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ふと、街路が賑やかになった気がし、響也は目線を落とした。
寮で寝泊まりする連中が、そろそろと練習から戻ってくる時間らしい。
どれくらいこうしていたのか、ひとってのはちょこまかと動くもんだ、などと思った。


ずっと、空を見ていたのである。
よく晴れて、風のない午後だったのである。


だから、動くものは多く見積もって鳥ときどき雲くらい、
ふわふわと膨らむ、しかし入道雲とは呼べないボリュームの雲である。
少しは流れているのか、否、留まっているのか、
気がつくと、そこにある形がやや変わっているか、そうでもないのか、
言葉にしがたい時間だけは、いつしかたくさん流れていたようだ。


響也の部屋はこの階でなく階下にあったが、
空を見たくなり、何とはなしに階段を昇ってここへ来た。
響也の部屋からも空は見えるのだが、何とはなしに、もう少し高いところから見たかった。
アンサンブルのあとで暴言を吐き(しかも相手は一応先輩だ)
気まずくなってその足で逃げるように帰って来た。
そして、その足で更に階上へ逃げたことになる。


(……何やってんだかな)


続く思いは、もちろん「オレは」である。


団体で門をくぐるのは至誠館で、だいたい帰りは一番早い。
マナーのなっているのもなってないのもいるが、部の規律は最も行き届いていると思われ、
出るのも戻るのも五人揃っているのが、響也から見ると、何だかなぁ、である。
見せつけられている気がする。いまの自分に足りないもの、
本当は解っている、身につけなければならないもののでどころを。


「響也さーん!」


眼下から呼ばれて、頬杖を外した。


「ねぇねぇ、もうごはん出来てるみたい~?」
「こら、そんな大声でみっともないから」
「えー、でもすっごいお腹減ったんですよー」
「……水嶋ァ」
「あぁあ、ごめんなさいって、せめてパーにして」


とてもそこまで届く声を出したい気分ではなかったが、
長く固定されていた表情筋が、少しだけ緩んだ気がし、
パーであれグーであれ、夕食のことくらいであの団体が不穏な空気になる必要もない。
響也はやや慌てて、声を投げた。


「オレより寮母さんにがっついてやれー。逆に喜ぶんじゃねぇか?」


我ながら名言だった、と思ったのは、
五人がホゥと揃って目をまるくしたからだ。
団体はどかどかと寮内へ急ぎ、階下に足音がひびきはじめる。


このように、助言は本来、受け止められてこそ真価を発揮するものだ。
たかが夕食のことだが、なかなかどうして悪くない気分である。



―――わかっているのだが。



夕暮れが風に凪いで、きょうも、きのうも、その前も、
ひたすら蹴散らして来た数多の声が、残響する。


かなではまだ、帰らない。




* Still, but Enough *






至誠館が食事に行った、ということは、浴室が空いているということだ。
いまのうちに、と、響也は先に風呂を済ませた。
もともと狭い風呂ではないが、ひとりなら足を十分に伸ばせるし、
考え事をしながら半分寝そべったような姿勢でいても、誰も何故とは尋ねないだろう。


「あっつー…」


快適のおかげで、少しばかり長湯をしたようだ。
湿度のこもる脱衣所を早く出たい一心で、そそくさと部屋着に着替え、
制服は小脇に抱える。
バスタオルで髪を拭きつつ自室に戻る途中で、ランドリーにシャツをつっこんで来たところだ。


日暮れに部屋を空けるときは、電気をつけたままにする。
そうでないと、真っ暗闇しか見えないドアの隙間から、腕を差し入れてスイッチを探さないといけなくなるからだ。
(気味わりぃ…)とドキドキしながらそうするときは、
いまにも向こうから、なにかがぐいと手首をひっぱるような気がするではないか。
子どもの頃から、そういうところだけは変わっていない自覚がある。


床には、かなでからもらったラグを敷いていた。
誕生日は随分先だし、何故くれたのかは定かでないが、
どうしてもヒトの顔に見えてしまうへんな木目を隠すことができたことは幸いだ。
しかし、ラグに隠れたいまも、どこがそう見える箇所なのかを忘れたわけではない。
だから、響也はスリッパを履いていてもそこだけは踏まないように歩くことにしている。
出来れば跨ぐことも避けたいくらいで、その上で立ち止まるなど言語道断だ。
それこそいまにもラグを突き破って白い手が伸び、足首をぐいと―――


(以下略!)


