◇◆◇Chapter 2 -Autumn◆◇◆
始まりは、間違って入ったスタジオの一室だった。
出る頃には彼がいて、
灯りのスイッチを消しながら「またここで会えるかい?」なんて、
言われた衝撃の出会い。
思えばあの一時間は、なんだか手放しで楽しかった。
自分がそういう恋の主人公になるなんて、期待しているはずもない。
私はヴァイオリンがちょっと弾けるという以外は、普通の女の子だった。
ヴァイオリンが弾ける代わりにピアノは弾けないし、友達のうちの何人かみたいに彼氏がいたりもしない。
勉強は普通、運動も普通。
そんな私に出会った彼は、言ったようにその次にまたそこで会えた日には私の恋人になっていた。
『僕に恋というものを教えてよ』
というのがその正確な内容で、代わりに私は音楽というものを教えてもらえることになった。
私は学内選抜を控えていたし、彼が言うには、私はそのレベルに達するのにやや困難があるようで、
そして彼が弾くピアノはそれこそプロ級のように聞こえた。残念ながら私は恋のプロではない。
だから私の手腕で彼に恋を教えることができるかどうかは未知数だったが、
無言で首をタテに振ったのは多分、恐らく、
半ば契約不履行となったとしても、少なくとも私には何らかのメリットが残ることを、
本能は計算していたのだと思う。正直に。
それに、物事はごく急速に進んでいた。
断わる暇もないくらい、めまぐるしく私たちの関係は、
この間知り合ったばかりの誰かから、明確に動こうとしていた。
いや、正確にはよくよく吟味して、断わるなら断わることもできる時間はあったのだ。
スタジオの予約は一時間。片付ける時間を差し引いても五十分はある。
それだけあれば、その唐突なオファーに対して膝をつきあわせて、
何故私なのか、何故彼はいきなりそんなことを言うのか、
そこのところを詳しく語ってもらう時間は絶対にあった。
けれども私はそうはせずに、
彼の言うままにヴァイオリンを弾かされて、言うがままに恋人を演じることになってしまった。
「顔も嫌いじゃないし」
と彼は私を見つめてそう言った。
まぁつまり、彼にとって私はそれなりにかわいく見えていたということになる。
顔の好みは人それぞれだ。嫌いじゃない=好きな顔だ=天宮さんにとってはかわいい顔である
と、別に飛躍した解釈ではなかったと信じている。
「私も嫌いじゃないです」
私はそう言った。私にとって天宮さんの顔は、誰がなんと言おうと好ましい顔だった。
出会って二日だか三日だか、恋をしようと言われて、
待って下さいまずは話し合いましょうなんて言えなかったのは、
その顔が私の好みであったことが本当に大きかった。
幾らその音がプロ級だからって、好きでもない顔のひとの恋の実験につきあうことなんてできるだろうか。
少なくともその時の私には、できるわけがなかったのだ。
あれからふた月。
いろんなことがあって、そろそろ十月を迎えるいま、
私たちは実験でなく、本当に恋人同士になっていた。
ピアノのある部屋からドアをひとつ隔てた部屋の奥で、照明を落としてごそごそしてる。
「……ん、ぁ、あの……天宮さん、」
恋を教えて欲しいなんて言うから、奥手なのかと思うじゃない。
恋をしたことがないなんて言うから、全部ゼロから始まると思うじゃない。
けれども彼ははじめから、恋とはどういうコトをするのかに関して、とてもよく知っていた。
人前でキスをしようとしたり、
プリクラのボックスのカーテンを引いた狭いせまい空間で、
所謂そう、いちゃいちゃした写真を撮ったりとかもそのうちのひとつだ。
本当は恋したことがあるのではないかと、私はそのたびに心の奥底で疑って、
寮に帰ったその晩はよく眠れなくて、次の日メンバーに怒られたりした。
だから、私は天宮さんと、恋の実験をひとつひとつ進めながら、
私のほうは一歩早く、これが本当は実験じゃなくて、
私の心は着々と彼に傾いてしまっていることに気付いていた。
天宮さんは知っているだろうか。
私の恋がいよいよ佳境に入ったいま、
ただキスのひとつ、それから、
指が直に肌に触れることが、何故か不安に変わっていること。
天宮さんが折りに触れて言うのに似て、そのことは私もこれまで知らなかった。
夏のある夜、プールサイドで初めてキスをしたときは、
ただとても緊張して、同時にとても嬉しくて、彼の唇の感触を全て、覚えたいと思ったのに。
パーティが終わって言葉を持て余した私たちは遊園地で、観覧車からの夜景を眺めたのだけれど、
そのあとこんどは天宮さんの部屋から眺める観覧車が私たちの夜景になって、それから―――
ソファの上でされたことのひとつひとつ、
今でも思い出すと顔を覆わずにはいられない、
恥ずかしすぎる行為の全てが、それでも激しく満たされていたというのに。
―――いま、ベッドの上で同じことをされて、どうして不安になるんだろう。
季節が夏から秋に変わったから?
