それは今朝のことだ。
将臣くんに起こされるなんて、一体何が、どうしたらそんなことが起こるのか。
寝ぼけ眼でむく、と上体を起こした。
「……なんですか。」
「朝からピークに機嫌わりぃな。」
「だってまだ15分くらい寝れた。」
「そうケチくせぇこと言うなって。」
将臣くんは少しも気にしないふうに笑った。
そして、変わんねぇ、と、呟くみたいに言ったのを、私はちゃんと聞いていた。
私としては、それなりに変わったとこもあるつもりだけど、将臣くんから見るとそうでもないんだろう。
まぁ、将臣くん自身が、これほどガラッと変わっちゃったんだもん。
無理もないか。
まだまだ眠かったけど、私は意識的に機嫌を上方修正して、
きっぱり薄布団を出た。
布団の縁であぐらになってた将臣くんは、私が通れるように少しお尻を移動させた。
格子窓がまだ下りているのを、ぱかんと上げてみた。
このときの音が、涼しげで軽やかで、私がこの世界ですごく好きな音のうちの一つ。
開け閉めも、だいぶうまくなった。自画自賛。
「ん〜〜〜いい天気!」
「そ、だからな、誘ってやろうかと思って来たんだよ。」
「―――誘う?」
私の感覚が確かなら、誘うというのは相手と一緒に何かをしようとしてるというのを意味する。
そしてこの場合、恐らくそれは何処かへ出掛けるという意味での『誘う』っぽい。
と、そこまで考えたら、急にドキドキしてくる胸に気付く。
どうして、将臣くんが私を誘ってどこかに行くんだろう。
そんなことは、今まで殆ど起こらなかった。
こっちに来て離れていたからという意味ではなくて、向こうにいるときから数えてみても、
やっぱり殆ど起こってはいなかったのだ。
私は、勝浦の潮の香漂い来る窓辺、ほんのり顔を赤らめながら、背後の将臣くんを意識した。
確かに嬉しい。すごく、嬉しい事だ。
何この恋人っぽいシチュエーション。朝、彼の声で目覚めて(返しには大いに失敗したが)
それから二人で出掛ける、まるでデートみたいじゃない?!
でも、でもだ。
「……そんなことしてる場合かなぁ。」
「んあー?何が。」
「川のこと。おかしなことになってるって時に。」
そう、怪異が起こっているのだ。
熊野の事ならまかせとけって言うあのヒノエくんですら、経験した事がないと息巻くほどの怪異。
私たちはその原因を突き止めて、一日も早く熊野のひとたちの平穏を、
取り戻す為にここにいるのだ。
そうそう、そうなのよ。
私は、ドキドキはやめてキリッと顔をつくり直して、将臣くんを見返った。
よく見れば普段着の将臣くんを。
「やっぱりだめだよ。」
「いいじゃねぇか、一日くらい。」
「『くらい』じゃないよ。みんな期待して待っててくれてるに決まってる。」
「期待?」
「だって神子として」
「おいおい。」
「え?」
将臣くんは胡座になって、膝に肘をつけて手のひらで顎を支える。プラス呆れ顔。
これは、徹底的に話をつけてやる、という時にする姿勢。
私は身構えた。
「お前、それ隠してんじゃなかったっけ?」
「―――あ。」
「期待も何も、疑ってすらいねぇと思うぜ。」
確かに将臣くんの言う通りだった。
熊野では源氏がどうこうってこともそうだけど、神子ってこともわからないよう、
折りに触れてお芝居打ったりしてるんだった。
「でも」
「それともナニか?引きこもって、水位が減りますように減りますようにって唱えてりゃ減るのか。」
「そんな極論……」
「そういう話なんだよ。」
誰も、私を神子だなんて思ってない。だから勿論期待もしていない。
それでも私は神子だけど、解決策は今のところゼロ。
心がぐらぐらと揺れ始める。
「……いいかな。」
「おー。折角夏なんだ、一日くらい俺につきあったって、罰あたんねぇだろ。」
