耳鳴りノクターン





朝まで話そうって言ったのはどの口よ。


少なくとも一人がそう提案し、残りの4人が、確かにそれに従ったはずだった。
千尋もそのうちの一人だ。

あれからまだ一時間か、そんなものだというのに
千尋を除く、同室の女子は全員深い寝息を上げていた。

「みんなのうそつき。」

千尋は、枕の内部に向って小さく苦言して、続きを胸の内に、ぽつり吐く。

(宿泊訓練って、もっと楽しいと思ってた。)

修学旅行を来年に控えた、高校一年生の秋。
くじ引き方式で同室になった女子は、幸い交流が深めの子達ばかりだったし、
おやつの準備も、炭の熾し方の訓練も、みんなで温泉につかるのも、
何日も前から胸を弾ませていた千尋であった。

完全に消灯して、真っ暗になってしまったいま、
この部屋で千尋だけが眠るタイミングを逸していた。

特に寝心地が悪い布団ではない。寧ろ、家の布団よりも心地いいくらいだった。
シーツには糊がかけられて、爪先まで清潔な肌触り。
枕の高さも丁度いい。
日中は体操着で、山へ入って薪を取るなどの、野外活動に動き回ったことも計算すると、
眠れない訳がないくらい、体はちゃんと疲れている。

「……何時なんだろ。」

柱にとりつけられている、アナログの掛け時計も
すでに闇の一部として沈んでしまったから、千尋は枕元の携帯を開く。
ついでに明朝のアラーム設定も確認する。
全員参加のラジオ体操があるので、五時半起床なのであった。

「……うそ、もうこんな時間。」

みんな、寝てしまうはずだ。
恐らくこの辺りで起きているのはフクロウくらいである。

(絶対いや、朝辛いのは!)

千尋が携帯を放り投げると、畳にどすん、と重めの衝撃が落ちた。

(………だめ、あんな遠くじゃアラーム聞こえない)

自分でやったことに腹が立ち、キリキリしながら腕を伸ばした。
体ごと出てしまったほうが幾分も早いのだろうが、
生憎山際の少年の家は、この時期結構な寒さなのであった。

(うー、もう少しっ)

筋が違いそうになるのを何とか堪え、
脇の下から腰の括れにかけてが、ぴんぴんに伸びたところで、
漸く指先が届き。

「さっむぅ……!」

千尋は、シャンパンピンクの機体と一緒に、顔ごと毛布の中へ埋まり込んだ。

「あいたた……っ」

今頃こむらがえる。
こういうのを、踏んだり蹴ったりというのかもしれなかった。
くさくさと、半ば無理矢理に目を閉じたが、
意識は一層明確に、研いだように澄んでゆくのだった。


そうすると、浮かんでくるのは先程までここにあった、黄色いはしゃぎ声。


『よぅーし!今夜は朝まで話すよー!全部暴露してもらっちゃうんだからね!』
『うぃっしゅ!』
『えぇ〜〜やだあたしいちぬけ!』
『残念でした、全員参加ですー、これは班長命令でーす!ジャンケンは一回勝負!』


そして、枕を抱きながら、頬染めつつ語り始める者、
それににじり寄りながら、際どい質問を繰り出すことに余念がない者、
口ごもりつつも『暴露』された内容に、布団の中で足をバタバタさせる者、
『それなら私も経験がある』などと補足説明を加える者などがあり、
一時は見回りの教師にドアを開けられて、ヒヤリとする場面もあった。



のに。



千尋の順番が回って来るまでに、一人眠り、二人眠り。
とうとう誰も、いなくなった
という訳なのであった。



(一応ちゃんと考えてたのに。)



一応、ひとり、想定して。



そのひとについて、今千尋が想うことを
頭の中で、胸の中で
ひとつ、ひとつ、紡ぎ出しては撹拌して、飲み込んでは練り直し。
仲良し同士いっぺんに、漸く話せるときがきた、いい機会だと思っていたのに。


好きなひとなんて、いないと思っていた。
正確には、今までに知っている、好きという気持ちの他に
もうひとつ、『好き』があるなんて知らなかった。

宿泊訓練の夜、みんなで枕を寄せ合って、くつくつ笑いを忍ばせながら
千尋だってそれを、微かな甘さに染まりつつ、彩かに暴露したかったのだ。
一人、二人と、幸せそうな、時に羨ましくなるような話がすすむに連れて
つい、喉からヒュ、と飛び出してしまうくらいに
膨らんできていたひみつがあった。

(何で寝ちゃうのよ。)

高校生になって、七夕を迎えて、期末試験にヒイヒイ言って
40日くらいの、長い長い夏休みがあったじゃない?
そのあいだにね、私と、彼はね



彼女と、彼に、なったんだよ



私と、那岐は―――――



(あー、くるしい)

