◆Special Thanx for... Anya様
マスターキーは金色だったが、
望美がひとつ、持たされている合鍵は、同じ形の銀色をしていた。
高校を卒業した年の春である。
望美は、初めて自宅以外の合鍵を手にした。
自宅でない、大きなマンションの入り口で、慣れない手つきでオートロックを解除するのも
エレベーターを先に降りる、下の階の奥さんが会釈してくれるのも、
家主の戻る前の扉の、カギ穴にキーを差し込む瞬間も、
まだまだ気恥ずかしくて、どこかよそゆきの気分がした。
少しだけ扉を開けると、中はまだ暗かった。
「ただいまー……なんちゃって。」
そう、毎日のように通っているのだから、ただいまって言ったって何もおかしくないんだからね!
などと、こんなに頬の緩んだ自分に、自分で言い訳を入れておく。
この家の玄関で、この日最初のあかりをつけるのは、
ビーフシチューの箱がひとつだけ入った、百貨店のビニール袋を下げた大学生の望美である。
今でこそ、学校帰りに彼氏の家に来る、というのはごくありふれた日常なのだが、
少し前までの望美にとっては月に一度か二度か、それくらいしか起こらなかった。
ここは京都で、望美の自宅は鎌倉にあったのだ。
『銀と一緒に、もとの世界へ帰りたい』
と白龍に頼んだとき、
『うん、それがいい。愛するもの同士は、一緒にいるのが理だよ。』
そう、龍はニコニコと快諾したので、
当然近くにいられるものと安易に解釈したのが間違いだった。
いざふたを開けてみたら、この世界での銀の居場所は、あの時空での出自をそのまま踏襲してつくられていたのであった。
もっと突っ込んだ条件を指定すれば良かったとやや後悔し、
初めての世界でたった一人生活する銀への心配もしたが、
銀はすぐに就職口を見つけて、思うよりすばやく順応したようである。
もっと、簡単に会えたらいいのに、と、電話口で愚痴ってしまうこともあったけれど、
銀は、お声だけでもお聞かせ頂けるのですから、と、
幸せという言葉を連呼した。
確かに、向こうに比べたら、なんてことない距離だったのかもしれないが、恋する少女にとっては大問題だった。
新幹線もあることだし!というのを口癖にして、日曜日のギリギリまでここで過ごしたことも、
そう遠くない未来には、懐かしい思い出に変わるだろう。
卒業したら、絶対京都の大学に行こう、と決めて、頑張った甲斐があったというもの、
望美は、いよいよ足取りも軽く廊下を進む。
その間に幾つかある電灯のパネルは全て触れて、
ぱ、ぱ、ぱ、と、その度に一段階ずつ、家は明るさを取り戻す。
いつも、暗い家に帰っていたはずだから。
望美が先に帰るときは、いる、としっかりわかるように、
こうしておくのである。
今日は既に店に顔を出したから、いることはわかっていると思うけれど、
これは望美が決めた、この世界で、今度こそ銀と、名実共に一緒にいられる為のおまじないだ。
◇
さて、と台所に立って腕をまくる。
ビーフシチューくらい作れると大見得を切った以上、
そして、楽しみにしています、と言われてしまった以上、
彼が帰ってくる頃には褐色のおいしいものが鍋を満たしていないとならないのだ。
「えーと、鍋鍋。」
ぐるっと見渡した限り、鍋は幾つかあった。
持ち手がふたつついているもの、長いのがひとつだけ突き出しているもの、
大きさもそれぞれいろいろとある。
フライパン、もある。
「………。」
望美の沈黙を代弁すると、「どれをつかうのだろうか」となる。
いかにも、勝手も知らぬ彼の家である。
これでもない、あれでもない、と引き出してきては仕舞う、難しい顔の眉間に幾つかの皺が寄る。
だが望美は前向きであった。
「わ、わからないときはその前に野菜を切っておけばいいんだ。」
そのうちひらめくこともあろう。
フフフ、と武者震い、冷蔵庫の野菜室を開けてみた。
「あれ……?」
ビーフシチューの箱、裏面によれば、必要なものはジャガイモ、タマネギ、にんじん、
といった根菜類のようだが、野菜室にはそれらの姿がない。
それどころか、あまりものが入っていなかった。
不安になってその他の扉も開けてみるが、やはり、無駄なものが入っていない。
その代わり開けかけのバターとか、ケチャップなどの調味料とか、
名前のわからないスパイスの瓶とかがところ狭しと並んでいる。
「あ、ヨーグルト。」
小腹が減ったので、これはひとつ頂きながら考えることにする。
冷蔵庫を閉めて、ヨーグルトのフタを開封し、もう片方の手には匙を持って移動しつつ、
