狭い狭いキッチンだったけれど――――


いま思い返せば、とても便利だったなぁ、と思う。
キュ、と捻るだけで、つめたい水も、熱いのだってすぐに使えた。
冷たいものは冷たく、熱いものは熱いうちに、なんて考えなくても
冷蔵庫に電子レンジに、あと、ほんとに困ったときの、冷凍庫も。



早めにつくって微睡んでいても、大丈夫だったもの。









03 知らぬ間に






「マイクロ繊維の布巾、って便利だったよねー。」


これはいつものことだったが、千尋は唐突にものを言う。


「……はぁ?なにいきなり。」
「だって、こびりついたひどい汚れも、水に濡らすだけでピカピカになったじゃない。」
「へぇ、そうなんだ。」
「なぁに、その気のない感じ。」


天鳥船にはキッチンもあったが、那岐は千尋の部屋にいた。
だから、千尋がいきなり台所関係の話を振ったのに、頭が少々付いていかなかった。
食べ物の話でもしていたのなら、そうでもなかったかもしれないが、
今、千尋がしていることは、弓矢の手入れなのである。


ぺったんと床に腰を降ろし、三角に折った膝を傾けて、生成りの布切れを小刻みに動かしながら、
矢の柄や切っ先を、ごしごしとやっている。
それを那岐は、正面で立て膝になって、見ていた。
一応、その、小さな手を、切ったり突いたりした時は、いつでも反応できるように、して。


千尋の矢には、いわゆる神力というものが宿っているらしく、
そのように特に手入れなどしなくとも、十分に使えるのでは、と那岐は思い、
そしてそのように助言した記憶もあるのだったが、
布都彦や忍人が、寸暇を惜しんで手入れているのを、毎日のように目の当たりにしている所為か、
最近はふたりでいても、このような千尋の姿をよく見るようになっていた。


千尋は、気のないように映っているらしい那岐を、一瞬、上目遣いに一瞥したが、
すぐにその目線は手先に戻った。


「那岐は夕食当番サボってばっかりだったか、んじゃ知らないよね。」
「その分僕にはやることがあったの。」
「それは風早だってそうだったんでしょう?でも風早はサボったりしなかったよ。」
「……風早と比べるなよ。」


那岐は、顎を支えていた手のひらで、今にもぷつんと膨れそうになる頬を押さえて、
千尋から90度に顔を背けた。
しかしちらりと目の端で窺ってみても、相変わらず千尋の睫毛は、
矢の切っ先にむかって、したたかに瞬いているのだった。


(まぁそれはそれで、可愛いんだけど)


こういうところが、那岐の甘い面である。

「あ〜ぁ、あれが、ここに、あったらなぁ。もっときれいになるのに。」

戦が天候を選ぶはずもなく、雨の中で拾い集めたあとのものは、
どうしても小さな曇りが残るらしい。
それに、元々新しくもない矢であるから、一度汚れてしまうと、落とすのはそう簡単ではない。
自分では特に、磨くべき道具というものを必要としない那岐だったが、それくらいは想像に難くなかった。
だから、つい、頑にした手のひらを、差し伸べる。


「疲れたなら代わる?」
「え、那岐にできるの?」
「……うるさいよ。」


溜め息くらい許して欲しい、と思い、あからさまにそのようにして、
那岐は千尋の矢を取り上げる。


「ほんとに?ねぇねぇコツとかあるなら教えて!」


千尋は、随分と汚れてしまった布切れを、那岐に差し出しつつ膝を寄せた。
その所為で、少し上に捲れ上がったスカートの裾から、
蒼いリングが見え隠れた。


白桃のような、その、脚の。
太いと言ったらきっと怒るだろう、その、きれいな曲線の。


那岐が、思わず答えを飲み、
布を受け取るのも忘れて直視してしまったそれらが、
どんなに柔らかいだろうということの方が、コツなんかよりも余程大事だと、思う。


「コツなんてないよ。」
「なーんだ……。」


本当に、コツなどというものがあるのなら、教えてあげたい気持ちは十分にある。
けれど、そんなものが、ただ一介の鬼道使いに――――


「――――あると思う?」
「あったらいいなって。」
「コツはないけど、きれいには出来るかもね。」
「うそ!じゃぁはやくして。」


千尋の、長い睫毛は、ようやく那岐を芯に入れて、パタパタと数度、瞬いた。


「……そういうことを、僕以外の奴に、言っちゃだめだからね。」
「……ん?」
「はやくして、とか。」


千尋は一瞬だけ考えた。そして、白桃のようだった頬が俄に熟して染まる。


「――――なっ、そ、そんな、な、なにいうの……!」
「別に、自衛として。」
「じ、えい。」


ぐぅ、と考え込むから、また視線がそれてしまう。


「してあげるから、こっち見ててよ。」
「へっ!?」
「って、矢だよ。」
「……そ、っか、そだよね、そうだそうだ。」
「ほんと変な千尋。」
「それは那岐のほう!」


那岐が、矢柄の中央を握った両手を、左右に滑らせてゆくのを、
千尋は、しっかり見ていた。
遠くで水面をゆく、船のように、それは少しのきしみもなく、
ただ真っ直ぐに、切っ先と矢羽に向かって滑った。



