◆Special Thanx for... むー様
〜Special respect for Kagrra
☆This story is written under the inspiration of 『うたかた』
☆忍人正規ED後(死別後のためご注意下さい)/ファンタジー要素・オリジナル要素を軸とした描写を多分に含みます
「それにしても、」
と狭井君は、表情を更に曇らせてから核心に迫った。
「陛下のあの腑抜けようはどうしたものか」
「そりゃアンタが、見合いの話ばかり持ちかけるからだろう?
あぁも頻繁じゃ、鉄壁で名を馳せたアタシでも逃げ出したいところさ」
「とは申せど、陛下は陛下。お世継ぎがなければこの国は、今上で途絶えてしまいましょう。
陛下はどうお考えか量りかねますが、かの者は国を思えばこそ、
命を賭したのではありませんでしたか」
「じゃ、なにかい? アンタはあいつ以外の男を、あの子に無理矢理に押し付けてでも、
世継ぎを望むってのかい? あ〜あ、これだから恋を知らない女ってのは」
「知らぬからこそ、思い馳せる部分もあるのでは。恋に縛られることは、
ひいては陛下が国を疎かにすることに繋がる。それで本当に、かの者の弔いとなるかどうか」
君は眉間に深く皺を入れ、しかし、それはよく見かけるような不機嫌なものとは違い、
瑞々しさの衰えた両の手のひらで額を覆った所作はもっと遥かに真摯だ。
弔い、と、それまで軽口で返していた岩長も、
その言葉を噛み砕くように反復し、神妙になって続ける。
「……そこだけはアンタに同意するよ。こんなに早く逝くってわかってりゃ、
アタシももっと忍人と、腹を割った話をしとくべきだった」
「私が言うのもなんですが、時勢が時勢。
こと、かの者がそのような色めいた話に耳を傾けたとは、とても」
「それなら耳たぶ引っ掴んでも姫の寝所へ手引くとかさ。間違いの幾つかも起こせば、
今頃は世継ぎがスクスクと―――」
「…………」
「やだねぇ、そう怖い顔しないどくれよ、さすがに冗談さ」
「ハァ……しかしながら、返す返すも名案というものは、あとになって浮かぶものですね」
「……これじゃ年寄りのヨタ話にしかならないって、あいつのしょっぱい顔が見えるようだよ」
「そこで新しい話し相手ですよ」
割って入った新しい声に、
狭井君と岩長は、誰ぞとばかりに戸口を振り見た。
近衛の風早と、彼が得意気にして手を引いてくるひとりの子どもである。
「おっしゃるように陛下も年頃だし、側近はよく選ばないとね。
こういう小さい子なら、無粋な輩を手引きされる心配もないし、お側近くに仕えても安心・安全」
「ほう」
「アンタ……まさか真に受けてんじゃないだろうね」
狭井君は、それには構わず座していた席を立った。ガタッと床が鳴る。
星の族としての血なのか、王のこととなると、君は少し落ち着きを失うところがあると、
長年つきあってきた岩長にはそう見えている。
君は数歩子どもに近づくと、定評ある選球眼を早速にひからせ始めた。
仕立ての良い服を着ている。肩のところで切り揃えた黒髪は清潔で、
黒眼がちで真っ直ぐな眼光も誠実かつ真面目そうだ。器量もいい。
「ね、いい子でしょ」
「ふむ」
この時点で早くも外観審査は通過した、と風早は黙して判ずる。
「書類は」
「はいっ、もちろん用意してますよ〜」
風早の丁寧な筆蹟で書かれた書面に目を通しかけた狭井君は、ハっと口許を押さえた。
そのくらい、立派な家柄がそこには記載されていた。
この子どもがもう少し妙齢ならば、いや子どもは育つものだから少々の年の差など―――