「じゃあ、明日からは」
「ドップリお前のお守役引き受けてやるからさ。」
これで、私の心は決まった。
こんなに自信顔の将臣くんがサポートしてくれるなら、怪異はきっと、近いうちに解決する。
だから今日だけは、将臣くんの隣を歩く事に集中して、
私は神子を、お休みすることにしたのだった。
久しぶりに、気持ちが軽い。
将臣くんに感謝しなきゃな、って思いながら、朔のところに顔を出して、行ってきますを言っておいた。
ごゆっくりね、はわかるけど、
「きっと楽しませてあげてね。」
とはどういう意味だろう。
一応、うんと言って出て来たけれど、それが少し気になった。
「お、早かったな。」
「そ、そう?」
そりゃそうだ。急いだんだもの。
こういうやりとりまで本当にデートみたいで、ドキドキは更に酷くなって、
いつもどれくらいの距離をあけていたのかわからなくなった。
私は俯き加減で、随分ぎくしゃく歩いていた気がする。
角を曲がるまでそんな調子だったのだが、ふいに手を引かれて飽和した。
「まっ……まさおみくん!」
「何慌ててんだ。いいだろ、手くらい。」
また『くらい』だ。
ドキドキしてるの私だけか、って思ったら、何だか吹っ切れてしまった。
そうよ、子供の頃はよくこうして、夏祭りとか花火大会とか行ったんだ。
将臣くんと手『くらい』何度も繋いだんだから。
ぜんぜんドキドキなんかしてあげないんだから。
……けれど、随分と感触が違う。
「手、マメ出来た?」
「まーな。そういうお前もか。」
「やっぱりわかるか……。」
「いいじゃねぇか、勲章だろ。」
「そんな事言ってくれるの将臣くんくらいだろうなぁ。」
「いい男だろ?」
「自分で言わなければ。」
さぁ、このいい男と、今日はどこへ行こう。
一本ずつ辻を越え、街の中心へ近づくごとに、人が増えた。
出店も見えてきて、季節柄お盆の砂糖菓子なんかもちらほら見える。
こういうものは向こうとそう変わらなくて、目にも懐かしかったから見つめていたら、
「へ〜ぇ。そういうのが欲しいのか。」
「え、ちが……!」
「冗談に決まってんだろ。なら、何が欲しい?」
「……もしかして、買ってくれようとか?」
「気が変わらねぇうちはな。」
「ああぁ、待って待って、考える!」
こんなふうに、その日は朝から、いつもとは違うことがたくさん起こっていたのだった。
一緒に学校へ行っていた頃、毎朝将臣くんを起こすのは、玄関先で待ちくたびれた私の役目だった。
日曜日は滅多に家にいなくて、たまに遊んでくれても学校の帰りにマックとか。
くれるものはだいたいお金のかかってないもので、
一番最近のクリスマスプレゼントは懐中時計だったけど、それも蔵で見つけたんだって
言わなきゃわかんないのに自分から白状した。
うん、でも、今となってはそれが宝物。
あれがなかったら――――夢を、見なかったら。
この広い異世界で、一生会えなかったかもしれないと思う。
「なんでもいい。」
「そういうのが一番困るんだよ。」
「じゃあいらない。」
「そう怒るなって。」
「怒ってないよ。」
ほんとにね、将臣くんがくれるものならなんだって。
あの頃、テリヤキバーガーは自分で買ったけど、セットじゃない甘い何かとかをさりげなく一緒に買ってくれてたりして、
チープだけど私はすごく幸せだった。
◇◇◇
久しぶりに遊び倒した所為で、なかなか眠気が来ない。
朝ご飯も、お昼も、晩ご飯まで外で食べた。
流石にみんな心配するんじゃないかなって思ってそう言うと、
手は打ってある、らしいから、そうなんだ、って、
お言葉に甘えた訳だけど。
帰って、お風呂から上がってきたらもうとっぷりと夜だった。