様々な開きを開けては落胆するうちに、時計は着々と進んでいた。
「なんにもない……!」
望美はついに絶望して、カラになったヨーグルトの容器を、ゴミ箱に投げ入れた。
そのゴミ箱にさえ、前日の名残のようなものはひとつも見当たらなかった。
掛かっている京都市指定のゴミ袋は綺麗な新品で、周辺の床もホコリ一つない。
そうなのだ。
このキッチンは、生活感といったものが、すべんと綺麗に隠されている。
考えてみればキッチンだけではない。
リビングも、銀の私室も、必要に足るものだけが置かれている。
全てに手入れが行き届いて、だからこの家はとても広く見えるのだ。
どうしよう、これじゃとても間に合わない。
できるだけ早く帰りますから、と銀は言ったのだ。
お腹を空かせて待っていて下さい、と続けたのを遮って、自分で作ると宣言してきたのに
これでは、今日の望美は全然いいとこなしだ。
いや、今日に限ったことではない。
ここで、望美がキッチンに立ったことはなかった。
興味本位で銀の廻りをうろうろとし、飽きるまで邪魔するくらいが関の山ではなかったか。
美味しいもの好きの銀は料理も上手で、甘えるだけ甘えて来たのはいいが、
好きなひとに料理のひとつもつくれない、
ジャガイモの在り処さえ知らないなんて、女の子として果たしてそれはどうなのだ?
――――やだ、こうしてはいられない
たとえば銀の前に、お料理の上手な綺麗なひとがあらわれたら?
たとえば銀より、完璧な家事の出来るひとが、あの職場にいたとしたら?
そんなひとが見えない敵なら、望美に課せられたハンデは大きすぎる。
とりあえず、見つけるべきはジャガイモの在処、奥深く、隠れてしまった根菜たちの行方。
そして、たくさんある鍋の中から然るべきサイズを正しく選び、
私はそれを、作らなければならないの。
銀が帰ってくる前に、
私が作っておかねばならないの。
「神子様……?」
その声に、ハッと顔を上げた。
望美は、両手に届く範囲に、引き出しや開きから様々取り出したものの中央、
まるいガラクタの海の中に、ぺったりと座り込んでいたのだ。
「銀……。」
「ふふ、随分大掛かりな準備をされたのですね。」
音もなく入ってきた、さらりとつやのある髪をした男に、望美はぽかんと口を開ける。
一人占めにすることのほうが、不自然なのかもしれない、そう思ってしまうほど、
望美の目には、銀は、まるで発光するかの如く、きらきらしく映っている。
きらきらしい銀は、ガラクタをかき分けて、望美の前で膝をついた。
そして、望美が汗握る手で持っていたビーフシチューの箱を、優しく取り上げる。
「……あ、あけられなくて。」
「こちらは外国製のもので、日本のもののように開けやすくは作られていないのです。」
箱の四辺には、望美がいりいりと爪を立てた跡がありありと残っていた。
「こういうものは、もう少し、乱暴に爪を入れて、」
「うん。」
望美は、銀がする手元に見入っていた。
長くて、つるつるの手指が、言ったようにやや乱暴に、箱を傷つけて破る。
「そ、そんなにしたら、なかみが割れちゃったりしない?」
「どのみちとろとろに溶かしてしまうものにございます。」
「……それは、そうだけど。」
原形をとどめず、無惨な形になった箱から、取り出されたルウの容器と幾つかの小袋が、
望美の手のひらに渡った。
「こちらがブイヨンで、」
「……ん?」
「こちらがブーケガルニにございます。」
「ぶけるがに」
銀はあからさまに吹き出した。余程おかしいのか、立てたほうの膝頭に顔を埋めて、
肩がぴくぴく震えている。
「あ!わ、笑わないでよ……!」
「申し訳ございません。本当に作っていただけるのかどうか、少々はかりかねて。」
「……ジャガイモは?」
銀がようやく顔を上げ、指したほうはキッチンの入り口で、
望美が下げてきたのと同じマークの入った、大きなビニール袋がそっと置かれていたのであった。
◇
がり、がり、と、不器用そうにピーラーを使い、
望美は言われたようにジャガイモの皮むきに徹していた。
何度か銀に手つきを直されたせいで、触れられたところにこそばゆさがのこっている。
芽のぶぶんはくりぬくように、との指示どおり、
ん、と力を入れてくりぬいたものが勢い良くはねて、隣で切りものをする銀の手の甲に貼り付く。
「ご、ごめんなさい!」
「不器用、というのはご謙遜だと思っておりました。」
「……そうではないんだよね。残念ながら。」
