ひなたぼっこの夢を見ながら、毛布の上の羽布団を、ぎゅ、ぎゅ、と少しずつ
ベッドの端へと追いやって、ついに滑り落とした。
ぼすん、と、そのボリュームのとおりの音がして、羽量のままの空気が爪先を撫でて、
思わず目を開けてしまいそうになったけど
今日は起きなくていい日だよねって、ハチミツ色の瞼の裏に言い聞かせてる私がいた。
すごく気持ちいい、まるで、今日から春が来たみたい。
いつも早起きだから、風早も那岐も知らないと思うけど、
私はこうして寝直すのが大好きだ。
―――――なんだけど、知られてないから邪魔されるというのも、仕方ないこと。
ガラリ、と襖が開いた音がして、
「千尋ー、起きてますか?」
「………ぅー。」
「あは、ごめんなさい。邪魔しちゃったかな。」
あんまりごめんなさいではない感じで風早は言って、邪魔をやめる気もない感じで続けた。
けれど、休日モードの身体は、ぴょんとは起きられなくて、
目をしばしばと擦りながら、そのままの姿勢で聞いている。
「四月から赴任する先生方との交流会があるので、出掛けてきますね。」
「……そんなのあるんだぁ。」
「とても楽しい会なので、生徒には内緒でこっそりやってるんですよ。というわけでお昼は俺のぶん、いりませんから。」
「はぁーい。」
おやすみなさい、と風早は言って、襖がぺたんと閉じた。
幾つか会話をしただけだけれど、一度目を開けてしまったら、あまりに明るい陽のひかり。
よくこの中で寝てたなぁと思うくらい、もう一度眠りに堕ちることが難しくなった。
(よし、起きよう!)
がば、と勢い跳ね起きて、自分がどんな寝相で風早と話していたかを知った。
シーツは波だらけ、毛布も同じように端っこでくしゃくしゃになっていて、
羽布団はでっかい塊になって下へ落っこちている。
(………これは酷い。)
どうにも真剣に謝ってはもらえないわけだ。
けれど、おかげですっかり目が覚めたので、よしとする。
世間は春分の三連休で、学生の間では春休みのはじまりともいい、
千尋もそれを謳歌するべく、夕べは少し夜更かしした。
故にやや朝とは言えない時間に目覚めたが、カーテンを開けて風を入れると、まだほんのりマイナスイオンが残っている気がした。
春分の日、というのは伊達につけられた名称ではないらしく
冬の気配がすっかり明けたのが、皮膚でも目でも、しっかりわかる。
暦の上では節分から春が来ていたみたいだけれど、そういう実感は今年も感じられなくて、
「やっぱり今日からだよ。ぜったい。」
窓を全開にして、胸をうんと突き出して、鼻から吸い込む空気に、
間違いなくそうだと確信した千尋は、着替えたばかりのワンピースの、少しの重さに気がついた。
冬の間、気に入って着ていたものだけれど、そろそろ片付けの時期なのかもしれない。
せっかく、春が来たんだし、と、春休みの一日目を、衣替えに使うのもいい。
思い立ったが吉日のタイプであるので、朝ご飯は後回しにして、千尋はクローゼットを開ける。
奥の衣装ケースに手を伸ばしながらも、さて、どんな服がしまい込んであるんだっけか、
ということがまだまだ思い出せない。
こういう気持ちは毎年恒例である。
◇◇◇
「あれ、いない。」
いつもの彼がそうなので、絶対まだ寝てるものと思い込み、
なーぎー、と大きな声で呼びかけたのだけれど、襖の向こうは無人であった。
カーテンが開いているのも珍しかったが、休日に出掛けているというのはもっと珍しい。
千尋が引っ張るようにして連れ出さないと、近所のマックまでだって腰が重いひとなのである。
春の陽気につられたのは、千尋や風早だけではないらしい。
「せっかく一緒に干してあげようと思ったのに。」
一年に一度出してくる服というのは、結構な皺がついていた。
すぐには着られないな、と落胆しつつ、千尋は冬服のまま、ベランダと部屋を往復していたのである。
ついでに那岐のも、と、ささやかに親切心を起こしてみたらこれだ。
このまま引き返しても、よかったのだけれど、やっぱりとても、良い天気なのである。
明日も、こんなふうに晴れるという保証があれば、引き返すのだけれど。
みすみす逃してしまって、部屋干しの春物を着せるのは、どうなんだろうか、と、
そんな気持ちに包まれてゆく千尋を、こうしている間にも、窓から注ぐ陽気がさわさわと撫でる。
「勝手にはいってごめんなさい。」
大丈夫、別に悪いコトしてるわけじゃないんだから、と、何故に言い訳をする心。
狭い部屋、春物をしまうとすればここしかないので、と、押し入れを開けるのにやや戸惑ってしまったこの手。
(ううん、だから、悪いことしてるんじゃないんだから!)