いつもより念入りに顔を洗ったのは、人混みを歩いたからというのもあるけど、
将臣くんが買ってくれた、薄い色つきのリップクリームみたいなのを、つけてみたかった所為もある。
誰かに見られたら照れくさいから、引いたのはほんのり、すこしだけ。
一日って、こんなに早かったっけ、なんて思いながら、
私は髪を拭き拭き、軒に吊られた灯籠の、ぼんやり赤い渡りをゆく。
もう慣れたんだけど、初めはすごく暗いと思ったし、何もないのによく躓いた。
「こんなに明るいのに。」
いまでは、御簾の影、誰かがいるのかいないのかくらいの判別はつく。
ほらこういうふうに、まっすぐの光が足の甲まで伸びてきて、
そろそろ爪を切らないと危ないなとか、少し陽に灼けちゃったなとか――――
―――――少し、明るすぎるんじゃないかな。
慣れたとはいえいくら何でも、見えすぎじゃないかな。
私は訝しんで、光の射すほう、つまり夜空の方向を見上げた。
そして、息を呑んだのだ。
透き通るような藍の一面、その内側を、銀色の弧が無数に流れていた。
腕の良い弓使いが、よっぴいてヒョウと続々、鏑矢をはなったような空。
平家物語では源氏がそれを、箙を叩いてどよめいたのだったか。
「ペルセウス!」
名前までしっかり覚えている流れ星はこれだけ。
何故っていつも将臣くんと一緒に見た、夏の流星群だからである。
夏休み、お盆を迎える頃に、毎年必ず何処かからやってきて、地球を明るく射抜く光。
ベランダにペッタリお尻を付けて、三角にしたスイカを私がふたつ食べてる間に将臣くんはよっつ食べて、
そして、その間に幾つ星が流れたか、いつも途中で追えなくなって、数えるのをやめた。
「なんで忘れていたんだろう!」
ペルセウスのゆく頃、将臣くんは、私より一つ、大人になるのに。
何をあげようか、何をあげても「ありがとな。」って反応しか返って来ないんだけど、
私が部屋に行った時には、いつも簡単に見つけられるところに置いてくれてた。
使ってくれてるんだって、眺めてくれてるんだって
だからその度に安心して、やっぱりあげて良かったなって思って、
いつしかそれが、『スキ』になった。
ああ、なんて、ごめんなさい。
私は神子になって、その事にばっかりかまけて、折角漸く、また会えた将臣くんの、
大事なこの日を忘れていたなんて。
「バカ!」
だから朔は、「きっと楽しませてあげてね」と言ったのだ。
すごいヒントをくれたのに、私は一日中一緒にいたのに思い出しもしないで、
途中三回もご飯を食べたのに、そのうち二回は将臣くんがお金を出して、
それどころか私のほうがプレゼントしてもらったというのに、
誕生日なのに貰ってばかりで私は何もあげないで、
おめでとうさえ、言わないで。
「将臣くん……!」
「―――望美。」
足を止めたのは、将臣くんがそこで通せんぼになっていたから。
いつのまにか私よりみっつ―――今日からよっつも大人だから、お酒まで飲んでた。
「どうしたー?こえぇ顔して。」
「え!?」
必死になりすぎたみたいだ。
こんなに大事な日だというのに、どこまでも上手くいかない。
こういうのを自業自得と言うのよ。だけど、落ち込んだりしない。
もう遅いかどうかは、当たってみるまでわからない。砕けてみるまで、わからない。
私は将臣くんの胡座の側で、ぺたんとお尻を付いた。
「えっと……遅ればせながら。」
「お、来たな。」
将臣くんはコトリとお猪口を置いた。そして向き合う。
「お誕生日おめでとう。」
「ありがとな。」
「――――どうして。」
「ん?なにが。」
「だって、だって……!」
こんなでも、今の今まで忘れてたような、不出来な幼馴染みなのに。
どうして、いつものように、ありがとなって、
どうしてそんなに、優しいの?