指先がしんと冷たくて、胸を掻き寄せられると震え上がるくらい。
「感じてる?」
制服の、更に下着の内側で、こっそりと弄られている乳首はキュッと縮こまっていたのだけれど、
彼は煽るのでなく怪訝そうに尋ねた。
「……わからない、です」
「そうみたいだね。君の身体はこんなに反応しているのに、顔は何故だか浮かない」
だって会うたびにこんなふうに。
ちょうどピアノの練習をしているところにうっかり訪ねて来てしまうと、
散々待たされた挙げ句に雪崩れるように、こうなってしまう。
お待たせ、って。
じゃ行こうか、って。
手首を引かれてリビングを後にしてしまったら、寝室の電気も付けない。
つまり、前置きなくいきなりに始まってしまうということ。
「気分が乗らないならやめようか」
天宮さんは上体を起こし、私の制服から手のひらを抜いた。
乱された下着の裾がスカートの腰からはみ出していて、すうすうと空気が触れる。落ちつかない。
そして、彼がそのまま腰を上げてしまったあとの、二、三揺れるベッドの上で、
ひとりそれを直すのはお世辞にもいい気分とは言えなかった。
「……怒って、ます?」
って、私が悪いんだろうか。
「どうして? 怒っているように見えるかい?」
「………」
「飲み物でも持ってくるよ。温かいのと冷たいの、どちらがいい?」
「えっと……」
室温は微妙だ。
夏だったら冷たいのと言ったろうし、冬だったら温かいのと言ったと思うけれど。
何よりも、半端に暖められたあとでまた冷やされていくような身体を持て余していては、
どちらとも私には答えが出ない。だからこう言った。
「天宮さんと一緒のがいいです」
「そう。じゃ、少し待っていて」
部屋を出る前に、天宮さんはドアの脇で電気のスイッチを入れた。
順応の早いほうでない私の目は、その瞬間に反射的に閉じてしまって、出て行く彼の背中を見なかった。
(あいたた……)
この部屋のあかりは柔らかなオレンジであることは知っているのに、沁みるようで、
俯いた私の鼓膜にドアのそっと閉じられる音が届いた。
へんなの。今頃淋しい。
天宮さんじゃないけれど、恋をするのは難しい。
◇
ぺたぺたと裸足でフローリングを歩いていく。一歩一歩の抜き足差し足がひんやりする。
音が立たないように、細心の注意を払いながら寝室のドアを開けてリビングを窺ったあとだった。
そこに天宮さんがいないならあとはキッチンかお風呂場か、ということになるけれど、
飲み物を持ってくることになっているなら十中八九キッチンに違いない。
しゅんしゅんとお湯の沸く音がする。
キッチンとの境目はドアでなく、敷居から長方形にぽっかりくりぬかれた形になっている。
私ならそこに突っ張り棒を細工して、かわいい布のひとつでも吊るしたい。
なんて思いながら、壁に貼り付くようにして、おでこから少しずつ中を覗いた。
相変わらず生活感のないキッチン。
そして相変わらず生活感のない天宮さんは、
小さな手鍋(この家には鍋というとこれしかない)が沸騰しているのもそのままに、ガラス棚の前で思案げだ。
カップを選ぼうとしているのだろうか、いや、選ぶほど種類はないはずだ。
横顔が綺麗、真っ直ぐに伸ばした背中が綺麗、顎に当てられた、まるくした人差し指が綺麗、
その指はさっきまで私の制服の中でふよふよと意味深な動きをしていたあの指と同じ―――
(……私のバカ)
何を考えているの。やめてと思ったのは私なのに。天宮さんはそのとおりにやめただけなのに。
やっぱり覗きなんて良くない。へんな気分になるから。
と、鼻先までさしいれていたのを再び額まで戻した私を、天宮さんが呼びとめた。
どうして見つかったのだろうか。いつ見ていたのだろうか。
「隠れてないで出てきたら?」
そう言う。
目が合った覚えはないし、
私が覗き始めてから覗き終わるまで、天宮さんは同じ姿勢で同じ目線で、
ずっとガラス棚を真っ直ぐに見つめていたのではなかったか。
「……隠れてないです。覗いてたんです」
「なるほど。そうとも言う」
可笑しそうに返った声に、私はつられてもう一度顔を出してみた。
ほんの僅か傾けた顔、まるい目はよく笑っていた。
その手にはただ白いカップがふたつ、指に引っ掛けられてぶら下がっている。
