あぁ、また消えちゃった、と
濃い藍の空へ、千尋は恨み言を一つ。
半弧を描いた銀色の尻尾は、瞳を閉じればまだ瞼に映る、
それほどに、たった今まで流れていたのだ。
「二回は言えたんです。」
「ほう。きみは早口だな。」
むうと膨れて見返った千尋を、忍人は若干茶化して笑った。
「二度で十分だ。」
「そうかなぁ。」
「あぁ。届く。」
橿原宮の、一番高いところまで、一歩一歩昇ると、
息が切れてきた頃に、満天の空を望む場所に出る。
千尋が先日、大勢の民に見守られつつ、即位の宣言を行ったのもここである。
たどたどしいながらも、一度もつっかえずに最後まで言い切ったときは、
手に汗握った、むしろ千尋よりもほっとした様子の忍人が、壇上からチラリと見えた。
もう少し目が悪かったなら、このような顔も見えずに済んだのに、と
千尋も、忍人もまた、やや苦笑したのだった。
あれから桜が咲いて、散って、空気は少しずつ暖まっている。
が、その不安定な気圧のせいで、夜と昼の温度差が、小気味よいまでに開いている。
それとたくさんの星が流れるのと、何らか関係があるのかないのか、
それは千尋にも忍人にもわかることではなかったが、
確かにこの夜は、例えばそこへ神が一体現れて、空を掃いても拭っても、
後から後から湧くのだろうと思えるほどの星が降ったのだ。
「夜風が沁みるだろう、そろそろ戻らないか。」
「だめです。次は三回言えるかも知れないですから。」
「……君の頑固は、今に始まったことではないが。」
忍人は、数歩進めて千尋の隣へ立った。
出来れば上の衣を一枚脱ぐなどし、そっと彼女の肩へと、
かけてやるというようなことが、この俺にも出来たなら、そのように思ってのことだ。
がしかし、いざ爪先を一本の線上へ並べると、
手元は何かで固められたように、右も左も動かなくなるのだった。
そよとなびく金色の前髪が綺麗で、そのぶんだけ冷えてゆくのだろう額を思うが、
抱けぬならせめて、同じものに見蕩れることで、隙間を埋める空気だけ、少しでも暖められたらいい。
だから、ひたすら空を見た。
どこから続いているのか
いつからそこにあるのか
誰もそのはじめを知らない空を
数多に飾る星の、その中の幾つかに、
逸る何かに押されるように、時知らず、流れるものがある。
何処へ行くのか、何を思うのか、
その、果てない向こうへ進む力に願いを乗せて、出来れば三度、唱えることで
叶うものがあるという。
「忍人さん!」
いつしか本気で見蕩れていたらしい忍人に、千尋は焦れた声をかけた。
「ああ、すまない。」
「もう、呼んでるのに。」
こういうことは稀でない。
折しもここへ昇って来る前も、そのようなことが起こっていた。
忍人は今や、中つ国の官軍大将軍の地位に就いていた。
無論、常世とは和平した後であるから、名ばかりの軍ではあるが、国としてはそれでも、装備するものが必要である。
忍人は自室の窓を僅かに開き、部屋に夜風を入れながら
スウ、と光を仕舞った後の、二本の剣を眺めていた。
完全に封をする前に、藍の爽やかな風に当て、少しでも忌まわしい湿度を乾かしてから、
そういうふうに思っていた。
幾年思いを共にしたのか、数えると、身の丈は随分と高くなった。
この身に変えても守ろうと、誓った国の片隅に、
この身は生きて、立っており、
この、二つの剣のことを、自分が見送ろうとしていること。
あっけないほどに簡単に、これらが見送られようとしていること。
同時に、そうでない過去を、見たことがある気がすること。
馬鹿げていると思った。
千尋が王の詔を、あの高い壇上で述べたときも、同じ思いを抱き。
頭上を覆い尽くさんばかりの、満開の桜の下を、千尋と肩を並べた午後も、そうだった。
輪廻だとか、前世だとか、未来だとか。
自分の思索の中に、そのような言葉が浮かぶこと自体が不自然で、
知識もなければ信条でもなく、言ってしまえば興味がないとすら言える、幾つかの言葉の群だ。
むむ、と喉が唸るような気持ちで、腕を組んで思案していたのだった。
「忍人さん!」
呼ばれてはっと顔を向ければ、いつの間にやら開けられていたらしい戸口で千尋が手招いている。
「なんだ。」
こうなると、足を進めないわけにはいかない。
用向きの際は使いを、幾らもこちらから出向くと言うのに、
千尋は度々直接、階下に降りてくる。
「ちょっと、相談事があるんですけど。」
「……そういうのは俺では役に立たんと思うが。」
「何かこう、言葉にできないことが、胸にずっとひっかかっていて―――」
それなら余計に自分の首尾範囲外、忍人より柊あたりに頼るのが最適だと思われる。
と、いうか、忍人自身でさえ、そのようにしようかと、ついの今まで思っていたくらいだ。
「だから、頭を冷やしに行きたいな、って。」
「………確かに。」
という訳で、空の下へ出たのだった。
いま、冷えた頭が出したのは、答えが欲しいのではない、という答え。