―――と性別欄を見れば女とある。
「………おなご」
君はあからさまに膝を崩した。岩長がそれを支えて座らせながら苦笑する。
「だから初めから『安全』って風早が言ってるだろ。そもそも見合いでなく、
小姓の選定の話だ。アンタともあろうものが、しょうの無い女になったもんだねぇ」
「まぁまぁ、待って下さいよ。女の子だけど、特技が剣舞なんだ」
「剣舞だって?」
今度は岩長の目がひかる。
腕を組み、コツコツと高い靴のかかとを鳴らして近づくと、
その長身で見下ろしながら、彼女なりの選球眼で見極め始める。
「見たところただの子どもだけどねぇ……。そうそう、剣舞と言えば忍人が小さい頃、
女王の前で舞ったことがあったっけ?」
「あ、俺もそれを思い出していたんです」
「……というか、顔も似てないかい? いや、似ているというよりむしろこりゃ」
「いや〜アレはホント、上手だったなぁ。ねぇ師君、あのときは女王も相当気に入って、
それから何度も舞いの宴が開かれたんでしたよね〜」
「そうだったそうだった、酒もサカナもウマくてねぇ〜」
取ってつけたような風早の割り込みだったが、
その違和感を感じた者は、少なくともこの場には誰ひとりない。
岩長は横道に逸れた口車にまんまと乗ったことになり、
狭井君も感慨深そうに頷いている。
「そう言えばあのときも、確か日照り続きの年だったと記憶していますよ。
そもそも、雨乞いに舞わせたのではなかったでしょうか」
「それなら今年ちょうどいいんじゃないかな。あわや凶作かと、
橿原の民は専ら憂いでいるという話ですよ」
それがツルの一声となり、狭井君はコレと呼びかけて少女を前に来させると、
風早の用意した二本の剣をその小さな手に持たせた。
少女は黒眼でしっかりと君を見る。そして、薄い唇を引き結んだ。
宮でも三つの指に入る高官だが、竦んだり、臆したりする様子は微塵もない。
「そなた、女王にお仕えすることを望むのですか」
「望む」
飾り気はないが、意思のある声である。
女たちは長年女として生きてきたことによる直感から、
これは稀に見る聡明だと判断した。
風早は彼女らの表情から、面接・実技審査の合格をこの時点で確信したことになる。
「そうですか。では、舞ってごらんなさい」
「あ、抜かなくていいよ。さすがに王宮じゃ危ないからね」
物わかりがいいらしい。
少女は無言に、ウン、と大きく頷いた。
細腕に、スゥと振り上げられる軌道は重く、濡れたように見えて、
その切っ先へと瞬く間に視線を独占に集めた。
少女の剣は、滑らかに空を斬り初める。
中つ国の、ひとりの誉れ高き将軍が、没して幾度めかの夏であった。
葛城忍人というそのひとの名を、忘れた者は未だ、誰ひとりない。
もう一行だけ進めよう。
いや、一行と言わず、あと一枚だけなら頑張れる。
かも。
「無理…っ!」
ついに千尋は突っ伏した。
が、広く頑丈な机はビクともしない。
さっきから、仕事の手が少しも進まないのをあざ笑うようではないか。
「暑ぅ……」
なんだろう、今年の夏は。
左右にうず高く積んだ書類までしんなりと、ぬるく弛んでいるように見える。
正確に計ることはできないけれど、
連日30度は軽く越えているのではないだろうか。
暑さを凌ぐためには煽ぐことか水に浸かるか、
あとは服を脱ぐしかないが、
残念なことに千尋には、自由に薄着をすることは許されていなかった。
立場的には、千尋よりも強い決定権を持っている者はこの国にはいない。
故にどうしてもと言い張れば聞き入れられない訳でもないだろう。