自分の想像力の逞しさにやや呆れたとき、突然携帯電話が鳴った。


「っ……!?」


電話は突然であって然るべきだが、
得体の知れないなにかがいまにもどうだのこうだのと、まさに想像していたばかりだというのに、
誰だか知らぬがいい根性である。
脱衣所から持ち帰った制服のズボンのポケットで鳴っているようだが、
左手に無造作に引っ掛けているので、上手く見つけることができない。
もう何コールほど鳴っているだろうか。


「だぁぁーッ! ポケットどこだポケット!」


埒があかず、ベッドへ投げて形通り広げたところで着信音は切れてしまった。


「………んだよ」


いまならこれほど簡単に取り出せるのに。
ベッドに腰掛けながら、何とも言えないしょっぱい気持ちで、開いて履歴をみる。


「……かなで」


珍しいこともあるものだ。
練習や昼に誘ってくる以外で、かなでが響也に電話することはあまりない。
それだって、行き帰りは同じこの寮なのだから、ふたり連れ立っていることが多いわけで、
話題のほとんどはその間に片付いてしまう。


ただし、最近は響也のほうが意識的にかなでを避けていて、
必要もないのに一緒にいる、ということは、確かに少なくなっていた。
昼に限らず夕飯も、別々だ。
その間に、かなでは着々と、自分の音を見つけていく気がして
時にその音を耳にすると、すればするほど、いつものように接することができなくなる。


“1stを小日向に”


そう律が宣言したとき、響也の持った感想はただひとつ、
「はぁ?」だった。
何故自分が外されたのか、何故そこにかなでが入るのか、
という感情的なぶぶんも、同じ楽器を弾く者としてもちろんあったが、それだけではなかった。
かなでの音では不満だ、というのではない。むしろ好きだし、おもしろいかもなと思う。
―――だが、それは客観的にみればの話だ。


殊、かなでのことになると、響也は客観的になんて、とてもみることができない。


「はぁ?」と、そう反射的に苛立ったのは、その瞬間に、かなでがライバルになったからだ。
それは長年、幼馴染みとしてつるんできたかなでが、
隣のジィさんのヴァイオリンを、いつも小脇に抱えている『可愛いヤツ』だったかなでが、


たったいまからライバルになると、


あまりにも素早く頭がそう解析して、
それにこころがついていかなかったからだ。
恐らく、心は拒んだのだと思う。
音楽というフィルターを一枚挟むだけで、かなでがひとつ、遠くなる―――



―――そんなもの、挟まなくたって



響也は響也で、かなではかなでであるはずだ。
そう思い込みたかったのだろうと思う。
その瞬間から、少しずつ、けれども確かに変わっていくものを、恐れたのだろうと思う。


案の定、かなでは着々と変わっている。
アンサンブルの途中で、ハッとするような音を出して、
いまのはどうだった、これには花があったかなどと、終わる度にメンバーにただす。
まるで、見せつけられているように感じてしまい、響也はただ焦るだけだ。


腰掛けた姿勢のまま、響也はごろりと仰向けになり、
何だったんだろうな、と、何度もその名前を見返した。
着信秒数によれば、留守電に繋がる前に切れている。
だから、何の用だったのかがわからない。


いや、ほんとうは、留守電になど入っていなくたって
かなでの考えていることなんて、そんなもの、瞬間的にわかるはずが、
どうも、そうではなくなっているのである。


『……響也ぁ』


隣の席のかなでが困った顔で、上目遣いで見返るとき


『ったく、今日はなにを忘れたんだ?』


宿題か、教科書か、小テストがあることか。
話題のCDを買ったか、と聞かれれば、どのCDのことを指しているのか、
好みを共有できるかどうかは別として、なんとなくわかったものだ。
それが、いま、穴があくほど着歴を見つめても、電話の理由が湧き出て来ない。


これほど短い間に、本当に、かなでは遠くなっているのではないのか
音楽というフィルターの、かかったことのせいにして
伸びていこうとするかなでの姿から、目を逸らしたのは、耳を塞いだのは


(オレってか)


そういえばこないだも、かかった電話に出なかった。
教師に悪態をついて、練習室から逃げ出した日のことが思い出される。
あの日は、すぐに電話に出られたのにも関わらず、
誰からかかっているのかも、わかっていて、
そして、気になって気になって仕方ないものを、振り切るように、わざと最後まで出なかった。


