8月11日。盛夏、勢い増す陽気の中で、望美は一人途方に暮れていた。
「将臣くん・・・どこ?」
駅の化粧室に立ち寄り、可能な限り急いで出てきたものの、待ってくれている筈の将臣の姿が見当たらない。
今日は将臣の誕生日祝いで、二人で外食をしに来た。
有川兄弟と望美の誕生日は毎年、隣家も交えてのファミリーパーティーとして定着している。望美と将臣が幼馴染の枠を越えた今でもその習慣は変わっていない為、望美と将臣は互いの誕生日の前日を「誕生日イブ」と称して二人きりで過ごすようになっていた。
今年の将臣の誕生日イブは、スープカレーが食いたい、という本人の希望に沿って腰越に新しくできた店まで足を運ぶ事にした。
スープカレー。
女子にとって、手ごわい相手だ。顔にも身体にも大量の汗をかいてしまうのは必至で、望美は来るべき滝汗に備えて入念なチェックを行わねばならなかった。
その為に、店に入る直前、最寄り駅で化粧室に立ち寄る事を決めたのだ。
まさかそれが、こんな事態を引き起こすとは。
駅の構内を振り返ってみるが、時間をつぶせそうな場所は無い。将臣がいるとすれば駅の外なのだろうが、下手に動いて戻って来るかもしれない将臣とすれ違うのは避けたかった。
「どうしよ」
携帯に連絡する事も考えたが、将臣は意外なマメさで外出時、携帯の音と振動を切っている。気付いてもらえる可能性は低い。
それでもしないよりは、と携帯を取り出した望美に、聞き慣れた声がかかった。
「お、悪ぃ。もう出てたのか、早かったな」
「将臣くん!」
安堵の笑顔で跳ねるように駆け寄る望美に、将臣が手を向ける。
「あんまり暑いからな。これ買ってきた。ほら、やるよ」
大振りのアイスが二盛りになったコーンを望美に差し出す。
受け取りながらありがとう、と言いかけた望美を遮るように、将臣は手渡したばかりのアイスを指差して真顔を作る。
「全部やるわけじゃねぇぞ、半分は俺によこせ、な?」
「・・・。」
最初から、そのつもりだった。
この、3年多く生きてきたはずの幼馴染は、素直にありがとうと言わせてもくれない。
望美は頬を膨らませかけ、しかし思い直して限界ぎりぎりの大口を開ける。
抗議の気持ちを、行動で示す事にしたのだ。
「あ!お前・・・やりやがったな」
口いっぱいに押し込んだアイスが、舌と上顎に押し潰されて頬を冷やす。
こめかみが痛む予兆がしてきて、望美は味など全くわからないまま、口内のアイスを溶かして喉に流す事に集中した。
「それ、味わかってんのか」
望美が黙ったまま目だけを動かして睨みつけると、わかりやすい大袈裟ぶりで肩を竦める。 そのまま一跨ぎで距離を詰め、コーンを握り締めたまま硬直している望美の腰を抱き寄せた。
「もったいねぇだろ」
何かを考える暇も無かった。
被さってきた唇から逃げようと身を捻るが、腰を抱き留められていてはままならない。
「んー!」
唸り声でせめてもの抵抗を表す。
開くまいと唇を食いしばっていると、片手で鼻をつままれた。息が出来なくなる。
「ん・・・っ!」
すぐに耐えられなくなって開けた唇から、将臣が易々と侵入した。
強引な手段に出た男の舌は、勢いを裏切る優しさで望美の歯列をなぞる。
歯の裏から擦りあげながら、平らかになる上顎の、冷えた天辺まで到達する。
そこの冷たさを拭い取ってから、望美の舌に残った溶けおちるアイスのかたまりを、捩じ込んだ唇で強く吸って奪い取った。
音を立てて、吸い付いた唇を離す。
「あっま」
将臣は目を細め、締めくくり、とでも言うように自分の口端を舐め上げた。
息を乱した望美は、今の気持ちにふさわしい罵倒の言葉を探しながらそれを見て、食べられてしまった自分、という認識を誘発される。
鷹揚で貪欲、豪快で見目美しいこの雄獣は、望美をこんなに旨そうに平らげる。
「・・・人前で、するのイヤだって何回も、言ってるのに」
ここは駅前で、当然人前でそして、日本だ。挨拶でキスをするような国ではない。周囲の注目をどれほど集めてしまっているのかを確認する勇気は無かった。
「人前じゃなかったらいいのか。じゃ、続き、帰ってからだな」
懲りない笑顔で囁き、腰に回した腕で背中を撫で上げてからやっと身体を離す。
燻る快感を置き去りにされて、望美は今度こそ大きな声で非難を浴びせた。
「もう!ばか!!知らない!」
言いながら将臣の脇をすり抜けて走り出す。
「あー、そんな走んなって。転ぶから。待て待て。店の場所、お前わかんねーだろ」
焦らないままの将臣の声が、後ろからのんびり追いかけてくる。
何を言われても聞いてやるものかと走り続けたが、聞き捨てならない言葉が混じっていた。
真夏の全力疾走で汗が噴き出してきて望美は、お店の場所がわからないから仕方ない、今日のところは負けておいてあげよう、と苦し紛れの理屈をつけて立ち止まった。
握り締めたままだったアイスの、溶けて染みたコーンを湿った音を立てて齧りながら、望美は考える。負けたままでは癪だ。
追いついた時、胸に飛び込んで大きな声で、大好きだと言ってやろう。
ほとんど唯一と言っていい、将臣の頬を赤く染める事の出来る言葉だから。
キスだって平気で人前でする男が、たった一言で照れてしまうだなんて。
どうにも可笑しくなって、口元を綻ばせる。言う方の望美だって相当に恥ずかしいのだが、背に腹は代えられない。
要するに自棄っぱちだ。
自棄を起こした望美は浮き足立って微笑みながら、恋しい獣が追いついてくるのを待つ。
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