新学期の緊張感が、はやくもなくなっていたのは認めよう。
だって連休が来たりするから、ちょっといいもの食べたいなって
普段はぱぱっとできるものとかになっちゃうから、たまには品数も増やしてとか。
けれど、暖かくなったから、たくさん外にも出たはず。
桜のシーズンよりマシかって言って、那岐が珍しく腰を上げてくれて
いっしょに耳成山行ったりした。高い山じゃないけれど、山登りには違いない。
だから、この数字がおかしいの。
「こわれてる。」
水気を吸ったバスタオルは重いから、薄い部屋着をすぽんと一枚着て、
千尋は、狭い脱衣所のさらに片隅で、両の裸足の間の、厳しいデジタル数字に眉を寄せていた。
「こわれてないよ。」
「!」
よりによって一番知られたくない人の声が、ひょいと肩を超えていた。
千尋は、出来る一番の素早さで体重計から跳んだのだったが、
ミドリ色の数字は、量る対象が降りたあとも、しばらくぼんやり光り続けるという。
「あぁぁだめだめっ!」
だからしゃがみ込んで、手のひらで防御しなくてはならない。
ぺたん、と両方で隠して、項垂れた。
那岐は確かに「壊れてない」と言って、ということはもう見たということ。
足掻いても今更、とはこういうこと。
「……ううん、こわれてるの。」
「あ、そ。」
那岐もその場で同じように、しゃがんだ。
部屋着のパンツは五月になって、丈が短くなったから、
こうして並ぶと膝下が長いのがよくわかる。
着替えとバスタオルを、お腹の間に挟んでいる。
「……ダイエットしようかなぁ。」
「なんで。これ、こわれてるんだろ?」
「―――――あ。」
そう、そうだったのだ。
人間、自分にだけは嘘をつけないんだと、千尋はこのとき身をもって知ったと言える。
サカナのように口をぽかんと開けた顔に、那岐の手が伸びた。
目を閉じてもはっきり描けるくらいに覚えた顔でも、頬に届く指先にはまだ慣れない。
さら、と触れて、どきんとして、甘い気持ちになったとき、
那岐はそのままゆっくりと千尋の頬を撫で――――とかではなく、二本の指でつまんだのだ。
「ひゃ…!も……、っなにするの!」
頬が浮いているから、実際はもう少し不明瞭な言葉だ。
痛くはないけれど、愉快ではない。のに、離れない。
「僕は反対。そういうの。」
「那岐は男の子だからわかんないんだよ。」
「そう?このぷにぷにがいいんだけどな。」
那岐は言って、感触を確かめるみたいにして、
千尋はその間、つままれた部分も含めて、まっ赤に染め上げるしかない。
それでも甘やかされているのかどうかが、いまいち釈然としないのは、
その顔があまりにいつも通りだから。
授業中も、休み時間も、家で雑誌を読んでても、だいたいこういう顔をしている。
たまに皺を寄せるところは眉のあいだ。
「そうそう、これ。」
「もっと、シュッってしてるほうが―――」
苦言の途中で指が離れて、代わりに小さなキスになる。
確かにそこは、那岐の唇に触れて、そのぶんだけふに、と柔らかくへこんだ。
「ん……。」
心拍が邪魔して言葉も出ない。
もう少し、と言いたいのに、言えないから、
今までくっついてた唇が、もう視線の向こうにある。
「これが可愛いって言ってるの。」
「――――。」
那岐はぷいと立ち上がってしまい、
脱衣カゴに着替えを放るように入れて、背中を向けた。
「ていうか胸だってそんなにないのに、やんないほうがいいよ。」
「ちょ……なにそんな!」
売られた言葉を買ってる間に、那岐の背中が露になって、
そこから先が続かない。
腰のヒモまで緩めたのか、しゅると衣擦れて、ピン、と長く伸びたのを見た。
「ま、待ってっ!」
「……はぁ?」
「あ、あのっ、は、はいるの?!」
「当たり前だろ、その為に来たんだから。」
考えてみればそうだ、なんて棒になって立ちつくせば、
くるんと振り返る肌色の胸。
