着信履歴によれば、午前6時00分。
モーニングコールを頼んだ時間ちょうど、一分も、遅れず早まらず。
かなでが受話ボタンを押したのは果たして何分後のことだったのか定かでないが、
はっきりと覚えていることが一つある。


「かなで先輩」


目覚ましがてらにお伺いしますが、と前置いた悠人は、
先輩の考えを聞かせてください、と続けて改まる。
それから、


「今回の神戸周遊が、一泊旅行だということは覚えておいでですよね」


なんて言うものだから、
かなでは、『一泊旅行についての私の考え』を聞かせて欲しいと、
悠人はこう言っているのだと、寝ぼけた頭で解析した。
そのことについて、正直に言えるならばこうだ。


(そりゃぁ……考えてるよ)


無論、いざという時の心構えのことだ。
コンクールで顔をつき合わせた各校との交流旅行という名目だが、
一泊のあいだには何かの間違いで悠人と、ひとつの部屋で過ごすことになることだって十分にありえる。
そして、何かの間違いで悠人が、かなでに対して今までとは違う一歩を、いや、一手を、
出してくることだってあるかもしれないではないか。


だが、かなではとぼけたふりをした。
それがどうかした? くらい言わなければ、あまりに積極的に過ぎる。そう思ったのだ。
伝聞のひとつやふたつはあるにしても、実際経験などあるはずもない。
直後に悠人が返した言葉を以下に、一言一句そのまま記述するとこうなる。


「するべきか、しなくともよいものなのか、考えているんですが」


エラく直球で来たな、と一瞬戸惑ったかなでだったが、
そう、厳格でもやるときはやる彼だから、そういうこともあるのか、と考えを改める。
間違っても、「私もちょうど迷っていたところだ」なんて言ってはならない。


「す、するって……な、なにを?」
「今日のぶんの練習についてです」


声の通りの、悠人の真顔が目に浮かぶようだった。


「…………れんしゅう?」
「一日に一度も楽器に触れないということは今までにありませんでしたから。正直どうしたものかと」


かなでは、高鳴る胸を押さえつつそぞろに降りようとしていたベッドに再び腰を沈めた。


(……なんだ。そんなこと)



―――触れるかどうか、考えていたのは、私じゃなくて楽器のこと



「先輩がヴァイオリンを持って行くおつもりなら、僕もチェロを持って行こうかと」
「……あー…眠い」
「先輩。しゃきっとしてください」
「わかってます! もう!」
「……何を怒っているんですか」


怒っているわけではない。
そんな単純な気持ちではなかった。
かなでの名誉のために断わると、一応そのあと、
かなではかなでなりに悠人の尋ねた事柄について、きちんと返事をした。
幸か不幸かキッカリと目が覚めてしまったので、新幹線の集合時間にもちゃんと5分前に到着することができた。


神戸は確かに楽しかったし、だからこそ、
朝のもやもやとした思いについては、今の今まで忘れていたのだけれど
いま、湯上がりの身体に夜着を羽織り、シングルのベッドに腰掛けていたら
ふと、思い出してしまった。


当然のように、一人一部屋シングルルーム。
この状況に、素直にうんと頷いていていいのだろうか。


「……うーん、何かいい手はないかな」


かなでは頭をひねる。
目に入るものは、ドライヤーと、明日着るために皺を伸ばして掛けた制服、
それから、道々歩く間に取り上げた、幾つかのタウン情報誌だった。




* 夜釣リノ彼女 *






夜更けまで、楽器に触れずに過ごした日があっただろうか。
出掛けは随分早かったから、神社の敷地の広さをもってしても、
とてもチェロの低音を響かせるわけにはいかず
どうしたものだろうと思いながら、かなでに頼まれていたモーニングコールをした。


ワンコール目から元気に出てくるなんて思っていなかったが、
次のコールで出なかったら切ろうと何度か思うまで出ないともまさか予想しておらず、
しかし、本当に切ってしまったら間違いなくかなでは新幹線に乗れない。
鬼になろうとするこころを、唇を噛むことでどうにか工面して穏やかにし、
耳に当てた携帯の表面があたたまるほど待ったあたりで、かなでは漸く電話に出た。


挨拶をやりとりしたくらいで吹き飛ぶような眠気ではないらしく、声はまだ掠れている。
二度寝を防ぐためにも、悠人は参考までにかなでに問いかけた。
今日のぶんの練習についてはどう考えているか、といったことをだ。
神戸に行くのはかなでも同じ、演奏者であるのもまた同じだ。
かなでの考え如何によっては、悠人の迷いも解けるかもしれない。
かなでは、あくびながらにこう言った。


