小判鮫
■平泉捏造ED後/現代 if 設定/R15■
飛ぶように流れてゆく、知らない街。
近景はカラーテープをほどいていくみたい。
いつも乗ってる電車より、全然早いスピードと、快適なシート。
何より一番嬉しいのは、
隣に九郎さんがいるということ。
それに加えて、ただ、ふたりで電車に乗ってるだけでは、ないのだ。
「ふっふっふ、当たっちゃったんだよね〜。」
足元に置いたスーツケースの上に更に置いた小さめのバッグから、横開きの封筒を取り出す。
更に中身を取り出し、望美は、抑え切れぬしのび笑いを漏らした。
『あべっくポカポカ温泉券』
これは、正月に旅行した先の商店街で、土産物を買うついでに引いたものである。
ついでだったが一等だったのである。
春日家恒例の家族旅行だったのだが、『九郎くんも一緒にどぉ?いつもお世話になってるんだし』という母の意向もあり、九郎もついてくることになった。
九郎にとっては降って沸いた、彼女の家族とご対面イベント。
父からの止め処ない酌を受ける九郎、父と連れ立って風呂へ行く九郎、隙間なく敷かれた布団に父と並んで眠る九郎、 などの、大変珍しい光景が見られた。
春日家は、いい意味でも悪い意味でも、至極あっけらかんとできている。
この旅行で両親の心を掴んだらしい九郎は、今回のあべっくナントカにおける望美の相手として、あっさり認可された。
(ふふふ、ついに、かもしれない。今夜こそ、ついに!)
なるだけ可愛く見えるよう、とっておきのニットと、寒いけど頑張って、短いスカートとロングブーツにした。 望美は更にニンマリとし、チケットを仕舞って代わりにるるぶを取り出した。
「ねぇ、まずはどこがいいですか?九郎さん。」
見開きにしたページを、やや高く、斜め上から見つめてくれているはずの熱い視線へ……
「……。」
「九郎さん?」
確かに九郎は熱い視線を送っていたが、それは望美へ向けられていたわけではなかった。
辿ると、車両内正面の電光ニュースを読んでいるらしい。
右から左へ流れる、オレンジ色のサインに合わせて、頭もゆっくり動いていた。
「……ねぇ、別に頭動かさなくても読めますよ、それ。」
「……あー。」
「それより、どこがいいですか?……九郎さ」
「読んでいる途中で話しかけるな。日馬富士の調子が気になる。」
「……そうですか。」
「新大関のぷれっしゃーだろうかな、俺には痛いほど気持ちが解る。」
「……。」
初場所の星の行方も大事だろうが、るるぶも大事ではないのか。
初場所の星の行方は後で宿のテレビでも確認できるが、今るるぶを読み損ねると、後で取り返しはつかないのではないのか。
あれ、何か雲行きがおかしくない?
出掛けに何か気に障るようなことでも言ったかな。
もしそうなら謝らねばならない。
ポジティブが裏目に出て、自分でも気付かぬうちにポカをやらかしていることがあるから、ここは慎重に慎重を期す。
『留守は任せてくださいね。』
『あぁ、頼んだ。』
『すみません、しばらくお借りします!』
『いえいえ、どうぞ持って行ってください。九郎も、僕といるより幸せでしょう。』
『なっ、何を言うんだ!』
駅前、全室南向き2DKの賃貸マンションまで九郎を迎えに行って、玄関先で弁慶に見送られた場面。 九郎の顔色はいい。ここまでは何も問題ない。
『九郎、忘れ物は、ないですね?』
『ないはずだ。』
『そうですか、それでは、行ってらっしゃい。』
『行って来ます!』
『行って来る!』
そのまま切符売り場まで二分くらい、会話は他愛無く弾み、スーツケースを引く手も軽かった。
乗車券の他に特急券がいるという事で一瞬あたふたしたけれど、問題はそれくらいではなかっただろうか。
なにぶん不慣れでな、すまん!と謝る顔もすがすがしかったはず。
(それから弁慶さんが、やっぱり忘れてますよって追っかけて来てくれたんだよね。)
すまん、とか、近くですから、とかのやり取りを遠目に見ながら、エキチカっていいな、と思った。 望美の家だと歩いて15分ほど掛かる。うっかり宿題を机の上に忘れたら、もう諦めるしかない。
……うん、だから、つまり万全ってことじゃない。
(やっぱり私の考えすぎ。ここは明るく行かなくちゃ。せっかく二人っきりの旅行なんだから!)