銀は貼り付いた芽を取り除くと、再び包丁を動かし始めた。
「綺麗な手。」
「さようにございますか?」
「うん。」
盗み見るようにちらり、と目を上げて、視界の隅っこやや上部に入って来る銀は、
欲目を差し引いても、やはり整った顔立ちをしていた。
平泉にいる頃、軍の訓練を見物にきていたのも、女の子が殆どだったくらいで、
銀が何かするたびに上がった黄色い声が、鼓膜の奥に甦る。
「ねぇ、銀。」
「はい。」
問うべきか、問わざるべきか。
だって、優しくて、女の子の扱いが上手で、こんなに素敵なのは今に始まったことではなくても、
それに輪をかけて、料理まで出来るようになったこのひとが、
こっちの世界でも、欲しがられてしまうのは、しかたのないことかもしれないし
(でも、やっぱり銀は、私のもの……。)
そう、銀が言ったのも、本当なのである。
「―――合鍵は、幾つあるの?」
「は……?」
きょとん、とした顔に見つめられて、ピーラーを取り落とす。
とても、いけないことを聞いた気がして、手元が小さく震えてしまう。
「だ、だから、私の他にも、誰かが、持っていたりするのかって、いう……。」
「神子様、そのようなことは、決して。」
「だって、だって、私はビーフシチューも満足に作れなくて、箱あけるのもできないし、ジャガイモは芽を飛ばしちゃうし、
全然、全然ダメじゃない……!」
言っちゃった、と、少し後悔しながら、
静かに包丁を置いた銀を、こわごわに見上げた。
何もこわい顔をしている訳でなく、いつものように優しく、彼は望美と目の高さを合わせてくれたのだったが、
目の前の銀は、望美が知っているぶんの銀でしかない。
ほんとうに銀は、これで、全てだろうか。
まるい月に、雲がかかってゆくときみたいな、
隈無きものを求める気持ちが、ふつふつと込み上げて来る。
「そうですね、少なくとも平家では、そのような女人はおりませんでした。」
母上も、姉上も、と続けた銀の萩重の瞳には、ここではないどこかに必ずあるはずの、
遠くのものが映ったように見えた。
そして、続ける声が、幾らか低く、望美の胸の奥のほうへ響く。
「私にしても、その頃は廚に立ったりは致しませんでしたし、部屋を片付けるのも私の仕事ではございませんでした。」
「やっぱり……。」
泣いては逆切れ、と思うのに、止められなかった。
タマネギはまだ丸いままカゴに盛られているというのに、これでは言い訳もできない。
ぎゅ、と瞑った目から、ぽろぽろと頬を伝う涙を、銀はその指で拭ってくれる。
こんなときに優しくされたら、情けなくてどうしようもないのに。
「神子様、私のこの習慣は、平泉で身に付けたものにございます。」
「―――泰衡さん?」
「思い出して下さいましたか。」
そう、あの人は、潔癖で、無駄なものが嫌いで、
柳ノ御所もさることながら、高館の調度までも最低限、
その全てが、綺麗に磨き上げられていた。
「主は、ホコリの嫌いな方でした。」
ふう、と、その時を思い出すようにして、銀は溜め息を零した。
それは、せいせいした、というふうにも、寂しいようにも見えたのだ。
「ですから、神子様のように、少々手のかかる方と一緒でないと、これからの私は、何やら所在なく感じてしまうのではないかと。」
「そ、そんな……!」
「ふふ、やっと、泣き止んで下さいましたか。」
「……ごめんなさい。」
望美は顔を上げてはにかみ笑んだ。
ちゃんと言われた訳ではないけれど、合鍵は、ひとつ。きっと。
望美の持っている、小さな銀色の、これだけなのだと確信する。
銀は、たくさんのものを手放して、
大事な思い出と引き換えに、望美を選んで、ここにいる。
だから、私は自信を持たないといけない、そう思い、
望美は剥いたジャガイモをまな板に置いて、包丁を手にした。
「これからは私も手伝います。」
「あ、」
「ひとりじゃないんだからね、銀には、私がいるんだから。」
「あの、」
銀の相づちには、多分に不安げな色が混ざっていた。
ここに至るまでの望美の手つきを見ていれば、さもありなん。
いざ、黄色い果肉に刃を当てて、ピタ、と動きを止めた望美である。
「――――ひとくち大、って、どのくらい?」
「神子様。」
銀は幾分ホッとしたように、望美の手のひらを包み込むようにして、柔く包丁をもぎ取る。
多分に意図を含んだ指先が、つつと手相の筋をたどって、
望美は、衣服の下の肌をぞわと粟立てた。
「一口大、とは、口付けるときに、最初に開けるお口の大きさにございます。」
声のするほうへ、吸い込まれるように振り向いてしまう。
