「花火て、」
しばらく話さずにいた蓬生さんの、久しぶりの声を聴いた。
膝の上で話されると、少しだけビリビリと、振動が伝わる。
これは、見えなくても声帯はちゃんと震えていることの、証拠なのかな。
私に話しかけた蓬生さんは、だからと言って私の方を見ているわけではなくて
言ったように花火を見ている。
この、まるい、たくさんのひかりが、「ふたりだけの秘め事」になってから、
いくつ目にあがった花火だろうか。
私が、はい、と続きを促すと、蓬生さんはもう一度頭から話し始めた。
「花火て、ずーっと見てたら喉涸れへん?」
「………へ?」
「俺だけか。いやな、どーんいうてひゅるる~と上がってぱッとひかってからもう一回ばーんいうやん?」
「ふふ、はい」
花火は確かに、蓬生さんが説明したように上がっている。
けれども、関西のひとは会話に擬音語を多用するというのは本当だな、というテレビの受け売りのほうが、
どちらかというと私にとっては印象深いことだった。
それが、つい吹き出してしまった理由だ。
「そのもう一回目のばーんが、えらい喉に響くねん」
「……そうなんですか」
これは感受性の問題かもしれない。さらに記憶力の問題かもしれない。
花火を見たあとで喉が涸れているかどうか、それまで一度も意識したことがなかった。
つまらない子、と思われるのはなんだか少し、困る気がして、
私は静かに口を結び、今度上がる花火でそれを確かめようと息をこらした。
花火が砲口から放たれるとき、地をころがり響くような、低い低い音がする。
上がったのは、とても大きな花火で、つい首を少し上へ傾けた。
連続していくつも上がる演出は、会場近くではきっとすごい歓声が湧いていそうだ。
それから、蓬生さんの言った、ひかりのあとの破裂音。
意識したせいもあるのか正直びっくりするほどの響きで、
ティンパニの膜のように薄ぺらい胸がふるえる。思わず手で押さえてしまった。
すると、手のひらにまで振動が伝わるのだ。
「ひゃ…っ」
「な? 来るもんあるやろ」
「は、はい。びりびりします」
蓬生さんは、それを長く繰り返し感じることで、特に大きな声ではしゃがなくても、
終わる頃にはいつも声が出にくくなっているのだと言った。
「まぁ、俺のノドが特別やわなんかもしれんけど」
「蓬生さんの声は、低くておだやかで、いい声だと思いますけど」
「ほんまに? ほな、涸れたら野太うなってまうし、あんたと花火見よなんて、言い出すんやなかったわ」
「………えっと…」
口ごもると、くつくつとおもしろそうに笑いながら、
彼は膝の上で姿勢を変えて、仰向けになって私を呼ぶ。
呼ばれれば目線を下げなければならなくて、そうすれば目が合ってしまうわけで。
私は、ドキドキしていた。
蓬生さんが、秘め事なんて言ったことを、まざまざと思い出してしまった。
初めて男のひとに膝枕をして、しかも、制服の、長くはないスカートの膝で。
だから、ゆうべお風呂で、膝をもっと磨いておけば良かったなんて、今更なことを後悔したりして。
忘れよう忘れようと思っていた鼓動が、私の中で花火より、大きな音を立てている気がしてしまう。
「小日向ちゃん」
「は、はいっ」
「どうしたん、赤ずきんちゃんみたいになって」
「……!」
どうしてだろう、頬に、触れられると思ってしまって、
気付いたら身ごと固く縮こまってしまっている。
けれども、蓬生さんの両の手は、胸の上でちゃんと組まれていた。
骨ばった手首に、女物みたいな時計をしている。それがよく似合う。
「当ててあげよか、あんたの考えとること」
「あ、当たっても何も出ませんから…!」
「へぇ、けっこう言うんやね」
そうだ。自分でも結構言ったと思っている。
それは自衛の意味で、だって、きっと当たってしまうと思ったんだもの。
蓬生さんなら、私の考えていることなんか
ぜんぶぜんぶ、そこから、
見えているんじゃないかって
この薄いうすい胸はビリビリ響いて感じ取って、そう、思ってしまったんだもの。
「声が涸れて野太うなった俺は、さしづめ赤ずきんを狙ろて寝そべってる狼さん、てとこやろか」
まだ野太くなってはいない声で、彼はまずそういうふうに囁いた。
出だしから当てられて、膝にも手にも、ぎゅうと力が入る。
「俺の手ぇにツメでも生えて、身体中硬ったい毛むくじゃらになって、
あんたのこと食べてしまおて思てるんちゃうん、って、思てる?」
「…………」
図星を根こそぎ掘り起こされると、返す言葉も表情も、用意したところからぜんぶ、脱げ落ちてしまう。
なにも出ませんとは言ったけれど、本当になにも、出すことができなくて
悔しいけれど、ぱくぱくと、音声の出ない口を開けたり閉じたりするしかない。
「そんなわけないやん」
「……蓬生さん」
と、安心した私が、馬鹿だったのだろうか。
「手にツメ生やしたら、あんたに触れるとき痛い思いさしてまうし、毛むくじゃらになってしもたら、
あんたのこと抱きしめても、やらかいとこもまるいとこも、なんもわからんようになってまう」
と、そういうふうに彼が続けた言葉に、私はそれまでよりももっともっと、
全身赤ずきんみたいに茹でられてしまった。
やらかいとこって、まるいとこって?
