歯を磨いて、さ、寝るか、のその前に当番表を確認。
これが僕の日課の、最後の項目だ。
冷蔵庫に貼付けてある、風早作のエクセル表には、様々な当番が一枚に整理されている。
朝食兼弁当の当番、夕食当番、掃除、洗濯などの日毎のものと、
週に幾度かのゴミ捨てなども割り当てられているから、見逃さないようにしないといけない。
「あ。」
確認して良かった。明日は新聞の回収日だ。
これは数ヶ月に一度であるからうっかりしていると大変なことになる。
「こういうのは備考じゃなくて、でっかく赤で書いといて欲しいんだよな。」
自分は面倒くさがりのくせに、とはよく言われる苦言のうちのひとつで、
面倒なことにならないように提案しているつもりなのに、なかなかそうとってはもらえないのが歯がゆい。
さて、とキッチンの一角から、幾つかの山に積み上げられた新聞を玄関へ運んだら、
読み終えた雑誌類を個人の部屋から集めてくる。
風早は周到で、わざわざ言わなくても、既に廊下に出してある。
彼は、何もなければ大変早寝な性分だから、こうしておいてくれないと困る、と、
以前申し入れたことが守られるようになっただけのことだけど。
「あとは千尋ので全部だな。」
千尋の部屋の前に立ち、襖の隙間から漏れ来るあかりはまだ蛍光灯の色をしていた。
廊下に束ねて出してあるものもないので、起きていてくれて助かるが、
明日は朝食の当番であることを、わかっているのだろうか。
寝坊でもして朝も弁当もなし、というのは避けてもらいたいところだ。
「千尋?」
「……んー?」
半分気の抜けたような返事があった。
開けると、年末の大掃除によく見られる光景が広がっていた。
積み上げた雑誌はすぐに括らないと、これ、もう一度読んでおきたかったんだよねという事態を招く。
「何やってるんだよ、もう出すよ。」
「……うん。―――え?なに?」
聞いちゃいない。
一応顔を上げてくれただけマシだろうか。
しかしまだまだ座り込んでいて、両手でしっかりページを押さえている。
ここで、何がそんなに面白いの?などと首を突っ込むと、ミイラ取りがミイラになるのだが、
あまりに熱心なので、つい、そのように身体が動いてしまった。
六畳間に、金色の頭がふたつ、背を丸めて古雑誌の山の中。
うっかりパジャマがお揃いになっているのがやや照れくさい。
風早が買ってくる部屋着の種類は、大抵ふたつお揃いか、若しくは色違いである。
いつまで子供だと思ってるんだ。常々思う。
(ジャージのにしとけばよかった。)
これからは自分で買いにいこう、と決意して、
僕は腰をいざらせて、間を少し広くした。
「情報誌?」
「うん、タウン橿原。」
「何だ、別に面白いもんじゃないじゃないか。早く寝て明日に備えたら?」
「そうなんだけど……淋しいなぁって。」
「は?」
「これ。」
ずずい、と、千尋が身を寄せたから、わざわざ広げた隙間が詰まった。
夜、千尋の部屋で二人っきり、というのを、気付かないふりでいたというのに、
不要な心拍まで追加された。
受け取ったページには、大きく『閉園』とあった。
長いことその存在さえ忘れていたが、橿原のチビッコとその親連中には、
なかなか人気のある遊園地。
「一回だけ連れて行ってもらったよね。」
「……そうだっけ。」
心拍が引いて、少しだけちくんと胸が痛んだのは、思い出したことがあったからだ。
だから思わず忘れたふりをしてしまった。
「ほらぁ、私が迷子になって。」
「だから千尋は覚えてるんじゃない?」
「那岐はキノコのカップがまわるやつ、何回も乗ってたよ。」
「……余計なこと思い出さなくていいよ。」
どうして迷子になったのか、までは、覚えてないといいと思う。
ぽっかりと、沈む夕陽が見えるところで、わんわん泣いてた千尋を思う。
風早は、すぐにそこにいるとわかって、僕は手を引かれながら、大人の歩幅をひたすら詰めて、
坂を走ってのぼってゆく、喉がひぃひぃと痛かったことは、いまでも忘れていない。
『千尋は、何も、思い出さなくていいんです。』
観覧車のきっぷ売り場の、青いペンキの剥げかけたベンチで、
千尋をぎゅうと抱きしめて、繰り返し繰り返し、風早が言い聞かせていたことだ。
千尋の中で、子供には少し難しいことが起こっているんだと、
泣きじゃくる千尋をただただ見ていた。
