◆Special Thanx for... はるや様


〜Special respect for Plastic Tree
☆This story is written under the inspiration of 『うつせみ』
☆現代〜豊葦原/シリアス/現代時代に独自設定を含みます











黄泉から戻ってしばらくして、僕は風邪を引いた。
黄泉ってくらいだから、思うより身体は消耗してたのかもしれないし、
熊野は山深くて、秋が早いこともあったかもしれない。


ていうか、たぶん狭井君と話した内容が、
何より一番悪かった。
身体がっていうより精神的に参ったんだろうと個人的には思ってる。


なんにせよ風邪を引いた鬼道士なんか猫の手よりも使えない。
自分でよくわかってる。
だから、遠慮なく引き籠もって寝込んでやった。


人が出払うと、石の船は本当に音がしない。
熱に朦朧とする瞼を閉じて転がって、聞こえるものはなにもない。
ただ、頭の中にはいつも、狭井君に持ってくべき返事のことがぐるぐると回っている。
風邪引いてる場合じゃないんだろうなって、
それもわかってるけど、どうしようもない。


どうせあと少しなら、
ゆっくり寝かせてよと思ったのかもしれない。
ある意味開き直って、求めるままの眠りに身を任せる。


なんでもいい。
千尋の夢が見られたらいい。


なんて、相当末期状態だ。
まぁこれも、ひとりで見るだけだし、
夢なら誰に迷惑かけるわけでもないし、
せめて最後のモラトリアムくらい自由にやれって、
そう風邪は僕に言うんだろう。


「やるじゃないか」


枕に沈む。
浅い息をなるだけ深く吸い込むと、
夏の陽が灼いたあとの、乾いた葦の匂いがする。




− Ride a magic carpet? −






僕の隣でその夜千尋は、
大きくていい形の、そして黄色のパプリカを薄く切っていた。
てっぺんで結った髪が視界の端で小刻みに揺れるのと、
まな板の規則的に叩かれる音。
心地いい音。
あるものはそんないつもの千尋と、
こういうのがずっと続けばいいと思っている僕。



―――そんな夢を見た気がした



いつの間にか寝てたらしい。
ゴロゴロするだけのつもりだったから、頭は枕の上になくて首が痛い。
枕の代わりに教科書が、それも開いたままのページ。
顔に印刷ついてんじゃないのって思うほど、
どうやら僕はよくよく寝込んでいた。


昼寝しすぎて目覚めたときの、身体の重さが好きじゃない。
もともとめんどくさがりの僕だ。
ただ重い重い抜け殻になった身体を、ベッドから起こすのさえ面倒になる。
うとうとする直前の、落ちてくような心地よさはもうどこにも残っていない。
うたた寝は僕の数少ない趣味のうちのひとつだけど、
ほんと、後悔する。重くて。


そして忘れる。
その繰り返し。


投げ出されそうな不快を拭って、反動をつけて上体を起こす。
カーテンは開いたまま、着替えもまだだったらしく、
カッターシャツが腕んとこで一周しそうに引き攣れてる。
ライトの代わりにした夕焼けは消えてて、部屋が暗い。
それでも、枕元の目覚まし時計によれば午後6時。自分で思うほど時間は経ってない。
そしてその割に喉がひどく渇いていた。


「……もーうたた寝なんかしない」


座右の銘にできそうなくらい、
そのたびに僕はそう思う。そう決めて、忘れて、またうたた寝て、
その結果がいまこの不快。
進歩ないのはそういう仕様。諦めて久しいとも言える。


ひんやりと沈む藍色の畳を数歩歩けば廊下に出られる、
こぢんまりした家だった。


ただ借り物の、どこにでもあるような家。
よく見ると雨樋の壊れかけた家。
それでも陽のひかりは、月の陰は、
時間を選んでどの部屋にも、平等に降り注ぐ家だ。


僕がうたた寝していても、襖を開けると明るかった。
玄関のあかりが点いていて、キッチンからも微かな音が漏れ聞こえる。
いつの間に帰ってきてたのか知らないけど、
寝顔見られたりしてないだろうな、と、両手で顔を引き締める。


