そう、その頃はまだ、知らなかった。
京の結界は、なにも明王の札で仕切られているだけではないことを。



知らないことは、全て、あのひとが教えてくれたこと。



いまも、むかしも、かわりなく、
丸太町通は雨の境界線。
北と南を二分して、丸太町で雨が降る。




◇◇◇




まるたけえびすにおしおいけ
しあやぶったかまつまんごじょう――――


――――あれ?松・万・五条、でしょ、ごーじょう……の次はぁ。


えーっと………。


「ナーントっカ東寺でとどめさす!っと。」


花梨は物騒な動詞でわらべ歌に終止符を打ち、
その反動のようにして床の上で起き上がる。
まだ昼間であった。


時間で言えばもう一、二カ所くらいは、
気味悪い物の怪を追い回し、しかる後に上手くいけば封印などして帰れたはずだった。
が、予定が繰り上がった。
八葉も、神子も、突然の雨にだけは敵わない。


鳥羽離宮から北上し、それこそ東寺の辺りでとどめを刺された。
バケツの水を、とはよく言ったもので、からがら邸に戻った頃には
着物の袖の先にまで、泥がハネたのがこびりついていた。


「まぁ、神子様はなんとご活発な……。」
「ち、違うんだから、これは勝真さんとイサトくんが前で全力疾走したぶん!」


出迎えた紫の前で言い訳した。


「さようでしたか。」
「荒っぽくて悪かったが、よくついて来られたものだ。見直したぜ。」
「こけそうになったりしなかったか?ゴメンな、花梨。」


我に返った乳兄弟組は、口々に賞賛したり陳謝したりしていたが、しかし足早に邸を後にした。
八葉も、神子も、出来れば風邪はひきたくない。


「さぁ、神子様。さぞお冷えでしょう、すぐに湯屋を用意致しますから、どうぞ暖まって下さいませね。」
「ありがとう!うーさむっ。」


花梨が湯屋に篭っている間に、バケツは次段階へと進化したらしく、
いまや風呂の一つや二つくらいはひっくり返ったような雨である。


京、という世界へやって来てから、花梨はほとんど休みを取らずに過ごして来た。
たまには骨休めでも、と紫は折々に、ちゃんと勧めてくれたのだったが、
少しでも半人前から抜け出るためには、とてもそうしてはいられなかった。


だから、この突然の休暇を、どうすごしていいのかわからない。
日曜日、土曜日、学校のない時は、何をして遊んでいたのだったか。


たった2ヶ月過ごしただけで、そんなことも忘れてしまったのだろうか。
おかあさん元気かな、などと、こういうときに思うのは何故か父でなく母であり、
なんとなく父に申し訳なく、
だから父が酒を飲むとよくうたった歌を、おもむろに口先へ運んだのだ。


「まるたけえびすにおしおいけー。」


これは、碁盤の目状になっている京都市の通りの名前を北から南へ覚えたいひとが
語呂合わせに口ずさむと良いとされているうたであると聞いた。
ちなみに東から西へ覚えたいバージョンも存在するがここでは割愛する。
もとい、まる、とは歌詞中の最北丸太町通のまる、たけとは一本下がった竹屋町通、
おいけはそのまま御池通である。


「―――――しあやぶったかまつまんごじょう、……あれ?松・万・五条、でしょ、
 ごーじょう……の次はぁ。」


現代世代の京都市民も、このあたりで大概ひっかかってしまうと聞いた。
聞いた通りになってしまう、花梨は素直なタチである。


全て覚えていたならば、同じように区画されているこの世界で生きてゆく、
その難しさのうちのいくらかは解決するかも知れないと思ったが。


「えーっと……。ナーントっカ東寺でとどめさす!っと。」


五条の先を思い出せないわらべ歌は止めて、
んっ、と起き上がって御簾をくぐり、少し端近へ出た。


「泰継さんなら、忘れたりしないんだろうなぁ。」


忘却がない、というひとの事を思い出していた。
ヒトには忘却が必要だから、忘却があると彼は言い、彼には必要がないと言う。
ヒトではないから忘れなくとも堪えないと言う。