それでもかなでは、見つけてくれたのだったが。
どこに行くなんて、言わなかったのに。
例えば表情ひとつで、走り方ひとつで、後ろ姿ひとつで。


(……かなで)


それほど気になるなら、かけ直してみればいいはずだ。
それなのに、ただ寝返る。
開いたままの携帯を握り、どうして指先ひとつ、動かない。









腐っていても仕方がない、と、夕食へ向かうことにした。
途中でランドリーに寄り、シャツを取り出して乾燥機に放り込んでおく。
半袖のペラいやつだ。食べ終わる頃には乾くだろう。


玄関ホールの奥にダイニングがあるが、至誠館に神南が加わって談笑に花でも咲かせているのか、
賑やかな声が漏れ来る。
鮮やかなツッコミののち、ややあってどっと笑いが起こっている。
これは弟としての勘だが、ボケ役に回っているのは兄の律ではないかと思われた。
尤も天然なのだが、だからどうしようもなくおもしろいという事は確かにある。
かなでもその場にいるのだろうか。
ひょっとすると、おもしろいから来いという電話だったのかもしれない。
顔を合わせてしまったら、ワリぃ寝てたって言おう、と、しっかり言い訳まで用意して
その場に踏み入れたのだったが、かなでの姿はない。


「なんだ弟、お前いたのか」


まず声をかけて来たのは東金で、案の定彼のつっこむ相手になっているのは向かいの律のようだ。
そして、その2人以外の面々も、おやというような顔で響也を見ている。
なんだろうか、場違いなのか、空気読めなのか? だとして何故だ。


「お風呂行ってた?」


腰を下ろすと、水嶋が響也の頭を指してそう言った。
洗いざらしがそのまま乾いた、ぺたんと下りた前髪だ。


「風呂くらい入るだろ、悪ぃか」
「悪くないけど……そうなんだ」
「響也、小日向と一緒ではなかったのか」
「は? なんでオレが」
「小日向ちゃんまだなんよ。あんたもいいひんかったし、迎えにでも行ったんちゃうかて言うててんけど」


すうと背中が寒くなった。
面々もそれぞれに真顔になり、振り見た時計は八時前を指している。


「ちょっと遅いんちゃう? こんな時間まで電話もないやなんて。お腹も減ってるやろし、いっぺん連絡取ってみよか」


土岐は自分の携帯を取り出した。


「ちょ、待てって!」


何故止めるのだろう、かけてもらえばいいではないか。
それでかなでの所在がわかれば、ここにいる全員が安心するのではないか。
頭ではいくらもわかっていはいるのだ、だが。


「電話は、あったんだ。その、だいぶさっきだけどよ」
「そうか、あったのか」


律の顔に笑みが戻った。しかし響也は後ろめたい。


「……あったんだが、出なかったんだ」
「? ……あって、何故出ない」
「いや……なんつーか…その、だな」


律は戻ったはずの笑みを再び消し、厳しいものに変えていた。
これは怒られる、ぜったいにだ。と思ったが怒ったのは八木沢だった。


「電話をもらっておいて、そのまま放っておいたということですか!」
「ぶ、部長…」
「あ~っとまずいなぁ、おさえておさえて」


両側から止めようとする部員を尻目に、ついに八木沢は立ち上がってしまった。


「何らかの理由で出られないこともあるでしょう。ですが、何かあったのかもしれないとは思わなかったんですか!」
「そ、そうじゃねぇよ! ……って、いや…正直思いつかなかった」
「ユキ、待て。いま問題にすべきはこいつの失態より地味子の所在だろう」
「………そうですね、僕としたことが取り乱しました」
「東金、何か心当たりはあるか」
「蓬生、お前は」
「待ってや俺に振るん? せやあんたは? いっつもかなでちゃんかなでちゃん言うてるやん」
「É perigoso…! えぇ~っと……先輩、助けて」
「……まだ、八時だ。まずは、落ちつけ」


事態は申し訳ないことになってきた。
響也だけでなく、兄も他校も含めて振り回してしまっているらしい。
泡を食っている場合ではない。


「……心当たりなら、ないわけじゃねぇ」


響也は神妙に見栄を切ったが、心当たりというには、あまりに裏付けが少なかった。
だが、一応、かなでが一緒にいるものとして、自分が想定されていたのならば
―――ここにいたことで驚かれるほど
かなでは響也を頼りにしている、そのようにまわりからは見えるのならば