「取って食べたりしないから、ここへおいで」
「……本当に?」
「僕が嘘を言ったことがあるかい?」
「それは、ないけど」
「そう。だから君は安心していい」
天宮さんはオール電化の平たいヒーターの上、やはりしゅんしゅんと沸いていた小鍋の取っ手へ、
ようやく手を伸ばしてカップへ近づけた。
「あ、そんなやり方じゃ零れます…!」
私は反射的に駆け出していた。
こんなに狭い空間で、駆けるなんて大袈裟だけれど、でも、それでも。
ねぇその手つき、少し危ないです。
小鍋の淵から沸騰したお湯が跳ねたり、漏れたりして、
万一あなたの大事な指にかかりでもしたらと、
私はもう見てられないです。
「私が!」
大袈裟に上げたその声で、
天宮さんは今にも注ごうとしていた手を止めた。
「ふふ。君が?」
「……私がやりたいんです」
「インスタントコーヒーを入れるだけだよ。面白いことでもないのに」
「でも、やりたいんですっ」
天宮さんから手鍋を安全に奪いながら、私は様々に言い訳をした。
お湯を注ぐ前に粉を入れた方がいいんですとか、
混ぜるタイミングもそれなりに大事なんですよとか、
ついでにお砂糖とミルクはどうしますかとかも聞いたりした。
本当はインスタントコーヒーに関して私はそれほどこだわりはない。率先して入れたい訳でもない。
何故なら自分で入れるより、好きなひとがつくってくれたのを飲むほうが、絶対に美味しいと思うから。
よく見るタイプの角瓶から、小さじにこんもりと盛ったのを一回二回、カップの底へ、
そして、ゆっくりとお湯を注ぎ入れた。
「へぇ。どのタイミングで混ぜるのがいいんだい?」
天宮さんはそう言って、湯気の斜め上から覗き込むようにした。
「え……その、ま、まぁえっと、適当にです」
「それなら僕にもできるんだけれど」
声はいつの間にか背中の後ろに回っていた。
腰からまるっと腕が回される。うなじへ唇が寄せられて、ひ、と妙な声を上げてしまった。
角砂糖を沈める手つきが危うくなってしまう。
「天宮さん、そ、んなのだめです。約束違反」
「違反、ってそれは、取って食べたりしない話のことかな」
「そうです。それに、……っんぁ」
「おかしいな。全然駄目そうじゃない」
「だ、だから! もう、さっきからお砂糖いくつですかって聞いてるじゃないですか…!」
天宮さんは、君と同じでいいと言った。
それだとかなり甘くなってしまうと警告したけれど、それでいいと言った。
君の好きなもののことを知りたい、君がどんなものを喜ぶのかを知りたい、と、
更に注がれた言葉はそんなだった。
それは、まるっきり私の思っていたことと同じで、
不思議なことにその瞬間に、私の不安だとか警戒心だとかが、
ゆるゆるとかき混ぜられて薄まってしまった。
「考えていたんだ。何故君が嫌がったのか」
「……嫌がったっていうか」
「表現が足りなかったかい? でも、僕にはそう思えてね。君が来るまでの間、ずっと考えていたんだ」
それがあの思案顔だったのだろうか。
だとすれば、答えが出たか出なかったか、そんなことはもう、どちらでもいい気がしてしまって、
会う度にそういうことになってしまうのも、なんだか、それでいいような気もして来てしまって、
寝室でずっと上の空だった自分をやや悔やんだ。
「始める前に、こうすれば良かったね」
「―――」
「だって、君はいまとても幸せそうだよ。そう見える」
私の髪のすきまに、天宮さんは鼻先をうんとさし入れてそう言うのである。
顔なんて見えないはずなのに、幸せそうだなんて。
表情から窺ったのでないのなら、私のどこが、そう見えると言うのだろう。
「……冷めちゃいますよ」
「いいんだ。もう少しだけこうしていたい。取って食べない約束を守らないといけないから」
きゅう、と狭くせまく、抱かれて思う。
言葉を抑えるということは、なんて難しいことだろう。
約束なんて、いいですよと
そんなのもういいですよと
少しずつ冷えてゆくふたつのカップを前にして、動悸ばかりが通り過ぎる喉が、ひりひりと灼かれるようだ。
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