昇ってゆく年代に属する者からのはなむけでもあった。
「イサトくん、ちょっと首の、外してくれないかな」
「え?」
「長さ見たいんだ」
花梨はイサトの襟巻きのことを言っているようだ。
「あぁ、そっか。ンでも、俺アイツより背低いからなー」
「背は関係ないよ。ちょっと低いかもしれないけど首周りは一緒ぐらいでしょ?」
「……ま、そうなんだけどさ」
気の置けない友人は、悪気なく核心に触れていく。
イサトは、もう少し背が伸びたらいいな、と思っている種類の少年である。
ちきしょう、と声に出して言ってから、言われたように首巻きを外した。
花梨は少々膝を進めて正面相対し、編んだものをイサトの首に回そうとする。
ふわりと毛の、柔らかな匂いが、イサトの鼻先を行った。
「―――おいちょ、ちょっと待て、それはまずいって」
「え、どうして?」
「あ〜っとその前にま、まずもう少し離れてくれ」
というような会話をしたときだったろうか、
濡れ縁でがたん、と物音がした。
これ幸いとばかりに、イサトは跳ねるように立ち上がると、
御簾を割って首を出した。
「誰かいるの?」
答えは、誰もいない、である。
右も左も、人影はない。
「……屋根から猫でも飛び降りたのかもな」
と、イサトは御簾を下ろしつつそう返事をしたが、内心一つだけ心当たりがあったので、
誰もいないとわかって本当に胸を撫で下ろしている。
先刻、うっかり顔を合わせてしまった乳兄弟のことだ。
公的に休みをとっている花梨に、会いに来たことが誰かに知れるとして、
いちばん知られてはならない相手に知られてしまった気がしていた。
何しろ、花梨は内緒でこの編み物を進めているのである。
特段、彼には内緒で進めているのである。
「イサトくんは勝真さんのこと、よく知ってるから特別に教えてあげるんだからね」と、
そう言った。
そして、確かによく知っている相手だからこそ、
修行の合間を縫っては比叡を降り、足りないものを聞いてはわざわざ市へ出向いたりして協力しているのだ。
イサトは実際優しいが、知らない相手ならそこまでしたかどうかは微妙である。
戻ると、花梨はまだマフラーを手にしてイサトの首を待っていたが、
イサトは、首の代わりに解いた布を差し出した。
「長さ見るならこれに当ててみたらいいじゃんか」
「……なんかいけないことしたかな」
「あー……別に、怒ってるんじゃないんだぜ、けどさ」
しゅんと肩を落とす花梨は、これが初めての恋なのだろうか。
そういうふうに、イサトには見えた。
自分はまだしたこともないのだが、それでも、男だから男の気持ちくらいはわかる。
それを、どう言えばこの少女に伝わるか、頭をひねって言葉を探すが、出てくるものは直球だった。
「……だってなんつーか、オレだったらやなんだ。自分が巻く前に他の男の首に回ってたとかさ。
だからアイツも、やなんじゃないかって、なんとなくそう思うんだ」
「―――そ、そっか」
「今の説明でわかったか? ごめんな、なんか、オレ言葉下手で」
「大丈夫、うん」
花梨はますます頬を赤くして、イサトの進言通りに、布を使って長さを見始めた。
半分ほどだろうか、まだまだ足りない行き先を、
ほっくりと幸せそうに眺めるのである。
「うーん、これは頑張らないとだね。ありがとう」
「あぁ。……けど、やっぱ本人に見てもらったほうが良くねぇか?」
「だってびっくりさせたいんだもん」
イサトは布を巻き直しながら、そんなもんかな、と思っている。
「それに……完璧片想いだし、いま見せたりしていらないって言われたら、
つくることもできなくなっちゃうでしょう? せめて完成はさせたいっていうか」
「……案外両想いなんじゃねぇの?」
「ないない! 勝真さんいっつも仏頂面だもん。だからこれははじめの一歩なの」
花梨は気合いを入れ直した模様だ。
編み始める手つきに力がこもる。
「ねぇ、勝真さんの話をして」
「あーっと、どこまで話してたっけな」
「暑がりの寒がり、っていうとこまで」
「今はどうだか知らないぜ、なんせちっちゃい頃の話なんだからな」
いまや、少々疎遠になってしまった乳兄弟の話。
イサトは気がつき始めていたが、花梨に彼の話をすることで、
少しずつわだかまりが取れていく気がしている。
だから、助力しているのは、なにもイサトばかりではないのである。
「そうだ、話もいいけどお前、そろそろ物忌みじゃないか?」
「あ、そうだね、そういえば」
「そん時までに編めたらいいな。ちゃんと文出しとけよ」
「―――うん!」
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