「忘れるほうが堪えることもあると思うけどな。」


ヒトは、五条の次が気になって、せっかく休みをもらっても、
のんびり眠っていられなかったりするから。


ならば覚えておく必要のないものなのだ、と彼は言うのだろうけれど、
例えば○○通りまでお買い物に行って来て、と頼まれても、
花梨は今のところ、丸太町から五条までしか引き受けられないことになる。


(ね?こう、忘れない方がいいことを、うっかり忘れたりするんだよ。)


花梨は、空を眺めた。
四方を山に囲まれた京の、雨粒だらけの、低い低い弧の先へ、
視線を埋め込むようにして、


五条を超えて、四条を超えて、丸太町を更に上がって、
北のはてまで見据えたい。
雨が降るとき泰継は、そこで、何をしているのだろうか。


「あいたい。」


どうせ、まだ、濡れているなら。
花梨は、衣紋掛けの衣装を滑り落とした。




◇◇◇




『陰陽道研究』と称して休みを取ったのには訳がある。
夜通し研究をしていたのはその通りである。
眠りを軸にして時間を知る訳ではない泰継は、世間の活動の始まりを、
京がはらむ気から読み取る。
しん、とうち沈んでいた空気が仄かに動き出し、そろそろ灯火を吹き消す頃合かと、
格子を上げてみると、やはり空は白み始めていた。


常であればここで腰を上げ、花梨のいる七条まで出向くためのこしらえを始めるのだが、
泰継が気から読み取るものの中には匂いもある。
その日は、南のほうで微かな雨の気配がした。


もっとも、北山は抜けるような晴れであり、とても雨が降るようには見えない。
が、ここは丸太町より北にあり、花梨が住むのはその南。
きっと、昼を迎える頃、向こうに雨が降る、そう考えた。


雨だから、今日は休みにしたほうがよい、と考えた。


言ったようにそれには訳がある。
泰継には今ひとつ解せないが、花梨が言うことは叶えてやりたいのである。
とは、こうだ。



『雨の日は、髪がぺちゃんこになってしまう気がして。』



院側の神子、などと呼ばれていた頃の花梨と出掛けるようになってから、
三度目に雨が降った日に、彼女が口にしたことだ。
一度目も、二度目も、そのようなことは言わなかったし、
泰継もまだ花梨を神子とは呼んでいなかった。


『確かに、常より嵩がないな。』
『やっぱり……。』
『困るのか。』


そのような表情をしていたから尋ねたまでだ。
案の定花梨は頷いて、ふくと頬を赤くした。


『せっかく泰継さんと一緒なのに、ぺちゃんこじゃいやなんです。』
『問題ない。』


きっぱりと言い放ったのがいけなかったのだと、今は朧げに理解している。
それも考えた末のことだが。


『そ、そうですか?良かっ―――』
『怨霊に当たるのに、髪の状態が特に影響を及ぼすことはない。』
『………ふぅん、そういうことですか。』


それから花梨は言葉数が少なくなり、雨の日に当たる度に同じような苦言をした。
そのうち雨の日には同伴を許されなくなった。
じゃぁね〜などと、イサトや勝真、その他泰継以外の八葉と連れ立ってゆくのを、
何とも言えない気持ちで見送って、北山へ戻る、そんなことの繰り返しになった。



「解せない。」


出向いても、共に出掛けられないことが目に見えているならそれは徒労である。


「何故だ。」


神子の力を借りないで、八葉のみが出来ることなど知れている。
ようやく封印を覚えたばかりの神子であっても、八葉には覚えることさえ出来ない術だ。
それも、このような不完全な八葉であれば、尚更ひとりで出来ることはない。



だから、徒労である。
わかっているのに。



何故、胸が痛い。



南の空が低いだけ。雨の匂いが追ってくるだけ。
それだけの事象が、まるで何かを注ぎ入れるように、泰継の胸に沁みる。
しんしんと、深くへ、ひとつぶひとつぶ落ちて、やがてとどまるその先を、
ヒトも心と呼ぶだろうか。


こうしていても、始まらない。
陰陽道研究と言ったのだから、腰を落ち着けて陰陽道を研究するべきだ。
西南の結界は未だ残っている。
大きな怨霊の気配を感じるが、そして自分は朱雀でも白虎でもないが、
何かしら研究しておけば、そのうち役に立つこともあろう。