そうそう、きょうは千尋が夕食の当番だった。
水でも飲むつもりで向かっただけのキッチンだけど、
手伝ってやんなきゃって思ってたんだった。瞼が落ちるほんの少し前まで。


リビングとの間仕切りは、
前の住人が置いて行ったらしき古き良き暖簾だった。
その直前に立つと、千尋のスカートから下、つまり細くてわりと長い脚が、
床へ真っ直ぐ伸びているのが見える。


僕はその足と足の間を指先で割るようにして暖簾を上げて、


「なんだ、もうやってんの」


みたいなことを言った。
制服にエプロンを重ねた千尋の真後ろを通り過ぎる。
そのついでに、チラと手元を見た。
黄色い野菜。やな予感。


「だって当番だもん」
「着替えくらいしたら? 汚して泣いても知らないよ」
「そんなことで泣かないよ」
「……ほんとに知らないからな。そっちの鍋は? 味噌?」


呆れつつ冷蔵庫を開けながら僕は後ろへ声を張る。


「うーん、きょうはスープにしようかなって。あ、エリンギも一緒に出してほしい」
「はいはい」

とその前に、適当に掴んだペットボトルはナントカって名のついた、
どっか遠い国で採れるとか触れ込んでるいわゆる「名水」のたぐい。
名水だけあって、キャップを捻って2、3口吸い付けば、
水のほうからノドに染み込んでくるみたいだった。


「千尋、」


呼ぶと、千尋は包丁を置いて手を伸ばす。
僕の投げたエリンギの袋を、そうして上手に受けた。
正確には、千尋でもうまく受けられるように僕が投げただけ。

半分になったボトルを冷蔵庫に戻して、
代わりに固形スープの薄い箱を片手に扉を閉める。まだ封が切られていない。
開け口に親指を押しいれるときの、ミシン目の弾ける感触が好きだ。
ぱつぱつと開封しながら、千尋の隣に立つ。


「……あ、」


思わずそんな声が出て、僕は手を止めた。


「うん? どうしたの?」
「どこかで見た。この景色」
「えっ、デジャヴみたいな?」
「って千尋が言って、って僕が言うのも。でもってパプリカ落とすんだろ?」


と言った瞬間、千尋の左手から抜け落ちた黄色いパプリカだ。
僕と千尋の間の狭いせまい隙間へと落ちて、
僕らのスリッパの先で船のように左右にゆらゆらと数度、
揺れるはずだった半分のパプリカ。
そうなる前に僕が受け止めたところが、前に見た風景と違うところだ。


受け止めたから、千尋はそのパプリカを、
捨てようか洗って使おうか悩むことを免れたワケで。


「……な、なんか」
「気味わるい? 確かにね。いまのは少し長かった」


まな板にパプリカを戻すと、こんどはさっき夢で見た風景だ。
僕は固形スープの箱を開けていて、
僕の隣で千尋は、大きくていい形の、黄色のパプリカを薄くうすく切り始める。
危なっかしいほどおっちょこちょいのくせに、
料理だけ上手い。


「ていうか。ほんっとに美味しいんだろうな」
「え?」
「だからその黄色いヤツ」
「おいしいよ」
「見るからに苦そうじゃないか」
「あぁ、なんかアレ? 菊とかキライだよね那岐。でも違うから、全然」


きのこがぐつぐつ言ってる鍋に、
スープを2カケ放り込んで溶きながら、まだ僕は疑っていた。
パプリカなんて存在くらいしか知らない野菜で、
店で見かけるたびに、どっちかと言えば使いたくない色してると思っていた。


そんなものを、近所の店にはないからって千尋が、
わざわざ駅前まで出てったのがこないだの日曜の話。
その他諸々、珍しいものを手当たり次第両手いっぱい買い込んだ千尋と、
そんなもののために、家からチャリで迎えに行かされた僕。


あーあ
思い出すとやっぱ悔しいもんだ
休日返せ
折角気持ち良く寝てたのにさ


パプリカは、他のカット野菜が入ったボウルにどんどん投入されていく。
冷製パスタになるらしく、
ドレッシングだかと和えられた麺が既に、二枚の皿に盛られていた。
ちなみに家族は三人で、
まだ帰ってないのが一人いるってことだけど、
いつもならもうそろそろ、戻ってくる時間だ。