「……練習のことは、どうせできないんだから考えるより、忘れちゃったほうが楽しめるんじゃないかな」
「……そんないい加減な事でいいのでしょうか」
「帰って来たら、遊びのことは忘れて練習する。ここまでがワンセットなら?」
「―――なるほど」


それから、悠人は同調したが、
かなでとしては、それは気分転換であり、もとは悠人から教わった考え方だと付け加えた。
こと自分のこととなると、そううまくいかない、また、そう必要だとも思わないのが
気分転換というものなのかもしれない、ともかなでは言って笑う。


「そんなこともありましたね」


悠人が受話器へ向けた言葉は未だに固かったが、
頬が少しだけ綻んだぶんが、声に乗っていればいい、ささやかかもしれないがそう思う。


「プールより、時間はとられちゃうけどね」
「それはそうですが、まぁ、コンクールでもないんですから、
 ここはゆっくり楽しめということなのかも知れませんね」


悠人のこころは決まった。かなでの目もまた覚めたようだ。
電話を切る前に五分前行動を念押した悠人と、新幹線では隣に座るよう念押ししたかなでは、
打ち合わせ通り楽器のことはほとんど忘れて一日を過ごした。



―――のだったなぁ、と悠人はいま思い出していた。



ホクホクとする湯上がりの身体は、心地よい疲労感に包まれている。
ホテル備え付けの部屋着を着ていた。
腰紐の代わりにボタンでとめる形の、簡易のガウンのようなものだろうか、
着慣れないが、吸水性のよい薄手で不快ではない。
空調の整えられた、窓を開ける必要がない室内も、扇風機一筋の実家とはかけ離れた環境だ。
カーテンはきっちりと引き、デスクに揃いの椅子に足を組んで座って髪を拭いていたが、
気付けば背が深くふかく凭れ掛かっている。
疲れるほど遊びほうけるなんて、と苦笑しないでもないが、
やや手持ち無沙汰なほど開放感に身を任せるのは、本当に、久しぶりである。
さぞかし良く眠れるだろう、と腰を上げたのと、ノックの音は同時だった。


(こんな時間に何処ぞの痴れ者だ)


と眉間に皺を寄せたが、覗き窓から見ると、痴れ者ではなくかなでである。
もちろんのことドキ、としたが、ドアを開けてそのドキはいっそうに加速した。


「かっ…かなで先輩!」
「へへ、遊びに来ちゃった」
「暢気に笑っている場合じゃないでしょう、そんな恰好で!」
「え」


悠人は、驚いたように自分の服装を矯めつ眇めつしているかなでの手首をつかみ、
とにかく入ってくださいとばかりに、隠すように敷居を跨がせてドアを閉めた。


「……ハルくんだって同じ恰好じゃない?」


かなでは上目遣いで、伺いながらそう言った。
胸のところで情報誌を両手で抱えているのは、一緒に見よう、という趣旨で来たということなのだろうか。
そういうことなら、あまり厳しく諭すのも、と、
悠人は、苛立つ気持ちを、溜め息をゆっくりと吐き出すことで堪えた。
手首を放すのも、ぶっきらぼうにならぬよう、悠人なりに気を使う。


「僕は部屋の中にいるんですから、これでいいんです」


「中」の部分にアクセントを置いた。
目をまるくしたところを見るとどうやら知らなかったらしい。
あぁ、と膝から崩れてしまいたい脱力感に襲われる。


・こういったホテルでは、部屋を一歩出たら外だと思わねばならない
・廊下一本と言えど、夜着でうろつく場所ではない
・レストランなどではその傾向は更に顕著だ


というようなことを付け加える間に、言葉は少しずつヒートアップしてしまい、


「高校生にもなって、そんなことでは困ります」


語尾は強く、かなではビクと肩を揺らしたが、しかし気丈だった。


「ご、ごめんなさい知らなかった。着替えて出直してくる!」
「えっ、…ちょ、かなで先輩!」


一歩先ん出た、まっすぐにドアノブを握る手首を、再びつかむ。
夜着の裾が僅かに触れ合う。


「いま出ても、同じことでしょう」
「―――あ」
「全く。あとで僕の服でもお貸ししますから、せめて羽織って出てください」
「……ハルくんの?」


振り返ったかなでの顔が、すぐの鼻先にある。
ぽっと火照ったように見える頬から、湯上がりのいい匂いがする、ような気がしてしまう。
抱きしめてでもいるかのような錯覚に陥り、悠人は、同極の磁石のようにして離れた。


