* It's a Note. *
2010/10/03発行無配本再録(WEB用に編集・改行しています)
◇◆◇Chapter 1 -Summer◆◇◆
まだ彼女と出会う前の話だけれど、考えたことがある。それはもう真剣に。
夏が得意だという人もいれば、苦手だという人もいて、では僕はどちらだろうと。
季節が冬なら、考える題材は冬の得意不得意でも良かったんだけれど、
その時は夏だったから、そう問いかけた。
「冥加はどう?」
「…相変わらず下らんことを」
そこは学校の温室で、相変わらずバラが数百種、ところ狭しと、
生きているのかそうでないのか、どちらとも見える風情で咲き誇っていたのだと思う。
昼休み、ちょっとした食事をとってから、
ピアノでも弾こうかと冥加を誘いにバラ園へ顔を出したところだった。
冥加は食後、よくここで腹ごなしをしてる。
こなさなければならないほどものを食べようとは思わない僕には、よくわからない習慣だ。
結局、冥加は得意とも不得意とも言わなかったけれど、
「本来バラは夏に咲くものだ」というようなことを言って、
「夏に咲く薔薇は好ましく思う」とも付け加えた。
太陽の下で夏の熱気を受けて、無骨な花びらを幾重にも重ねるのだと。
「無骨であることは好ましいのかい?」
「無骨であれ華麗であれ、己の極みを知るものは好ましい。夏はそれを思い出させるに十分、極みの季節ではある」
「なるほど」
冥加は夏の薔薇のようにありたいみたいだった。
少なからず参考になった気がして、そのあとのアンサンブルになにか変化が出れば、
なんて思ったけれど、練習室に響いた音は、さほど変わらなくて。
それで何も不思議ではないんだ。
僕が知識として増やしたものは、薔薇の旬が夏であることと、
冥加はそれに心を動かすらしいということで、だからと言って特に僕が変わった訳じゃない。
相変わらず夏は夏で、僕は得意でも不得意でもなくて、好きでも嫌いでもない。
いま思うと、恐らく僕は、心の動く瞬間を求めていた。
心が動いて、身体が動いて反応する。
音楽をやる者なら(やらない者だってそうだ)当たり前にこなすことだと思ったから。
そして音楽をやる者ならそれが、音にどう出て来るのか。僕が興味を抱いたのはその部分だ。
通学途中、学校までの僅か5分だかの距離を歩く間に、僕を追い抜いていく生徒たちはだいたいに於いて、
上の制服は脱いでしまって片手に抱えている。
黒いシャツを背中に貼り付かせている奴も多い。
彼らの考えはなるだけ急いで校舎へ入ること、空調の整った空間で、汗の滲んだ身体を乾かすこと。
「そんなものかな」
僕にはあまり必要がないから、その急ぎ足が少し羨ましかったんだと思う。
今年も夏が巡って来て、今年の僕は彼女のそばで、当時のことを唐突に思い出している。
圧倒的な記憶の波はこころの淵まで沸き上がり、さざめいて、それは僕をして目の前の彼女の手をとらせる。
僕の口からみっつの言葉が、自然と紡がれていくのを止められずにいた。
僕は君が好きだ。
僕は君を愛している。
僕は君に、恋をしている。
染まってゆく彼女の頬と、指先の温度に、今ならそれが、同時に僕にも起こっているのだとわかる。
彼女の口からすぐに言葉の返って来ないのは、届かなかったからじゃない―――ちゃんとわかるよ。
ここにピアノがあったなら、いま僕の音は、どんなふうに鳴ると思う?
あのとき君に弾かせたようにして、
これらみっつの言葉のあとで、僕が奏でる音楽は、
過ぎ行く夏をもう一度、暖めることができるくらいには極まるだろうか。そうだといい。
パーティの会場が賑やかだ。
ビュッフェの食事が一段落したあとだから、ドルチェでも運ばれて来たかな。
そんな中、彼女はプールサイドで腰を下ろした。
足の甲が剥き出しの、極端に頼りなげな靴さえも脱いで、爪先を水に浸す。
そのまま泳ぎ出しそうに見えるなんて、僕はどうかしてしまったのかもしれない。
実際には彼女は泳がずに、左右の足で可憐な水音を立てるだけだったけれど。
僕は白い制服を脱ぎながら、その傍らへ腰を落とした。
彼女の、素肌の腕が伸ばされる。
「良かったら持ちましょうか」
「濡らさないでくれるなら」
「あ」
爪先の動きが大人しくなる。
「ああ、そうなってしまうのか」
「……ん?」
「いや、大人しくして服を濡らさないでいてくれるのと、心のままの君を見ていられるのと、
どちらがより楽しめるかなと思って」
僕はズボンの裾を幾つか折り上げて、彼女と同じ姿勢になって、脛までを水に浸してみた。
「不思議だな。いっそ濡れても構わない気持ちになるね」
「気持ちいいですね。冷たくて、つるつるして」
「水遊びをするなんて、初めてじゃないかな」
爪先で水を跳ね上げながら、彼女にも続けるように促した。
濡らさないでなんて、興ざめなことを言った前言は撤回だ。
水の中で足が触れたとき、彼女が一瞬固い雰囲気を醸し出した。
あちらへ除けようと波紋をつくるのを、僕は足首で追って絡めていくことで止めた。
「…天宮さん」
「小日向さん。いま水の中で起こっていることは、他の誰からも、暴かれることはないと思うよ」
僕の言うことは、ときに彼女をこうして酷く狼狽えさせることがあるのを、本当は前から気付いている。
今はそれに、若干の意図をはらんでいることを、君は知ってる?
水の中で起こること、それは僕と彼女だけの秘密で、
けれども水から上がっているぶんは、周囲に明け透けに晒されている。
真っ直ぐの頭上、澄んだ夜気を隔てた向こう、まるい月が落とすひかりに、せめて隠れるふりをしようか。
僕は思い出したように言った。
「そうだ。ふたりきりなら、外でもキスをしてくれる?」
「……おまけはつきませんよ」
「君以外に欲しいものがあるように見えるのかな。だとしたら心外だ」
言って彼女の肩を抱く。
月以外には誰からも、そうしているとわからないように、
顔の角度に気を付けながら、若干萎縮している彼女の唇へ、僕の唇を重ねていく。
ふ、と沈んだ表面に、心臓がひとつ、震えた。
これほど柔らかいのに、その身体はいつほどける?
腕ひとつ回してくれないなんて、何か足りないと思うよ。
少なくとも僕はそう思う。
おまけはくれないと彼女は言う。
確かに、冷たいアイスのひとつくらい欲しくなる、口腔に充満する熱をそれで溶かしたくなる気持ち。
このキスが終わったら、夏が終わるまでにあの店へ、もう一度誘うことを心に決めた。
たくし上げた僕の裾と、プールサイドを滑り落ちる彼女の裾が、波間に純白の影を作る。
じわじわと浸透する、ぬるいぬるい水を君は、冷たいと言ったのだったか。
それなら、音なんか簡単に変わるはずだ。何も不思議なことではなかった。
僕は恋をしている。君と僕は、恋をしている。
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