◇
貴族でも、決して上流でないなら邸も大して豪華ではない。
除目を控え、昇進を睨み、やや見切り発車にて改築に勤しむ輩もあるが、
勝真はそんなふうはおくびにも出さずに過ごしていた。
興味がないというのもあるが、他に考えることがある。
ここ幾日か、勝真はこもりがちに過ごしていた。
京職の仕事はこなしていたが、八葉のほうはからっきし空けている。
紫姫の邸にも顔を出さぬきりで、そろそろ休む理由も底を尽きかけ、明日はどう言おうか、
ああでもないこうでもないと、褥を転がりながら考えている。
月の昇る頃か、家人が燈火を点けたようで、
そう広くはない部屋がぽっと橙に染まる。
恋というものは、始まる前に終わることもあるのか、というような気持ちが、
このところの勝真をゴロゴロとさせている。
花梨の顔を見れば八つ当たりをしてしまう気がし、
日が圧していることはわかっていたが、どうにも出向く気にならないのだ。
(覗き見なんて、するもんじゃねぇな)
じっくり見たわけではない。
柱の影に棒立ちになって、御簾がうっすらと透かす向こうを、端から眇めたに過ぎない。
何を話しているのかも聞こえなかったし、肝心の花梨はイサトの影になって顔も見えなかった。
言い換えれば、イサトの後ろ姿だけが見えていたのであり、
どんな顔で向き合っているのかが気になって、知らず前のめっていたのかもしれない。
もう少し、あと少しだけ、
そのような気持ちで首を乗り出しかけたとき、
イサトが首の襟巻きを解いた。
(襟巻きを解いて、することはひとつ)
純粋に男の思考回路として、そのような言葉が瞬間に勝真の脳裏に浮かんだ。
浮かべば衣擦れまで聞こえる気がして、思わず駆け去っていた。
覗きが足音を残すとは不始末千万だが、とても気にかける余裕がなく、
転がるように邸を出て、そのまま嵐山で腐っていた訳だ。
頼忠には相当気を使わせたらしく、あげくは支払いまで持ってくれた。
(……情けねぇったら)
寝転がった姿勢のままで、暦をひっぱった。
紫が祠へ向かうのに吉日と占った日付けまで、もう片手で数えられるほどしかない。
天候や方忌みのことも考えれば、明日こそは出向くべきだろうが。
と、そこへ家人が声をかけた。
「あー?」
几帳の隅から、つつ、と文箱が床を伝う。
「なんだ文か」
渋々ながらに半身を起こし、取り上げてみてはっとする。
花梨の文が届くときの箱である。
俄然逸る手付きで紐を解いて開けてみると、一通、不器用にたたまれた文が入っていた。
竜胆を添えた浅葱の紙は、勝真好みのしつらえだ。
いつか話すでもなく話したことがあったのか、覚えてくれているのだと思うと嬉しいが、
なにも俺にこのような丁重さはいらないのでは、という僻みもまたある。
「……物忌みだぁ?」
日付けは明日、花梨は、勝真に来て欲しいと言っている。
物忌みと言えば何度か付き合ったことがあるが、呼ばれた八葉はほぼ朝から晩まで傍に控え、
穢れが花梨に及ばぬよう守る役目を担う。
(……朝から、晩までだぜ)
妙だと思う。
それならイサトとふたりきりで過ごすのに絶好の機会であるはずだが。
送る相手を間違ったのだろうか。
にしては、そう、花も紙も、勝真のために選んだふうだ。
「………」
どれほどぼんやりしたのだろうか、こほん、と几帳の裏で咳払いが上がる。
勝真は、いつしか指先から滑り落ちそうになっていた文を握り直した。
家人は、その咳払いで返事を催促しているのである。
明日のことだ、疾くしたためて遣いをやらねば、京の町は寝静まってしまう。
―――なんと書く?