(……)


僕の思考はパプリカから、何故皿が二枚しかないのかという命題に、
徐々にシフトしていく。


「不味かったらどうすんの?」
「マズくないってば。食わず嫌い良くない」
「ふーん。じゃ食べてもいいけど、それで不味かったら責任とる気ある?」
「……せきにんって」


意味深な尋ね方にしたのは勿論それなりに意図がある。
千尋のカタコトのような返事と、
気まずそうに俯くのにも、それなりに理由がある。


沈黙した間に、パプリカはすべてスライスされたけど、
エリンギもカットされてスープに混ざったけど、
千尋の手つきは一転ときどきあやしかった。


「風早は?」


沈黙を破ったのは僕のそんなセリフだった。
千尋がビクッと身体を固くする。


「しょ、職員会議、だって」
「ふーん」
「ホラ実力テストの範囲とかっ、……っていうか朝ちゃんと言ってたじゃない」
「そうだっけ。覚えてないな」


なんてね。知ってる。確認しただけ。


とは言わずに、僕は火を止めた。
いい色になったスープの煮立つ音が、火が消えてもしばらく続いていた。
けど、何故か、ひどく無音に思えた。


「千尋」
「……」
「不味かったらキス」
「――も、そっ、またそういうこと…!」


僕の出方くらいわかってるくせに、
いちいちびっくりしたようなことを言う。
そうやってポーズとんないとなんか困るんだろうか、
それなら女子って面倒くさそうだ。


こういうとき、
千尋と、僕と、
僕のほうが男でよかったって思うよ


本当に。


「日曜日、重い荷物を引きずって帰らずにすんだのは?」
「それは那岐のおかげだけど!」
「そのぶんのお礼まだもらってないんじゃなかった?」


言って、ぐっと千尋に顔を近づけた。
いましてやったっていいんだけど? という気持ちだった。言うまでもない。
背中を思い切り引いて距離をとっている千尋は、
それでも釘付けられたように僕を見る。
抱き寄せるわけでもないのに、逃げる隙なんか幾らでもあるのに。
逃げない。いつもそうだ、千尋は。


けど、なんで?


「やならパプリカ美味しく作ればいいだけのことじゃないか」
「……おいしいんだよ。別においしく作んなくたって……もともと」


ぼそぼそと、拗ねたように千尋はつぶやいていた。
それから、ボウルに入れたのを幾つかつまんで僕の口許に持って来た。


「じゃぁ味見してみればいいじゃない」
「……そう来るか」
「絶対美味しい」
「絶対不味い」


美味しい方がいいのか、不味い方がいいのか、
そのとき僕と千尋は、それぞれにどんな答えを出していただろう。
つまんだ手指が僅かに震えていた千尋と、
そんな千尋の唇ばっか見てる僕と。