というわけで、ニュースに釘付けの九郎を余所に、望美はひとりるるぶに釘付けとなって、来るべき旅行先でのあれこれに備える。
そのような二人を乗せて、車窓はしばし穏やかに流れていった。
前の席にくっついている折りたたみテーブルをかっくんと引き出し、 コンビニのビニールをどっかり置いて、新製品のチョコ菓子をつつくのもまた楽しき旅情というものである。
(んー、これこれっ!)
冬限定チョコらしい、とろけるような口当たりであった。
というのもあるし、前の席のカップルが、あーんとかし合っているのが隙間から見えたのもあり、ついつられてしまった望美である。
「はい、九郎さん。」
ニュースを見ながらでも、チョコの一つや二つ邪魔にはならぬだろう。
昨日の晩、綺麗にネイルアートした指で、小さなチョコをつまみ、斜め上でニュースに向かって熱い視線を送っているはずの九郎の口元へ……
「……。」
「九郎さん?」
「……。」
(うそ。)
彼が見ているものはニュースでも、増してや望美でもなく、既に夢であった。
もう、ネイルアートなんかいらない。
コンビニのビニールの中身は全部出した。
凄い音がしていたが、これでは当分起きぬであろう。いや、正しくは起きたところで構うことなどないのだ。 そして、ペリペリと、春待ちの貝殻みたいな樹脂を剥がして、あいた袋にひとつ、またひとつ落としてゆく。 やがて爪は産まれたままの爪に戻り、そのまま口をきつくきつく、結んで、出掛けのトラッシュボックスに、力一杯投げ入れた。
◇◇◇
つかつかつかつかつかつかつか
「おい、速いぞ。」
「付いて来れない事ないと思います。」
「それはそうだが……いやおかしいだろう、その速さは。」
スーツケースの車輪も手伝って、望美の足は少しの滞りもなく歩を繰り出していた。
九郎にとっては珍しい城下町の風景、時折立ち止まり、眺めたりしたかったのだが、どうもそうさせてはくれないらしい。
諦めて、待て、と追おうとしたときである。
「あの!お兄さん、すみません。」
「何だ。」
観光客だろうか、使い捨てカメラを九郎に向かって差し出している。
「シャッター押してもらいたいんです!」
「しゃ、ったー?」
とは何のことかわからないが、こうしているうちにも望美はどんどん遠くなる。
「悪いが、他のもっと解る者に」
「あ、難しいカメラじゃないですし、気にしないでいいですよ。」
いやよくない。こうしているうちにも望美はどんどん――――
「この、丸い平べったいのを、ポチ、って押すだけでいいので。」
「……。」
「じゃ、おねがいしまーす。」
観光客は、既に二人並んでポーズをとっている。
ということは、どうやら携帯のカメラ機能を応用する場面らしい。あれなら何度か望美と使った経験がある。 そういえば先程、カメラ、とか言われた気もする。
ここまできて、背に腹は変えられなかった。
いつものようにすればよいのだな、と、こわごわフィルターを覗いた。
「では、撮るぞ。」
カチ……
いつものような音楽も鳴らず、どうも手応えがなかったが、これでいいらしい。
逃げるように彼らを後にしてきたが、右も左も、前も後ろも、果たして望美の影はない。
「まずいことになったな……。」
途方にくれて立ち尽くす。
この世界は、人が多い。
建物も高く、密集していて、一旦見失うと、それらの波が隠してしまう。
目は悪い方でないけれど、それだけでは、どうにも見通せない影がある。
真っ直ぐに前を向いているだけでは、留めきれない死角がある。
と、そのようなセンチメンタルな気分をなぎ払うように、尻で携帯が震えた。
「な、なんだっ、こんなときに!」
と言いつつ、震えるものには出ねばならないという反射でもって、九郎はカパ、とフタをあけた。
同時に耳をつんざく怒声。
