春の風



春はあけぼの
明けゆく空には陽の色まだき
紫色の雲ばかり。


あるいは下界から仰ぎ見れば、
雲かかるこの山際は、もっと白く、光を映すのだろう。


空が、近い。
春の空はようよう上がりゆくことが、今は恨めしくてならないのだ。


できるなら、このまま。
手を伸ばしてあの雲を、ここへ降ろしてはならないだろうか。


久しぶりに袖を通した戦装束は、私の身体にまだなじむ。
束稲山の、夜が明けようとしていた。


険しい山道を、川音に沿って登ってゆくと、高館をのぞむここに出る。
はたと開ける視界に思わず顔を上げて、貴方を見つけたあの日は、今はもう遠く。


否、時はただ半年も流れてはいない。
見上げる空が、遠くなりゆく、そのことが、私の感覚を狂わせるのだ。


一際太い幹にもたれて見上げると、桜色の陽光が包む。
さわさわと、まだ冷気をはらんだ風が小さな花びらを揺らす。


あなたの返事を聞いて、戦が早く終わればいいと思った。
二人の見た未来の行方が、同じくそこにあるのだと、私は錯覚したのだ。




綺麗に、咲いたよ。




言葉にした途端、胃を圧迫する激情。
思わず身体を折って、口許に手をやる。
涙の出口は一つだけ、そんなもので足りない。
追いつきやしないのにーーー




そのとき春の嵐が、私の髪をまきあげた。
幹に手をついて目を閉じる。
次にうすらと目を開けたとき、ちらちらと視界を遮るものがあった。
あとからあとから降り続けるそれは、いつか貴方がその名を教えてくれた山桜。
ひとひらになったそれは、儚く白く、しかし底なしに美しかった。




舞い上がった花びらは、貴方にも見えていますか。




この樹々が、最後の花弁を落とすまで、どうか遠くへ行かないで。
灼熱に向かって上りゆく空よ、もう少しだけ、あの人を連れて行かないで。




忘れないでと、その一言さえ言えないあの人だから。




この桜は咲いたのに、あの戦は終わったのに、貴方がここにいない。
言えない貴方の代わりにーーー




忘れないで。




あの時触れた、指先の温度。
こんなことなら、ちゃんと握っておけば良かったと、眩しさにまた泣く私を
貴方は笑ってくれればいい。


まるっきり、明かりし春のあけぼのの、
紫の雲間はもう遠く。
花は盛りに舞い吹雪く。


風をつくるところに。
呼ばれた貴方のあの声を、今はもう聞く事は無くても。


ずっと私を溶かしてくれる。
四季を巡るそのうちに、また、私を揺らす風をください。


私は、ここに、いる。





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