お互いの心臓の音が聞こえそうで、
けど、先に目逸らしたら負けって気がして、
たぶん、お互いにそう思ってたんだろうけど、
勝ったのは僕だった。


「……那岐のばか」
「なんか言った?」
「……」


膨れた横顔を見せていたのは一瞬で、
「ん?」と聞き返した僕に、くるんと振り向いた千尋が最大限に近づいた。


「……!」


唇が触れただけ。それもほんの短い間だけ。
目を閉じる間もなく千尋は離れていく。


「じゃ、じゃぁ、食べようか!」


と、パスタの仕上げを仕掛けた千尋だったけど、
その仕切り直すような仕草が気に入らなくて、
僕は千尋の手首を引いて阻止した。


「こんなで終わりにするなよ」
「だって日曜日の……ありがとうのキスだもん。これくらいでしょ?」
「……どういう基準? 溜め息出そうなんだけど」


心から脱力して手首を解放した。
その手で適当にパスタを飾り付けて、さっさと食べようと思っていた。
千尋は隣で拗ねたように俯いていた。


「……だってしたかったんだもん」
「――は?」
「だ、だってパプリカは絶対マズくなんないから!」


足早にキッチンを抜ける後ろ姿は完全に拗ねていた。


「……そういう解説は初めにしろよ」


その夜風早は職員会議で、
その事実を、使える、と思っていたはずの僕は、
その後の気まずい食卓を予感して大いにうなだれた。


そんなかんじで―――


舞台を異世界に据えて、
少し古いけどほんものの家と、あたたかい食材を使って、
僕たちは壮大なままごとをしていた。


思ったより長く、5年も続いたその間に、僕は千尋の背を追い越して、
遊びは次第にエスカレートして、僕たちはやがてキスをする。
ありがとうとかごめんとか、何かにかこつけたキスから始まって、
夜、襖の前で別れるときの小さな小さなおやすみのキスとか、まぁたまに。
ただ、おはようのキスだけ未遂だった。



ままごとなんか
いつか終わるんだ
そんなことも忘れて



いまならわかる。
あれが、耽るということなんだと。


真実も事実も見ないまま、
僕は千尋を、ままごとにつきあわせただけ。
とは言えひとつだけ釈明できるなら、
それがずっと続けばいいと思っていただけ。


この世界にずっといられるなら、
いつか壮大なままごとが、現実に変わるかもしれないじゃないか、なんて、
一応、願ってはいたんだ。


うたた寝の夢に見るくらいは。









何度目かに目が開くと、なんだか身体が軽かった。
朝はまだ熱帯雨林みたいだった寝台が心なしかさわやかだ。


長い長い夢を見た気がした。
そのほとんどが、千尋のことで占められていた気がする。


夢の内容はホント今更、みたいな、
けれど、戻りたい場所であることには違いなく、
けれど、戻れないことを確かに示そうとするように、
醒めた身体は軽くて、言ったように本当に爽やかなんだ。なんだこれ。


身を起こしてみても、熱に浮かされた頭がゆらゆらすることもなかった。
つまり、熱は下がっている。
古びた窓の衝立を倒して、外を眺めると完全に夜だ。
高く晴れた満天の星にいちいち撫でられでもしたのだろうか、
吹き込む風は澄んでいる。


僕の部屋は船の上層の、いわば屋根裏みたいなところにある。
最初に部屋割りをしたとき、
床は廊と同じく石畳だし、狭いからってことで誰も選ばなかった部屋だ。
なんで? 落ちつくじゃないかと僕は思い、手を挙げて、
競争率の低いこの部屋を満場一致で取得した経緯がある。


そんな船内は静かだ。屋根裏ってことを考慮してもこの物音のなさ。
どうやら寝たまま一巡したな、と思った。
向こうの世界と違って、こっちの人間は節度正しく、
太陽と共に寝起きする。
電気もないし、水も油も限られているから、そうせざるを得ないとも言う。
出掛けたやつらは既に戻って、食事や酒盛りを済ませたあとで、
とっくに寝入っているんだろう。


調子が戻ったなら、明日にでも神邑に出向かないと。
病み上がりの、やや弱気なはずの思考が妙にはっきりしていて、
有数の霊地の神聖な空気に僕はどうやら当てられているらしい。
窓にべったりと肘をついて、どこまでも神妙に、そんなことを思っていた。


扉の向こうから声がかかったのはそのときだ。
この船でこんな高い声を出すのは千尋だけ。
心臓が高くひとつ、ひどく耳の近くで鳴って、
さっきまで見ていた夢に引き戻されていく感覚にかられた。


ウソだろ
勘弁してよ
何だってまだ起きてるんだ


「開いてるよ」
「開けて」


だから開いてるって、と言いながら、
僕はしぶしぶ窓辺を離れた。
なんか他人行儀―――というのは、
この船に乗ってから、いや、そもそもこっちに戻ってから、
千尋に限らず僕もそうだ。


そうだそうだ、そうだった。
ままごとは、もう随分前に終わったんだったね。


「なに」


と開けざまに愛想なく言って、途端に後悔した。
千尋は大きめのしかくい盆を両手で持っていて、
僕に食事を運んで来たことがひと目でわかったからだ。


「ごはん作ったの。ちょっと冷めちゃったんだけど」
「……なんか多くない?」
「私のぶんもあるから。一緒に食べよ」
「……って、いままで待ってたとか言うんじゃないだろうな」
「へへ。って言ったら怒る?」
「……。入れば?」