だが、それで官に示しがつくだろうか、彼らだって暑いのだ。
それに、民にがっかりされない程度には、
きちんとした服でいなければなぁとも、本当はわかっている。
「王なんて……」
冬の装いよりは、確かにマシだ。
羽衣のように軽くて薄い衣装は見目にも涼しげな色あいに目利きされている。
けれど、足首まである丈と、
たとえ袖を捲っても、たった2秒でつるんと降りてきてしまうなんて、
上等の生地も良し悪しだ。
誰もいないのをいいことに、千尋は姿勢を崩し、
椅子に浅く斜めに凭れて、揃えていた足を投げ出した。
あからさまな溜め息と共に、細腕で目を覆えば、
少しは風の通り道を感じられる気がした。
ややあって、外から声がかかった。
その愛想のない事務的な声かけから、小姓にしている少女らしいとわかった。
あの子なら少々だらしなくしていてもいいか、と思い、
千尋は膝を閉じるだけは閉じて、緩慢に返事をした。
「何という恰好でおられる」
入室して一歩出すか出さないかで小姓はこう言った。
いきなりご挨拶である。
千尋は手の甲を少しだけ上げて、睫の隙間から戸口をチラと見やった。
「見逃して。暑いの」
「目のやり場に困る。せめて身を起こしたまえ」
「…………」
この子なら、と思ったのは間違いだったようだ。
この子こそ作法に於いては誰より厳しいのらしい。
まだ出仕して日が浅いとは言え知らなかった。
そう言えば名家の出だと釆女が噂していたのを聞いたことがある気がし、
千尋は背に汗の滲むのを歯噛みしつつ、厳かに座り直す。
それを見届けて、小姓は漸く息をついたようにして、室内へ足を進め始めた。
手には盆を持っている。
切子の硝子細工の施された水差しは常世との交易の品だったか、
傍らには揃いのぐい飲みが伏せてある。
「まわりの女官らは何も言わないのか」
「女官のいる時はちゃんとしてるもん」
正直に返すと、小姓はぽかんと口を開け、あからさまな呆れを浮かべた。
そして、視線を脇へ逸らしてぼそっと低く苦言する。
「……それで王が務まるとはな」
「え?」
「聞こえたなら済まない。どうか忘れられよ」
「……聞こえなかった」
「さらば重畳」
言葉づかいの厳格なのも、育ち方に理由があるのだろうか、
生意気だから直させろという周囲の助言を、千尋自身は特に不快でないし、
率直なだけで無礼という訳でもないのだからと、そのままにさせている経緯がある。
小姓は途中で足を止め、茶棚の上に盆を置く。
そして、細かな水滴を貼り付けた水差しを、木綿の手ぬぐいで几帳面に拭う。
「裏の泉で水を汲んできた。きょうはよく照る。お疲れだろう」
「そのとおり。お疲れであります」
ほら、厳しいが、優しくよく気がつく子どもなのである。
さっきから、小言もいいがその水を、と実はずっと思っていた。
コポコポと水差しが涼快な音を立てるのを、千尋は好ましく聞いている。
「書面を濡らさぬように」
小姓は既に傍へ来て、
千尋の前にイグサを編んだ茶托を敷いて、
切子のグラスをコトンと置いた。
隣に立つと、座った千尋と背丈は同じくらいだ。
十ほどにはなるのだろうか。
「うん、おいしい」
千尋は三口ほどで飲み干してしまって、
注ぎ足そうかという申し出に大きく頷いた。
「しかし余り急いで飲むと、身体を冷やす」
「はい。気を付けます」
小姓は横顔のまま表情を緩めた。
そう、この顔―――
―――やっぱり、誰かに
立ち姿の真っ直ぐな、
肩までの長さの黒髪も、やはり真っ直ぐな
大きな黒瞳で、対象にしたものを真っ直ぐに瞳孔に映すさまも