『もう!どこにいるんですか!』
「だからお前を見失ってだな……」
『そういうときの為に電話があるんじゃないんですか!』
「そ、う言うが、俺もまだ慣れぬ上に、カメラを撮ってくれなどと頼まれて」
『るるぶも見てくれなかったのに、写真を撮る暇があるんですね〜。』
「いや、だから頼まれたと言っているだろう!お前こそ一人でさっさと歩いて行ったくせに、今どこにいる!」
『一番見たかったところですが何か。』
「…………それは何処だ。」
『言いません。』
「言われずに解るか!」
『九郎さんのバカ!わからずや!』
「どっちが馬鹿だ!もう知らん!勝手にしろ!」
今度は九郎がつんざく怒声で電話を切った。
わなわなと、握った機体が震えている。
勢いだけなら、すぐにでも踵を返して帰りの特急に乗り込んでしまえるが、 探さずに帰ったりなどすれば、ますます事態は悪化するのが目に見えている。
(とは言え、だ。)
一番見たかったところ、などと言われても、車中でそんな話はしなかった。
いや、望美は言ったのかもしれないが、生憎日馬富士の勝敗の行方くらいしか記憶に残っていない。
情報誌は望美が持っている、チケットも望美が持っている。
つまり、行く当てがない。
(本当に、鼻っ柱の強いやつだ。)
普段はあっけらかんとしているが、一旦こうなってしまうと手が付けられない。 三草山での一件も忘れ難い思い出の一つだ。
最後には勝手にしろくらいしか言いようがなくなってしまう。
胃が痛みそうな思いを噛みつつ、切ったばかりの携帯を開いた。
なるだけ落ち着いた声を出せるよう、最大限に気を遣いつつ、アドレス帳を開き、通話ボタンを押した。
「何してるんですか。」
「!!」
呼び出し音を一度だけ聞いて、咄嗟に電話を切った。振り返る暇もなく、望美の方が前に回ってきた。
「な、なんだ、見たいものがあるのではなかったのか。」
「……でも、二人で見たかったから。」
膨れ面で俯くのが、愛しい。
自分でも単純だと思うが、望美が折れてくれればこれ以上、肩肘を張る必要もない。
「迷うなら迷っちゃえとも思ったけど、知らない場所で一人って、やっぱり怖いから。」
九郎の目の前の望美が、初めて出会ったときの望美に重なる。
「いや、俺も言いすぎた。そうだな、これ以上はぐれぬよう、手を繋いでいてくれるか。」
「もう、しょうがないですね!」
「はははははは」
そして、漸く和やかに、二人は歩き始めた。
――――のだが。
「見たかったものとは何だ、面白いものか?」
「ふふ、この先に水族館があるんですけど、普段は展示してない大きなお魚が来るって書いてあったから。」
「ほう、大きなお魚か。」
望美の口調が移るときの九郎は大変機嫌がいい。
手を繋いで望美と歩調をあわせられなくなるときも、大変機嫌がいい。
「どれほど大きいのだろうな、勝浦で多く見られるらしい勇魚とやらいうもののことか?」
「ううん、ジンベイザメっていって、こーんな感じの」
望美が両手を使って大きく腕を広げ、九郎の腕も大きく上がったときであった。
「――――あぁ望美、すまん!」
九郎は体を捻り、繋いだ手を解くと、そのまま尻のポケットに入れた。
震えるものには出なければならない――――
「あぁ弁慶か、すまん、さっきのはもう解決した。」
「……もぅ、九郎さん?」
望美は脇から苦言しつつ、九郎の腕を掴もうとしたが、空いた方の大きな手のひらで遮られた。
(なによ、それ。)
「あぁ、犬も食わんやつをちょっとな。ハハ……心配かけたな、もう大丈夫だ。……あ?……まぁ、それとこれとはアレだが」
ここで顔を反対にそむけ、声を低くしたので、望美は一層怪訝顔である。
「それは……使えればいいとは思うが……余り期待するな。じゃあな。」
ぴ!