泣きそうなのをこらえてる私の、洗いざらしの髪の毛を、くしゃくしゃとやって、
将臣くんは、半分はだけた浴衣の胸に、私を抱き寄せた。
鎖骨におでこがこつんと当たって、そこは随分硬くて、少しだけ痛かった。
「お前がいない誕生日ってやつを、三度も過ごすとな。」
「………うん。」
「辛抱強くもなるさ。」
将臣くんの、胸板を隔てた声を聞いている。
少しだけ掠れたみたいな、いつもより全然低いその声は、
まだ私にも、将臣くんについて知らないことがあったんだと、思い知らせた。
とてもとても、切なくなって、私は将臣くんの真似をして背中まで腕を回し、ぎゅうと指先で浴衣を握ったのだ。
そうして皺にしたところが、明日の朝まで残ればいいのに。
「最速で明日になっちゃうんだけど、何が欲しい?」
「……あー、それ、もう貰ってんだ。」
「うそだよ、何もあげてないのに。」
「勘弁してくれよ、言わなきゃわかんねぇってか?」
珍しく言い淀んだ将臣くんは、抱きしめる力を一層強くした。
それは少し苦しいくらい。
その分ギリギリまで近づいた顔を、ペルセウスが浮き彫りにして、目の色までちゃんと見えた。
「今日一日、お前のこと一人占めできる権利。」
「―――――。」
「朝は無理言って、悪かったな。」
「そんなこと……ぜんぜん、ない。」
将臣くんがロマンチックなのには慣れてない。
自分の顔が、こんなに赤くなったのを、見られる事にも慣れてない。
少しだけ胸が離れ、そこを埋めるようにして、刻一刻と近づいてくる唇も、どうしていいかわからない。
とてもとても、恥ずかしくて、もう目を閉じるしかできない。
「だから、ありがとな。」
それは本日二度目の台詞。
間髪入れずに塞がれたから、返事が出来なかった。
潰れるかもしれないと思うほど柔らかで、さらさらとして、
ああ、息ができない。
初めてのキスは、少しだけお酒の匂いがして、
酔ったみたいにクラクラしていた。
「綺麗だ。」
「え……?」
「お前に似合う色で、良かったってさ。」
星は、こっそり染めた唇の色まで暴いていた。
その、幾千も流れるひかりを、今年もふたりで数えようと思っていたのだったが、
何度かキスを繰り返すうちに、辿り着いたところは御簾の裏側だった。
細かすぎるストライプを透過する銀の光を、私は逆光に見ているから、
影になった将臣くんの表情は朧げだ。
「ペルセウス、見ないの?」
「そりゃまた来年、な。」
「でも……」
「生きてさえいりゃ、いつでも見られるだろ。」
―――そうだね。
「ほんとに、いいのか。」
「考え直そうか?」
「いや、有り難く貰っとく。」
将臣くんの手のひらが、両方私の肩を越えて、
随分伸びた背中の髪を、ふたつに分けて胸のほうへ垂らされる。
首筋を掠めてゆく指先に、ぞく、と鳥肌が立った。
「……っ!」
「こうしとかねぇと、引き攣れて痛いのはお前だぜ。」
「そ、そ……う、なんだけど……っん……。」
そして、そっとそっと、倒されてゆく。
将臣くんの胸で、私の胸が圧されて、ふにゃ、と頼りなく形を変える。
すっぽりと、腕の間に入ってしまって、
私はこんなに小さかっただろうかと、それを知って震えている。
「こんなに端近で……向こうから透けちゃうよ。」
「だから察してもらえるんだろ。」
それを、便利と言った将臣くんは、流石三年半も先輩だ。
その点については、先に来ていてくれて良かったと、思うべきなのかもしれない。
「お前が好きだ。」
「私も。」
今日一日、一人占めにする権利。
そうあなたは言ったけど、今日も、明日もその次も、一人占めにする権利を、
たったいまからあげましょう。
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