今はもう、泣き出すことはないけれど、記憶と夕陽が何らか関係していることは、
僕にもわかるようになっていた。
「明日閉園なんだって。普通、最後は日曜日とかにして、いままでありがとうございましたーみたいなパレードとかしない?」
「ま、その辺が閉園の所以なんじゃない?」
「あは、そうだね。」
「もういいだろ、僕の仕事が終わんない。」
急かしながら腰を上げ、手早に他の雑誌を束ねて、ひとやまにして紐をかけるまでやったのに、
千尋はまださっきの場所で、同じページを見ていた。
「……そんなに気になる?」
「全部、変わってくんだなぁって。」
その言葉は、僕のこころのいちばん底に、水銀のように鮮やかに、ひとつぶひとつぶ沈んでいった。
「変わらないよ。変わる必要なんかない。」
理不尽すぎる返答だから、小さく、聞こえないように言った。
「もう一回行きたかったなぁ。」
「勝手に行けば。」
「え、なに怒ってるの」
「怒ってないよ。」
「怒ってるじゃない。」
はぁ、とあからさまに溜め息をついて、束ねた雑誌に手を掛ける。
立ち上がると、ナイロンテープが指に食い込んで、ずし、と重いんだ。
「持ってくから、それ、後で自分で捨てにいきなよ。」
「ねぇ那岐、」
「明日、僕のぶんいらない。」
「え、キノコ入れようと思って準備したのに」
「先に行く。」
後ろ手に、ぱん、とふすまを閉めた。
苛々しているから、なるだけ穏やかに閉めようと思ってたのに、
そう上手くは行かなかった。
「最っ低の気分……!」
数ヶ月ぶんの回収資源の、最後の山を、半ば投げ込むように放った。
喧嘩すると、こういう雰囲気を長く引きずる。
とても二人、肩を並べて登校なんて気にはなれない。
何事もなかったように、いや、そのように矛先を転換しようと、
千尋がいつも以上に話しかけてくるのが、目に見えるみたいに想像できる。
そして、いつも以上に素っ気なくするしかない自分の姿も明らかだ。
向かいの部屋から、まだあかりが漏れてくるのを、見ないふりして、
お揃いのパジャマはジャージに替えて、ベッドに潜り込む。
洗面所で鉢あわさないように、早く起きて、途中でコンビニにでも寄って、と、
僕はそのような計画で、頭をいっぱいにしていた。
◇◇◇
「………。」
「………。」
悪いことは重なるものだ。
あっさり過ぎてくれればいいものを、どんな神の悪戯かと思うような一日が用意されていた。
「じゃ、僕黒板、やる。」
「はぁい……。」
これが、この日僕と千尋が口をきいた最初。
そして、日は既に暮れようとしていた。
言ったように黒板の前に、黒板消しとチョークを握って立った僕は、
まさに苦虫を3匹ほどかみつぶしたような顔をしてたと思う。
日直 葦原(那)
葦原(千)
さぁ、どこから消そうかなどと思っていた。
これは、こういう機会にいつも思うことだけど、どちらかが先に消えてしまうのは面白くない。
だから、二列一緒に一気に消す。
喧嘩してようが、その辺りに融通が利かない我が心が少し情けないと言えばそうだ。
出席番号を辿って、明日の日直の名前を入れて、
ぱんぱんと黒板消しをはたいていると、背後で机と椅子がしきりに音を立てる。
(うるさ。)
それに混じって、ぱたん、と異質な軽い音が混じるのはホウキでも倒したか、
千尋はまったく掃除がヘタで、それは学校でも家でも変わらない事実だ。
このまま意地を張って、手伝わずにいたとしたら、どうなるか。
僕は、灰色の放送スピーカーの下の、まるい時計を見やった。
「………何時だっけ?」
「へ?」
時計を見て聞いているので、現在時刻を尋ねた訳ではなかった。
千尋もその辺りが怪訝なのか、視線はひたすら僕と時計とを往復した。
その間にまたホウキを倒したりしながら。
「あ……またやっちゃった!」
「もう、見てらんないよ。」
「……ごめんなさい。」
問いの答えはひとまず置いて、黒板消しは定位置へ、それから千尋の真ん前に立った。
今日が始まってから最も、千尋と接近した瞬間が今だ。
「ん。」
「はい……。」
未だその本領を発揮できていないホウキは、千尋の手から僕の手へ移った訳だが、
その間にも指と指とが触れないように、水面下ならぬ柄上の攻防が行われたりした。
やや上目遣いに、ぱちぱちと数度瞬いた千尋は、やがて小さく切り出した。
「なかなおり?」
「別に、怒ってないって言っただろ。」