不思議だ、誰かに似ている
幾分ぼうっとしていたらしい。
飲まぬのかと怪訝に問われて、
千尋はううんと繕いながら茶器を取った。
今度はゆっくり口をつける。
つるつると柔らかな水が、喉を優しく落ちていく。
文字通り水を得た千尋は、再び書面に向かい始めた。
羽を利用して作った筆記具の先を、黒々とした墨に浸す。
そうして書き始める文字はかな文字といって、千尋が中つ国に推奨する文字である。
それ以外の(もともと中つ国で使われていた)文字は、
申し訳ないが千尋には読みにくいのだ。
「民の熱中症対策のためにも、私の治世のうちに、温度計を開発しようと思っているの」
「温度……を計るもの、ということか」
「そうよ。ほら見て、原理は単純だから、あとは同じ材料がこの国にもあるのかを調べて、
技術者の養成さえできればすぐよ。ね、千尋ちゃんすごい!」
「……」
「なによ、言ってよハイ『千尋ちゃんすごい!』」
「……王というのは、クチのよく回るものなのだな」
「……もういいです仕事します」
「それがいい」
この子が出仕するようになってから、
千尋の中で、変わったことが一つある。
相変わらず暑いのだし、暑い中では仕事が進まないのも変わらないが、
手が止まるときに、悲しいことを考えることが少なくなった。
たとえば“あのひと”の不在についての鬱憤や、
“あのひと”の好きだった花はまだ咲かないのか、
そういった、駄々っ子のような考えや、
千尋がむかし愛したそのひとと、唯一した約束のことや。
“次の春は、君と共に、あの桜を見に行こう”
叶えられなかった約束のこと。
いつしか桜そのものを彼の姿と重ねる千尋は、
春を待って生きていると言って過言でない。
桜が咲くと、彼がそこで見ている気がするから、
春の間は背筋が伸びるし、仕事も着々と進む。
春を待つ冬の間も、気持ちが張りつめていてなかなかいい。
けれど、桜が散って葉桜になってしまうと、
しっかりしなければ、という気持ちが少しずつ薄れてしまう。
また次の年まで咲かぬ花を待つことは、
日に日にこんもりと生い茂る新緑の前では殊更に長く思えて、
とても億劫で、悲しくなるから、夏の来るのが嫌いになった。
とくにこの夏は暑い。
ムゥと立ちこめる熱気の中で過ごしていると、
いつか本当に気温が冷えて、季節が回ったりするのだろうかと、
だんだん疑わしくなって来て嫌だ。
だから温度計、ということでもある。
この目でちゃんと、時間の進んでいるのを知らなければと思う。
夏の王には元気がない。そうあちこちで言われていることを知っている。
そのわけは、暑気あたりだけではない。
千尋は、鼻のあたまに浮かんだ汗を、羽ペンを持った手の甲で軽く押さえた。
「良ければ、煽ごうか」
「え、いいの?」
そう、このようにして、この子はふと浮上させてくれる。
小姓は、帯に差している自分の扇を片手で開き、
千尋に向けてはたはたと煽いだ。
扇もそうだが、その他の道具に関してもこの小姓は、
子どもにしては手元がしっかりとしていて、使いこなれた印象がある。
よく利く機転と、観察眼もそう。
一応千尋は年長かつ王として、必要は学ぶ心である。そう反省した。
仕事を進めながら、千尋は提案した。
「ねぇ、なにか話してくれないかな」
「話す? なにを」
「例えば、あなたの話」
「またか……」
というのは、千尋がそのように話を振るたびに聞かされる苦言で、
つまり千尋はこれまでにも、何度かそうねだったことがある。
「また、って言うけど、私はあなたのことを、まだ何も教えてもらってないでしょう?