千尋は、毛布の中で丸くなる。
頭も全部いれて、ますます厚くなった闇のなかでも
冴え冴えと突き抜けてくる覚醒が止まらない。


しん、と静かなマイナスイオンが、夜に増殖してゆく気配。
ひとの耳にはきこえない、ごく高く、微かな、夜の声。
突如、からだのひとまわり外側に、薄い膜が張るような
からだごと、包まれた耳鳴りのような―――――


―――――そう、かもしれない。


言いたかったのは、本当に、話したかったのは
彼女と彼になったよ、ということではなくて


こんなに、淋しいと想うのは、初めてだということなのかも。


AM7:45
洗面所で歯磨きをしていると、寝ぼけ眼で起きて来て
当たり前みたいに隣に立って、ペーストのチューブに手をかけるひと

『……千尋。』
『んー?』
『眠過ぎて力入んない。開けて。』
『はいよぅ。』

歯ブラシを歯の間で噛んで、代わりに捻ってあげるとき、
じ、っと手元を見つめられて照れる。
透明マニキュア買って来なきゃ、ってずっと思ってるのにまだ買ってないことも
鏡はそういう二人を、ちゃんと一つの枠の中に映し出しているのも
ほぼ欠けたことのない風景だった。


台所に立つ時、学校までの道、家までの道
思い描くまでもなく、いつも隣に那岐がいる。


PM10:45
同じ洗面所の鏡の前で、今度はキャップを捻るのが、逆に那岐になる。
とはいえ、流石に眠気に負けて捻れない、という程千尋がやわなのではなく
那岐が締めた後のキャップが硬すぎる所為。

『……那岐。』
『……あー、はいはい。』

ひょ、と千尋の手からチューブを取り上げて
キャップをくるり、と摘む爪が綺麗だ。
取り替えて欲しいと思うことさえある、薄紅の、ながい爪。

『………わかってるならもちょっと緩くしといてよぅ。』
『ちゃんと締まんないとやなんだよ。何となく。』
『それにしても、固いの!』
『じゃぁ千尋は千尋専用のでも買ってくれば?』
『………いい。』

そしてこの夜、千尋は久しぶりに自分でキャップを捻った。
トラベルセットの小さいやつは、簡単にまわって
いつもよりやや強めのミントの味がした。

(………絶対私専用のなんか、買わない。)

そう、心に決めた夜でもある。


班が違うとこんなにも、一緒に何もできないなんて。
ご飯のテーブルも、あっちの端と、こっちの端。
その間に幾つもグループが割り込んでいた。
薪を拾いに山に入っても、手伝ってくれるのは同じ班の男子であり、
視界の隅っこで、那岐が他の女の子の分を半分持ってあげたりしていたり、
結局ろくに話もできなかった、この一日である。



何をするにも、別々だなんて。
宿泊訓練なんか嫌い、二泊三日の修学旅行なんか、もっともっと嫌い―――――



千尋は、布団の中で膝を折り、胸に付くくらいに背を丸めた。


そのとき、突如、頬に微動の震えが伝導した。


「っひゃ―――――っ!」

反射的に開いた瞳の中心に、緑のLEDが点滅している。
それは、目に悪いくらいに、明るく見えた。

「やだ、アラーム間違ってた・・・・?」

千尋は画面を開け、更に明るくなった毛布内部に眉をしかめたが、
次にハタと思考を停止させる。

「…………なんで?」

080から始まるその11桁は、見たことのない番号であった。
というより、知っている人なら名前で出るようにしてあるから、番号で見る事自体が珍しい。
こういうのには出ない方がいい、と何処かで聞いたことがある。
繋がるだけでお金が請求されるとか、そういう感じの恐ろしいことを。

(だめ、これは!)

千尋は慌ててボタンを押した。

(ふふ、騙されないんだから。)

安堵し、やや得意気に、再び目を閉じたのだったが―――――


枕元、ひらいたままの受話口から、微かな声が耳をくすぐって
千尋はぎょっと目を開けた。

(うそ………)

短く、同じフレーズを、何度かそれは放っている。
電子音に変換された、振動に似た音声は、
しかし確かに意思があり、人の声だと、思われた。

「………私、出ちゃった?」

暗がりのキー操作は、千尋にとって、やや難度の高いものであったらしい。


このまま放っておいたらどうなるのか、きっと高額な請求が――――
その前に一言でも言い訳をした方が、せめて減額くらいはしてくれるかもしれない


千尋は俊敏に機体を取り上げた。

「もしもし!困りますそういうのは!」

勢いづいて、晩秋の空気の中、体まで起こした。
幸い黙った相手に向かって、もうひとつ苦情を、と息を吸い、吐き出す直前


『そんなに困るなら切るけど?』

その声に、ほろほろと崩れてしまいそうだった――――
いや、正確には崩れた。
全ての関節が熱をもち、ぺたん、と枕に胸ごと落ちた。

「………那岐?」
『残念だったね、悪戯じゃなくて。』
「ひど………」
『酷いのは千尋だろ?人が折角電話してるのに。』
「だって、知らないばんご――――あ。」
『ふーん、登録してないんだ、僕の。』
「やっ、あ、あのっ、そうじゃなくてあのっ」
『そうだろ?』
「…………つかわ、ないからぁ。」