私はそんなに、いいかんじの身体してない
胸だってただのティンパニなのに―――
それにひきかえ蓬生さんは、
袖口から、緩めた襟元から覗く、夏なのに白い白い身体、
触れても、少しも痛くなさそうにつるりとしているというのに
声はやはり柔らかく、しんしんと積もるような色をしているというのに。
「俺はそないなこと、よう辛抱せん。小日向ちゃん、俺はなぁ、」
「っ、」
「あんたが思うより、もっともっと、欲張りやねん」
指先は未だ組まれている。水かきと水かきを合わせるように、行儀よく、ちゃんと。
それなのに、蓬生さんが自身を喩えて言うけものより、そのままの彼のほうが
私はずっとずっと、怖くて
眼鏡をしててもそんなにも、射抜かれそうな、値踏みするみたいな目に
これで、たとえば眼鏡を外されて、そのままの瞳で見つめられたら
私はそれでも、ちゃんと息が、出来るだろうか。
緊張を緩めたのは、ひとしきり歓声を浴びたあとであろう、
ひととき合間を置いて上がり始めた、つつましい花火の音だった。
夜空が揺れて、雲が遠ざけられたあとの、静かな静かなうなりだった。
それは彼にも、同じように聞こえているはずで、
やはりに蓬生さんが、表情を柔らかいものに戻したのが、
それまでの私のこころとは裏腹に、どうしようもなく惜しく映った。
「あ、あの…」
「欲張りやから、いまそないなことして、あんたに嫌われとうない」
「―――は」
けれど、この安堵もまた、嘘じゃない。
「わかってくれた?」
「はい」
「ほな、『ええ子』やと思てくれた?」
「ふふ、はい」
不意に、子どもみたいに笑んだかと思うと、
彼は更に子どもじみた事を言った。その時の私の驚きとは、
花火の前にステージで、彼らを敗ったときよりも、もっともっと大きいものだったのだ。
「せやったら、なでなでしてや」
「…えっ!」
「この手ぇで」
少しも甘え口調でないくせに、いや、その前に、蓬生さんがそんなことを言うなんてと、
私は目だけでなく全身をシロクロとさせていて、
手を握られたのにも、そのまま蓬生さんの額あたりへ持っていかれてしまうのにも、
抵抗などひとつも出来なかった。
ねぇやっぱり、それは
よく整えられた短い爪の、毛むくじゃらでは全然ない、柔らかくてすべすべの、
オオカミの手だ。
狼の額は、やはり手に似て綺麗な肌で
かちんと固まっている私に蓬生さんは、ちゃんと撫でるようにと鼓舞した。
撫でているのは私なのに、恥ずかしくてもう、なにもいえない。
「これで、いまあんたといっしょにおる俺は、めっちゃええ子になれるから、なぁ、安心して花火見よ」
「―――」
「あしたになって、なんも覚えてへん言われたら、俺が泣きたなるしな」
ああこのひとは
「はい!」
やっぱり
ぜんぶぜんぶ、
そこからすべてを見抜いていた。
泣きそうになるの、どうしよう
言い訳して、花火があまりにきれいだったからって、
言ってもきっと、あなたはわかるんでしょう?
「ええ音やね」
「…はい」
味わうような目をして、ふたたび背を向けた彼の呼吸に、
合わせるみたいに息をして、私もまた、空を見る。
「ほんま、綺麗や」
「はい」
「あんたとどっちが綺麗やろ」
「あ、あ、あの、だったら蓬生さんのほうが」
なにを言うのか、と、彼よりも自分で先につっこんでおく。
わかっている。もう、ずっと前から、
私はあなたのことが―――
ああ、言えれば、と思うのに
空へ幾筋も放たれた、シダレヤナギの連続の
夜空を滑る清流の先が、菩提樹寮の屋根の上へ、涙のように落ちて、落ちて
涸れ始めた私の声を、無惨にかき消してしまう。
「あんたと、ずっとずっと、見てたいなぁ」
律儀に「なでなで」を継続していた私の手が、
ふとそこから下ろされて、蓬生さんの手のひらに握られた。
不思議なことに、さっきまでのような、びくんと震えるようなことがない。
そうならならないようにしてくれたのか、
私のほうが変わったのか、それは、わからないけれど。
ひかりが消えてもほどけぬように、
手のひらの汗が調節できたらいいのにと、思う。
「ええ子やね」
「はい」
だから、いつか、聞いてください。
もう、きっとわかっているかもしれないけれど
知らないふりで、オオカミのふりで、
花火が消えても私の恋は、ずっとずっと、あなたのもとにあるのだから。
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