お友達のことでもいいし、父さまや母さまのことでも」
「……なにかというと、陛下はそのようにおっしゃるが。生憎、お聞かせして面白いような話など、
持ち合わせていない。堪えてくれないか」
「そりゃぁ……無理に聞くようなことじゃないのかもしれないけど……」
「すまない」
何故か赤らんで目を逸らし、
ぱたぱたと扇を動かし続ける小姓の少女。
―――少女と聞いてはいるのだが、
話し方から所作にしても、それから身なりの色合わせに至るまでがすこぶる簡素で、
随分と少年のそれに近い少女だと千尋は感じていた。
胸元もすべんと平らかで、艶やかな黒髪を肩のところでいつもきちんと切り揃えている。
(……まぁ胸については私もそう変わらないけど)
自分の胸元を押さえる。
「どこか苦しいか」
「えっ……」
「胸など押さえて」
「……なんでもありません。煽いで」
そうそう、この観察眼である。
なんだろう、気まずい。
「そ、そうだ、水浴びに行こうか! 川遊びよ、楽しそうでしょう!」
「仕事をこんなに積んでか」
「……だよね、うん知ってる。目が覚めそうだなと思っただけ」
千尋の隠さぬ物言いに、隣からくす、と笑いが漏れた。
「どうやら、陛下は退屈をされているようだ」
小姓がすっと隣を退いて、千尋は目を上げる。
千尋の正面で距離を取り、扇で舞の型を取って静止した。
千尋は、座に深く沈めていた膝を一つ進めて前のめる。
「舞ってくれるの?」
「暑気払いをご所望なのだろう。水浴びには賛成しかねるが、舞うくらいならば」
「それなら、扇でなくて剣舞を。上手なんでしょう? 知ってるんだから」
「いや、しかし……」
王の身辺を任される者が、帯刀しているはずもない。
小姓の顔の曇ったのはそういうことである。
千尋は察して笑んだ。
「あるわ、剣ならここに」
千尋が王座を降りてしゃがみ、机の奥から両手で引き出してくるものを、
小姓はじっとみつめていた。
ずず、と床を引きずると、中で微かに金属の揺れる音がする。
「手伝おう。怪我をされては」
「いいのいいの。私腕力はあるから」
「しかし」
重そうな音をさせていたが、言うように千尋は特に苦もなく、
間もなくそれを中央へ引っ張り出した。
絢爛な装飾の施された宝箱のようなそれは銀だろうか、
燻されたような色めから、もうどれほどそこに仕舞われていたものだろう。
薄く積もった埃が細かな凹凸の隙間に入り込み、払い落とすのに千尋は少々難儀をしている。
やがて、重厚な金属の錠前が、コトンと固い音を立てて開くのを、
小姓はごくりと喉を鳴らして見た。
「―――それは」
「これは生太刀というの」
女王が粛々と取り出したるは、
眠るように静かな刃をした一対の剣である。
「すごいでしょう、ふたつでひとつなの。使い手は、もういないんだけどね」
「……」
「……あ、ごめんなさい。こんなふうに言ったら、気味が悪いかもだね。やめにする?」
「いや、そんなことはない。断じて。だが……」
小さな両手にずしりと乗ったその遺品と王とを、
小姓は交互に見ながら言う。
「……見せものとは言え、この部屋で剣を振る、か?」
「私がいいと言っているの。広いし、大丈夫よ」
「……。では、せめてそこまで出てみないか」
と、目線で示すのは部屋から張り出しの中庭だった。
緑の木々の植えてある、そのそばには簡易ながら、小川に似せた水場もある。
「この太刀は、ずっと日陰にあったのだろう?」
「―――」
そうであった。
この国が建ってこちら、哀しい記憶だけを共にして、眠り続けた対の刃だ。
いま、燦々と降下する陽のもとへ、誘おうと彼女は言う。
「……いきなり溶けたりしないかな」
「さぁな。やってみるしかあるまい」
「あは!」
千尋は快諾して先導した。
◇
