きっちりと、閉ざしたつもりの隙間から
しんみりと、沁み出してくる、雨漏りみたい。
何処からか、繋がっている。
きみへ、まっすぐに、繋がっている、確かな道が一本だけ。
僕には見えない、道がある。
あめ玉みたいな大きな粒が、灰色の雲の隙間から、
ふたつ、みっつ、零れて
雷鳴がそれを、追い掛けるようにして、僕の背中で銀色に煌めく
そんな夕暮れが嫌いだ。
だから、地上へ届く前に、背中をくるり、翻し。
君が攫われるその前に、僕は足掻けるだけ足掻いて、この不確かな想いを
弾き返さないといけない。
ここは、何も、心配ない世界。
疑いなく、君と僕だけの世界。
千尋は、何処にも属さない、ただ、ここに、いればいいって
そのためなら、僕は何度だって背を向ける。
君を守るための、たくさんのものが羅列されたリストの
最後の最後に僕がいると
朧げながら、気付き始めてる。
けれど、僕は、やっぱり銀の光が嫌いだ。
自動ドアを抜けると、そこは土砂降りだった。
高校受験の現国の、文学の出だしをもじったみたいな、あまりに灰色の空である。
梅雨入りには少し、早いはず、そんな思いが二人の脳を掠めた。
「え、降ってる。」
「だね。」
「……もってないよね?」
「ま、あんなに晴れてれば普通はね。」
千尋と那岐は、それぞれ片手にエコバッグ、両目は空へ。
みたままの感想をそれぞれに呟き、それぞれに相づちを打った。
学校帰りにいつも寄るスーパーである。
折しも、どの家庭も買い物ラッシュの時間、前からも後ろからもひとの波に押されつつ、
自動ドアを塞いで雨宿りするなんて気概はない。
しかし、みればみるほど、雨粒は膨らんでゆき、
革靴の爪先と、アスファルトを、弾く音が高くなる。
「ほら。」
「ん?」
那岐はあいていた右手を千尋の前へ。
女の子が持つには重いだろうな、という、口に出すにはこそばゆい気持ち半分。
一刻も早く、この自動ドアの前を、空けなければ、その為に少しでも千尋に速く走ってもらいたいという思いがもう半分。
千尋は素直に、自分のエコバッグを那岐に預けた。
「いい?せーので走るよ。」
「らじゃー。」
「、せーのっ!」
那岐は、
「そこへ」
と明確に指定したわけではなかったが、
那岐が走り出した方向と、千尋がついてゆく方向とはきっかり同じであった。
ついてゆくから迷わなかったわけでない。
かと言って、つーかーとか、あうんとか、そういうのとも違う。
『そういうの』は、那岐にとっても、千尋にとっても、憧れでしかない。
それなら、なんなのかというと、
自動ドアの廂の下以外に、雨を凌げる場所というのが
二人が目視できる範囲には、そこしかなかったという、それだけのことだったのである。
小さな水たまりは超えて、大きなのは避けて、
駐車場を斜めに、できるだけの早さでダッシュする。
その間にも、シャツは一段濡れて、肌の色を透けさせた。
「何で向こう端に設置するかな……!」
「私はその方がいいと思うよー!」
「は?なんで!」
「なんか恥ずかしいからー!」
「意味わかんない。」
雨音に負けない声量は、まさに降って沸いたイベントに、心臓がばくばくと打っているから。
もしも、あなたが。
もしも、きみが。
(一本でも、カサを持っていたならば)
那岐は千尋に、千尋は那岐に、そういう苦言を心で吐いた。
みればわかることばかり、大音声で届けたのは、
せめてもの照れ隠しだったかもしれない。
無料配布のエコバッグは、頼りない生地でできている。
破るような勢いで降ってくる雨粒に負けて、縁は既にふにゃりと凹み、
脇に突っ込んだ長ネギが、もう少しで落っこちそうな角度で揺れていた。
灰色の、ビニール製のカーテンの前、那岐が先に辿り着き、千尋がその背につんのめる。
「ひゃ!」
どん、と鈍い音を立て、千尋の顎は、ぬくく湿った生地へ埋まった。
「ブレーキは早めに。」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るより開ける。両手塞がってるんだから。」
「あ、あぁぁ、だよね!」
シャ、とカーテンがレールを滑り、ひとりぶんの間口で開く。
二人は雪崩れるように、狭い室内へもつれ込んだ。
「や、押さないでよぅ!」
「だって濡れるだろ。」
「……だって………」
もともと、二人で入ることを想定されていない、ということを、
千尋はいままさに、身体で感じている。
畳半畳あればいいくらいの空間。まるい、回転式の椅子が中央にあるだけの、