実際その必要はなかった。
学校でも、家でも、那岐の姿がないところに千尋がいるということは
ほぼそんなことは起こらない。



起こったとすれば、まさにいま。



那岐がいなくて、淋しいと思うことなんか
今以外にいつ、千尋の身に起こったというのだろうか。

「那岐ぃ。」
『どんな言い訳?』
「――――淋しい。」

言い訳をするなら、それしか、考えつく言葉がない。
今までは、きっと、知らなかった気持ち。


誰かに恋をするということも、
那岐がそうだったということも、
那岐の手のひらの温度も、さらさらの唇も、最も近く繋げた身体のあまみも


これ以上、那岐について、知らない気持ちがあるなんて
知らなかったのだから


『よくできました。合格、それ。』
「面白がってるでしょう。」
『ふふ、まぁね。』

ふく、と千尋は膨れ、
そして、受話器の向こうで、空気の動く音がした。

『千尋も潜って。』
「……へ?」
『だから、毛布ん中に全部潜ってって。』
「こっちは誰も起きてないよ?」
『こっちもだけど、でも潜って、一応。』
「………うん。」

千尋の視界は、ふたたび漆黒の皺の隙間に閉ざされた。

「なに?」
『なんか、眠れないんだ。』
「あ、いっしょだ。」
『千尋の声聞いたら、寝れるかなとか思ったんだけど』
「うん。」
『なんか逆効果だったみたい。』

どっちの意味だろう、と、千尋はしきりに那岐の、言葉尻を反芻した。
奥の方に淀ませた感情を、読み取ることは至難で、
それでも、切る前に溜め息を一緒に零すときは、
千尋が後で悲しくなるようなことは、今まで一度もなかった。
それを信じて、言葉を返す。


「あいたいな。」


わざわざ、そんなことを
ねぇ、願うことになるなんて
そんなこと、今まで一度だって想像した?


『あいにくる?』


同じ気持ちを、
携帯の、小さな画面が作る、ほのかなほのかなひかりの中で
どうかこの電波の先に
繋げて、運んで、しみ込んでと



わたしたちは、信じてねがっている



『――――なんてね、困らせようと思った訳じゃないんだ。』
「いけたら、すっごい、いいね。」
『………うん。』
「好き。」
『………は?』
「言いたかったの。今。」
『………ほんとに潜ってる?』
「ん?うん。まっくら。」
『そ。』
「那岐?」
『………じゃ、僕も好き。』

ついでみたいに、溜め息まじりに、那岐はしかし明確に言ったのだったが。
千尋の耳をつつむ、ほんの僅かな毛羽立った空間に、
それは急速に吸引される。

「――――――。」
『………ちょっと、黙るなよ。』
「………も一回、言って?」
『その前に千尋がもっかい言いなよ。』
「………そしたら言ってくれるの?」
『そう言ってる。』
「………後悔しないでよ?」

千尋はひとつ、ぬくい空気を吸い込んだ。


「好き。」
『大好き。』
「――――――っ。じゃ、じゃぁいっぱいすき!」
『もっと好き。』
「〜〜〜〜〜えーと、あ!いちばんすき!」
『ずっと好き。』
「――――――。」
『おやすみ。朝、キャップよろしく。』

千尋は、まるで真っ赤に色づいたような声で、待って、と呼び止めたのだけれど
耳に当たるものは、ただ規則的な電子音が、繰り返されるだけの受話器だ。

(………もう。)

今度は間違いなく切る方のボタンを押して、
千尋は鼻まで毛布を捲った。
新しい、ひんやりとした空気が鼻腔に入って来て、
ほてった頬を撫でてゆく。


とろとろと、漸くやって来つつある微睡みを
こくり、こくり、引き寄せるものは



『好き』



幾度、囁やかれた那岐の声。
鼓膜の奥の、三半規管をめぐりめぐり、どうか朝まで消えないで。
耳鳴りのうたにして、夢の中まで連れて行って。





〜Fin








やっと書けた宿泊訓練!
ずっとあっためてました(笑)
ちょっと寒くなって来た頃がいいなと思ってたんですが、いざ書いてみたら別に季節いつでもよかったような気もする…

那岐と千尋って、電話するんだろうかという疑惑から出来たお話です。ぶっちゃけ2人が電話で話すっていうのが書きたかっただけ(笑)
一緒に住んでるし、同じクラスだし、那岐あんなんだし(おい)、電話はそうそうしないだろうな、みたいな。
千尋は、スーパーから「今日夕飯何がいい?」とかかけたりすることもあるかもしれないけど、
那岐はほぼ0パーだろうと!(何を力説)
もし、那岐から電話するとしたら、いつだろうな、みたいな妄想でした。

宿泊訓練の暴露話大会って、なんであんなにもりあがるんだろ。今でも、女同士で泊まりにいったら、夜は大体そうなるけど。あれはいい。むしろ一番のたのしみだ。


2008.11.15 ロココ千代田 拝