設えた小川にはひらたい飛び石がSの字に3枚。
岸に腰を下ろして裸足の指先を浸すと、
柳の木漏れ日がチラチラと白肌に揺れる。
千尋はそうして、飛び石の向こうで剣舞する舞い手を見ていた。
腕を上げ、空を斬し、双剣の刀身を撫で引く一連の型が、
身に貼り付くように馴染んでいる。
背丈ほどもあろうかという長い刃を、美しい軌道で捌いて舞う。
陽にも透けぬ黒髪が、汗に濡れてひかっているのも―――
千尋はいよいよ確信してしまった。
ずっと、そうでないかと思っていたこと。
話し相手に、などと言われて、初めはしぶしぶに招き入れたのだったか、
その日から、しぶしぶどころか少し偏重してそばに置いている理由。
この子は不思議だ、誰かに似ている
遙か以前、
私の愛したひとに似ている
いやいや、と千尋はすぐに否定に首を振った。
あのひとは将軍で、男性で、この子は未だ、年端もいかぬ少女だ。
(……けれど)
剣舞が得意だということの他には、
かたくなに自分のことを語らない少女でもある。
そして、これはいまわかったことだが、
この小姓は不思議と、その一対の剣を持って舞うと、
彼の次に似合う少女であるらしい。
いや、似合うという言葉では少し足りない。
その太刀筋こそが、余りにも
そのひとが千尋の記憶に焼き付けた姿そのもので
即位したその日、千尋が得意気に演説するその幾ばくかの間に、
そのひとが虚空に散らした命の痕跡そのものであるかのように見えるのだ。
高らかに朗々と、覚えたとおりの言葉を読み上げる自分は、
まるで目隠しでもされていたように愚直で、いま思えば滑稽で、
真実を見通す力さえ持たない、未だただの少女でしかなかったのだ。
彼女の剣舞は、だから、
千尋に無力を思い知らせる。
こんなにも鮮明に、愚かであった自分のことを。
最期に
そんなふうにして あなたは
私を護ってくれたのですか
とても、見ていられなかったのかもしれない。
千尋は、受け皿にした手のひらの上へ突っ伏した。
かっと紅潮する頬に、さらさらと柳の新芽が触れて、
嗚咽を追って流れ出た涙が、手相の皺を滲ませるけれど、
もう少しも繕うことができない。
見ていてあげなければいけない、
折角暑気払いにと、あの子が見せてくれるものを
突っ伏していてはいけないと、思うだけは思って、
顔の上げ方を模索したとき、ふわりと強く、後ろから抱く腕がある。
これは、誰が抱くのだろう
あの子の腕ではない気がする
これは、誰が諭すのだろう
あの子の声ではない気がする
「流し尽くせば、晴れるものもあるだろう」
もうすぐに、忘れかけていたこの声は、腕は、
よく知っていた、千尋の愛したひとのものである気がした。
「訴え尽くして、解き放たれる心もあろう」
そして、千尋を愛したひとのものである。
冷たくも、暖かくもない腕であった。
ああなんて 懐かしくて たったひとめ
指の間に隙間を作って、覗こう覗こうとするのだけれど、
強く抱かれているせいなのかどうか、身体は少しも動かないのである。
「漸く泣いてくれたな」
言われて、一度も泣かなかった訳ではない、と反論しようとした。
が、どうやら声まで出ないようなのだ。
指先ひとつも動かせない、世に言うカナシバリというのはこれなのか、
声まで出させてもらえないなんて、言われっぱなしでずるいではないか。
「君のことだ。泣き顔を見せぬようにと思っていたのだろう。
だが、俺は君に泣くことさえ許さぬほど、狭量な男に見えていたか」
「……っ!」
「振り返るな」
「………」
どう思われていることだろうか。
横にも縦にも振れない首。肯定も否定も、固辞さえも示せない。
早鐘のように打つ脈拍へ、くい込むように回された腕が、
染み込むような優しさに溢れていることに、いまは、縋ることだけしろというのか。
