呼ばれた気がして目を開けた。
普段、一旦寝入って目を覚ますなんて有り得ないけど
何故か瞼は軽かった。
「……那岐」
もう一度、耳許で。
やっぱり微かな声だった。
「千尋?」
むっくり背を起こして、豆電球、と手を伸ばしたけれど、
ただただ空気を掴む。
そっか、ここはもう、あの部屋じゃないんだ。
電気じゃなくて、枕元の燭台に手を伸ばすべきだったことに気付いた。
瞼は軽かったけど、割と寝ぼけてるみたいだ。
「電気はないよ?」
「……わかってるよ」
空中でふよふよ浮く指先を、どうしたらいいんだろうか。
きまり悪いことこの上ない。
僕は、ろうそくを灯すのも諦めた。そのうち目が慣れれば、どうってことない。
「どうしたの」
夜中に千尋が僕のとこへ来るっていうのは、当たり前だけどそう頻繁にあることじゃないから、
同じ家で育ってきた同世代として、やっぱ気になる。
白い足首がぼんやり浮き上がってる、ひらひらとした夜着の裾。
直視するのは躊躇われて、少しだけ視界の端に入れながら、声だけを千尋に向けた。
「寝れないの」
「ふーん」
僕は、ぽりぽりと頭を掻きつつ欠伸を噛んだ。
千尋は黙って、床の上で爪先を繰る。
花曇りは晴れたけど、まだ夏にはほど遠い、つめたいつめたい石の床。
「だから?」
これしか言えない。
千尋の足が、どんどん冷えて、やらかい(そう見える)皮膚が縮こまってくのを
寝台から眺めてる僕は、同じように生成りで織り上げた夜着を着てる。
夢の途中で起こされたから、少しだけしっとり汗ばんだりもしてる。
いつもより、少しだけ理性から遠いところに、僕はいる。
「ひとりで寝れないの」
「……」
「船に酔ったのかな、はは……」
千尋が乗り物に強いことはとっくの昔から知ってる。
あの世界へたどり着いた最初の日曜日、風早が連れてってくれた遊園地でバイキングに乗った。
大揺れの無重力状態、胸の前のレバーを必死で掴むしかできない、青い顔した僕の隣で
キャッキャ言ってはしゃいでたのを忘れない。
だってめちゃくちゃうらやましかったからね。
「なわけないだろ」
「……やっぱわかる?」
「千尋が酔ってるなら僕は今頃屍だ」
頭を掻くのは止めにした。
そのままできるだけ壁側へ、腰をいざらせた。
「来る?」
「うん」
「……嘘だろ」
「なんで?」
無論、半分冗談のつもりだった。
そう、半分冗談で、もし、え、そんなつもりじゃ……みたいな恥じらいでも見せてくれたら
悪戯心の延長で、少しだけ怖がらせてもいいって、
その細い手首を掴んで、身体ごと寝台の上まで引き上げて、震える睫毛のギリギリまで、
唇を近づけた挙げ句
『嘘だよ』
とでも、言うつもりだったのに。
そんなにあっけらかんと、うん、なんて言われたら、
僕はどうすればいいんだろう。
まっすぐ見れないと思ってた顔は、いま、僕の焦点の中心にいる。
思わず顔を上げるしかなかった。
それくらい、びっくりして、同じくらい落胆した。
「……いーよ。入ったら?」
言って僕はシーツに潜った。勿論壁に相対して。
千尋が捲ったぶんだけ肩が軽くなって、背中がす、と涼しくなって、
斜めに軋んだ身体は、ほんのり横揺れた。
「……そんなにくっつくなよ」
「だってベッドが狭いんだもん」
僕の名誉の為に断わると、この、空翔る船の寝台は、そんなに狭いわけじゃない。
風早みたいなおっきい男が二人並んで寝るんなら、こういう感じにもなるかもしれないけど、
僕と千尋なら十分に、もっと隙間を空けられるんだ。
あけようと思えば。
僕は、壁にピッタリくっつくくらい端っこで寝てるんだから。
「……そんなだとさ」
「ん?」
「襲うよ?」
これは本音だった。
さっき少しだけ魔が差したときに、計画してたような悪戯じゃない。
月の光のぶんしかない部屋ん中、同じシーツで男と女でくるまって
空けられるはずの隙間があいてないってこと。
男のほうは僕で、女のほうは千尋だっていう事実。
後ろでぴくん、て震えたのと、息を呑んだみたいな音を聞く。
僕の喉が鳴るのも、聞こえたらいいよ。
「襲うって?」
「やっちゃうよってこと」
「ふふ、嘘ばっかり」
「嘘じゃないんだけど」
「嘘だもん」
「だから嘘じゃ―――」
一応、強めたつもりの語尾が、突如回ってきた腕で押さえ込まれた。
千尋の鼻先が、肩甲骨の間で埋まる。
すっごいいい匂いがして、その先を言えなくなる。
せめて、3倍ほどに膨らんだ心拍が、その手のひらへと、漏れ出してなければいいのに。