お邪魔しまーすと暢気な声が先を行く。
僕は扉を閉めて、入り口の燈台に灯りを点けた。
十分でない光源が、不規則な石畳に陰をつくる。


狭い部屋の中央に、盆を挟んで向かい合った。
千尋のほうにはなけなしのクッション(みたいなもの)を渡してやる。


こういうのは久しぶりだった。
食事はたいてい大勢で、日向が作った大皿料理をみんなでつつくスタイルだったから。


「顔色いいね」


千尋は粥を取り分けながら、僕を見てそう言った。
器にもうひと掬い足されてなみなみになったのを受け取る。
ずしりとする。


「……どうも」
「それならお粥より、もっと精のつくものにすればよかったな。チキンとか」
「いいよこれで。十分」


チキンはないけど、キノコとたまごが入っていた。
一口啜ってみたら、すごく懐かしい味がする。


調味料もあっちと全然ちがうのに、
千尋の作ったものは、
やっぱり千尋の味がする。


そうそう、こんなだったなと思うのに、
ありがとうがなかなか言えない。


「……けど、なんだってわざわざ」
「私がつくったのだったら、私がつくったんだから食べなさいって言えると思って」
「……あぁ、」


風邪引くと、普段に輪をかけて食欲のなくなる僕のことを、
千尋はよく知っていたんだった。


今回みたいな風邪、というのは学校休まなきゃなんないくらいの、
何日か寝込むような風邪を引くと特にそうで、
そういうとき、そう言えば、
千尋はこんなふうに手料理を持って、
夜中に襖の向こうから僕を呼んだんだった。


そうだね
随分昔のことみたいだ


僕はそのことを今更ながらに思い出して、
次のひと匙を掬って千尋を上目に見たら、
ちょうど目が合って、千尋は何故か俯く。


「……っ、ていうか、言わなくても食べてるみたいだけど」
「……なにが言いたいの?」
「べ、つに」


千尋の俯く理由と、
僕が記憶の淵から汲み上げる思いが、
いま、もし、同じなら


ひとつだけ、尋ねたいことがあるんだけど。


「そうか。忘れてた」


僕は、半分になった器を盆に置いた。
多孔質の石畳に反響して、コト、と軽い音が響く。


ねぇ千尋、
前は―――ままごとをしていたときは、
そういうとき、どうやって食べさせてくれたんだっけ


久しぶりすぎて、懐かしすぎたのだろうか、
僕は、千尋は、いま
恐らくお互いに、ままごとの続きがしたくなってる。


僕は千尋の食器も取り上げて、
盆ごと脇へのけて、
そうやって空けたスペースに膝を進めた。


僕に気圧されて顎をうんと引いた千尋の、
やわく開いたままの唇に向かって言う。


「あのさ」
「う、うん」
「手付けちゃった後で悪いけど、も一回やり直していい?」


あのときみたいに言っていい?


「………いい」
「『キスしてくれたら食べてもいいけど?』」


言って、舐めるように見つめたところに、白い歯が覗く。
ふたりで同じところを見ている。


唇とか
目とか
唇とか


うつろう目線は意図的で、落ち着きたいところへ導きあう。
借り物の世界でこっそり交わした言葉を、
僕らは小声で手繰り寄せる。


「『感染っちゃう』」
「『感染ったらこんどは僕がつくる』」
「『……したら、ちゃんと食べる?』」
「してから決める」


最後のは想定外の台詞だったはず。千尋は不服そうな顔だ。
本当は千尋は、なにか反論しようとしたのかもしれないけれど、
僕はそうはさせないで、ふわとひらいたその隙間を奪った。


「……っ、」


身じろいだ千尋が浮かせた手のひらを、
石畳に押し付けるようにしながら握る。


そうしながら僕が思っていたことは、
隔てた時空のぶんなんか、どこにあるのっていうくらい、
瞬時に呼び戻された感覚の近さ。


正直こわごわに重ねた唇は、
触れ合った瞬間に馴染んでしまって、
小さく声を上げる千尋にこの先どうすればいいのかまで、
正しく、あるべきやり方で、僕の身体が反応することの不思議。