「君が望むなら、ひねもす此処で、こうして抱いているのもやぶさかでないが、
そうもいかないから直訴に来た。その顔、沈ませてばかりでは芸が無いからな」
ごめんなさい
よく見ているんですね
見えているとわかっていたならもっと笑ったのに
「君は王だろう」
はい
「そして女だ」
はい
「ならば一世一代の女王として、時に大いに顔を歪めて泣くことも厭わぬほど、真に気高くあるべきだ」
「―――」
俺の愛したただひとりの王として、
君は常に、美しくあれ
「はい」
どうしたことだろう、気がつくと、
千尋は先程と同じ、岸辺に座り、
鮮やかな剣舞に見入っているのらしい。
泣いていたはずが、抱かれていたはずが、
関節まで石膏のように固められていたはずが、
千尋は無邪気に拍手をしているのらしい。
そんな自分を、どこかもうひとつの視点で見ているような気分だ。
「すごい!」
声にすると、しかし一転、客観は主観へ吸収された。
どくん、と大きく胸が鳴ったのを感じる。
舞い手はそこで、切っ先を美しい交差に回転させて、
腰に下げた左右の武具に見事に双剣を収めた。
◇
それから、数日の経った夜であった。
仕事を終えて寝室に戻ると、いつものように小姓が、寝間の天蓋をくぐって出てくる。
寝支度をしてくれていたのらしい。
「熱帯夜だね」
「熱帯夜? とは?」
「とっても暑い夜ということ」
小姓と交替に天蓋に入ると、薫きしめられた香の匂いが一段強くなる。
涼しい香りを選んでくれている。
寝台に腰掛けた千尋は、それをうんと鼻腔に入れて、
まだ半分濡れた髪を手ぬぐいの間に挟んで雫を押さえた。
「よく休め」というようなことを言って、
次の間へと退出しようとする小姓を呼び止めた。
「まだ眠くない」というような言い訳を付けて呼び止めたのであるが、
短い溜め息を聞いたのは気のせいだろうか。
手ぬぐいから櫛に持ち替えて、半透明の薄い布越しにその姿を伺うと、
どことなくそわそわとしているように見える。
居心地が悪いのだろうか、
かと言って、無下に却下して出て行く訳でもないのだが。
「そういえば、あなたの名前をまだ聞いてないね」
またか、と言われるだろうなぁと思いながらも問うてみた。
千尋が小姓のことを知らないのは、そのレベルからのことであった。
呼ぶときにどう言って呼ぼうか、ときに困ることがあるのも確かで、
何かの拍子にポロリと滑らせてくれたりすることもあるかもしれないから、
挑戦はし続けなければならない。
「やっぱり、そういうことを話すのはいや?」
「……私は」
「うん?」
「葛城」
「―――かつら、ぎ」
反復して、千尋の手が止まる。
「いや、葛城の出だというだけで、俺はそれ以外に名を持たない」
「……そうなんだ」
再び、だが緩慢な手つきで、千尋は髪に櫛を入れ始めたが、
またすぐにぴたりと止めてしまった。
「え? 女の子じゃ……」
「女でないように見えるか?」
その声の近さに目を上げれば、
天蓋を開く小さな手指にどきりとした。
「だ、だって、いま『俺』って。女の子なのに、自分のことを俺っていうの?」
努めてからかうように言ったつもりだが、
喉そのものが鼓動していると言っても過言でない状態で、
千尋の声音は明らかに震えて舞い上がっていた。
そんなだったから、夜着の身体が押し倒されていくことに、すぐには気付けなかったのである。
櫛が手元を離れ、床に滑り落ちたのが、
いやに高い音で聞こえたことで我に返った自分の目は、
黒くて大きな瞳に見下ろされているようである。
ゆっくりと瞬く睫毛が、濡れたように本当に美しく見えて、目が離せない。
子どもの姿であるからか、少しもこわいとは思えずに、
ただ、返すがえす綺麗だと思った。
「すまない」