【1. 了解した】
【2. 断わる!】
【3. イサトに用事でもあったのか? 二番手に選んでいただけて光栄だ】
正直な気持ちをぶつけるなら、3. になる。
いや、直接的にならぬように、ぼかしぼかし書いたとしても、
この、腹の底でドロドロと渦巻いてるような心持ちが、
ごつとした男文字の行間に現れてしまいそうなのだ。
さても、再び咳払い。
その焦れたふうを聞き取って、勝真は、浅葱の文を、手のひらいっぱいで握り込む。
「俺が届ける」
どうせなら
どうせ下手な言葉でやつ当たるなら、
文では花梨も返事に困るであろうから。
しっかりと靴を履きこんで、幾日かぶりの道をゆく。
◇
花梨は慌てていた。
勝真が来た、と言うのである。
「ど、どうして、物忌みは明日だよ」
まさか日にちを間違えて書いてしまったのだろうか。
紫はそう言って案じたのだったが、
「とにかく通せとおっしゃっているそうですから、ご用意下さいませね」
と、言づてて下がった。
さて大変なことになった。
「なにから手を付けたらいいかな……!」
困ったのはこの散らかりようだ。
マフラーは、まさにいま出来上がったばかりというタイミングで、
これから可愛く包んで、リボン(のようなもの)の一つや二つでもかけようかと思っていたところだった。
小さくなった毛糸玉も転がっているし、
包装のために用意した色とりどりの小物が文机をところ狭しと散乱している様子は、
バレンタイン前夜の女の子の部屋さながらである。
花梨はそれらの海のまんなかで、ぺたんと腰を落として途方に暮れる。
「花梨」
「っ、は!」
男のひとの足は速いもの、もう御簾の裏まで来ているようだ。
考えている暇はなくなった。
とにかく、この中で彼に、いちばん見られてはいけないものはどれか―――
「俺だ、入るぞ」
「ど、どうぞっ」
返事と同時、花梨は、陽の色のマフラーにダイブした。
猫でもつかまえたような姿勢で、ぎゅうと抱き込む。
「……なにをしているんだ。タマゴでも暖めてるのか」
キツネに摘まれたような顔の勝真を、ヘラと見上げて花梨は笑う。
人間、窮地極まると笑顔しか出ないのだということを知った。
「へへ、春には孵るかな」
「……バカ」
さすがになにかを隠していることは察したのだろう、
勝真は暫し視線を余所に、思い出したふうにして、
キッチリと閉ざされていた格子をパカンと上げた。
「……上げちゃって寒くないですか?」
「このような刻限に、密室にして過ごすわけにもいかないからな」
スゥと吹き込むのは秋の夜風。
勝真の、少し伸びすぎ加減の後ろ髪まで梳き流す。
花梨は身を起こしながら、背筋の伸びた立ち姿にぽっと惚けた。
橙の燈火の照らす範囲から、少し外れたところに立っていることで、
いつもと同じはずの着衣も、髪の色も藍がかり、それが花梨にはひとまで変わってしまったように見える。
「あの、勝真さん」
「……もういいのか」
「なにがですか?」
「その、なにか隠していただろう」
「あぁ、これ」
そうである。
しかし、使うなら今が絶好ではないか、と。
着崩した勝真の肩を、こうしている間にも風が冷やしている気がし、
花梨は手の中のマフラーをたたみなおした。
「いいんです、勝真さんにあげようと思っていたものですから」
「……なんだと?」
「本当は、明日渡すつもりだったんですけど」
勝真が振り向いたのと、花梨の立ち上がったのは同時であった。
とことこと床を踏み、近づける足音は静かなものにすぎないが、
一歩一歩、やがて確かに橙の灯りを抜けて、影に入った花梨の姿を、
今度は月明かりが銀に浮かび上がらせる。
ふたり、正面相対するまでに、勝真は何度も唾を飲んだのである。
あるともいえないしがない隙間に、なにか、仕切を―――
そんな勝真の焦燥を、少しも見透かしている訳でない花梨だったが、
やわらかな鼻筋を月の光に溶かした無邪気な顔は、編み上がったばかりのマフラーを、
ふたりの間にぱっと広げて見せたのである。
「―――これは」
「マフラーっていうんです。えりまき」
「ま、まふ……これを俺に、か?」
「はい。つくったんです」
目をシロクロさせる、とはこのときの勝真を最も端的に表現する言葉だ。
つくった、と花梨が言うように、確かに編み目は不揃いなもの、
勝真は先刻届いた文のたたみ方を思い、さもありなんと、ようやく頬が僅かに緩む。
決して上手なつくりとは言えないものなのだが、
一刻を争って鷲掴みにして今すぐに手中にしてしまいたい衝動に駆られている。
「さ、触ってもいいか」
この薄闇の中、外で立ち聞く者があればきっと誤解されるであろう言葉を使ってしまった勝真である。
「どうぞ。あ、あんまり綺麗じゃないんですけど」
「っ、そんなことはいいっ、……いいんだ」
重ねての描写になるが、この薄闇の中、外で立ち聞く者があればきっと以下略
もとい、勝真の恐る恐る、伸ばした指先に毛糸が触れる。
