自分ではないものが、そばにあるということは。
それだけで、最大に幸せだと思う。
それが、37度かそれくらいの温度を保って、規則的な呼吸をしているそのそばに、
私がいられるということは。
生きている。
二人、生きて、ここにいる。
生きている証拠を、瞳に、唇に。
そして、肌を覆う細胞の一つ一つに、刻み付けたからだが
一つの終焉を迎えて寝入る、その、そばに。
例えば、灯りを落として部屋を闇にする。
それでも、全てのものが輪郭を呈して私の目に映るのは
まぎれもなく前の私とこの私が、違う世界を経て来たと
そのことを意味する。
いつのまにか習得した視覚。
隣家のシャワーの音、猫が屋根に飛び乗った音、隣町で響く救急車両のサイレンとか
いつの間にか身に付いた聴覚。
それは、きっと、あなたもおなじ。
ねえ、ちゃんと、眠れている?
私を抱いたその身体は、たしかに消耗して深い眠りに落ちたように見えた。
だけど、たとえばいま、私が。
もぞもぞと寝返りを打ったなら。
一言寝言を呟いたなら。
きっとあなたは
ピクリ、指先を動かして、甘い睫毛を瞬かせる。
そうでしょう?
将臣くん、すき。
あいしているの。泣きたいくらいに、あなたが生きていてよかった。
でも、ごめんね。
今、私は動かねばならない。
ち、ち、ち。
耳慣れた音の中に、僅かな雑音が混じっているのを、さっきからとってもとっても気になっているの。
だから、ごめん。
寝返っても、いいでしょうか。
それに、手を延ばして、キリキリとネジを巻き直しても、いいでしょうか。
それが刻みを止める事は、私にとってものすごい恐怖なんです。
もうすぐ、クリスマスだから、特にそう思うのかもしれない。
あなたが、あの、夢のようなゆめのなかで、私にくれたこの音が、
止まるという事は
たとえば私が海の藻くずとなって消え失せるより
鋭敏な切っ先で身体をまっぷたつに引き裂かれるより
死してなおこの世に想いを残す永遠の存在とされるより
なにより怖い事なので。
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■This story is written under the inspiration of "You Taught Me How to Speak in Love"by Marlena Shaw
望美は、意を決して寝返った。
もそもそ、桜の髪をもつれさせながら毛布から白い腕を延ばす。
髪が項のところで引き攣れる感覚は好きじゃないのだけれど、
少しでも、隣の、愛するものの安眠を、妨げたくはなくて。
少し無理のある姿勢にて身体を捻った。
だから筋肉がやや引き攣れた。
「いた……っ。」
思わず漏れた声に口を押さえた。
ヒヤリ、とした、のっぺりとした金属が、手のひらに納まっていてほっとする。
現代技術を駆使した携帯時計ならば、開いた瞬間に文字盤が明るく主張してくれたりするのだろうが
これは名実共に懐中時計である。
どんなに気を使ってツマミを捻っても、
パカ!
乾いた高い音が響いてしまう。
しわ……と。
やはりそんな音が追い、隣が僅かに動いた。
研ぎすまされた感覚は、この世に舞い戻ったからと言って、そんな些細な変化ではやすやすと消え失せてくれたりしないから
彼は最早目覚めの淵まで導かれてしまっている。
しかし――――
望美は諦める訳に行かなかった。
いま、巻かねばならない。
きりきりきりきり、きりきりきりきり
と、
そんな高い音をさせて、この懐中時計の命をつながなければならない。
あの時空から、今までずっと、
この小さな丸い円盤の中で
時が、時空が、空が――――
――――繋がっているのだ
「ごめん、将臣くん。」
望美の細く、白い指が、丸い金属の裏、小さな突起を、つまんではくるり
くるり、捻ってはではまた、つまみ。
きりきり、きりきり、と、漆黒の闇にその音は、
確かに響いて連続した数多の思い出を紡ぎ、取り戻す。
隣の吐息は、最早規則的なそれではなくなっていた。
いつの間にかネジを巻き取る事に夢中になっていた望美の、不意をついて彼は
その、蒼き血の筋の浮き上がる腕で、ぺたりと皮膚を背中に圧し当てたのだ。
「夜中に時計のネジを巻く、か?何か怖いぞ、お前。」
少しばかり掠れた声が、望美の頭上から覆う。
「やっぱり、起こしちゃったか……。ごめん。」
「いや、いいけどさ。」
「眠たいは眠たいんだけどね。」
「うん?」
そう、望美は確かに眠たかった。
あれほど哭かされて、喘がされて、体力はそして精神は、既に限界値を超えていた。
「でも、朝までほっといたら、これ、絶対止まる音がしてて。」
「ああ。」
返事はほとんどついで、といわんばかりで将臣は、望美の腰からぐるりと包んで、項の匂いを音をさせながら吸い上げる。
それに、きりきりネジを巻く望美の指が、焦点を狂わせて跳ねた。
「あ……っん…っっ!」
「感じるか?」
全く無意味な質問だと思いつつも、違う、と答えてしまうのは、一応、女として
尊厳として譲れない。
あいするひとからの、昔の贈り物一つで、眠れなくなってしまう小さきこころを棚に上げて
精一杯のプライドでもって
望美は首を振る。
きりきりきりきり。