「さ、では水族館とやらに行くか!」
颯爽と振り返った先に、小さくなってゆく望美の後姿があった。
◇◇◇
宿屋の仲居さんは困惑顔で茶を入れていた。
「え、えーと、ご、ご夕食の方は何時に致しましょう……?」
「何時でも構わん!」
「むしろいりません。」
「……では、し、七時に一応、お持ちするだけ、ね、ホホホ。」
ホホホも力ない彼女であったが、めげずに一通りの案内だけ済ませ、そそくさと頭を下げた。
そして、二人の不仲そうな様子を察してか、最後に一つだけ加えた。
「あ、あの、当館自慢の家族風呂、というのが、ありますので、勿論内鍵でございますし、どうぞご夫婦揃って、行かれては、なーんて」
「夫婦ではないッ!」
「夫婦じゃありませんッ!」
襖はこれ以上なく早く敷居を滑り、高く高く響いて閉じた。
「……弁慶は大事な友だ。」
「そんな事は解ってます。何で今出なきゃいけないのかって聞いてるんです。」
「着信を残してしまったからな、旅先で何かあったのではと心配するだろう。」
「後から掛けたらいいじゃないですか。」
「それは……そうだが、正直そこまで気が回らなかった。一度にたくさんの事を考えるのは得手ではないんだ。」
「……ていうか電車の中でもずっと、違う事ばっかりしてるし。」
と、言われて思い当たるフシがないわけでもない九郎であった。
初場所の星の行方も確かに気になってはいたのだが、他にも居眠りしたフリをして、気を紛らわせていたところがないわけでもないのだ。
だから、この喧嘩は一件対等であるようでいて、九郎に大変分がない事は、自身にもよく解っているのである。
うまくやり過ごせればいい、と、そのように振舞っているつもりだったが、望美には全然筒抜けであったようだ。
「それは、だな。」
「もういいです。お風呂行ってきます。」
「あ!おいちょっと待て!」
言っている間にも望美は荷物から色々なパックや巾着などを取り出して、クローゼットのバスタオルと浴衣を掴んで、ぷいと長い髪を翻す。
ガラ、と勢い良く襖をあけて、キリと振り返る顔は、美しくさえ見えるほど凛々しいのだ。
「……。」
だから言葉を失ってしまう。
「……追いかけてこないで下さいね。」
「だ、誰がだ!」
買い言葉は苦しさに紛れた。
そして、一人、荷物を探りつつめぐらせる。
福引きが当ったときの、望美の嬉しそうな顔。 その両親が即決で、『今度は九郎さんと二人っきりで行ってらっしゃい』などと頬を緩ませたこと。
やっと、認めてもらえた、と思った。
(いや、別に反対されていたわけではないが……)
それでも、前の晩に望美の父と、いたたまれないほどに深く交流した甲斐は確かにあったと言うもので、 二日酔いも悪くない、くらいには思えたのだ。
両親も認める婚前旅行、ともなれば、流石に邪な思いを抱えないわけでもない九郎だ。
しかし、しかし、あいつはまだ妻ではなく……というような、曖昧な迷いを断ち切るように、 今朝弁慶が、忘れ物です、と言ってまで、わざわざ届けてきたものがある。
それがこの箱である。
直方体の、男なら誰もがこれだとわかる、よくあるサイズのうちの小さい方の箱。
九郎としては今朝その存在と使い方を知らされたばかりだったが、やはり一度知ったら忘れないものが入っている箱。 口の端が歪むが、これは感慨でなく苦笑である。
「馬鹿。6個も使えるか。」
どころか一個でさえ危うい状況なのである。
望美はそうでなくとも強い。 手を出した途端、何処からともなく降ってくる、神の白刃に斬られる覚悟で臨むか。それとも、泣き寝入るか。
「この俺が、みたび敵前逃亡か?」
みたび、と言ったのには訳がある。ひとたび目は平泉へ落ちることを決めたとき。そして、二度目は。
あのとき、とっくに昇華していたはずの、思いが、蘇る。
先にも触れたが、九郎と弁慶はここ半年ほど同居の関係にある。
ではその前はどうだったのかと言うと、異世界―――望美にとっての異世界で、彼らにとっては故郷である世界