そう慣れた手つきで編んだわけではないそれは、
編み目の緩いのが幸いして、本来よりもずっと頼りない柔らかさに馴染み、
花梨が背中をまるくして、ひとつひとつ継いでいる姿が、勝真の脳裏ではっきりと映る。
今度ばかりは、とてもひったくるといった手つきにはならなかった。
そっとそっと胸に寄せられるマフラーの、もうひとつの端がゆっくり花梨の手を離れていく。
「最近、」
勝真は、そう切り出した花梨に目を向ける。
花梨は数歩進み出て横顔になり、格子際で手を付いて、無数の四角で切り抜かれた夜空を見ている。
「少し寒くなったような気がしませんか?」
「……そうだろうかな」
「うん、なんとなくなんですけど」
勝真には、言われたような変化は感じられなかった。
京はもうずっと、秋のままで時が止まっている。
初めこそ、奇妙だと不穏な気持ちを抱いたが、そしてそれは勝真だけでなく京の多くの者に当てはまることだろうが、
長くなればいつしか慣れて、いや、諦めたのだろうか、
暑くも寒くもない温んだ世界は、いまや普遍なまでに当たり前に存在するようになっていたのである。
そこは花梨も周知だろうが、神子のみが、感じるなにかがあるのだろうかと、
勝真はその横顔を矯めつ眇めつ、しかしどう見ても、神がかったような特異なところは見られない。
特に愛しく思っている、という点だけが、街で擦れ違う他の少女と違うところだ。
なんとなく、と花梨は二度目に言って、言葉を継いだ。
「もしかしたら、もうすぐ冬が来るんじゃないかって思うんです。そのときにそんな恰好じゃ、風邪引いちゃいますよ」
「そん時はさすがにちゃんと着るがな」
「……じゃぁ、いらなかったですか?」
「い、いや! 必要だ!」
返すものかとばかりに強く握りしめた勝真と、思わず吹き出す花梨を、
銀の帷が這ってゆき、板敷きの床にまるい頭のかたちを映し出した。
重ならぬ、しかし、近づきたがっている影が伸びてゆく。
「いま巻いてみてもかまわないか」
「勿論です。そのためにつくったんですから」
跳ねる鼓動で、初めて見るものを身に纏うということは、
思うより難しいことである。
「ふふ、そんなじゃバームクーヘンみたいですよ」
「なんだそれは」
「貸して下さい、私がかわいく巻いてあげます」
「いや、その特段可愛い必要は」
花梨はかまわずくるくると解き、改めて巻き直してゆく。
ふわ、とまわされたときの優しい重みと、
帯のように結び目をつくる、繊維越しの指の感触が、
甘く甘く勝真の首筋を撫でる。
出来上がったかたちは、確かにかわいい、女向きの結び方になっていた。
花梨は満足そうに、ホゥと顎をひいて眺めている。
「お前は、優しいな」
「そんなことないですよ、私はただ、勝」
「皆にも作っているのだろう? きっと喜ぶに違いない」
「………あー」
花梨はあぐね、項垂れた。
無論、つくったのは勝真ひとりぶんである。
言われて初めて気付いたが、冬を迎えるかも知れないのは他の八葉も同じだ。
それなら彼らのぶんも、確かにつくるべきだったかも知れない。
勝真が言うように、本当に、優しさから出た行動だったならば。
勝真のぶんだけだ、と言ったら、嫌われるだろうか。
本当は優しくないことが伝わって、恋の芽は摘まれてしまうだろうか。
「……ごめんなさい」
「あ?」
「他のひとのぶんは、考えていませんでした」
「―――なんだと?」
「ご、ごめんなさい今から……明日からつくります!
ちょうど物忌みだし、一日じっくり頑張って、間に合わないぶんはあったかくなるまでにぜったい」
そこまで言った花梨の語尾は、ぱふ、と衣に押しとどめられた。
しっくりときつく、抱きしめられたのだ、と気付くよりさきに、
勝真がほんのりと纏う梅香が、鼻腔の奥へ奥へ、いっぱいになる。
「か、勝真さん?」
「……つくらないでくれ」
「え……」
「そういうことなら、いいんだ。……頼む」
突如に重なった影は、それから長く、すこしも動かずに。
つるりと固い平面に、映しとられて焼き付くのでないかと、
そのように、格子の向こうで月は見ただろうか。
◇
「えっ?!」
花梨は素っ頓狂に驚いた。
ふたりは格子辺を辞して、燈火の届く範囲で向かい合って座っていた。
じじ、と揺れる橙で、顔が赤いのがごまかせたらいい、と勝真が燈火に近く座っている。
「そう驚くな。てっきりお前はイサトと……その、いい仲なのだと思っていたんだ」
「……どうしてそうなっちゃうんですか?」
花梨は本当に思い当たるフシがないらしい。
人差し指を顎に当て、むーんと上目遣いに考えている。
その無邪気な顔を前にすれば、決定的に思い込むことになった場面など、
とても言えない勝真である。
「それにしても、よく散らかっているな」
使って編んだのだろう編み針や、まだ残りがある毛糸玉、
まさにところせましだ。