「ほら、やっぱり嘘」
「……」
僕の沈黙は、長く、長く、続いて。
懲りない千尋は、そんな僕の脊髄から染み込ませるみたいに、可愛い声で次々と喋った。
レヴァンタっていうひとと、ほんとに和解できなかったのかな、とか
柊っていうひとは、どこで合流するつもりなのかな、とか
夕霧と私はどっちが可愛い?とか。
僕が沈黙を保ってたのは、なかなか答えに詰まる話題ばっかだった、ってのもある。
ていうか。
寝られないから、僕と一緒なら寝れるって意味で、ここへ来たんじゃなかったろうか。
その割に、千尋の言葉はなかなか止まなかった。
「……ゆっくりできたらいっぱい寝ようって思ってたのに、だめなの」
漸く本題みたいだ。
出端を挫かれている僕は、気の無い返事で喉を鳴らした。
「食い過ぎじゃない?出されるまま食べるから、胃に全部血がとられてるんだ」
「んー、そうかも。カリガネ料理上手だから」
「腹ごなしできるまでつきあわす気?」
「眠たい?」
「普通眠いよ。時間考えたら?」
そして、あまりに千尋がながいこと、黙ったから。
意識的に伏せていた瞼を、ゆっくり開けて、首だけ回した。
その途中で、聞いたんだ。
「ごめんなさい」
それは、とても、千尋が言ったとは思えない、弱い弱い声だった。
言うつもりじゃなかったことが、ぽろりと唇から零れたみたいな声だった。
「なんで?」
千尋の腕の中で、僕は完全に寝返った。
やや足りない長さしかない女の子の腕は、その途中で無力にもほどけてしまった。
だからって、なんで
なんで、僕はその手を握るんだろう。
すっごいやらかい、折れてしまいそうな関節に気付いたとき、
跳ね上がった心拍が、限りある広さの血管の中で、限界の速さで走った。
「なんで、ごめん?」
普通の声が出てるのが、自分でも理由がわからない。
ただ、千尋がそんな声を出すのが、僕の前だけだったらいいと
その為に僕を今夜、選んだのなら、落胆させたくないなって
それだけは、思った。
「いいの、寝て」
「寝ないよ」
「眠いんでしょう?」
「眠くないよ」
「また嘘言う」
「嘘じゃない」
僕の中で燻っていた、やらしい気持ちが半分以上も、いったい何処へ行ったのか
そんなのは、知らない間にとんでいってた。
髪をおろした千尋の、長い毛先を、僕は背中で敷いていた。
狭い額から手を入れたら、きゅ、と小さく目を閉じる。
こんな距離で、更にベッドの中で見たら、千尋がなんか可愛い過ぎて、
やっぱり蝋燭を点けとけばよかったって
今頃僕は後悔してる。
「こんなことは、思ったことがなかったの」
「どんな?」
「この船が、飛んでいく先で、何が、起こるのかな、って」
「やる気満々に見えたけどね」
「……そう言った、けど」
抱きしめたくて、堪らないよ。
何を言うのか、まるで夢で見たみたいに、手に取るように、わかるから。
大丈夫だよ、って、たったひとこと
優しい声で、言えたなら
これが、答えだって、今すぐに
磐座まで裸足で駆けて行ったっていいんだ―――
「千尋はできる」
「できるかな」
「大の男が何人もいるんだし」
僕だって、いるんだし。
「試験だったら、失敗しても追試で済んだんだよね」
「まぁね」
「でも、いまは」
千尋が、僕の胸に、顔を埋めたのと
僕がその頭を、すっぽり抱き寄せてしまったのと
それは殆ど同時だった。
「ねぇ、那岐」
「うん」
布と身体を隔てると、こういうふうに、声は曇るんだということを
産まれて初めて知った僕だ。
「いつか、この船を、一緒に、降りよ」
「千尋こそ、戦線離脱しないようにね」
「うん」
「うん」
僕らの会話はそれっきりで、姿勢も、そのままで、
わざわざ寝の体勢に整えるなんてことはしなかったけど、
多分さほどしないうちに、どちらからともなく寝息を上げたんだと思う。
千尋の身体は、僕よりひとまわり小さくて
そのことがわかっただけでも、僕は確かに、強くなった。
そんな気がする。
包めないぶんは、シーツでくるんであげるから
朝が来るまでこうしてるから
どこにも、行っちゃだめだよ。
言われたように、一緒に船を、降りれたら。
今夜、飲み込んだ言葉が言えるかもしれない。
ずっと、隠したままの気持ちを、こんどはちゃんと、伝えられるかもしれない。
僕らは、今日から、緑の地面を離れて。
ただただ大きな空を、翔る。
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