「…………。」


あれは、傘を持って出ただろうか。
あれを守る八葉の内の、ひとりくらいは持ったろうか。
万一、三名のうちの誰ひとり、持って出なかったなら。


泰継は、落ち着けたばかりの腰を上げかけた。
あの華奢な身体では、雨に打たれれば殊更冷えるに違いない。
そう、湿度で嵩低くなるあの髪は、しとどに濡れれば額に貼り付き、
きっと、小さく小さくなってしまう。


「神子!」


叫んだ次には傘を掴み、引き戸をカラリと開いていた。
刺すような陽光が杉の合間を木漏れ、まばゆい痛みに手のひらを翳した。
眩しすぎるそのひかりは、彼女にも似ている。
だから、駆け出せぬままに立ち尽くす。



――――ぺちゃんこじゃいやなんです。



こんなとき、どうすればよい。
答えが、出ない。




◇◇◇




花梨は赤い傘を着て、ぴちぴちと雨水を踏みながら、早足で大路をゆく。
湯に浸かっている間に、袖の汚れを擦り落としてくれたらしい、家人の苦労が水の泡で、
その上から上から重ねるように、泥はね模様が増えてゆく。


「泰継さん…!」


その顔を見れば、声を聞けば、思い出せる気がした。
松・万・五条のその先を。



――――わたしのすむ、ところまで。



つまらないことも、何でもよく覚えている泰継なら。
教えてくれるのではなかろうかと、そんな気がして足が急く。
肩を殴るように、縦横から注ぐ雨。
袖口は一段色を濃くして重たくなり、傘など手放したくなってしまう。