これは、自惚ればかりでもないと、微かな自信を持てる気がし。



自信を持てるなら、見える気がした。
かなでが、響也に電話をかけて来たところは
そして、多分いまでも、待っているところは


響也もそこで、かなでを思ったことがあるところ。
多分、あの小さな公園だ。









自信を持ったとは言うものの、入り口で自転車よけの柵を跨ぐときには、
やはりとてもドキドキした。
これでかなでを見つけられなかったら、大見得を切った勘が外れてしまったら、と思うと、
冷や汗のひとつさえ浮かべられる。



―――もし、いなかったら、オレたちはもう戻れない



来るまでの道すがら、三日月にそんな願掛けをした。
逆に、見つけられたら、そのときは
この気持ちを、ちゃんと、言葉にするから


頼むから引き合わせてくれと、足は次々に前へ繰り出た。


月は毎日少しずつ、満ちたり欠けたりすると言うが
四六時中、銀のひかりの増減を、目をみひらいて観察するわけにもいかず
気がつけばいつの間にか満月で、いつの間にか三日月だ。


そして、月を、空を
わざわざ見上げるようなときというのは、
なにか、心に思うことがあるときだけ。



願うことが、あるときだけ。



随分と調子のいい話ではあるが、
全てを後回しにして、棚に上げて、願わずにいられない夜もある。
この都会で、霞のかかったような色の、細く細く欠けた月でも
かなでを探して眺めるなら、田舎で見ていた大きな明るい月よりも、
いまはずっと、頼りになる気がしたのである。


ブランコをキィキィいわせている図が浮かんでいたから、
響也はまずその方向を見たが、かなではそこにはいなかった。
早くも挫けかけたが、


「ま、まぁありゃオレの思考回路だからな」


自らを奮起させようと、そのように思い直す。
小さな公園だ。こちらにいないなら回れ右で、あちらを見なければならない。
いるか、いないか、幸か不幸か、一目で眺め渡せてしまえる広さしかない。
そして、いるならかなでのほうからは、響也の姿が見えているのではないのか。


「………」


そのことに気付いてしまい、何故か、急に照れくさい。
万一、先程掛けた願いが月に届いているとして、それならかなではいるはずで、
いるなら、息急き転がり込んで来たところから、
全部、見られていることになるわけだが。


「響也ー」
「………嘘だろマジでか」


かなでの声だ。
ああ、どんな顔で振り返るべきか。
繕っても繕いきれないことは明らかなのに。
既に、朧なひかりが、洗いざらしのぺしゃんこの髪から繁く息を継ぐ背中まで、
すべてを、あばいているというのに。


「ったく、こんなところで何やって―――」


出来るだけぶっきらぼうな顔を作ったつもりであった。
勢いをつけて身体ごと振り返って、そのあとの言葉を続けられなくなる。
何故なら、彼女が、とても綺麗に見えたからだ。


「―――」


黄色いキリンののりものに乗っている。
ちょうど、自転車の後ろに横乗りするときの姿勢だ。
中学の頃、よくよく遅刻するかなでを乗せてああいうふうに、学区の端っこから通っていたのだったが、
汗を飛ばし、ハンドルを握りしめていた響也からは見ることができなかった姿を、
いま、こうして正面から見ている。


地に着かない足を、ぶらぶらとさせて、左手にヴァイオリン、右手には弓を持って、
かなでは、まっすぐ直上の三日月を見ていた。


「ずいぶんちっこいんだね~、こっちの月」
「……だな」
「でも、あれしかないんだよね、って」
「だな」


汗が引くような風が吹いた。
涼しいわけでない、きっと、今夜は熱帯夜、予想がつく暑さだ。
けれども、かなでの上へ降りてくる、ややくぐもった月光が
そのような錯覚を起こさせた。


「何だ? 一緒に見ようって電話だったか?」
「あれ? なんだ気付いてないんだと思ってた」
「……間に合わなかったんだよ」


かけ直さなかったわけを、聞かれるのが怖くて、
そうなる前に進み出た。
ふたりで腰掛けるには狭すぎる、子ども用の遊具だ。だから正面に立つ。
地面に埋めこまれた一本の支柱はバネになっていて、
キリンの首を持って向こうへひとつ、揺らしてやると、同じくかなでも揺れることになる。