記憶のすることに抗えない僕らは、
冷たい石の上で指先を探しあって、絡めあって、


僕たちのままごとがこんなだったことを、
ただただ確かめあうばかりで、
咽び来る懐かしさに泣く暇もない。


その代わりだろうか、
雨の音がする。
さっきまで晴れてたのに、
長い長いキスの後で、叩くような雨音がする。


「……降るね」


言って、離した身体が熱かった。
目を合わせ辛かったから、開け放した窓のほうへ、千尋が視線をやってくれてよかった。


「これじゃぁ明日はどこにも行けないね」
「秋雨前線でも張ってるんじゃない?」
「一時休戦、ってかんじかな」
「病み上がりには助かるけど」
「うん」


それから、「向こうも降ってるかな」と、
雨を見ながら千尋が言った。


「行ってみる?」
「え、行けるの?」


僕は頷いた。出来心だったと思う。
この風邪が治ったら、この空がもう一度晴れたら、
僕のすることは決まっている。もう決めている。


「……でも、どうやって帰るの? 那岐って神様なの?」
「まさか。けど、魔法の絨毯くらいなら出せるかもね」
「うそ!」
「って、本当に帰ることはできないから期待されても困る。あくまでも幻だ」


まぼろし、と千尋は反芻した。
というかそれでホッとしたような顔に見えて、
僕はなんだか複雑だった。


「千尋もここでやることあるだろ。何たって王だしね」
「……うん」
「だからいまだけ。ただの遊びだ」


頷いた千尋の瞼に手のひらを当てて目隠しをする。
つまりなるほど魔法が使えるらしき素振りで、僕は尤もらしく言った。


「いいって言うまで目開けちゃだめだよ」


更に尤もらしく、もう片方の手はつないだりした。
ひねもす寝台で寝こけたことで、漲りはじめた鬼道のちからを存分に使って、
僕はそうして小さな屋根裏にウソの世界を構築する。


雨が止むまでの間だけ、いまだけ、
そのくらいで僕たちにはちょうどいい。


そのあいだだけ、魔法の絨毯に君を乗せて、
誰も来ないとこへ行こう
それが、僕が君にあげられる最後の想い出になるから


雨が止んだら忘れていいよ


ただひとつ願うなら、
ままごとみたいな世界だって、空蝉みたいなものだって、
ねぇ、気付いても、知らないふりしてくれる?


「いいよ」


手を離して号令すると、
ぎゅっと、瞼に皺が寄るくらいにきつく閉じていた千尋の瞳が開く。


「あ」


青い目はみるみるまるくなった。
しがない燭台の灯りじゃない、腰が痛くなる石畳の床じゃない。
そこは、千尋にも大いに見覚えがあるはずの、
明るいリビングの白いソファの上だった。


綺麗に空になったスープのカップと、
僕がわざと残した黄色いパプリカが貼り付いたプレートと、
そんなローテーブルの傍で、こうして僕らはあの日、
いつまでも仲直りできない夜を過ごしたんだ。


「……すごい再現率」


千尋はそう言って笑った。
拗ねた千尋までは再現できなかったことには気付いてないんだろうか、
機嫌良さそうでよかった。


「ねぇ、これ食べられるの?」


千尋はフォークでパプリカをつつく。


「食べられるけど、食事ならさっきしただろ」
「だって興味引かれちゃうよ、ぜんぶあの日のまんまで」
「まぁ、原本が僕の記憶だからね。違うもの出すほうが難しいんだ」


面白そうに笑うけど。
いや、何処が可笑しいのか全然わかんないんだけど。
僕にとってはそれくらい、ここが大事に保管されてるってことなんだ。



そんなこと絶対言わないけどね



フォークを握る千尋の手を、上から包んで指を解く。
ひどいデジャヴが襲ってくるけど、
あの日と違うことは、これからってときに風早が帰ってきたりしないことだ。


パプリカが本当に不味かったのかどうか、
実はまだ千尋に言ってない。
言うより先に最後の日が来たからだ。
そんなにすぐだってわかっていれば、
僕はあの日ここで、どうあっても千尋に伝えたはずだ。