「そ、それほどサイズに差はないですし、着られるはずです」
「……そこか」
「は?」
「なんでもない」


ふたりして、目を合わせたり、逸らしたり。
忙しく目線を工面しているだけで、沈黙はいくつも流れていく。
楽器もない、譜面もない、叱責の原因は既に解決し、
さて、話題にできるものはなんだろうと、めいめいに頭をいっぱいにした。


「ん……?」
「…なんです?」
「いま、『あとで』って言った?」


かなでの言葉が契機になり、悠人はギリギリの体面を保った形。
かなでが大事そうに抱えている情報誌を、救われたような目で見た。


「何か用事があって来られたんでしょう?」


さもわかっていたように言ったが。
いや、わかってはいたのだが。


「そ、そう、そうなの! いま思い出した!」


かなでは素直である。
その事実にこれほどホッとする。これが男の見栄とかいうものだろうか。
ぱっと花が咲いたように笑んで、飛び込んでくる身体には多分の勢いがついていた。


「一緒に見よ!」
「っ……かなで先輩っ…、苦し…ぃ!」


巻き付く腕の、あまりに遠慮ないさまも
叱られたことさえ忘れたような、弾む声音がかわいすぎて



―――駄目だな



いつもこうして屈してしまう、そう思いながら、
空に浮く両手の置き場所を、考える。


かえすがえす、
空に浮かせたままでいるしかない手のひらのことを、考える。









年頃の男女が密室でふたり―――


そんなのはいけないと、さもしたり顔で、従兄弟に諭したことがある。
カラオケボックスか、ホテルの一室か、その広さにはややの差があるにせよ、
その考えはいまでも変わらない。


変わらないが、頑に守り通せるかどうかと言うと、それはまた別の話だ。
―――と、悠人は漸くにして思い至っている、そんな神戸の夜だった。


デスクに揃いの椅子をベッドのほうへ向けて、正しく腰掛けていた。
さっきのように、心地よい疲労感に身を任せて背をふかく凭れさせている場合ではない。
背はまっすぐに伸ばし、彼女が視界に入れないようにした俯き加減、
唇を結んで両の手を軽く握り、膝の上に置いている。
入試の面接なら、ガウンから制服に着替えてあとは顔さえ上げれば模範になれると思われる。


しかし、いまは面接でない。
つきあっている彼女と、夜更けにひとつ部屋の中、
彼女はベッドに腹這いになり、足を右、左とスプリングに弾ませては、
つま先でシーツに波を作る。
目線の下ではタウン情報誌をぺらりぺらりと眺めている。
そんな状況である。


面接ならば、相手にまっすぐ相対した上でキリッと胸のうちを隅々まで語りもするが、
無防備とも取れるかなでを前に、まっすぐに相対してしまったなら
この口は正直に隅々まで、果たして何を語るだろう。
そう思うと、とても目を上げられない。


そして、またペラリと、何度目かの、ページをめくる音がした。


「ここなんかどうかなぁ?」
「はっ?!」
「ほらここ」


釣られてちらりと睫毛を上げると、かなでは、何やら写真を指差している。
印刷インキの色合い的に、生クリームとイチゴかなにか、
白いものと赤いものが同居する写真のようだ。


「ホテルからも駅からも近いし、新幹線に乗る前に回れそうな感じだよ」
「へ、へぇ〜、それならいいんじゃないでしょうか」


正確にはもうどこでもいい。
神戸の山の手ガールズ一押しの絶品デザート特集だかなんだか知らないが、
甘いものは好きでも嫌いでもない悠人にとってはどこでもそう変わらない。


「……ふぅん。ハルくんってよっぽど目がいいんだね」


生返事なのが伝わってしまっただろうか。
かなでは明らかに機嫌を損ねつつある言い方だ。
しかし悠人にも言い分がある。
かなでが足を繁く動かすせいで、薄手のガウンは裾がやや乱れつつある。
目の端で意識するぶんだけでも、乱れているということがはっきりとわかるほど乱れている。
だから直せと言いたいのである。


言えないのだが。
生返事にもなる、わかってもらえるだろうか。


「目は、取り立てて良いということもありません」
「だってそんなとこから。よく見えるなぁって」
「それは…!」
「取り立てて良くないなら、もっと見えるとこに来たらいいのに」


かなではそう言って、頭をやや悠人のほうへ向けた。
ほら、と冊子を近づけた拍子に、胸元が綻んだのは自然な流れか、それとも故意か。
女子にはやや大きめだと思われる、フリーサイズの夜着は、
襟ぐりが大きく開いていまにもシーツに接しそうになっていた。