あーあ、なんだってそんなにかわいいんだか。



「月なんか見て、なんかわかったのか?」


さっきまで頼りにしておいて、ずいぶんな言い草だと自分でも思う。


「ううん、ぜーんぜん! 花を見てもわかんない、月を見てもわかんない」
「……なに元気ぶってんだよ」
「あー……はは、わかっちゃうか」
「ッたりめーだ。バカ」


ごく正直に言うなら、かなでを元気づけている場合ではない。
落ち込み具合なら、自分のほうがよほど浸かっている自信があるくらいだ。
響也の場合はわかりやすく出しすぎているだけなのかもしれないが。


「ずっと一緒に、一緒のことして来たからっつか、
 ……こう、悩むタイミングまでいっしょってのは正直どーなんだろうな」


溜め息を、短く一気に吐き出しながら、まだ僅かに揺れているかなでの頭に触れてみる。
ここで、ビクっとかしてくれるならまだ救われるが、
特に変化なくされるままになっているというのも、これまた正直どうなのだろうか。


「1stって、どんなきぶん?」
「そりゃ気分いいだろ。オレについてこい! ってかんじか?」
「……ついていきたくなる音、ってコトかぁ。そうだよね、響也は」
「あ?」
「だから、花」
「まだ考えてたのか、んなこと」
「んなことじゃないよ、花だよ? 花」


かなではそう言って、また少し月を眺めて、それからとっぷりと項垂れた。
ほろりと手が離れてしまう。


「……お、おい、どした?」
「それじゃ、私はだめだー。ついてこいなんて、思えない」
「いや、だからそれはオレの思考回路でだな…お前はお前で、なにかその、切り口あんだろ」
「もう日がないよ、どっちにしても」
「……かなで」


せめて手をとれるならいい、そう思った。
だが、かなでの両手は、彼女の奏でる楽器で塞がってしまっている。
ああ、こんな時でさえ、音楽が邪魔をするのだと思った。


今すぐに、その楽器を取り上げて、たとえばこんなのはどうだとか、
オレならこうするがだとか、音にして伝えられればいいけれど、
あいにく住宅地、周囲はただ夜が占領している。


だとすれば出来ることは、外れた手のひらをもう一度持ち上げて、
その髪をくしゃくしゃと、鼓舞することくらいだ。


「そんなふうにしたらへんな髪型になっちゃう」
「どうせ洗って寝るだけだろーが」
「そうだけど」


本当にいやなら、止めればいい。
だが、止めないのだから、いやではないのだと、
こちらはそう受け止めるだけだ。
もとい、そう受け止めたいだけだ。


「お前、忘れてねーか」
「……うん?」
「なんで、オレまでこんな、小っちぇー都会の月なんて眺めてんのかってことをだ!」


かき乱す指先に力がこもる。
田舎には、何でも話せる友達もいた、意外にも人見知りしない性格でない、それが、
何故この、横浜に、響也までもいるのか。


かなでは、「ついてこい」とは言わなかった、それは確かに、そうだけれど。


「できねぇなんて、ひとりで決めんなよ」
「―――」
「ひとりで悩むなよ、らしくもねぇ」
「……響也?」


怒ってるのかと思われたかもしれない、だが、言葉が止まらなかった。
吐き出したくてたまらなかった想いを、吐き出させるだけのなにかが、
この小さな公園のどこに、あるのだろうか。


「先に決めちまうのはいつもお前で、考えるより先に前に進んじまって、
 やれ横浜だオケ部だ、そんなの、まともに受け止めてるオレが追っ付いてると思うか?」
「……おもわない」
「そーだ。だから、お前んちのジィさんがすっとぼけたフリで、オレまで一緒に行くことにしちまったとき、
 正直どんだけ安心したと思ってんだ」
「………へ?」
「だから! これでまたお前と一緒にいられるって、ラッキーにも条件揃ったって膝打ちたくなったっつーか!
 だからお前はもともと花があんだよ、少なくともオレにとっちゃ―――って」


そこまで言って、項垂れていたはずのかなでと目が合っていたことに気がついた。
まるい瞳は、ぱちくりと一度瞬いた。


「……って、なななに言ってんだオレは! 忘れろ! いますぐ忘れろ!」


急にインフルエンザにかかったらしい。
顔から火が出たのかと思うほど熱く、仰け反るようにしてかなでの頭から手を離す。
だが、かなではキリンを飛び降りて、スカートの裾を翻しながら、響也の離れたぶんの距離を詰めた。
そして、手まで掴んでしまう。
ギリギリと、弓ごと強く強く握られて、痛みさえ覚えるほどだった。


「……な、なんだよ」
「ほんとに、そう思う? 花があるって、本当に?」
「蒸し返すなって」
「響也が言ってくれるなら、信じるから。まだ出来ることがある気がするから」