「……え、っと、」
「男だと言えば、君の近くにはゆけないのでな。少々たばからせてもらった。
幸いか否か、子どもの頃の俺はなかなか可愛らしかったようなのでな」
言って、ふわと笑った瞬間に拘束が緩んだ。
時間にすればほんの僅かの間の出来事だったろう、
それまで、動けないくらいにかかっていた体重の方が嘘だったかのようで、
本来の子どものそれのとおり、ずいぶん軽く感じる。
生真面目なばかりかと思っていたのだが、
一連の悪戯な言動から量るに、
どうやら千尋の観察眼はまだまだ発展途上である。
「忍人さん」
思わず呼びかけた名だったが、
彼女―――でなく彼は、そんな千尋の唇を、柔らかく小さな手のひらでフタをして、
それから二度、やはりゆっくりと瞬いた。
「千尋」
それが、この夜聞いた彼の言葉の最後で
その夜見た彼の姿の最後で
嘘のようだが千尋はそれで、それっきり、
深く眠りについてしまった。
そして、同様にこの日を境に、彼の姿を見ることはなかったのである。
そればかりか、誰に尋ねても知らぬと言う。
王はついに暑さにやられたと口さがなく笑うものもあった。
女官も近衛も、採用したはずの狭井君も、どこの誰もあの子を知らない。
王宮の記憶から、かの不思議な葛城は、すっきりと削げ落ちたのである。
けれど覚えているの
私は、あの舞いを
入道雲さえ霞むような、美しい舞い筋を
煌めく二本の太刀筋を
彼が舞って、王座に立てかけていったそれらを握って、
晴天のもとへ躍り出た。
幾つか前の春の日に、千尋が此処で即位した、王宮の最もの高みである。
地上よりも強い風が、伸びた髪を乱して唸り、トグロに巻いて居座るところ。
千尋はそこで、ふたつの切っ先を大きくハの字に広げてみる。
その鋭利さを舐めるように、螺旋に降りた眩しさが筋をつけてゆくのにも、
負けじと目を開けたのである。
想いの在処を見つけようと、これは八方へ凝らそうとする視野である。
いま、夏空にいますか
忍人さん
そこから私は、美しく見えていますか
心根で呼びかけると、涙があふれた。
それは、本当は、身体的な反射であったのかも知れない。
網膜はちりちりと焦がされるように、本当に眩しくて痛いのに、
それでも晴天は青嵐、広く。
涙だらけの顔で、直訴、向かっても。
歪んだ顔で、これほどに訴えるのに、空の顔だけ変わらない
闇は遠く、ただ、眩しい。
溢れるひかりが、ただ、かなしい。
それでも晴天へ、伝えなければならない。
ひとりでも、ちゃんと泣けるのだと、あなたに伝えなければならない
そうでないと彼はまた、子どもの姿に身を窶して、
名もないひとつの幻影になって、
私の前に現れねばならなくなる、それほどまでに、心配させねばならなくなるから。
願うのはあなたの安寧
ただ、それだけであるのだから
私はあなたの言うように、泣いて泣いて、強くなりたい
この双肩は、祖国のために
あなたの護った国のために
なるだけ強く、いい子でいるから、おねがいよ
時を越えて、定めを跳んで
この次に出逢える時には、どうか
もう一度私は私として
忍人さんは忍人さんの、あのときのままの厳しいあなたで
この世に降りてきて下さい
私の背はそのときまで
私の手はそのときまで
腕も、唇も、髪の毛も
すべて、空けておきます
立ちのぼる上昇気流に咽ぶ、呼吸のし辛い猛暑日に
羽衣を脱いで腕をうんと突き上げて
眩しい入道雲に泣き笑う
来るな来るなという空に
まだ早いなら、そう
幾度季節の巡った先で
これからも、いつも
私は必ず、うつしよに立つと誓います
果てない涙は雨のように、
晴天の下、乾いた王宮に降りしきる。
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