もう一度言い聞かせて、膝をつく。
衣装ケースはやはり下段の、奥のほうにあった。
クローゼットと違ってやや奥行きがあるので、千尋は背を低くして、膝を交互に進ませていかねばならなかった。
むむむといっぱいに腕を伸ばし、ゴロゴロ引いて来る途中、バサバサと音を立てて滑り落ちてきたものがあった。
「いった……っ!」
それらは遠慮なく、千尋の膝の上にカドから落ちた。
その形状から、間違いなく雑誌の種類であることがわかった。
そして、その表紙は一瞥で、どんな種類の雑誌なのかを伝えていた。
「―――――ッえ!」
余りの衝撃でうっかり頭を上げ、再び痛いと感嘆詞も上げ、
仕切板にめり込むようにしてつぶれてしまった、てっぺんのまとめ髪を押さえたが、
頭をぶつけたこととは別の、酷い動悸が、あとからあとから込み上げた。
こ、こんなのを
な、那岐が―――――。
ギリギリの時間に起きてきて、涼しい顔で歯を磨く那岐。
手荒れの酷い千尋を、洗いものは僕がやる、って、さりげに手伝ってくれる那岐。
登下校のときは、いつも車道側を歩く那岐。
他にも、いろんな那岐で、頭の中はこれほどにいっぱいになってゆくのに
それでも、これでも、千尋の知らない那岐がどこかにいたというのだろうか。
と、いうことなのだ―――――
「み、みなかったことにしよう。」
千尋は最速のペースで、衣装ケースを空っぽにする。それだけを考えていた。
どれもがやはり、そのままでは着られないような皺がついていて、山のような衣服の海に、溺れたようになってゆく。
那岐の匂いで鼻腔がいっぱいになるのを、無意識下へとばすのでやっとだった。
そして、両手いっぱいに抱えたあとも、
開けっ放しの押し入れの、敷居の上で存在感を放ったままの数冊のことが、
やはり忘れられなかった。
「………。」
触りたくもないというのが本音ではあるが、見られたことを知るのはイヤだろうなというのもまた本音であり。
千尋はもう一度、手を空にする。
(どのへんに置いてあったっけか……?)
できるだけそーっと、細心の感受性でもって、
それらを元の位置へ安置してふすまを閉めたら、部屋は入ったときの景観に戻った。
やっぱり、悪いことを、したみたい。
◇◇◇
昔作りの、だだっぴろいベランダに、色とりどりの衣服が揺れていた。
雑誌の一件で懲りたので、風早のは明日自分で出してもらうことにしたけれど、
ながいながい物干竿が三本と、家中のハンガーを集めてひっかけても、まだ少し足りなかった。
それらの隙間から、あおい空を眺める具合、これはなかなか壮観だ。
「うーん、気持ちいい!」
つるつると、頬を撫でる、春の柔らかな薄い生地。
忘れていた柄も、返す返す眺めて、甦って来るきょねんの気持ち。
微妙なこともあったけど、私は元気です、みたいなきぶんだった。
朝ご飯も我慢してやった甲斐があったというものである。
さすがにお腹は空いたけど、とか思っていると、きしと羽目板が軋んだ。
どきんと胸が鳴ったのは、お昼の時間がまだだから。
いま帰って来るのは風早ではないから。
きょねんではなくさっきの気持ちも甦った。
「ただいま。」
「―――――お、っかえりぃ……。」
声はへんな裏返り方をして、どもりかけたみたいな言い方になって、
では振り向いた顔はどのように見えているのだろうか。
ちなみに千尋に見えている那岐は、大きなマスクで顔半分が隠れていた。
そして、左の手のひらに小さな茶色の紙袋を乗せていた。
眩しそうに見上げた目が、少し潤んでいるような気がした。
「これ、なに祭?」
マスク越しの曇った声が気になったけれど、取り敢えず問われたことには答えようと思った。
「………ころもがえまつり。」
「僕のも強制的に参加ってわけ。」
「………お祭りは、たくさんいたほうが楽しいので。」
「ま、確かに。」
那岐は裸足のまま、ベランダに一段降りて、千尋の前を通り過ぎる。
「ヘー、こんなのもってたっけな。」
「そうそう、私もそう思ってね、見てたの。」
「ちょっと、これもってて。」
「あ、うん。」
渡された紙袋は小さかったが、意外にずしんとしている。
「……あけてもいい?」
「いいもの入ってないけど、好きにしたら?」
「………。」
そう、お土産なんか買って来る訳ないよねと、少しだけ期待した自分を恥じつつ、
ぱんぱん、と両手で那岐が、衣服をはたくのを横目に、
もしや干し方に問題でもあったろうか、とも思いつつ、セロハンテープを剥がしにかかる。
「何処行ってたの?」
「薬屋。」
「嘘、風邪引いたの?」
「風邪のほうがマシ。3日もあれば治るし。」
「じゃぁなんのお薬……?」
「花粉が来たの。今年も。」
年に一度の、衣替えの季節は、年最大の花粉の季節―――――。
千尋はすっかりと、忘れていた。
そう、きょねんも那岐は、それでかなり苦しい思いをしていたのだった。
