01 気になる存在
− ハンカチとペットボトル −






通学路は右側通行。
通学路でなくとも原則、日本中の歩行者にそのルールが敷かれているが、
守らなくて怒られるのは実際学生のあいだだけである。


まだ昼の日も高かったが、通学路は家に向かって歩いている高校生で溢れていた。
若い声は水色の空に向かい、梅雨の気圧を押し上げて、軽げに高く上がる。
ひとことで言えば大変賑やかである。
祭でもやっているのかと、軒から年寄りが覗いたりもする、だが祭でなく今日は、終業式なのである。


那岐と千尋も、同じく今日が終業式だ。
ベル直後に飛び出した、第一軍の生徒の、黄色い波が引けてから、
ゆっくり門を出た組に混ざって歩いていた。


「あっつ…!」


千尋は夏服の半袖のブラウスの、更に袖をひとつ折って、
ハンカチで顔をぱたぱたさせている。
那岐は隣で、迷惑そうに眉間に皺を寄せた。


「あっついって言うからあっついんだよ、こっちまでうつる。」
「すぐ私のせいにする。暑いのは夏のせい。」
「正論いらない。」
「な……っ!」


かっと血をのぼらせそうになった千尋だったが、瞬間首筋に汗が滲み、
気温による体内放射エネルギーは、怒るより体温低下に回すことにする。
千尋が大人しくなると、ふたりのあいだに流れるものは、沈黙で多くが占められて、
それは通学路でも家でも、夏でも冬でも変わらない。


こくこくと、規則的にアスファルトを踏む、二種類の靴音。
夏の靴底は柔になって、傷みが早い。


新学期までに買い替えとこうかな、なんて、那岐は考えながら歩いていて、
その間にも視線を工面して、時折千尋を視界に入れる。
工面して、としたのは、見てると思われないように、という意味である。


右側通行の通学路、那岐は行きも帰りも、必ず千尋の左を歩く。
そうするようになったのは中学の半ばくらいだったろうか、
今では逆になると違和感があって、景色がかなり落ち着かない。
那岐は特に屈強という訳でなく、どちらかと言えば細みの身体である。
だから例えばクルマがつっこんできたりしたときに、
左を歩いていれば守りきれるのかと言われればそうでもないと確かに思う。



けれども、右を歩くよりは、守れるかもしれないじゃないかとは思う。
それもほんとうだ。



千尋は相変わらず繁くハンカチをはたき、端がまるい鼻の頭に擦れたりしている。
もう片方の手には鞄と手提げに、選択の書道用具、さらに画板を肘の所で引っ掛けている。
大荷物なのは机のなかみ及び周辺を、今日まとめて持ち帰るハメになっているからで、
那岐は何日か前から小分けにしていて鞄ひとつの身軽さ。
授業もないのだから、それもペラッペラで平らである。


「バカ。」
「へ?」


たまに声を掛けたらこれである。
我ながら失敗であることは言う前からわかっているのに、こういうふうにしか言えない。


「……なにが?」
「そりゃ暑いって。書道の授業なんか一週間も前に終わってるだろ。写生大会は5月、なんで今まで置いてんの。」
「それは……その、だって………。」
「聞いてあげるよ。言い訳その1、どうぞ?」
「スーパーに持ち込むと帰りに荷物が増えるので。」
「そうじゃない日もある。その2。」
「…っと、へ、部屋が狭いので!」
「ま、そりゃわからなくもないけど。その3いってみる?」


そろそろ底をつくだろうな、と思っていた。
からかい半分、実際確たる理由があって置いていたとも思えない。


「んーと……。」


それでも千尋は、何か繰り出したそうにしている。
ハンカチを扇ぐのも、腕を半端に上げたまま、しばらく止まっているのだ。


「……そうだ!」
「うそだろ、あんの?」
「ないわけでも、ないっていうか。」
「へぇ。じゃ、どうぞ、その3。」


小さかったが、深く吸い込む呼吸が聞こえた。


「左手は、あけておきたかったので。」
「…………は?」
「以上です。」


きっぱり言って、千尋は歩幅を上げた。ハンカチうちわも再開したようだ。


(左手って…)


少しの後ろから、今日の千尋を観察してみる。
複数の、それぞれ大きめの荷物は、全て右に纏められている。
左はハンカチを持ってしきりに扇ぐ。だから那岐の視界を邪魔して迷惑だった。


(扇ぐのは利き手のほうがやりやすいだろ。)


那岐が自分の場合を真似してみると、自然と左の手先が動く。
千尋は右利きだったはずだ。


大きな荷物を下げるのと扇ぐ運動、どちらを利き手にさせるべきか―――
―――人間の本能として、どちらが理にかなっているか


(バカか、僕は。)


つい、道理に絡めて考えるのは鬼道使いの職業病か、若輩ではあるが、
それでも年を経る毎にこういう傾向になって来つつあるのを自覚している。
我ながらややめんどくさい。


(も、いいや。)


那岐は、足を止めた。
通学路で唯一の自販機がある、舗道のペンキが剥げかけたカド地である。
追い掛ける靴音がなくなって、千尋がすぐに振り返る。
いないのに気付かぬまま歩き続け、どちらかが先に帰っていた、ということは、
那岐と千尋のあいだには、これまで一度も起こっていない。


「どーしたのー?」
「考えてたら暑くなった。ジュースでも買う。」


那岐は一応答えたが、その声量では届かない距離に千尋はいるわけで、
千尋からしてみれば、届かせるつもりがないとしか思えないだろう。
だからパタパタと小走りに、戻ってくるしかないのだ。