(――――きれいな手)



千尋の胸が、とくん、と打つ。
汚れてしまった布切れを、そのきれいな手で、いつ取り上げるのか、と思って、
ややちからを込めて握っていたが、
その、どちらの手も、ついにそうはしなかった。


そして、千尋には解せない言葉が二つ三つ、しかし明確に聞こえたあとで、
矢は千尋の手元に戻って来た。


「……ん?」
「だから、きれいになったって。」


言われて切っ先を改めて、千尋もまた、那岐には解せない言葉を、
正確には言葉にすらならない声をあげた。


「残念ながら、千尋には教えてあげられないけどね。」
「あ、あの、あ、ありがとう。」


よく知っているはずの言葉をどもった千尋に、那岐の中で込み上げてくる気持ちがある。
もう、頬を押さえても、口許を覆っても、隠しきれない気持ちがある。
溜め息混じりに、矯めつ眇めつする度に、那岐の正面で柔く撓んでゆく口許。
床の上で緩んでゆく膝先。


本来、鬼道を使ってまでとは思ってはいなかった。
端的に言えば、しかし那岐はとても、急いでいたのだ。


「ほんとに、ぴかぴかに光ってるね。」
「うん。何かお礼とか貰ってもいいくらいだね。」
「何でもいいよ!」
「……ほんとに何でもいいの?」
「うん!何でも!」


そう、と、那岐は。
また、那岐から矢へと、戻ってしまった睫毛を、しっかりと瞳の芯に捉えて
矢柄を握る、小さな指先に、手を掛ける。

「那岐?」

その、無防備な指を、ひとつ、ひとつ、ゆっくりほどく。
ほろりと落ちて、きれいな膝を傷つけてしまわぬよう、
自分の手に絡めとって、腕の半径のいちばん遠くへと、払う。



―――――自由になった腕は、君を、抱けさえするよ



背中に回して、膝の間へ引き寄せた。
あまいあまい、前髪の匂いが、鼻先まで届きそう。


「那……岐?」
「まだわからない?」
「………そうだとしたら」
「ん?」
「私が思ってるものが、那岐と同じだとしたら――――」


千尋の、唇の角度が、少しだけ斜めに傾くのに、
もう十分に目は合っているのに、それでももう一つ奥を、覗き込もうとするのに
引き寄せられたくて、たまらなくて



(僕は――――)



まるで、春の虫になったみたいじゃないか。



「――――はやく、して。」
「自衛しなよって、言ったよね?」
「それは、那岐以外の、ひとにでしょう?」



あぁ、こんなに幸せで、僕はこれで、いいんだろうか



同じ細胞で、潰されてゆく唇は、やはりにとても、柔らかで
砂糖なんか、まだない世界で
こんなに甘いものを、口にしているなんて



これはほんとうのことだろうか



那岐が知らず、背中をつよく、引き込む度に
千尋の蒼い、短い裾は、さっきよりもずっと、奥まで捲れ上がってゆくけれど
那岐は最早、そんなものに、気をとられている訳にいかなかった。



知らぬ間に



うっかりと、好きだよ、なんて、息継ぎの合間に零しそうで
何度も、飲み込んだものの味。
これが、初めての、キスの味なのだと、おもう。


だから、忘れてしまわぬよう、もう少しだけ、触れていて



そう、おもう。



それでも、離れねばならないなんて、時間なんてものを、一体誰がつくったのだろう。
那岐はきりきりと、心で精一杯苦言した。


「マイクロ繊維はないけれど」
「……なに、また唐突に。」


とてもこの雰囲気で出る台詞でないと、眉を顰めた那岐である。


「熱いものは熱いうちに、食べないと冷めちゃう世界だけれど。」
「だから?」
「好きなひとが欲しがるうちに、あげなきゃいけないってことが、わかったの。」
「―――――。」
「それだけ!」


ぱふ、と、ややきつく胸に押し付けられる顔に、今更のように、那岐の頬があかくなる。
好きだよ、と、そのひとことを、あんなに堪えたのに



那岐の、知らぬ間に



千尋はこんなに、知っていた。











お題『7つの小さな恋』から『知らぬ間に』でした!

那岐と千尋は、なにもかもふたりで初めて物語してたらいいとおもう。
キスも、恋も、あといろいろないろいろ(笑)

お題はこちらからお借りしています ◆Mike and Betty様

2008.12.24 ロココ千代田 拝