喋るのもくしゃみを誘うと言って、輪をかけて無愛想になるのもこの時期だ。
それから、それから。
この時期の那岐について、もう一つ、大事なことを忘れているような気がする。
『花粉が付くから――――』
「―――――あっ!」
「なに?」
那岐がさっきからずっと、パタパタ服をはたいている訳。
どうして忘れていたのだろうか、これではほんとに、悪いコトしただけではないか。
千尋は、盛大に俯いて一歩、身を寄せた那岐の、風に靡く裾を引っ張るように、小さく握りしめた。
くんくんと引くと、那岐は手を止めて、顔を向けた気配がした。
「もう、なに。」
「忘れてた。」
「だから何が。」
「那岐のは部屋干しにしないといけないのに……。今頃花粉だらけだよ。」
「だね。……千尋?」
呼ばれた反射で目を上げて、握る指にも力が入る。
だから、声もそんな風になってしまった。
「ごめん、ごめんね!」
「―――いいんじゃない?」
「え……」
気持ちよさそうだし、と、那岐は再び、隙間の空と雲をみる。
「太陽の匂いも悪くないし。」
「でもきょねんは――――」
「一年も経ったら、思うことだって変わるって、思わない?」
言われて、自分に置き換えて、思い当たることはひとつ。
洗面所で鏡に一緒に映る那岐の、背がまた少し伸びたって気付く朝も、
シャープペンシルを落っことしてしまったりすると、那岐と目が合う授業中も、
洗いものをする時に、ふと触れる指が、前より硬くて長くなったって気付く夕方も、
それらの全ての瞬間に、とてもどきどきすること。
「――――ん、そうかもしれないね。」
「だろ。」
裾から手を離したら、待ってましたみたいな感じで、
那岐はベランダにごろんと横になった。
木漏れ日のように、生地を縫って降りて来る陽光が、頬の上で影になって揺れている。
雨ざらしに色褪せた羽目板は、ポカポカに暖まってそうな雰囲気で、
ジーンズが多分に羨ましい。自分もせめて、もう少し丈の長いのにすればよかったと思う。
「………っくしゅん!」
那岐がくしゃみをひとつして、千尋はようやく紙袋の存在を思い出す。
「あ、お薬飲まなきゃだよね!」
「……僕も半分忘れてた。」
「ちょっと待ってねー。」
千尋は中身をごそごそして、鼻炎薬とドリンク剤みたいなのを取り出して、いそいそと開封する。
「あと、もう一つ忘れてたけど……」
「ん?」
那岐は言いにくそうにして、しかし言った。
「……押し入れ開けたんだ?」
「!」
余りの不意打ちで手が滑り、箱が半分つぶれた。千尋は握力がわりとあるほうである。
「……う、うーんと、なんていうか」
「そのさき言わなくていい。今の反応で全部わかった。」
「………ご、めんなさい。」
縮こまった二人を、隠すようにして、
ひらひら、ひらひらと、虫干しの春物は心地よげに揺れる。
「一応言っとくけど、今はもう読んでないから。」
「『もう』?」
「っ、へんなカオするなよ、一回くらい見るだろ、普通に健康な男子なら。」
「ふ、普通なんだ那岐って。」
「………僕をなんだと思ってる訳?」
「………。」
「………。」
沈黙の間に、鼻炎薬は千尋から那岐の手へ、やや間があってドリンク剤も渡って、
一緒に一気に飲み干したようであった。
それから那岐は、言い訳みたいに呟いた。
「……なんて言うか、向いてなかった。」
「む、向くとか向かないとかなのかぁ。し、しらなかった、はは。」
「僕はさ。」
「……うん。」
カラになった瓶が、千尋の手に戻り。
さっきより、那岐の体温のぶんだけ温もっているのに、気がついて赤くなる。
「好きな子とするんなら、ふたりで昼寝くらいで丁度いいんだ。」
「………ふぅん。」
「今のところは、ね。」
千尋は、那岐の言葉を返す返す、矯めつ眇めつ。
次に目を合わせた瞬間に、その意味が、育ち始めた心の琴線を掠めていった。
もしかして、もしかしたら。
きょねんと気持ちが違うのは、私だけではないのかも。
「千尋も、寝る?」
「――――うんっ。」
少し、不自然な隙間を空けて、ワンピースが広がらないように気を付けて、
那岐の隣へ背を付けた。
そこは、やはり、春の温度に暖まっていたけれど、心地いいのはそれだけでない。
本当は、指先くらいほんのり、くっつけてみたいけれど
すぐそばに、それはくるんと上向きになってあるんだけど
まだ、わたしたちは、『かも』だから。
そして、那岐はくしゃみをもう一つ。
とても気の毒にも、これだけは代わってあげることもできない。
「ふふ、まだ効かないの?」
「千尋がスカートで撒いたから。」
「じゃぁジーンズにしてきます。」
「………もう効くからそのままにして。」
もう一度、春が来る頃は、また一年分だけ変わって、すすんで。
やっぱり花粉症の那岐のそばで、まるくなっていたいと思う。