できたてのものをもらうのは、食べ物でもなんでも、気分の良いものである。
「ふふ、いつもはもう少しマシなんですよ。これからマフラーを包もうと思ってたところだったんです」
「あぁ、突然邪魔して悪かった」
「確か明日って書いたと思うんですけど、日付け間違ってましたか?」
「……いや、俺が間違ったんだろう」
「ふぅん」
そう、色々と勘違いしていた、という意味で。
「そうそう、イサトくんといえば。見て下さい」
「ん?」
花梨は散らかったものの中から、編み針を取り上げて勝真に手渡す。
竹で出来た、滑らかに磨かれた良いものだ。
受け取ると、手にぴったりと馴染む。
「イサトくんが作ってくれたんです」
「これを? へぇ、相変わらず器用なんだな」
「すきなひとにあげたいものがあるって打ち明けたとき、勝真さんなら全力で協力するって言ってくれて」
「―――!」
「……どうしたんですか?」
燈火の傍に来た意味が霞んでしまうほど、
勝真はかっかと身体ごと染め上げていて、巻いたままの襟巻きがやや暑さを感じさせる。
イサトが勝真のためにしてくれたことが照れくさいのもあるが、
それより前に聞いたひとことが、あまりに突然すぎた。
「い、いやお前、今なんと言った」
「え、ですからすきなひとに―――あ」
言うより先に抱きしめてしまったので、いつ言いだしたものかと、
勝真としてはまさに時期を窺っていたところなのだ。
花梨は絵に描いたように困り果て、手のひらで口元を押さえている。
ああ、女にばかり、無理をさせて
思えば、そんなことばかりだった気がする。
言い訳を繕って休んでいた間のことを、今宵、花梨は一度も咎めてはいないが、
「すき」とそれが本当なら、心配していたに違いない。
思い詰めた男は日時を飛び越えて、準備中の女の部屋に踏み込んで、
贈り物も、告白も、全て前倒しで奪ったのだ。
やや遅くなったかも知れないが、一つくらいは、
かっこいいところを見せてもバチは当たらないのではないか
いや、果たしてかっこいいかどうかは花梨が決めることであるが、
勝真は、可憐に巻かれた喉元の結び目を解く。
「これだけ長さがあれば、ふたりで巻くこともできるか」
「……へ」
「このような巻き方は、作法に合わないかもしれないが」
あかい顔を上げた花梨に、膝を一つ進め、
解いた端の一方を持った腕で、ぐいと引き寄せた。
「っ……」
思うよりも小さな肩を抱きながら、くるくると、緩い陽の色を羽織る。
どうか抜けてくれるな、そう、想いだけ、強く。
「どうだ? こんなふうにするのは」
「……あったかい、っていうか、す、少し暑い、かもしれないです」
「同感だ」
さても、近くなった顔に、勝真は不意と唇を寄せる。
重ねたくて、仕方ないのである。
しかし花梨は、寄せたぶんだけ身を引いてしまう。
無意識だろうが、つるりとした唇を一本に引き結び、背中は逆方向に撓らせて、
見ていて痛々しいほどだ。
「……花梨」
「待っ……ごめんなさい、まだ、お願い……ですから」
小さな唇は最低限を開き、もごもごと不明確に拒む。
見ないフリをしてこのまま口付けてしまえば、泣かせてしまうだろうか。
その、水の色に潤む瞳は、濡れてしまうだろうか
ああ、おそらく、きっと、そうだ。
勝真は、攻撃的になっているだろう表情を、意識して腹の奥へ飲み込んだ。
「俺はまだ、課題の途中だったな」
「……明王の?」
「あぁ」
できるならいますぐにでも向かって達成したいところだが、
生憎日は落ちて、迎える新しい日は神子が物を忌むという。
こんなこともあるから、やはりずる休みは、するものではない。
「明後日は、空けておいてくれ。嵐山へ行きたい」
花梨は盛大に笑んで、節々の力をほろりと抜いた。
撓っていた背中も、もとの状態に戻る。
いまはただ、許される距離のぶんだけを、そっとそっと抱き寄せる。
「そうだな、無事試練を乗り越えたら、褒美として続きをしてくれるか」
怯えさせないように、言えていたらいいと思う。
覗き込む瞳も、優しく工面できていたらいいと思う。
「………それは私から、ですか?」
「なんだ、俺からでいいのか」
「は、はい…!」
心が溶けるときは、冬のひだまりに似ている。
約束の代わりに抱きしめた身体の、やわらかいあたたかさが、そう思わせてならない。
試練を越えたあとで、本当に冬が来たら、この世界が変わるのだと、
確信に似た思いと共に、手のひらいっぱいに優しさをにぎる。
その根拠は、信じるあては、花梨だけ
「お前が好きだ」
「私も、大好きです」
暇を切り出すのを、もう片時だけ、と引き延ばしながら、
背中に回す力を強くして、改めて抱き直した。
ふたりで巻いた襟巻きが、ずる、ずると、緩んでゆく。
寒がりのはずが、何故だろう。
冬が待ち遠しい。
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