―――で、もっと多くの人数で同居しており、望美もそのうちのひとりであった。
こちらで言うと平泉、あちらでも平泉と呼ばれていたが、
地続きでない別の世界の平泉で、望美や九郎や弁慶らは、壮絶な戦いを繰り広げ、
その間に、九郎は望美に恋をした。
が、残念ながら実らせる暇がなかった。
平たく言うとただの片恋で終わるはずだった恋である。
九郎には腹違いの兄、頼朝がおり、元々しがらみの多い関係であったのだが、
平泉の平定後も、困った事に全ての関係が修復された訳ではない――――
―――ようだと弁慶は言い、
九郎はそれと連れ立って、異国へ逃れようとしていた。
正直、実の兄から逃げるという事に対して、多大な違和感があった九郎である。
幼い頃から誰よりも慕い、いつかはあのように、という憧憬もあった。
だから、力を付け過ぎた、と、そう頼朝は言うのだろうか。
巡り、巡らせ過ぎて、既に擦り切れた疑心である。
平泉へ逃れる事になったのも、頼朝との決別、いや、それよりは反旗を翻したかたちに近いと言うべきであった。
そうであるから、追われる身となるのも運命と言えば運命で、もう、ここまで来れば、最後に正面から相対するべきではというのが本音ではあった。
が、弁慶はそれは得策でないと言う。
どちらが勝利を収めても、それでも、兄弟なのですから、と言う。
九郎が勝つのも負けるのも、どちらも見たくはないと言う。
そうか、と、とうとうある霧の曙に、平泉を落ちて、繁く歩いた後、漸く一艘の漁船に乗ったところを、 頼朝でない追っ手が来ていたのだった。
それが望美である。
追う者がいれば、気付かぬはずのない男が二人して、ついのそれまで気付かなかった。
それが、まずの違和感だった。
望美は、ばしゃばしゃと服のまま海に入り、短い距離ではあったが、春のつめたい水の中、果敢に泳いで船端に手を挙げた。
『何をしているんだ、馬鹿かお前は!』
『何とでも言ったらいいです!バカは九郎さん!』
『俺だと?!』
『私を置いていくなんて、途方もないバカなんです!!』
『―――――。』
ずぶ濡れで重くなった望美を、小さな船に引き上げながら、なんと大胆な告白だ、と思い、 同時に、答えねば、と思い、同時に、それどころではない、とも思った。
つまり混乱していた。
そんな九郎をつかまえて、望美は、もっと安全な場所がある、と提案した。
淡い唇をして、しかし震えるのも忘れたようにして、海を隔てた異国より、もっと安全な世界があると耳打った。
『海どころじゃないんです。もっともっと、気が遠くなるくらい別の場所なんです。』
『望美さん、僕だってそそられないわけではありませんが、そんなところへ、どうやって行くのでしょう。』
『はい、跳びます。これで。』
胸の逆鱗をチラと見せた望美に、弁慶は困惑の顔をした。
なまじ意味のわかる者が二の足を踏む法則である。
九郎はしばらく、考えて、やがて、ほぅ、と手を打った。
『それは、なんだ、お前がもといた世界と、そういう事か。』
『はい。』
『どう思う、弁慶。まさか海を隔ててまで狙われるなどと思いたくはないが、……正直この先、兄上と、やり直せる気もしないしな。』
何かが吹っ切れた気がしたのだ。 かなり突然であったが、何かが吹っ切れるときというのはそのようなものであると思う。
そんな九郎の表情を読み取ったか、弁慶も、久々に柔に笑った。
『まぁ、これ以上失うものもありませんか。それならいっそ、九郎。』
『―――俺は見てみたい。』
『九郎さん!』
『よし!では行くか!』
一か八かではあったが、二人は望美と船を降りた。 浜辺では白龍が待っており、望美と共に、三人で、時空を跳んだ。
今や、この世界に溶け込んで、すこぶる上手く暮らしていたし、あの時、吹っ切れたと感じたのも、間違いでないと思う。
が、いま、敵前逃亡などと、思い出したような言葉が脳裏を掠めてゆく事は、やはり。
完全に払拭し切れていた訳でも、なかったのだ。