その長い睫毛で、瞳がくすぐられそうだ。
「……っ、銀、」
「ふふ、ちょうど、それくらい。」
「!」
ぴたりとくっつけられた唇の、一口大とされるぶんだけ空いた隙間を、
銀の舌がするりと入って来る。
「あ……ふ……」
望美は自然に目を閉じてしまって、銀がするのを真似して返すうちに、
甘い痺れで頬が染まる。
キスは、愛情表現として一番軽い行為だと、知る前はずっとそう信じていた望美だったが、
してしまったら、続きをしたくてたまらなくなる、
とても危険な行為なのだと、今はそう思う。
同じところをくっつけて、同じものを絡めあって出す音が、
こんなに近くで聞こえることで、
膝を擦りあわせたくなるくらいのこそばゆさに火照ってしまって、
もっと、例えばブラウスのボタンを外されたり、
その下の身体に触れられたり、そういうあからさまなことよりも、
ずっとずっと、止め難い。
「ん、銀……」
「……神子様」
望美の身体がキッチンの縁へ押し付けられて、まな板を押した所為で、
まるい根菜はころり転がってシンクへ落ちた。
その衝撃音で、二人はびくんと身体を離す。
ふたりとも、走ってきた後みたいな息をしていた。
「……これ以上神子様とご一緒していると、このままあらぬ行為に及んでしまいそうにございます。
どうか、向こうでお待ちください。」
ああ、その、切なそうな顔。
同じような顔で見つめ返すことしかできない。
いいのに、このまま、あらぬ行為に及んだって、望美は思わずそう言いかけてしまったのだが、
「それに神子様は、お料理はお得意ではいらっしゃらないご様子。」
そのひとことで、望美の中の甘えたい心が、すぽんと抜けて飛んでしまった。
「ビーフシチューくらい―――ふたりでならできるもん。」
「そうおっしゃるなら、こう申し上げましょう。」
銀は、望美の背中をクルッと翻して、肩をしっかりと抱く。
どうやら戸口に向かって誘導されるらしい。
歩幅はしっかりと大きくて、敷居を跨ぐまではほんの少しの間だった。
「ねぇ銀、私も一緒に」
「私はいつぞや、神子様に助けていただいたツル。」
「……ツル。」
この台詞は、望美もよく知っている昔話の決め台詞のアレンジである。
懐かしい思い出の何ページかが、額の裏に去来した。
敷居を跨いだあちらとこちら、銀と望美は、顔を近く近く見つめあい、神妙な顔つきになった。
「そう、ですから決して、この扉を、お開けになってはなりません。」
「どんなにおいしそうな匂いがしてきても?」
「さようにございます。私がどのように、ビーフシチューを作るのか、そして、ゴミひとつなく、廚を片付けているのか、
あろうことか平家の公達のそのような姿を、ご覧に入れる訳には参りません。
これは、ツルから神子様への、たった一つのお願いにございます。」
「―――わかりました。開けません。」
銀は、甘く微笑んで、望美の長い髪を撫でてから、
扉はきち、っと閉ざされた。
ツルに追い出された先はリビングだった。
白いラグの掛かったソファに、お尻がすっぽり沈む。
気持ちいいなぁ、と思いながら、改めて部屋を見渡すと、揃えられた家具はどれもとても良いつくりだ。
「さすが、平家のお坊ちゃんだ……。」
やや所在ない。
ツルではないのは知っている。平泉で郎党をしていたことも知っている。
けれど、言葉の端々、することのひとつひとつ、受けとめて、こうしてまじまじと実感することは、
銀は確かに平家の公達であるということ。
遠い遠い春の日に、御簾の向こうに透かし見た、月影に似合う声をした男の人。
『名を名乗りあうのは、夜半になってからでしょう?』
見ず知らずの女の子に、そんな台詞を吐いても許される、由緒正しい殿上人が、
台所に立つところなんて、まじまじと目撃なんて、
どんなに所在なくたって、それだけはきっと、してはいけない。
みてしまったら、ほんとうに、かなしんで、
昔話みたいに、時空の向こうへ帰ってしまうかもしれないもの。
銀、ここにいて。
のぞかないから、ずっと私の、銀でいて。
そんなことを思っているうちに、いつの間にかうたた寝をしてしまったようで、
いつの間にかビーフシチューは出来ていて、
いつものように、おいしいね、とか、コツは?とか、他愛ない話をするうちに
お皿は綺麗に空っぽになった。
ツルの作ったビーフシチューは、それはそれは上出来だった。
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