この通に、市営の地下鉄が走るのは千年も先のことである。


京を二つに分断する雨のラインは、雫を落としたぶんだけ加速して、
重く垂れ込む空の弧も、ぐんぐんと薄くなって北上していた。
そして、いつしか花梨を追い抜くのだ。



足が棒になった頃、ふと、静かになった気がし。
花梨は傘を脱いだ。



「あれ、止んだ?」


空へ向かって手のひらを掲げたのだったが、
やはり間違いだったらしく、雲は後ろから追い掛けていて、指先は刹那に青く翳った。


「だよね。」


あれだけ降っていたのだ、急に止むほうがおかしい。
更に不思議なことに、翳った空には声もあった。


「これから酷くなるのだ。」


ハタと振り返るまではほんの一瞬。
空ではなくて、泰継の声だと脳が判じたのも、顔を見るより前のことだ。


「泰継、さんだ。」


想像した通りの顔が、青みがかった傘を差しかけていた。
肩越しに、小糠のような雨が降っている。


「やはり、私には会いたくなかったか。」
「っ、そんなこと!」
「そうか。」


花梨が傘をすぼめて、泰継は、ほのりと顔を緩ませた。


「どうして?」
「雨の日には、私と出掛けたくないと、神子が言った。」
「――――あ!」


花梨は咄嗟に、空いた方の手のひらで頭を押さえる。
そうだ、そうだった。
そんなことをいつか、言った気がする。


「いけない。」
「きゃ……」


泰継が腰を屈めて、花梨の指先を握り込んだ。
やや湿度を含んだ、しっとりとした質感に、ぴくりと筋が浮く気がする。


「っ、こんな、泰継さん……!」
「押さえては、余計に嵩が減る。」
「…………ふ、ふぅん。」


ドキドキして損した、とはこういうことをいうのだと、
花梨は今身を以て体験している。
が、言われたことは尤もで、ぽて、と頬を膨らませながら、手は素直に外した。


「……止んだのかと思った。」
「ここを境にして、南北で天気が変わるのだ。」
「ここ?」
「丸太町通だ。」
「―――。」


泰継は、背を一つ高くして、空を見た。
花梨はそれを真似てみる。
潔いほどまっすぐに、背筋を伸ばすひとだと思っている。


「だから、お前のところは雨だろうと思った。」
「だから来なかったんですか。」
「正確には、迷った。」
「……え?」
「どうした。」


少しの沈黙のあいだに、雨音が再び酷くなった。
糠だったそれは時を待たずして絹糸のごとく、そして最後にダイズほどになって傘を叩いた。


「やはり、追って来たか。」
「え、なんですか?」
「いや、こちらの話だ。それより何だ。」
「うん。」


声より、雨のほうが主張するから、柄に向かって肩を詰めた。


「泰継さんでも、迷うんだ、って、思って。」
「意外か。」
「はい。」


そして、一つ歩を進める。


「戻らぬのか。」
「だって、雨の方向はこっちでしょう?」
「そうだ。だからお前を送って―――」
「ふたりで傘に入りたい気分なんです。」
「―――そうか。」


雨のラインが舐めていったから、京の北の果ては、黒い黒い空だった。
泰継の庵は、雨漏りに耐えるように作られているのだろうか、と、
花梨はその横顔に、些か不安を感じたりしたのだが、
しかし既に、歩き始めてしまっている。



雨漏りするようならば、次は晴れた日に休みを貰って、
張り切って修繕に来てあげてもいい。



再びの、殴るような雨の中、ふたりで裾までずぶ濡れになったけれど、
少しも不安でなかった。


「うたっていいですか?」
「好きにすればいい。」
「よーし。」



まるたけえびすにおしおいけ



「待て。」
「いいところだったのに。」
「お前の世界にも、その歌があるか。」
「泰継さんも知ってるんですか!?」


内心、ラッキーだと思ったことは伏せておく。
やはり、このひとについてきて良かった。
知らないことは、ぜんぶ、ぜんぶ、このひとが



泰継さんが、教えてくれる。



「じゃぁ、一緒にうたって下さい!」
「私は歌は―――」
「雨に負けないように歌えたら、京を分断する悪いものが消えるんです。」
「そんなことはない。」
「あるかもしれないじゃないですか!」
「それは、ない。」
「いきます。」


このときの花梨のような者のことを、歌ったもん勝ち、という。


「丸竹夷二押御池ー♪」
「っ、…………四綾仏高松万五条。」
「……。」
「どうした。」
「この先は、忘れちゃったんです。」


ねぇ、私には、この先が必要ないってことなんでしょうか。



「………花梨。」
「はい。」
「お前には、忘れて欲しくない。」



こんなことを思うのは、初めてだ。



「『雪駄ちゃらちゃら魚の棚』……どうだ、思い出せるか。」
「東寺でとどめをさすんですよね。」
「そうだ!その調子で――――」




◇◇◇




でもね、これは、
北から南へ覚える歌だから。



残念ながら、ただ一介のヒトでしかない私にとって、
耳をそばだてながら、北上しながら思い出すには、少し、難しいんです。
それにあなたの声は、アズキみたいな雨音に、すぐに掻き消されてしまうの。



いつか、あなたにも、わかるかな。



青く翳った弧の下で、私たちを分断する、
竹製の太い、邪魔過ぎる柄のむこうで歌うあなたは、後ろから見てたときより、ずっとずっと背が高かった。
私の肩は、すでにずぶずぶになってるんですけど
ぴったりくっついたら、きっと冷たいかも知れないんですけど、



でも、でも、もう少しだけ、いいですか?



耳許でなんて、言わないから。
ちゃんと、聞こえるところに、行きたいんです。




――――六条三哲とおりすぎ 七条超えれば八、九条 十条東寺でとどめさす






- 陰陽南北はれしぐれ - 完















                                  



トンビさん主催の、『雨の午後、君と』企画に提出させていただきました…!(現在は終了しています。)
トンビさん、タイトルからしてドキドキする企画、参加させて下さってありがとうございました。
初めて書いた遙2がこの泰花で、きっとアナだらけなんですけれども、
私がキュンとした最初のポイントが彼の『忘却についてのウンチク』だったので、
チキショー難しいこと言うんだよなぁもう!とか思いつつ諦め切れませんでした(笑)
ツグさんはヒトになったら、忘れることを覚えたりするのでしょうか。
これが忘れるということか、って感じるときってどんななのかなと思うと、とても想像し切れません。
けど、ヒトでないと主張する割に、かなり人間らしいひとだと思うんです。
ツグさんは、そのコンプレックス先である泰明さんより、ずっと最初からヒトに近いとこにいるんじゃないかと、穿ってみているこの頃です。

2009.06.12 ロココ千代田 拝