「もう、何よぅ。」


千尋は苦言しつつ、自販機を見て生気に溢れた。


「なるほど、見かねてジュースでもおごってくれようと。」
「なんでそうなるの。」
「違うの?」
「暑いのは僕。」
「私も。」
「………。」


ガッコンと出て来たのはペットボトルのスポーツ飲料だった。
那岐が自分のために買ったものだ。
そして、小銭がそこで尽きてしまったのは計画的なものではない。
頑に、おごってなんかやんないんだからななどと思っていた訳ではなかった。
札入れを見るとこういう時ばかり万札である。


「わ、那岐今日かねもだね。」
「ちょ、ひとの財布覗くなよ。」


急な夕飯当番に備えて、常に幾らかは入れているのだがそれにしても大変珍しい券種である。
取り敢えず思いつくものがだいたい買えるのに、
目の前の、千尋の好きなのいっこ、それだけ買えない。
珍しいだけでない、これは、大変不自由な券種だ。


「………先飲んだら?」
「わ、いいの?」
「そんなで悪いけど。」


取り出したボトルを、そのまま千尋に渡して、歩き始めた。
隣ではしゃいでいた空気だったが、一瞬ふと沈む。


「……ねぇあけて。」
「は?」
「右手、一杯で。」
「―――。」


特に気が利くタイプでなくても、チラと見るだけでも明らかな、気づかうべきシーンだった。
何処まで余裕を失っていたのだろうか、万札の一件からどうもペースが保てない。
無言でボトルを受け取って、キリキリ回して無言で返して、
これではまるで怒っているみたいだ。


「―――っあー、おいしい!」
「そ、良かったね。」


気にしてないようで何よりだ。


「はい、那岐も。」
「あぁ―――。」


再び、返って来たものが、何故にずしんと重かった。
キャップのあいた濡れた飲み口、初期値から少しだけ下がっている水位、
千尋が飲んだぶんだけ、軽くなっているはずのボトル、



重いなんて、有り得ない。



「ん?飲まないの?」
「っ、いや、の、むけどさ!」



これって、これって、このまま飲んだらそれはつまり―――



「―――あっ!」
「な、なんだよ!」


体中から、勇気みたいななにかを掻き集めて意を決しようと思ったら邪魔が入る。
一気に傾けたから、うっかり襟元に零しそうになった那岐である。
千尋の大きな目のなかに、自分のかおがしっかりうつる。


「………なんでも、ない。」
「……見てんなよ。」
「見ないもん。」


意識するからおかしくなるんだ、そう思い込むことにして、
千尋が飲んだつづきに、唇をしっかりつけて、半分くらい飲み干したのに、
好きなほうにはいる銘柄なのに、
味なんか、少しもしないのだ。



例えば本当のキスならば、違う味がするのだろうか。



「あと、飲んで。」
「い、いいっ、もういいっ。」
「……へんなやつ。」


よくぞ言ったが、本音は自分こそへんなヤツ、と突っ込みたい。
家まであと、10分ほどか、何やらとてつもなく遠い気がするのが、自分だけでないといい。
少なくとも、あの古びた、慣れた匂いをかぐまでは、
恐らくひとことの会話さえ出来ない気がしていた。


焼けたアスファルトを、とろけそうな靴底がふたつ、
こくこくと規則的にゆく。


那岐は、残りを少しずつ飲みながら、千尋の言い訳その3を思い出していた。


『左手は、あけておきたかったので』


通学路は右側通行。校則でも決まっているからこれは絶対だ。
異性と―――特に好きな子と、
一緒に通学する場合、男が車道側で女の子を右側に。


こんなことは校則には書いてない。
が、周りの事情を見るにつけ、自分の場合を振り返るにつけても、
それは割と間違いのない真理ではないか、
少なくとも那岐はそう思っている。


(別に、好きって訳じゃ。)


那岐の左はクルマがビュウと風を切り、千尋の左はいつも那岐だ。
みんみんと、セミがうるさいから、今ならそれに紛らわせて、言っておいてもいいかも知れない。
ペットボトルも、そろそろカラになりそうで、捨ててからでは多分言えなくなる。


「僕は、右手をあけとくことにする。」
「―――っ。」
「なに、聞こえなかった?」


いっそ聞こえないといい。
今になって、耐えられない暑さが込み上げる。


「聞こえた。」
「……じゃ、そういうことで。」


今日は、ハンカチとペットボトルで、お互い両手が塞がっているので、
新学期から、そのルールを施行する。
ふたりで、こっそり心に決める。



「半分、持つよ。」
「え、いいよ重いし」
「だからだろ。」



明日から、キラキラの夏休みである。






01 気になる存在 − ハンカチとペットボトル −・完













那岐と千尋の、はじまりのあたりに危険なレベルで萌えます。
どっちかが最初っからスキでもかわいい…!
いつ意識しはじめるんだろうどうやってスキになってくんだろうって、考えだしたら三度の飯いらないよね(真顔)
那岐はほんとに千尋以外どうでもいい姿勢を貫いていて、なんていうかほんとに理屈なく大好きなんだろうなぁって思って、
そのへんもうたまらないです。
だから、いつかちゃんと好きだよって言えるようになることがいちばんだ。
那岐千だいすきだ!!

お題はこちらからお借りしています ◆Mike and Betty様

2009.07.05 ロココ千代田 拝





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