あぁそんなの、上半分だけなら見せてもいいなんて
男の子は勝手なルールをつくりすぎ。
こっちはミドリのデジタル数字だって、見せたくないのに。
そんな、さらさらの肌。
「なに、一緒にはいるって?」
「な……っ、ないない!もう知らない!」
千尋は特に音を立てて、背中で脱衣所の扉を閉めた。
―――そんなことがあったからか
その夜千尋はベッドの中で、なかなか寝付けずにいた。
廊下が静かになるのを、待っていたのかも知れない。
ノックもせずに、那岐が脱衣所の扉を開けるときは、夜更けにごそごそ千尋の隣へ、
潜り込んでくるというのが、ほぼセットになっている。
「千尋。」
そう、こんなふうに、後ろからしっかり抱きしめる腕のつよさ。
例えば逃げようと思ったとしても、きっと逃げたりできないつよさ。
「まだ寝てないんだろ?」
「………うん。」
ワンピースのようなかたちの夜着を、選んだのは間違いだった。
強固にした腕の割に、那岐の手首はやけに自由で、
簡単に裾を巻き上げて、腰からさわさわと上へ辿る。
手のひらはあっさりと胸に届き、ちょうど良くぴったりと、じかに包まれてしまった。
「や……だ。」
「やじゃないくせに。」
「や…!」
「ならなんで起きて待ってんの。」
「……もぅー、」
何とか剥がそうとするのに、ひとまわり小さな手ではそう上手くは行かず
格闘も空しく、そのうち二つの指先を使って、頂点のまるいところが摘まれてしまう。
こり、と動かされただけで、芯がじんと痺れた。
「っん……っ」
「ほら、感じてる。」
いつでも、はじめて触れられるときは、殊更鋭利な感覚で、
ぴくんと身体が跳ねたりするのも、そういうとき。
けれど、もっと、感じるのは、
一粒落とされたのが、やがて点を繋げあって、まるい一枚に広がってゆくとき。
やわらかくほぐされてゆくうちに、つるつるの水が溢れて
その指先を濡らしてしまうから、嘘なんかつけなくなる。
中で絡めるみたいに動かすから、更に零れて熱くなる。
「すっごい音してる。」
「いや……っ」
「もういれて、いい?」
いれたがってるものを、背中の窪んだところへ、ぎゅうと圧しあてたときの那岐は
うなじから鼓膜の中へ、じんわり沁みるみたいな声をしていた。
ベッドに背中が沈んだのと、同時に那岐が上になって、
頭頂ばかり見せながら、シーツの中で下だけ脱いだ。
そして、早くも足を広げようとするのを、千尋は慌てて止める。
「っだめ、上も。」
「……は?できれば早くしたいんだけど。」
「だって……さらさらして気持ちいいんだもん。」
「……さっきは恥ずかしがってたのにさ。」
那岐は少しきまり悪そうにしながら、結局言いなりになったけれど、
千尋の夜着もすべて、脱がしてしまう事も忘れなかった。
「公平に。」
という大義名分も。
「あ、あ、!」
「千尋、声おっきい。」
「はいるときは…っ、どうしても出ちゃうの……っ!」
聞かないその口はキスで塞がれる。
狭いところを逆撫でられる、はじめの酷い快感の、出口がなくなる。
その大きさを覚えるまでに、泣きたいくらいに高まってしまったのはその所為だった。
突っかかりそうに、胸が打っているのが、きっと那岐にも伝わっているはずで、
自分で好きだと言った、そのさらさらの身体に、ひたすらくっついて耐えた。
「……落ち着いた?」
「ん……。」
それもやっとなのに、少しずつ動いて深くへ侵入させるから、
また我慢しきれない声が漏れる。
千尋は那岐の首筋に顔を埋めて、同じシャンプーの匂いでおでこの裏をいっぱいにしながら、
人肌に暖まった湿度の、空気まで色付けそうな吐息を、
たくさんたくさん零した。
してるとわかる、那岐の身体がとてもかたいということ。
その間に那岐が、やっぱり千尋は柔らかいって言ったりすること。
膝の裏で感じる肩も、こつこつしかくい感じ。