ホントに不味かったから、
責任とってよって
たとえそれがウソでも


僕にフォークをもぎ取られた千尋はおとなしかった。
おとなしく僕の下になって、されるままにソファに沈んでいく。
瞬きがくすぐったいくらいの近くで見つめあいながら、
すぐにでも重ねたくなる唇を我慢して言った。


「どんな言い訳付ければいい?」
「……パプリカやっぱマズいじゃないかって」
「不味くなかったけど?」
「え。……じゃぁ、ど、どうしよう」


戸惑う千尋が本当に可愛く見えていた。
いままでのどの千尋にも比べられない。
このまま閉じ込めてしまえればいいと思った。


「じゃ、こんなのはどう?」
「……ん?」
「責任とってよ。僕なんかずっとここでゴロゴロしてるだけでよかったのにさ」
「―――」
「面倒なことに巻き込んだ責任とってよ」


反論できるはずのない条件をつけて、
僕は千尋に口付けた。
十分に重みを感じられるように、ソファに身体を押し付けるようにして、
制服に戻った千尋の身体を深くふかく沈めかけた。


「ま、待って、」
「……なに」
「……ていうか、そんなのキスで足りるのかな、って」


僕の胸に手をついた千尋は、
そのまま剥がしたいのか、それとも引き寄せたいのか、
とにかく酷く困った顔でそんなことを言った。


「足りないって言って欲しい?」
「わか、んない」
「じゃ、『足りない』」


改めて千尋に体重をかけたのと、
首に腕が回ってきたのは同時だった。
風邪は治ったはずなのに、妙だ、熱い。


ここは僕の世界。
僕が千尋と過ごすためだけに、ひとときつくった空蝉の世界だ。
最後のままごとの舞台に据えた、
あるんだかないんだかの浮ついた世界。



だから、ここでしたこと全部、
あとで嘘だったって言ってもいいよ



ネクタイを外したら、
何処から聞こえてくるものか、
雨音が呼んでいる。






− Ride a magic carpet?・完 −





・Plastic Tree/うつせみ
でリクエストしていただきました! はるやさん本当にありがとうございました!
はるやさんの「これ那岐→千尋だろ…」的イメソンということで、しかも大好きな曲ということで!
私流に料理していいとおっしゃって下さったので、お言葉に甘えて自分設定とかだいぶ入ったかも…ヒィィすみませ…!
この曲はリクいただいて初めて聴いて、毎日のようにヘヴィローさせていただいてました!
すごく密室な、出口の見つけにくいメランコリックでぐるぐるぐるぐるしてるような、
ひとりになったときの那岐がこういうこと考えてたらめちゃくちゃ萌えるなぁと思います。せつない……
救いのある感じで終われているかどうかがかなり怪しい仕上がりになってるんですけども(…)、
このあとはアレですいわゆる譲位があってゲームのとおりに進んでいくと思っていただけたらと///
遙4は全体的にこう、切なかったり不毛だったりする部分が少なからずありますけど、そこも含めて遙4の魅力だなぁと思います。
那岐と千尋ちゃんは現代で過ごした時間があるぶんだけその悲恋が重くて、
那岐の生来のメランコリックがすごく際立つルートだったなぁと思います。

あとこのお話の「ままごと」について言い訳なんですが…あ、スルー推奨です(笑、
私のじつに勝手な思い込みなんですが、那岐はもともと千尋ちゃんのことをかなり好きで、
ちょっとこう、ときにそれがなにかの拍子で高まったりすると、
うっかりキスくらいはするだろうと普通に妄想してるところが否定できません(真顔)
いや、確かに那岐はマジメなほうの子だろうし、ナンパなやつでは絶対にないんですが、
かといってこと千尋ちゃん相手だと、ただの奥手では済まないんじゃないかと…
そのへんは等身大の思春期を発揮してたら、そのほうがむしろ健全だろと! フライングな那岐千が大好きです!

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです…!
はるやさん、リクエストほんとうにありがとうございました!

2011.09.15 ロココ千代田 拝