見えるものは、その奥で見え隠れする胸の谷間ばかりになってしまう。
翳った空間を泳ぐような、大きくはない膨らみばかり。
いや、見るべきものは他にもあるのだ、
壁の柄だとか、かかっている絵だとか、
それこそ、かなでがまさに広げている情報誌の大見出しだとか。


だが、不思議なことにそれらの全てが、視界のブラックゾーンに押しやられてしまう。
一番見てはいけない箇所に、視線は惹き付けられてしまう。
顔を上げぬよう、意識していてさえも



それはまるで、誘うように



かなでが「ほら」と突き出すその、いかにも甘そうなものよりも
もっともっと、甘みあるものに見えてしまうのだ。


「……そういうのが好みですか」


言って、悠人は椅子の上で座り直す。
無論、着々と変化しつつある身体の一部の形状を、どうにか目立たなくするための施策である。


「うーん、そう言われると迷っちゃうなぁ。美味しそうだけど…、あ、このお店もいいかんじ!」
「……今度はどこです?」


悠人は腐心する。
どうにか、興味をデザートのほうへ固定して、しっかりと目を向けて写真を見れば、
舌で意識するものは或いは、純粋に口に入れて味わうものでいっぱいしてしまえるのでないか


こころは紳士であろうとして
目元も、出来る限り紳士であろうとして
けれども、その尻尾は、多分にかなでに誘惑される



―――どうかこれ以上、僕を誘わないでください



そう思って、眉間に厳しく皺を入れて目を伏せた、
その矢先のことであったのだ。
「ねぇ」とただ、そのたった一言は、悠人の鼓膜に届いてしまった。


「こっち来て一緒に見ようよ」


ぽんぽんと、かなでは屈託なく傍らを叩く。
スプリングの軽く跳ねる音がする。


「……いえ、僕はここで」


精一杯の緊張で、紙一重のラインに隠れようとする、
それを、どんな気持ちで言ったと思うのだろう、彼女は。


「メニューとかいろいろあるし……ねぇこっち来て」
「……とおっしゃいますが」
「せっかく行くなら、ハルくんも行きたいとこのほうがいいもん。一緒に見よう?」


そう、彼女は言うけれど。
いざ腰を上げて、隣に座ってしまったら、


(僕は)


どれほどその写真のことを気に掛けることができるのか
どれほど真摯に、メニューのなかみを解析することができるのかを
彼女はどれほどわかっているだろうか。


「仕方がないですね」


考えていることが顔に出ないようになんて、
これほど意識したことは、16年生きてきた中で、一度も起こらなかった。
仏頂面に隠した想いは
少しだけ間をあけて座った、そのたった僅かな猶予は


あまりに脆い、最後の防衛線だ。


かなでが、どうかそのことに気付いているようにと、祈るような気持ちで、
悠人は、正しい姿勢でスプリングに腰を沈ませた。


「どの店ですか」


開いたページに顔を近づける。
かなでは熱心に説明を始めたが、悠人がその視界の端で、本当に見ているのは誌面でない。
広くあいた襟元で、ふにと盛り上がる白い肌は、
わざわざ空けた隙間のぶんだけ、余計に目に入ってしまう気がする。
詰めるほうが得策かと思ったとき、かなでがそれを迷いなく詰めてしまった。
腕には腕が、しっかりと絡まって、悠人は肘のあたりに確かな柔らかさを感じている。


いや、むしろ押し当てられているのではないのか


「―――っ、先、輩……!」


腕を解いて咎めるつもりだった。
本当は。


けれども悠人のしたことは、突き放して反転させたはずのかなでを
気付けばベッドの中央で、思い切り仰向けに押し倒していた、そうしかできなかったのだ。
いつの間に握りしめたのだろうかなでの手首が、激しく脈打っている。
心臓がいまにも吐き出されそうで、苦しいくらいに空気が薄い。


まくらの上へ運ぶような余裕があったはずもない。
緩く波打つシーツへと、しどけなくばらけている髪が、
悠人の劣情を更に加速させる。


「先輩」
「はい」
「僕を、なんだと思っているんですか」
「つきあってるひと」


膝から崩れてしまいたいほどの明確な答えだ。
わかっていて何故、そう思う。


「……ではお聞きしますが、ふたりきりの部屋でベッドに寝そべったり、
 あろうことか傍らへ僕を呼んだり、身体を近づけたり―――」


きつくなったまなざしで、悠人はぐ、と覗き込む。
それでようやく、かなでは少しは竦んだろうか、
いや、その目にはまだ余裕がある、そんなふうに見えてならない。


「それらは、僕が男だということを、わかった上での行動だと? あなたはそう言うんですか」
「わかってる」
「僕には、とてもそうは思えない」


ふつふつと湧き上がる、加虐的なこころに気付く。
本当にわかって欲しいのか、わからせる為にいっそ何かを仕掛けるべきなのか。
想う相手が出来たのも初めてなら、組み敷いたのも初めてで
そうして初めて知った感情だ。


