橙の日。
真昼だというのに、橙色のカーテンの、そのままの色がフローリングに映されている。
モワリとした空気は、この日まだ循環を許されてはおらず、冬が近づいているとは思えない重みをたたえてどんよりとそこにあった。
一人で暮らすにも、十分とは言えないスペースしかないワンルームのマンションは、一応その名のとおり二人以上での居住は禁じられており、しかし管理人もいないような、業務一般を不動産屋委託に一任されたこのようなところでは、不十分なスペースを我慢さえすれば、実際二人で暮らせる隙は十分にあった。
なので家主が出掛けてしまった後の昼下がりにも、このようにしてひとの温もりがこの部屋にはあった。
しかし、正確に言うならばこの時間は、本来この居候もいないはずの昼下がりである。高校生という肩書きを持つものとして、平日は普通学校にいなければならない。
そのようなことはさておいても、家にいるには勿体無いような日であった。
ベランダも出窓も、きっちり閉ざされているから解らないが、実際外はピンと張りつめ始めた空気でいきいきと躍動し。こころなしか車より徒歩の人間が多いように感じられ。
一日休みなのに引き蘢りなど、ほんに理解しかねる、そんな秋のまっただ中であった。
しかし居候は部屋から出られないでいる、この日。
二人が時空を超えた年の、11月9日のことであった。
コンクリートがようやっと乾いた新築のマンション、通路はそんな打ちっぱなし、壁の煉瓦は薄い灰青で、モダンな様を呈していた。
しかし内部はごく普通のフローリングである。間取りもごく普通である。
『503 源九郎義経』とかかれた表札から、男所帯であることは容易に想像できるが、にしてはかなり清潔で、そしてかなり整頓されている。
あるかなきかの短き廊下。
狭いながらも整然として、片側に手洗いとバスルーム、反対側には洗濯乾燥機とミニキッチンが設置されている。
ランドリーバスケットはカラ、それは常にそうであるように見える。
『鎌倉市分別ゴミ収集表』と書かれたカレンダー的チラシが、黄色いトリの押しピンで壁に吊るされ、その下には申し訳程度としか言えないほどの少量の塵芥が、分別用の2色の袋に分けて入れられていた。
ひたすらに橙色が、外の世界を遮って、淀んだ空気で満たしている。その元凶と見られるベッドは、部屋の左側に、壁にぴたりとくっつけるようにして配置されている。もぞもぞと蠢く小さき塊は、その美しい桜色の髪を縺れさせながら、苦しそうに寝返りを打ち続けていた。夜半、家主とともにあった時も、朝一時目覚めてからも、家主が出掛けてもう一度寝入ってからも、その塊は変わらずそうしてそこにあった。
しかしついに目覚めて第一声は、か弱き彼女に似ても似つかぬ、豪快なくしゃみであった。
「ふあ、、、、っっっっっくしょん!!」
ああああ〜〜〜〜と迷惑そうな溜め息とともに、白く細い腕が毛布から伸びた。枕元に備えてあるボックスティッシュから、綺麗な指が一枚に触れ、そのまま4、5枚を高速にて引き出し鼻を覆う。
かんだらぐしゃぐしゃと丸めて放り、再びああああ〜〜〜〜と吠えつつ枕に沈む。
とてもこのくらいの年の少女がすることとは思えなかった。が、実際一人であれば、女などそんなものである。しかも彼女はどう見ても、風邪ひきであった。そんな時になりふりなど構っていられないのである。
この、可哀想な風邪ひきの少女を、春日望美、という。
鼻のまわりが細かく剥けてしまい、いかに鼻をかみ過ぎたかを物語っていた。元の色が白いので、ほんに火照った紅い頬は、毛布から僅かに出ている指先に、熱い吐息をかけては、落胆する。熱はまだまだ下がりそうになかった。
瞬きするのも辛そうにして、大きな瞼が充血し、長い睫毛には涙が絡んでいる。
「うー、、、、、。九郎さん、、、、熱いよ、、、。」