そうだ、だから、今度こそ―――――。
「俺は、逃げるわけにいかん。」
九郎はバスタオルと浴衣、そして一応小箱も掴み、襖を開け放つ。
先程、確かに望美は言ったのだ。
『追いかけてこないで下さいね』
ということは、逆に言えば、九郎が追いかけて行っても不思議でないところに、望美はいるということになる。
『お風呂行ってきます』
とも言った。ということは、九郎が追いかけて行っても不思議でない風呂に、望美がいることになる。
女湯でない、男湯でない。
残るは、『当館自慢の家族風呂』しか、ない。
◇◇◇
「あ……っんん……」
「声を出すな、外に聞こえるだろう。」
「だって……っあぁ……!」
家族風呂の脱衣場、ニットを胸までたくし上げられて、望美は小さく声をあげていた。
必死に掴んでいる荷物棚が、きしきしと撓っている。
「ん……あ…っ、ダメです、ワイヤーが曲がっちゃう。」
「構うものか。」
「はぁ……っん!」
九郎は片手を空けて、内鍵を捻って閉めた。
鍵も掛けずに脱いだりしていたら、少々説教せねばならないと思っていたが、望美は着衣したままで、ぼんやりな三角座りで待っていた。
「追っかけてこないでって……んっ……言ったのに。」
「その割に人待ち顔だったな。」
「……や…だ、そんなこと……ないです……!」
尚も尖らせる唇は、奪うしかないと考えた。
ぐい、とやや乱暴に、頬をこちらへ向けさせて、小さな悲鳴を塞いで止める。
「んん……」
それだけで、ほろりと崩れる膝を、腰から手を回して支えた。
キスだけなら、これくらいの反応を見せるようには、二人は既に進んでいたが、今日はここまでで止めるつもりはない九郎だ。
服の上からでも触れたことのない胸に、じかに触れて思うままにすることまで、とても容易かった。
神の白刃も、降りてくる事はなく、望美はひたすら声をあげる。
露わにした腰が、まるくて、白くて、初めて見るそのかたちにくらりとし、
後ろから揉みしだくふくらみも、随分と豊かに感じられた。
それを覆う華美な下着を、両の色付く粒がはみ出す分だけ下へめくり、
小さな輪郭に沿って、二つの指で撫でるように転がすと、早くもツンと固くなって立ち上がる。
「あっ、あっ、んんっ。」
「随分感じやすいな。」
「言わ……ないで…!」
「俺が言わずとも、お前のここが言っているが?」
九郎は、望美の短いスカートの裾から手を入れて、下着越しにさわと擦った。
中から溢れているもので、既にしっとりと水気を含んでいる。
そこから割れ目を辿ってゆくと、その始点に、こり、と転がる芽に探り当たり、指の先で刺激する。
「や……あっ……」
殆ど泣き声に近い声をあげるのを、聞かぬように執拗に攻めた。
片手で胸に触れながら、既に硬くなりはじめている一点を、かりかりと引っ掻くように爪に掛けて、 望美の中へ、じわじわと痺れる波を起こして行く。
密着させている腰が、みるみると熱くなり、薄らと汗が滲み始めている。
もう、いくらもせぬうちに、いくのだろうと思った。
「っ、あっ、いや、九郎さん……っ」
「何だ。」
「待って、それ、なんか変な気持ちに……」
「いったらいい。」
「や、まだ怖い……!」
はた、と九郎は我に返った。どういうことだ、これは。 もしや、もしや望美は、これまでいったことがない、いや、それよりもっと、基本的に――――
――――そうであって、何の不思議もなかったはずなのだった。
この世界では、まだまだ少女と呼ばれる歳でしか、ないのだった。
撓ってくる背中と、高くあげる声、薄紅に色づく肌も、すべてが匂うような色気に満ちていて、失念していた。
他でもなく、強く、強く、想うひと。
望美を抱く事が、これほどに、我をなくさせるものだとは、知らなかった。
「……どうしたんですか?」
指の動きが止まったのを不審がったか、望美は顔だけを九郎に向けた。
いつもより、多分に濡れた大きな目だった。
「いや、壊れるんじゃないかと……思ってな。」
