こつ、こつ、と。
上等の靴底を鳴らすようなノックが、二度、呼んだ。
「はっ、はい!」
干し草のベッドから、つい立ち上がってしまった千尋である。
この人は、ノックまで恭しいんだ……とか、考えてる場合じゃなかった。
スカートの皺を直したら、髪飾りの位置を確かめて、ほら!
呼ばれたんだから、開けないと。
違う。
(私が、呼んだんだから、開けないと。)
べたべたの手のひらで、ドアの取っ手に手を掛ける。
ぬる、ってした。汗っかきの手のひらってほんとやだ。困る。
きぃぃ、って、それでも扉は開くもの。
二歩ほど下がったところで、彼は姿勢よく立っていた。
日が落ちたあとの石の廊下、光源はぽつぽつと、等間隔に灯された蝋燭の光だけ。
彼の、影になった部分のほうが多い顔は、いつもと違って見えた。
「お呼びと伺いましたが、我が君。」
「う、うん。な、なので、は、はいってください。」
「………我が君。」
そのあと、なんて言われるか、わかる気がした。
少し斜めに傾けた、これは困りましたね、みたいな顔。
千尋は千尋で、綻んだ春の蕾みたいな頬で、やはり、困ったぞ、みたいな顔で
敷居を挟んで、向かい合って、そして、無言の沈黙に暫し耐える。
「我が君。」
何度目かに柊は呼んで、背を低くして、千尋と目の高さを合わせた。
眼帯の下は量れないけれど、左の目は確かに、ちゃんと笑っている。
優しすぎる笑い方。こういうときは、言葉が厳しいのを、知っている。
「ここでなら、お聞きしても構いません。」
「………入らないの?」
「お体が冷えてしまわぬうちに。」
「………。」
千尋は、汗にまみれた手のひらを、ぐぐ、と握りこむ。
一筋縄ではいかないひとだ、と、そんなことはイヤというほどわかっている。
蝋燭を灯すような時間になると、書庫でのお勉強も同時に終了。
他の誰かがいるところ――――例えば、堅庭だとか、外で、なら、
時に、肩を並べてくれることもあるけれど、
夜、二人きりになることは、決してしないひとなんだと、
いつからかぼんやり、わかるようになってしまった。
いつからか―――なんて、へんな言い方。
ほんとは、わかってる。
柊と、二人っきりになりたいなって
思うようになったからに決まってる。
思うのに、そうさせてはくれないから、きりきりしてる。
いつも、巧いこと言って、するり、逃げてしまうひと。
戦いは終わって、この船を降りるのは、もうすぐ。
そうして、千尋は王座に就くことが決まっている。
(柊は?)
柊からしてみれば、迷惑な話なのかもしれず。
次期女王、なんて肩書きを背負った千尋に、夜も更けてから名指しで呼ばれて
のこのこ出向いてたとえば朝帰り、なんてことが知れたら
(………どうなるんだろう)
考えるのも、恐ろしい、って、思っているに違いなく。
ていうか、そんなヘマするようなひとじゃない、というのが先かもしれない。
柊にとって、千尋よりも大事なもの、そんなものは、星の数ほどあるような気がする。
例えば、未来。
例えば、既定伝承。
遠い、遠い、誰も見れないものを、見ている柊は、
いま、ここにいることを、どんなふうに、思っているのだろう。
「ここでは、だめなの。」
「ひとに聞かれて困るようなお話なら、私にも、されるべきではありません。」
「べ、べつにっ、ひとは困らないけど!」
「我が君。」
「………うまく言えないよ。」
敷居を挟んで、じりじり平行線をたどる会話。
こういうことも、ピンぼけの写真みたいに、いつか、色褪せてしまうのかな。
明日から、春が来るのに?
季節は、どんどん、色づいてゆくのに?
「………落ち着いて。」
これは自分に言い聞かせたつもりだったけれど、うっかり口に出ていた。
だから柊に、更に怪訝な顔をさせてしまった。
けど、いいの。そんなこと気にしてる場合じゃないの。
「柊に、見て欲しいものが、あるの。」
「今でなくても、よいのでは?」
「だめなの!いましか、今日しか、見れないの!」
「………それでは、ここへ、お持ち頂ければ」
「持って来れるものじゃないの。」
嘘は、言ってないよ。
あんなもの、両手を広げても、脚まで使ってしがみついても、持ってなんか来れない。
「だから、来て。」
「わがき―――――」
千尋は、柊の手首を、べたべたの手のひらで掴んだ。
うまく不意をついたらしく、柊は一歩、二歩、前へ進んで
隔てていた敷居を、つつと越えてしまった。
「何処へ?」
「もう少し!」
柊は、隙あらば立ち止まろうとしている。
顔は伺えないけれど、手首の抵抗が強くなってくるから、そうなのだとわかる。
皮の手袋が滑り止めになって、すぐにすっぽり抜けるということはなさそうだけれど
心臓が飛び出しそうに打っているから、汗ばむのだって比例する。
だから、少しずつ緩んでしまう隙間を、埋めないと、と、
一足ごとに一つづつ、握る力を強くして
ベッドを素通りして、部屋を横切って、薄いレースの吊り布をくぐり抜けた。
「はい!ここです!」
「―――――。」
腕を解放すると、柊はその場で立ち尽くした。
四方に張り出した中庭は、ベンチも何も、ないけれど
そのぶん空が、ひらける。
見渡す限りのそらがある。
「こんなところが、あったのですね。」
「いい部屋もらっちゃった。プールがついてたらもっと良かったなぁ。」
「ぷーる?」
「お庭で泳げるんだよ。」
「それは素晴らしい。」
「ね!」
柊が、プールというものを、どういうふうに思い描いているのか、
覗くことはできないけれど
でも、確かに、思い浮かべたっていう感じの声だった。
「柊。」
「なんでしょう?」
そう、こんなふうに、
果てない空の向こうを見せる為に、あなたをここへ、連れて来なければならなかったの。
「今日は、柊の誕生日では、ないけれど。」
「今日と、明日の、間にあります。」
「その間だけ、二人で、いたいって思っちゃだめかな。」
「―――――いけないと、申し上げるべきだとは、思います。」
が。
「そのような、朧げな時間の間だけ、許されるなら。」
柊が、千尋を見返る。
引かれるように、一歩、距離を詰めただけで、
首の角度をいっぱいに上げて、やっと顔が見えるくらいに、近く、近く、なった。
あぁ、これは、ほんとうのこと?