「―――そうだったね!」
手のひらを返したように、黄色い花が咲くように、千尋はにっこり笑うのだ。
堅牢に、涼しく整えた顔が崩れそうになる。
こころの底に沈めたものが、きゅうと胸を締め付けて、一粒ずつ浮き上がってしまう。
―――――そんなわけ、ないじゃないか。
あれで、怒ってないわけないじゃないか。
僕の、見え透いた言い訳で、なんでそうやって笑えるんだ。
なんで、千尋はそうやって、僕を許してしまうんだ―――――
「さ!じゃぁ続き続き!んー、わたしはなにをしようかな?」
芝居じみたイントネーションを付けた千尋が、馬鹿みたいにかわいかった。
いつもならここで、その辺に座っといてくれるのがいちばん助かるよ、などと言うところだ。
けど、今日は。
今日、日直で、ほんとに困ったな、と思ったのは、
千尋と一緒に当たったことがその全てじゃない。
それよりも、もっともっと、困ったのは、
誰もいない早朝の教室で、二列の文字見て固まったのは、
閉園時間に間に合わないんじゃないかって、思ったからなんだ。
僕は、カラのバケツを手に教室を出て行こうとする千尋を、その名で呼んだ。
「ん、大丈夫だよ、こぼしたりしないから!」
「そうじゃなくて。」
「じゃぁ、なぁに?」
「うん。あのさ。」
そっと、その手からバケツを奪い取る。
今度はしっかり手と手が触れた。
「掃除、一秒で終わらす魔法、あるって言ったら信じる?」
「……え?」
信じたとも、そうじゃないとも言えない顔。
千尋はただただ、ぽかんと口を開けていた。
「鞄持って、先出てて。」
「でも、」
「行きたいんだろ?最後に、もう一回。」
「―――――行く!」
二人分の鞄を抱えて、千尋が教室を出て行くまでは、本当にすぐだった。
どれだけ行きたかったんだ、ということが、ダダ漏れに漏れていて、
時間が許すなら、このまま抱きしめてしまいたい、そんな気持ちにさえなった。
僕は、朝と同じように、誰もいない教室の、真ん中に立っていた。
緩めたネクタイを更に緩めて、カッターシャツの中に隠した勾玉を引き出す。
こういう使い方は、いいのか悪いのか知らないけれど、背に腹は代えられない。
「僕は千尋のためになら、どんなずるい手でも使う。」
まっすぐに、伸ばした左腕の先で、御統がきらり、煌めいた。
◇◇◇
抜きつ抜かれつしながら、辿り着いた遊園地は、閉園15分前だった。
当然のように、人波はこっちに向かって歩いてくる。
ほとんどが、就学前の子供とその母親という、こぢんまりしたグループを逆流して、
千尋とゲートをくぐり抜けた。
もう何も動いてないですよ、という、受付のおじさんの声を振り切って、
僕は千尋の手を、思わず握ってずんずん中へ。
行きたいところはわかっている。
たぶん、おそらく、きっと、そこ。
あの日と同じ、まるいまるい夕陽が、ぽっかり沈んでくのが見えるところだ。
「千尋、走るよ!」
「うん!」
急な上り坂は、先が見えない。
暖色に染まった、油絵みたいな雲を、ひたすら目指しているみたいだ。
ここを、風早に引かれてのぼったときの、理由のわからない心細さを、今、僕は、
払拭しないといけない、そんな気がして、握る手を強くした。
ここへ、最後に来たかったのは、千尋じゃなくて、僕かもしれない。
そんな気がして、進める足を速くした。
その、てっぺんへ、上り詰めた時には、喉がやっぱりひぃひぃ言って、
千尋も同じように、なっていた。
「っ、は……ぁ、大丈夫?」
「ん、なん、とか。喉いたー。」
男子の速さそのままで連れて来たのは、やや思いやりに欠けたふるまい。
それは重々わかっていた。
けれど、もう時間がないんだ。
きみと、ここから眺める、最後のたった15分なんだ。
「あかいね。」
千尋が言った、その先で、
限りなく、火に近い色の、地平の筋が一本、すうっと通っている真ん中へ、
落ちてゆこうとしている、まるいまるい、燃焼系の天体。
沈んで、もう二度と、浮かび上がってくることのないものなら、忘れてしまえばいいけれど
今日も、明日も、あさっても、一年後の今日も、それは多分、少しも変わらずここに沈む。
それなら、目を逸らしたって無意味だ。
「やっぱ、怖い?」
「……少しだけ。」
やせ我慢の小さな肩に、もう一つだけ近づいて、自問自答を繰り返す。
それなら、僕にできることは?