又は、答えは出ない、という答え。
数多尾を引いて流れ行く、銀のとばりの来し方行く末に、
そのうちの一部があるのでないか、
朧げながら思う。
不安、不穏、悲願、そういった諸々を、この空が全て飲み込んだのだと、
だからこんなにのっぺりと広く、大きく、膨張するかのように、ここから見える。
留めきれなくなったぶんを、はしり星にして、時に吐き出すのだと、そう思う。
「同じだったらいいと思うんです。」
「あ?」
千尋の会話は、時に唐突だ。
忍人はやや眉間に皺を寄せた。
「あのとき思ったことと、いま、願うことが。」
「―――――あぁ。」
『あのとき』あまりにも広い範囲を千尋は指したが、
それがいつの『あのとき』か、訊き返すことはあまりにも野暮だと思われた。
忍人は、確かにここだと自信を持って、あける引き出しを持たなかった。
が、汲み上げるべき想いは、確かにこれだと思える。
それなら、持っている。
「俺も、同じだといいと思う。」
「ほ、ほんとに?」
くるんと頭がまわり、そのまま二歩ほど詰めた王は、目と鼻の先に来た。
眼下は、月が発光するような眩しさに似ていたが、時を同じくして頭上にもまた、
同じ光が、一つ、また一つと、連なって瞬いたのだ。
「何をしている、降るぞ。」
「っ、一緒に!」
請うような顔だった。
「一緒だろう。」
こんなに近く、あなたはここに、いるのではないのか。
「まだ離れてる。」
「………千尋。」
「消えてしまう前に、願ってもいいですか?」
流れる数は、本当に数多であることが、見上げずともわかったのだった。
足元に影が出来て、ふたり長く長く、重なるから、
数えきれない尻尾が走っているのだと、それは明らかだった。
いまなら何を願っても、数多のうちの一つくらいは、きっと聞き入れてくれるだろう
彼女が今から願うことを―――――
―――――どうか俺が、叶えたい
何を子供のようなことを、しかし忍人はそう願った。
「忍人さんは、利き手はどっちですか?」
「どちらもさして差はないが。」
「え……。」
正直に答えたのだったが、千尋の顔は反して曇った。
まさしく、どうしよう、と突いて出そうな顔をしていた。
「じゃ、じゃぁ、握って欲しいんですけど。」
「……なに?」
千尋は、忍人の胸の前、両手を肩の幅に開いて、手のひらを上に向けた。
そして、それっきり黙って、ただただ忍人を見つめる。
どちらかを選べ、そう言われているのだ。
右手か、左手か、とにかくどちらかを繋げと、こう言っているのだ。
「しかし……だな。」
見ての通り、れっきとした奥手だ。
なにかあまりに劇的な展開でもなければ、女の手を握って星を見るなど、
忍人にとっては天変地異に近い。
しかし、それこそしかし、
こうしている間に、空の様子はどう変わる?
全てが消えてしまってからでは、彼女の願いは叶わない
「では。」
忍人は、そのまま向き直れるほうの手で、千尋もそのまま前を向けるほうの手を、
なるだけ迷いなくとった。
そして、そそくさと視線を空へ。
「あぁ、よかった。まだある。」
「あぁ。」
三度、唱えることが叶ったろうか。
千尋はまるく目を見開いて、声にこそ出さなかったが、口もとを小さく繁く動かしていた。
そして、うん、と大きく頷く。
「どうだ?」
「ふふ、やっぱり二回。」
「そうだろう。」
あとの一度は、それが本当になるように、自分で進んでゆくべきだ。
忍人は、したり顔に言った。
現実的なのか、夢見がちなのか、自分でもその境界をフラフラしているようで、
途中で僅かに笑いが零れた。
「大丈夫です。絶対叶う。」
一段強くなった千尋の指先を、忍人ももうひとつ強く握った。
「あぁ、必ず叶える。」
「忍人さんが?」
「そうだ。君の願いは俺が叶える。」
私が願ったことはね、と、千尋は帰りの階段を、ことこと降りながら言った。
「忍人さんの、手のひらのうちの一つだけでいいから下さいって。」
「どちらかでいいのか。」
「もう一つは、忍人さんにも色々あると思うし。私にも、あるし。」
「まぁ、そうだな。」
もう二度と、一度に二つの剣を、握らなくていいように
握ることができないように
出来れば利き手を、けれど、どちらも利き手なのなら、
そのうち都合のいいほうを一つだけ
「私のために一つだけ、いつでも空けておいて欲しいんです。」
きっぱりと、ちゃんとした敬語で千尋は話し、
踊り場に足をつけたところで、ひとつ背伸びた。
その唇に触れるために、未だ一段上の忍人は、酷く腰を屈めねばならなかった。
ひとつに重なった願い事は、あまく、心に沁みた。
唇が離れるまでに、必ず、と、つよくつよく誓いあう。
三度は無理かも知れないけれど、雲間が光を隠すまでに
柔らかな唇の隙間から、あなたの心まで届くよう、
たった二つの言葉に変えて流し込んだ。
あなたが好き。
きみが好き。
来し方行く末、もう二度と、この想いが離れてしまわないように
夜空をもう一つ、膨らませた。