柊の腕が、千尋の肩幅ぶんだけ広がって、
さわと衣擦れの音をさせながら、その胸に引き寄せる。
もっと、かたいと思っていた分厚い服は、そうではなくてとても柔らかで
甘い甘い匂いがするということを、今、鼻腔で、知ったということ。
ねぇ、本当に、ここは、あなたの腕の、なか?
「明日になったら、私がこのようにしたことを、忘れて下さいますか。」
頭のてっぺんへ唇をくっつけるみたいにして話すから、
柊の声が脳内へ、じかに染み込んでくる。
そんなふうに、しておいて、そんなことを言うなんて、ずるい。
「いや。わすれない。」
だから、そのこころへ、なるだけじかに届くよう、
左の胸に唇をつけて、千尋はもう一度、声帯をしっかり響かせる。
「つれていって。」
姫が王位に就いたあと、軍師は何処へ、行くの?
その続きを、決して教えてくれなかった柊は、それを、知らないわけではなくて
言えないから、教えてくれないんでしょう?
言ったら、私がどうするか、知ってるから、言えないんでしょう?
冬と春の、隙間に生まれたひとだから、過去と未来を行ったり来たり。
そんなところへ、ひとりで行こうとして。
けれど、季節は進むの。
あなたが一人、いなくても、空気は着々とあたたまってゆくの。
「でも、私が進めない。」
「我が君。」
「柊は進めても、私はここから動けない。」
柊は、緩く胸を離して、幾度も千尋の頬を撫でた。
爪先立って、顎を尖らせれば、その唇が届く。
けれど、いま、見て欲しいのはそうでなく。
「この、そらはね。」
このそらを見せる為に、ここへ呼んだのだから。
私じゃなくて、そらを見て。
「この冬、最後のそらなの。」
「明日から、春ですね。」
「ここから、春に、繋がっているの。」
疑いなく、果てしない未来に、ここから、つながっているの。
今度は、柊が、千尋の手をとり。
肩を並べて、ただただひらけた先を眺めた。
「迷子にならないように、ずっと、私がそばにいる。」
「迷子になるのは、私ですか?」
「そうだよ。みんなここにいるのに。ばか。」
「ですね。」
放っておいたら、いつまでもあなただけ、冬にとどまってしまいそうで。
四年に一度くらいしか、春のこと、思い出してくれなさそうで。
だから、このそらを、決して忘れないように
銀のとばりが吐息を包むような、ふかいふかいそらを、ここから二人で眺めたことを
とびきり、瞳を潤ませて、闇の向こうを見つけようとしたことを
ずっと、ずっと。
「誕生日の、プレゼントに。」
「あなたを、くださると?」
「返品は受け付けません。生物なので。」
「―――――これは、困りましたね。」
千尋は、45度回れ右して、今度こそ爪先立った。
次に、名前を呼んで、振り向いたところへ、
どんな手を使っても、絶対に返品できないものを、あげなくてはならない。
「柊。」
「はい―――――」
塞いだところはさらさらの、でも、とても柔らかい唇。
吐息のひとつも漏れないように、隙間なく、ぴったりと、潰すみたいにして
溢れそうな気持ちを、あげるから。
お願いだから、受け止めて。
つま先立ちがもつぶんと、息が続くぶんだけの、短い短いキスだった。
茹だったような顔で、はぁはぁと、肩を上下させる千尋を、
柊は、目をまるくしてみていたが、やがて、背をぐ、と低くした。
「そのように、しかめ面をなさらずに。」
「だって……」
「いいえ、させたのは、私ですね。」
二度目のキスは、柊が、ゆっくりゆっくり、くれた。
こんどはちゃんと、息が出来る。
角度を変えて、次はどっちを向けばいいのか、ちゃんとわかるキス。
甘過ぎて、手のひらから汗が流れそう。
小さな小さな音を立てながら、唇をくっつけたり離したりの合間に話す。
「あなたが願っても、もう、お返しすることは出来ませんよ。」
「いいの。ずっと、持ってて。」
「後悔、なさらない?」
こっくりと、千尋は首を縦に振る。
「それでは、遠慮なく。」
そして、もう一度、ぴったりと口付けて。
ふたりまっすぐに、手をとって、向き直る。
果てない未来へ、向き直る。
また、ここへ、戻るまで。
少しだけ、二人で遠回り。
あなたが、帰りたいって思う日まで、手を繋いで、遠回り。
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