「い、今更ですか?」
「すまん。」
今朝は、壊しそうだと思って躊躇っていた。 そしてやがて、こちらのほうが壊されるのではないかと思って戸惑った。だが、いま、やはり壊しそうだと思う。
「ごめんなさい、大丈夫です、私、強いですから。」
「そうだな。」
それならもっと、強くあればいいだけのことだ。
壊さぬように、折れぬように、
彼女のようにしなやかに、あればいい、そう、思う。
九郎は、片手で器用にホックを外した。そして、ニットをすっぽりと、頭から抜いてしまう。
「あの……ブラジャーとったことあるんですか?」
「いや?」
「……ならいいです。」
「へんなやつだな。」
望美の名誉の為に記すと、九郎がやったそれは、とても初めて脱がすとは思えない手際だったのである。
さらに、くるりと軽く、正面に、九郎の顔を見上げる形にされてしまった。
「や……です……」
「隠すな。」
きゅう、と締め付けていた二の腕を、はらりと解かれた。
あぁ、とうとう全て、見られて、触れられてしまう。
あられもない声を聞かれて、あられもない顔をするのを、そこから余裕で眺められてしまうのに、耐えねばならないのだ――――
望美は覚悟を決めて、固く目を瞑ったが、反して九郎は
「入るぞ。」
と高らかに言って、鮮やかに離れた。
「え、あ、あの、しないんですか?」
「流石にここではな。もっと慣れたら、何処ででもしてやる。」
「や、やだもう!こんなの余計に恥ずかしいじゃないですか!」
望美は、既に一枚を残すのみとなった九郎に詰め寄った。
「大丈夫ですから!」
妙な声も聞かせてしまったし、いくとかいかないとか、恥ずかしい映画みたいな会話までして、 身体は既に桃色になっているのを、これからどう繕えばいいと言うのか。
「ものすごく、痛いのだぞ?」
「え――――」
「ここで立ったまま脚を広げられて、抉じ開けられるのだぞ?」
言いながら最後の一枚を脱いでしまう九郎である。
「…………きゃぁ!」
視覚より遅れてきた感嘆詞を叫んだ。
「言っておくが全然こんなもんじゃない。これにこれを付けてだな〜」
九郎は悪戯風に、脱衣カゴから直方体の小さな箱を取り出して、カタカタ言わせて見せる。
「そ、それって……!」
「随分便利なものがあるのだな、この世界は。これで子が出来ぬらしい。今朝弁慶が届けてくれたのはこれだ。」
「え……!」
「まぁ、それで若干意識した。お前にいらぬ気を揉ませたなら、悪かったな。」
そんなマトモなセリフを、清清しそうにして、そんな格好で言うんじゃない、と、望美はさらに紅くなる。
「もういいです……。」
「心配するな、あとでちゃんと使う。」
「……。」
直視できぬ裸足の足が、望美のつま先で通り過ぎた。
小気味よく、ドアの開く音がして、柔らかな湯気に包まれる。
「とはいえ、俺も男だからな。妙な気を起こさぬよう、肌をあわせてきたりするなよ。」
「わ、わかりました!」
からからと笑う声を、見送った。
どうしよう、ひとりごちてうな垂れる。 こんなことになるのなら、喧嘩のままでいればよかった、という、悲痛なまでの後悔は、九郎にどれほど届いているだろうか。
◇◇◇
ものすごく、妙な距離をとって、狭い風呂に浸かり、
そのままの雰囲気で夕食をとった。
天麩羅や小鉢を持ってくる仲居さんも、先ほどの雰囲気とはまた違う微妙さを、感じずにはいられなかったらしく、 食材の説明を時折詰まったり、鍋にセットされた固形燃料に火をつけ忘れたりした。
そして。
部屋に戻ると、ぴったりと隙間なく敷き詰められた二組の布団が迎えるのである。
お約束の展開ではあり、いくらも予想していたのだが、二人とも、おかしいほどに身体を火照らせていた。
「……。」
「……まぁ、なんだ、とりあえず、そこへ座れ。」
九郎は襖から奥の布団にまわり、その縁に、浴衣の裾を上手に始末して胡坐になった。