きりきりきりきり。
「もう、十分だろ。」
絡む、指。
交わる吐息が、二つの唇の上で靄になって水滴になって、そして溶けて流れるまで
飽きるくらいに好きだと言って。
将臣は、そういう言葉を惜しまない。
時折、その言葉の意義さえ軽く霞んでしまうほどに、
簡単に、
「最高に、お前が好きだ。」
そんな事を言って欲情する。
もとより全てを取り去った身体に、纏うものは何一つなかった内股から
足が伸びて来るそのあたりに、熱くてぬるりとぬめるかたまりが押し付けられて
一度は治まったはずの火照りが再びぐるぐると、どこからか、しかし確かに自分の内壁から沸いて来るのを
望美は止められなくて喘ぐ。
将臣はもうとっくに、望美のしなやかな指先を、自分のそれと絡めて得意になっており
懐中時計は再び枕元へと放られて
ちちちと規則的な金属音をさせており。
望美の意識をそぐものは、将臣の下腹部の、その一点より他には有り得なくなっており。
ぺらり、と、まるで薄い何かになったようにさえ思わされる程に
望美はあっけなく翻され、将臣と正面向かい合わせにされており。
そして、それが、再びはいって来る。
「……あぁぁ、ん……っ!」
望美が堪らぬ声を上げると、将臣も呼応して、満悦の声を出す。
将臣は、その最中に、酷く声を出す男なのだ。
当然、女のそれのようなものではもちろんない訳だが、
やり場のない快感を、一つになるときの卑猥な感情を、言葉にする事は到底敵わないから
吐く息をきるときの、勢いに混ぜて一音
深く沈めて蜜を掻き出す瞬間にもまた
そして硬く震え上がる血管が、痙攣する内壁に擦られるその幾ばくかの間中も、
途切れる事無い嬌声を、彼は囁き続ける。
たとえば、このひとが生きていて良かったと思うこと。
たとえば、このひとをいっそひと刺しにしても構わないと思ったこと。
たとえば、このひとと互い刺し違えて血の飛沫を雪原にまき散らしてでも白黒付けねばならない局面にさしあたったとき。
沸き上がった想い。
守るべきものは、別々だったあの頃も
守るものが互いとなった今も
変わらぬこの想いを
愛している、といえばいいのか
それとも、だいすき、といえばいいいのか
ジュ・テームと言えばいいのか
I Love Youといえばいいのか
イッヒ・リーベ、なんとやら、というのもあった気がする。
この気持ちを、どういえばいいのかなんて、イヤというほど言葉など
辞書など引かなくたって巷から飽きるほどに聞かされているから
幾らもわかったつもりでいるのだけれど。
「将、臣くん。」
「ん?」
いまだ絶頂の過呼吸が納まらずにいるのを、なんとかこらえて、
望美は己の身体に倒れ伏した将臣の、耳もとに唇を寄せて言葉を汲む。
夜中に、睡眠の欲求さえ忘れても、彼の時空を途切れさせたくない望美の
泣きたいくらいのこの想いが、どうか自分だけの思い込みでありたくない。
「好き、じゃ足りない。」
「おい……それ、今じゃなきゃダメか?」
「ダメ。」
ふう、と溜め息をつきながらも、その指は胸の上でくりりと遊ぶ。
「そういうんじゃなくてっ、……ちゃんと、言ってよ。」
「――――やっぱ、ダメか。」
甘い、という日本語に、最上級があるとするならば、将臣は迷わずそれを選んだろう。
だが、日本語はそういう風には出来ていなかった。
本気でしかめ面になって、言葉を探す。
脳の中の全てのボキャブラリーを、記憶を皿のように舐め回してこねくり回しても、
その言葉は浮かんでこなかった。
だから、将臣は、遠慮なく体重を預けていた望美の上からシーツへと身体を降ろして、
だいじにだいじに言葉を選んだ。
望美に途中で放置させた、懐中時計のネジ巻きの、続きを自分でキリキリしながら言葉にした。
「それは、な。」
「うん。」
「お前が教えてくれた、事だと思うけどな。」
「うん。……ってよくわかんない。」
そんな望美の返答に、からから、と乾いた声で、将臣は笑う。
尚もきり、きり、と、硬くなりつつあるネジを巻きつつ続ける声は、何と言うか最上級にぐわんとした酔いを誘うもの。
ちらり、と望美を見てから将臣は言った。
「お前でしか感じない。」
「―――――!」
「それで、わかるか?」
高尚でいて、下劣であり。
清廉であり、背徳であり。
そんな表裏一体は聞いた事もないのだが、しかし。
愛し愛し合うものの道理として、それは確かに成立することわり。
「もっと、近くで寝よーぜ。」
最後に、そう言って望美を引き寄せた、将臣の髪が、纏わりつくようにしてしたたかに扇情的で
確かに、この人が教えてくれたのだ、と、そう確信した。
愛している、そんな言葉は、記号でしかなく
37度あたりの温度を保って、とくとくと脈打つ生々しさを媒体として
唇で、指先で、粘膜で
絡め合って溶かし合うしか、伝える事は出来ないのだと
二人で解り合えたのだ、と。
ち、ち、ち、ち、と。
刻むこの音が。
例えばいつか止まったとしても
「やだ、うっかり。」
などと言える日が来れば、ほんとに、いいのに、と。
思いながら望美は、いとしいひとの匂いの中で、目を閉じた。
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