かなでは真摯だった。
響也と違って、少しも赤くなってはいない。
これは、もしかすると、響也の言った言葉の意味を、全く害ない方向へ解釈しているのかもしれない。



自分とかなでとは、やはりいまも、幼馴染みであるようだ。



「………ああ。誰がなんつったってな」


(お前は、オレの)


「いつも花だ」


そう、こっち見んなと言いたくなるほど、
多彩な色で咲き誇る、ただひとつの花なのだと、
それはもう、ずっとずっと、前から。
自転車の後ろから、しっくりと食い込む指先さえ、



それがかなでである限り



いつもいつも、特別であったのだと、
いま、ごく鮮明に、気付いてしまう。


「……できるかな」
「ああ。心配すんな」
「ん。ありがと」


聴いたその、ひとつの言葉。
聴き慣れないその言葉に、これ以上、あかく染まる頬を見られたくなく
夜なのに、きっと見破られてしまう、顔中を心拍にしたような、色みの変化に気付かれてしまいたくなく
響也は、かなでの肩に腕を回した。


軽くかるく、だから抱きしめたとはとても言えないだけの温もりだった。
ただ、鎖骨のあたりに鼻先を埋め込ませることができただけ、
視線を外させることにだけ、成功したと言える。
胸の中で、かなでがどういう顔をしているか、とても確かめられる気がしなくて
明後日のほうを見る。


「……こんなふうに、こないだお前がしてくれたからよ」
「……うん」
「なんか、聞こえんだろ」


とくとくと、打つものの音が。


「……ん」
「それで少しは安心すんだろ。信じられんだろ」
「ん」


ブランコの上で聞いたかなでの、同じものの音は、
限りなく、あたたかい色の、まるいまるい音がしていた。
響也が聞かせるそれは、どんな色になって、かなでのこころに届いているのだろう。


「あんときは、マジでありがとな」
「……こちらこそ」


親しき仲にもなんとやら、と言うが、初めて言った言葉かもしれなかった。
幼い子どもが、初めてだかその次だかに、覚える言葉かもしれないのに
ひたすらに、いままで、かなでにだけは



どうしてだろう、言葉にした記憶がない。



そう思うと、回す腕が、片方ではとても足りなくて
ふわとマフラーかなにかのように、かけるだけではよそよそしすぎて
もっと、強く、しっくりと柔らかさまで、伝わるようにしたくなる。


「かなで」
「……響也」


願ったとおり、引き合わせてくれた三日月から、
いまふたりは、どんなふうに見えているだろうか。


“―――見つけられたら、そのときは
この気持ちを、ちゃんと、言葉にするから”


いますぐにでも、反古にしてしまいたい、我ながら照れくさすぎる願掛けをしたものだ。
が、うつろう朧な三日月は、セミファイナルを向かえる頃にはきっと、新月に、
真暗の闇に、隠れてしまうのだろうから



いまにも消えそうな、細く歪曲したひかりに、せめても届くうちに



響也は、かなでの名前を呼んでみる。
この距離で、聞こえるだけの大きさでいいから、静かな静かな声になる。


「好きかもしんねぇ」
「な、なにが?」
「バ、バッカおまっ、この状況でそんなの、ひとつっきゃねーだろ!」
「―――うそ、うそそれならもう一回言って!」
「……勘弁してくれ」


ああ、少し時期尚早だったろうか。
かなでに腕をひっぱられながら、もういいだろと、来た道を引き返す間には、
それでも難しかったなら、この夏が終わるまでの間には



「かもしんねぇ」から断定形へ、発展できるといい。



「つかやっべ…!」
「っなに?!」
「乾燥機! 回しっぱなし!」
「まじかー!」
「マジだ!」


そして、しっかりとかなでの手を取る。
寮までの道を、転がるように
雲隠れにし夜半の月下、懐かしいぬくみを繋いで走る。






- Still, but Enough・完 -





最も公式であると思われる男子。しかし最もくっつきにくいのでないかと思われる男子。
響也は、かなでちゃんとの位置は心身共に、確かにいちばん近くにいるんだと思う。
それなのに、この距離感はなんだろう萌えぇぇ! 屈託なく、遠慮なく、接しあえる仲でありながら、
お互いに鈍感すぎて、かつ敏感すぎる、空気読みすぎてかわいすぎる。

2010.05.10 ロココ千代田 拝