きゅるきゅると軋んだ音を立てて、古いビデオテープみたいに巻き戻ってゆく千尋の記憶が、
最後にこつんと、再生される、その時に。
やっぱり隣にいることじゃないのか。
泣き出したら、千切れるまで泣ける場所を、貸してあげることじゃないのか。
たとえその時、泣きたいのが僕であるとしても―――――
泣き止むまで、手を繋いでいることくらい、できるから。
「観覧車、乗りたかったなぁ。」
いつの間にか、千尋の目線は変わっていた。
きっぷ売り場はもう既に、太い鎖がかかっていて、
乗り物係の兄さんが、ごめんね、というふうに、顔の前で手を合わせていた。
「流石に間に合わなかったか。」
「魔法使うとか!」
「こういうのは僕じゃ無理。」
「……ほんとに掃除、大丈夫だったの?」
「さぁね。」
「えー!」
僕が今、ここでできることは、せいぜい缶ジュースでもおごってあげることくらいだ。
これ好きだったっけ、と思うやつを選んで、ガッコンと出て来たのを、ベンチで二人で飲んだ。
あの頃はでっかく見えたけど、今となってはとても子供だましなつくりだったんだってわかる。
鞄をはしっこにまとめて、ふたりで並んで座ったら、ちょっときつい。
「はげはげになっちゃったね、これも。」
「一応青色だったんだよ、確か。」
「うん、そうだったかも。」
そして、千尋はおもむろに姿勢を正して、少し離れていた膝小僧を、ふたつちゃんとあわせた。
その上で、缶を両手でくるむみたいに持って、ロゴをみたり裏の説明の方を読んでみたり、
なんだか所在なげに見えた。
「なに?」
こういうときは、何か言いたいことがある、ということが多い。
なのに言い出せない、ということが殆どだから、促した。
もうじきほんとに閉園だ。
「………今日は、ありがとう。」
「別にいいよ、僕も来たかったし。」
「そう、なんだ。」
「うん。」
じゃぁ、別にいいか、とかいう声が、風に乗って鼓膜を流れていった。
「何が?」
「き、聞いてたの?」
「聞こえたの。人聞き悪いな。」
吐き捨てて、缶に残った最後の一滴を喉へ流し込んで、
「じゃ、行くよ。」
と、腰を上げようとしたら、手首がくん、と引かれた。
その力は思ったよりも強くて、そのまま背凭れまで深く沈んでしまった。
崩れ方によっては千尋の膝に座ったんじゃないかと思うと、心拍が跳ね上がる。
「ちょ、千尋!」
呼んだのが悪いのか、千尋はずいと距離を詰める。
ぐ、と言葉を呑むほどに、その唇が近くにあった。
左手に持っていた缶も、何故だかもぎ取られてしまう。
まっ赤な頬の温度まで、感染ってきそうな気がした。
「ジュースもおごってもらったし、何か、お礼できないかなぁ、って。」
「……だから、そんなことはさ。」
「なんでも、いいよ?」
あぁ、こんなことって。
この距離で、そんなことを言って。
僕の手を、わざわざカラにして、僕より千尋が、欲しいと思っているもの。
お礼とか言い訳までつけて、したいと思っていること。
気付かないふりでいられたら、僕は多分完璧だ。
「―――それなら、これがいいかな。」
僕は、自由になった手のひらを、千尋の背中に回した。
そっと引き寄せるだけで、抵抗なくぴったりと、胸がくっついてしまう。
いっそ拒んでくれたらいいと、期待してたぶんまで全部、千尋がごっそり攫ってしまう。
「ほんとに、するよ。」
「……いいよ。」
長い睫毛が、閉じる音まで聞こえるかと思った。
近づけてゆく輪郭は、捉えていたよりもずっと小さくて、
飲み込むみたいに思われないように、僕は、努めて遠慮がちに、
そっとそっと、くちづけた。
こんなに柔らかいものを、僕はこれより先、ひとつだって知りたくない。
初めてつくった水音に、ぴくんと跳ねる肩を、
すっぽりと包み込むから、怖がらないで、ここにいて。
「んっ……。」
双方息ができないことに気付いて、少しだけ離して酸素を入れた。
もし、誰かが見ていたら、きっと初めてだってばれたと思う。
「今もらったのが、お礼のぶん。」
「……じゃぁ、つぎのは?」
「昨日、意地悪言ったぶん。」
「ん……」
さっきのより、少しは上手くなってるといい。
そんなふうに思いながら、僕らは二回目のキスをした。
好きだよまでは無理だとしても、
ごめんねくらいは、ちゃんと伝えられてたら本望だ。