だから、そんなにひろげなくてもいいのに、って思う。
那岐が男の子だって思うだけで、すごくすごく、気持ちいいのに。
いちばん奥までしなくても、浅いところで遊ぶみたいにするのも好きなのに。
そう、そういうときのほうが、
―――可愛がられてる、って思うじゃない。
でも、それは、やっぱり男の子だからわからないのかな。
「や……」
「っ、……そんな顔、ダメだって。」
「だ……って、もう……っんん……!」
那岐の動きがだんだん早くなって、那岐ももうすぐなんだと思った。
それに合わせて高鳴ってゆく胸。
どきどきが耳から出て来そう。
「あ……だめ那岐、いく………っ」
充満して、決壊して、まっしろになってるのに、抜こうとする。
震えるままに反らせた身体を、だから必死で起こしたのだ。
「いや、まだ……抜いちゃいや。」
言って、ぎゅううと音がするくらいに、きつく抱いたつもりだったが、
滑るように濡れた背中に、少々竦み。
「限……界……っ!」
那岐はすごい力で振り切った。
あぁ、やっぱり力じゃ敵わないんだって、わかり切った事を、思っていた。
◇◇◇
くた、と崩れて横になった那岐に、千尋は我に返り、
ひゃぁなどと妙な声をあげつつ、足元のとこでくちゃくちゃになってるシーツを引いてきて、
ふたりぶんの肌色を隠すようにしてくるまった。
するまえよりあとのほうが恥ずかしいっていう。
ハダカなの、落ち着いてみれないという。
急いで枕に沈んだから、髪に静電気が立ってる感じがした。
一応、向かい合わせだから、那岐が目開ける前に直しとこう、と思うのに、
こういうときは計ったように、本当に悔しいくらい、先を越されてしまう。
そして、言わなくていいのに言うひとだ。
「あーあ、髪ひど。」
「ひど……。」
那岐は、まだ僅かに上下している肩を一つ分詰めたあとで、
くしゃ、と千尋の前髪に手を入れた。
反射的に目をつむって、次にもう一度開けたときの、その、なんて優しい顔。
なんでいつも、そうしてないの。
こういうときしか、くれないの。
いつも意地悪ばっかりなのに、こういうときだけ違うなんて、
そんなのうっかりじゃなくたって、この次までに忘れてしまうじゃない。
つい、ぼーっと、瞬きもせず、見つめていたら、
「なんだよ…っ」
って那岐は、胸というか鎖骨の間というか、そういうところに、
ぱふ、とおでこを持っていって埋めた。
「ね、も一回みたい。」
「もうしないよ。」
「好きなの、その顔。」
ぺたりとする感触に変わってる中では、強請る声が少し曇る。
ゆっくりと、離れて、今度はクリアに声にしよう、そう思ったとき。
「じゃ、もっかいする?」
「―――へ。」
「そのあとなら、できるかも。」
「………そ、っか。」
うーん、と唸るほどの、それは究極の選択。
けれど、そういう選択に、時間の猶予は与えられないのが常なのだ。
だから早くもごそり、動く、シーツのなかみ。
答えはまだ言ってないのに、見切って那岐は既に入り口にある。
「まだ濡れてるし、いまならすぐはいる。」
すぐはいる、ではなくて、『もうちょっとはいってる』なのに。
那岐のいいようにばかりでうんなんて言わない。
「―――やせるかな?」
「うん、やせるやせる。」
「もぅ!もっと真剣にっ!」
「なんだよ、折角いいふんいきなんだろ?」
「……そう?」
「そうなの。」
そうやって、ゆっくり顔を近づけた那岐は、
チュ、と音のするキスをして、あの、狭間みたいな笑顔をくれた。
「好き?」
「ん、好きだよ。」
二人の夜はまだこんなで、甘いと呼んでいいものとは、
まだ少し、思えないけれど、
いましか言ってくれない事を、こっそり耳許で聞けるなら
いましか見れない顔を、ちょっとだけ見せてくれるなら
いつまで続いてもいいって思う。
それだけで、こんなに幸せなのだから。