殺風景な、無機質な室内である。
しかし、腰を下ろす間もなく、那岐が後ろからぎゅうぎゅうと押して来る。
当たっているのは、
(那岐の、お腹なのか、なんなのか。)
判別できなかったが、取り敢えず服を隔てた下は皮膚だということだけは確かな温度だった。
ブラウスを透過して染み込んでくる、つめたい湿度に重なって
それを、一瞬で乾かしてゆくような、鼓動の音がうるさい。
「バ、バイトするときは、……ここで、撮ればいいね。」
何とか鼓動をごまかすべく、ぐるんと視野を一周させて、
みたままの感想を言えただけマシだ、と千尋は、飛び出しそうな胸を撫で下ろす。
「だね。」
那岐は、なるだけぶっきらぼうに返した。
『証明写真ボックス』と言えばいいのだろうか、正式名称は定かでないが、
取り敢えず先客がいなくてよかった、と、いま那岐が思っているのはそれくらいのことである。
千尋を先に入れてしまったから、頭だけ何とか凌げている恰好で、
那岐の腰から下は変わらず雨に打たれている。
緩いベルトの隙間から、そろそろ下着にまで、つめたい雫が届きそうな勢い。
しかしまぁ、こういうのは男の役目なんだろうな、と思えるくらいには、
那岐は十分に、思春期の真っただ中にいる。
「座れば?」
まるい椅子を、肩ごしに、顎で指した。
「那岐は?」
「一個しかないのに、どうするの。」
「…………那岐が、座って、私が膝に乗るとか?」
「…………本気?」
「…………なーんて。」
「……ばかだろ。」
「……はい。」
千尋はきまり悪そうに、しかし間もなくひとりで腰を降ろした。
電磁調理器も顔負けの勢いで、あかく染まってゆく頬の、
すぐ隣に、那岐のネクタイが揺れている。
これ以上、離れてなんて言えないのが、嬉しいような、苦しいような。
しばらく、雨の音ばかりを聞いて、双方が期待した頃合では止まなくて、
しかたなく、という風情で、千尋から沈黙を破った。
「や、止まないから、なんか、撮ろうか!」
「プリクラのつもり?」
「そんなとこ。」
千尋が予想した那岐の答えはこうである。
『冗談だろ?』
そして、それでも何だかんだ言い訳してせがんだら、最後には折れてくれる、
そういう筋書きを、沈黙の間に練っていた。
のだが、反して那岐は、素直にポケットを探りはじめて、
千尋の大きな丸い目は、更にまるくまるく見開いた。
「600円?……そんなに小銭あったっけ。」
「―――――へ?」
「は?」
「ほ、ほんとに、撮るの?」
「千尋が言ったんだろ?」
「そ、そうだけどあの、ええ?」
「ヒマだし。当分止みそうにないし。」
これは困ったぞ、というのが、口をつぐんだあとの千尋の気持ちだった。
正面のミラーは確かにミラーで、雨の中走ったあとの髪型を真正直に映し出していた。
そこへ、ちゃりちゃりとコインの音をさせながら、那岐が肩を差し入れて割り込むのを、
濡れた毛先が千尋の頬に貼り付くまでを、千尋はコマ送りみたいに見ていた。
「って那岐……っ」
「なに。」
「だって、近、い。」
「こうしないと二人で写んないよ。」
「そ、そうなんだ、けど……!」
千尋の心拍の限界値まで近づいた那岐は、うっすら笑っているようにも
意地悪に尖っているようにも見えた。
まるで、ひとのみに、千尋の唇を含むように――――
これは千尋の自惚れではなかった。
「な、那岐?」
「一枚足りない。千尋もってる?」
「ん、と……」
1人用の椅子に、ふたつのお尻が乗っかって、 千尋のスカートが、じりじり四分の一まで後ずさったとき。
横顔の那岐と、開けっ放しのカーテンのむこう、ぴか、と、銀色の光が瞬いた。
「――――――。」
那岐の表情が、その途端にかたくかたく、変わる。
「お財布、エコバッグのなか。」
「千尋。」
「……ん?」
「時間切れみたい。」
「ん……?」
「悪いけど荷物、よろしく。」
那岐はくるりと背を翻し。雨の匂いのぬるい空気も、あまりに早く、千尋の睫毛を掠めていった。
そして、声を掛ける暇もなく、止まらない雷鳴の中へ、小さく小さくなってゆく。
(やっぱり、カサを持ってればよかった。)
そんなに濡れて、何処へ行くの?
雨がやんでも、2つ分のエコバッグを、両手で下げてく帰り道。
お釣りでもらったコインのぶんも、重く重くなるんだと。
雲の裏側で、雷鳴が、鳴る度に。
背中を向けて、行ってしまうひと。
「どうして?」
聞いても、きっと、秘密なんてないよって、言うだけのひと。
「私はここにいるのに。」
千尋はまるい椅子の上、ひとり、くるり、まわる。