「ううん。わかってた。ここはハルくんの部屋だって、ふたりきりだって、ちゃんとわかってる」
「―――」


仮説として、悠人は思う。
こういうことではないだろうか。


かなでと、一対一で相対し
悠人は懐にまんまと誘い込まれるまで
彼女の策に気付かずにいた


彼女が、ずっとずっと早いうちに、こうなるように、しむけていたのだとしたら、
それなら一体いつからか。
かえすがえす、思い当てることができない。


「悔しいですね」


ありのままの言葉で表現した。
唇を合わせれば奪うようになり、そうすれば反射のようにして、
手のひらは着衣を押し上げるように、かなでの胸をまさぐる。


「ぅ……ん」


教わったわけでない、それでも
身体はそのように、動くようになっている。
かなでの、十分に甘えを含み、小さく喉を擦る声に、
悠人の指先は胸の中心へ、まさしく正しい箇所へ導かれてしまう。


正しくは、とても大人しく留めていることができない。


着衣の上から触れるのでも、はっきりとわかるくらいに、
中心の粒は固く角を立て始める。


「あ、っや……」
「嫌でしょうね。けれど僕だって、あなたにこのようにふるまわれたら、こうもなるんです」


男の都合を主張している、その自覚はある。
だが、それで押し通すつもりではなかった。
正直に吐露して、それでかなでが悔いるなら、上から何か羽織らせた上で、
ちゃんと帰す気でいたのだ。


深く息を吐いて、片手にちょうど収まったまるみから手を離す。
安堵した表情を見せるだろうと思ったかなでは、そうではなく、
離れた手首をぎゅうとつかんで、再びそこへ押し付けた。


手のひらで鼓動が、溶けるようだ


「ちがうの、いやじゃないの……考えたの」
「かなで先輩…?」
「私が誘わなかったら、ハルくんはきっと、しないだろうなって。
 だから、……どうしたらハルくんがその気になってくれるだろうって」


かなでは真剣だった。まっすぐにそう思っているといった顔だ。
しかし悠人のいいぶんは少し違う。
その気にならなかったわけでない。
部室だったりスタジオだったり、或いは悠人の家だったりもしたが、
どうしたらその気にならずに済むのか、それこそ、ふたりになるたびイヤというほど、
意識して、律し続けて来た気持ちだ。


彼女がそう言うほどに、隠し通せて来たのなら
満更失敗ではなかったのだと
逆に自信になるほど、悠人は図らずも、上手くかなでを騙していたということになる。


心が痛むのは何故だろう。


「こんな彼女はいや?」
「……いやというか」
「でも女の子だって、好きな男の子と一緒にいたら…少しくらいさわって欲しく……なるんだよ?」
「少しくらいで済むのなら、僕だって我慢はしませんよ」
「じゃ、じゃぁ『少しくらい』は取ってもいい。私はハルくんと…」


そこまで言って、かなでは急に言葉に詰まった。
悠人の肩に手を掛けて、力任せに抱き寄せて、
恐らくそれは、明らかに赤らんだ顔を見えなくするための手だてだと思われ。
悠人の首筋に埋まった唇は、小さく小さく「消して」と言う。


ベッドのボードに幾つか並んだスイッチを、
悠人はうんと腕を伸ばしてオフにした。


「消しましたが?」
「…………えっと」
「続きは?」


さっきまでの威勢はどこへ行った?
そう思うと、笑みまで零れそうに愛しく思う。


「私はハルくんと……そ、その」


ああ、こんなにかわいいひとに
そんな言葉を言わせていいのだろうか
唇まで震えそうな動悸で全身を武装して、彼女は何を言おうとしている?
紳士を気取るなら、ここは、いっそ僕からと、


悠人は、かなでの震える頭頂をしっくりと抱きしめた。


「抱かせてください。かなで先輩」
「―――」
「もしも頷いたなら、たとえ途中で気が変わられても、引き返すことは出来ませんよ。
 初めに断わっておきます。……そんな僕で、いいのなら」


決して勢いでない、ということを、わからせる間だけ待ったようにして、
悠人の抱いたまるい頭が、こっくりと一度頷いた。