その手際が、望美にとってはこのあとのあれこれの手際にも思え、一層固まってしまう。 いつもは高く結っている陽の色の髪が、半分濡れたまま、低い所で束ねられているのも、妙に艶やかな気がした。
座れといわれても、と、裸足のつま先を右往左往させる。
「そっちの縁に座れ。」
「は、はい」
慌ててその場に正座になった望美である。浴衣の裾はひどいもの。
「……そうでなくてだな、俺の布団のそっちの縁に座れと言っている。」
「あっ、あぁぁそ、そうですよねこれじゃさすがに遠すぎますよねッ、はははどうしよう私ってば。」
「…………。」
「……ごめんなさい。」
しずしず、ではなく、とぼとぼ、というように歩き、何とか指定の位置に座った望美である。
その座り方はやはりぎこちなかったが、それでも、漸く、晴れてご対面スタイルとなった。
九郎は恭しげに襟を正し、こほん、とひとつ、咳払った。望美はふたつ、大きく瞬く。
「では、これよりお手合わせ願う。」
「は、はい……よ、よろしくお願いしま……」
望美は三つ指をついて、半分頭を下げた。
「ってやっぱりるるぶも持って入っていいですか!」
「何故そのようなものが要る!身一つで十分だ!」
「だ、だってこんなキッカリ、じゃぁ始めますみたいなの怖いです!」
「……この世界では始める前に本を読む習慣なのか。」
「映画とか……ロマンチックな話とかしてムードを盛り上げないと、っていうか。」
「さっきはそんなことはしなかったが?途中までならむーどはいらんのか。」
「さっきのはアレでいいんです、そういう趣向もあるんです。」
「お前な……。」
今度は九郎があかくなる。
「いいだろう、そこまで言うなら持って入れ。」
まだ灯りを消すわけに行かないので、先に布団に潜り込んで、ムードとやらを一通り計算しておく。 物凄く苦手な分野のように思えたが、これを反故にしてまた怒りを買うのはたくさんである。
「ふふ、見て、これです。ジンベイザメ。」
「ん?」
布団が浮くのと、隣へそっと滑り入る衣擦れに、再び甘い衝動が訪れた。 もうムードとやらはいい、という気分である。
喉から手が出そうな劣情を堪えながら、枕に見開きになった写真に目をやった。
「ほう、ほんとうに大きいな。」
「いつもは海遊館っていうとこにいるお魚なんですけど、あ、そこも行きたいですね!」
「あぁ、お前と一緒なら何処でもいい。」
「期間限定でここの水族館に来てるみたいなんですけど。一回見たかったんですよ、大きいお魚大好きで!」
「腹のところに何かくっついているな、これは子供のジンベイザメか?」
存外楽しくなってきた九郎である。身を乗り出して写真に食い入ると、耳と望美の髪が触れた。
「これはコバンザメっていって、大きなお魚にくっついて泳ぐお魚なんです。」
「なるほどな。餌の零れにあやかるわけか。」
「そうなんですか?」
「知らんが、まぁそんなところじゃないのか。これほど大きいものにくっついていれば、狙われることもなく安全だろうしな。」
「そうか、弱いお魚なんですね。」
「かわいいものだ。」
「ふふ、そうですね。」
コバンザメか、と、九郎は隣のぬくい、小さな身体を思う。
明日を心配する事のなくなったこの世界で、望美はもはや、神子でなく。
九郎としのぎを削りあう、名手である必要もなく。
それならば、彼女は、なんなのか。
安寧な世界で見る彼女は、より一層にたおやかで。
だからこそ、地続きでない世界へと、彼女は九郎を連れて来た。
二度と、戦わぬために。
二度と、失う不安に苛まれぬために。
ふたり、二度と、剣を振るわぬために。
いつも、傍に、いる望美。
それだけの望美でいいと思う。
そう、思う。
「見に行くか、明日。」
「こんどこそ、連れて行ってくれますよね?」
「当たり前だ。」
九郎は、僅かに顎を傾けて、ほんのりと、望美の唇に触れる。
それが合図になったのか、望美は本を閉じて、身体を仰向けに翻した。
ぱり、と糊の利いた枕が沈んで、桜色の髪が沿うのを、九郎は酔ったような気持ちで直上から眺めていた。
|