呼び掛けたところで家主はおらぬことは承知している。
潤む瞼を一つ瞬かせた彼女は、まさに反芻しているのである。
目覚める前に、見た夢のことを。
この熱は、風邪の所為だけではないということを、彼女だけが知っていた。
ぐわりと天井が回るような熱があることは確かだ。
だからこそ、だと思われた。
あのような夢を見てしまったのだ、と。
家主がいないのをいいことに、彼女は小さくひとりごちる。
「九郎さん、、、何で、いないの?」
火照ってゆく。早くなる鼓動が、また熱を産み、排出しようと息を荒くさせた。
望美は目を閉じる。しかし昼下がり、完全な闇は訪れず、まぶたの裏にはカーテンの、橙がそのまま映った。
「ね、、、早く、、、帰って来て。」
ぐるんと、閉じた橙の世界が廻る。靄がかかったように、意識が溶けてゆく。
ああ、また、眠るのだ−−−−−−
望美は期待する。
もう一度、眠って、そして−−−−−−
−−−−−−−あの、夢の続きを。
混沌としてゆく意識の中で、この、色がいけないのだ、そう気付く。
愛しいひとの、瞳の。
髪の。
色だと思ってあのカーテンを、選んだのがいけなかった、そう、ようやっと気付く。
だからこんなに苦しいのに、深く深く寝入ってしまいたいのに、彼の色が離れない。
彼の顔が離れない。
耳許で甘い息を吹きかけながら、
「望美」
そう呼ぶあの声が、まるで聞こえるようなのだ。
望美を抱く時にはいつも解いてしまう長い髪で、時にその毛先さえもを媚薬のようにして肌を這わせる、あの、泣きたくなるような痺れが、夢にまで追いかけて来るのだ。
「ん、、、、っ、、、、。ね、、、、して、、、、。」
意識の果てで寝返った。瞼の裏が僅かに翳り、漸く深く、堕ちてゆくのかと思われた、眠りの底が、迎えたのかと。
しかしそこは、眠りの底ではなかった。
さらりと、額が覆われた。
それぞれの節にしかりとマメのある、かさりとした大きな手に、前髪が梳かれて目が覚めた。
覚めたというのに、ひたすらなるオレンジの世界。
ああ、これは、本当のことだろうか。
下から見上げるその影は、熱でぼんやりとしていて、オレンジの世界、としか言い様がなかった。
望美は、きゅうとそのオレンジを、力ずくに掴む。
すると、喉を鳴らして、その世界は笑うのだ。
「誰の夢を見ていた?」
彼の質問は、顔から火が出るようなものだった。
だから望美は急速に意識を取り戻す必要があった。見上げていた世界は、一瞬にして愛しいひとの姿となった。
「いつから、いたの?」
九郎さん、と呼びかけても、彼はそれには答えずに、望美の首筋から耳許へ、軽く歯を当てながら吸い上げる。
「、、、ぁ、、ん!」
堪らず声を上げると、彼の唇は耳を食み、それだけで十分に溶けそうなのに、さらにそのまま話すから、吐息がまるで凶器になる。
「誰と、してた?」
「そ、、、れはっ、、、、」
「言えないヤツなのか?」
尚も九郎はくすくすと、笑いながら唇を寄せる。
「そんなこと、、、言わないで、、、っ!」
言葉の途中でも、上げる声が止まらない。九郎の指は、望美の胸の上で、硬くなった突起をつまんだり転がしたり、巧みに遊び回る。
「治るまでは、と思ってたが、どうやらお前が先に音を上げたんだな?」
「あれは、、、っ、、、夢だもん、、、」
「夢に見るほど欲しかった、ってことじゃないのか?」
下半身にまで、九郎の指は侵入していた。下着の上から、くりくりと感じるところを刺激されて、ほとんど涙声で訴える。
「そんなんじゃ、、、、なく、、、って!」
「違うのか?」
九郎の指が止まる。じんわりとした快感が、行き場をなくして停滞する。望美は堪らず眼を合わせた。
「じゃあ、やめるか。」
今止められたら泣きそうだった。やだ、と、本気で涙声になる望美に、九郎は満足げに口付ける。それはとても柔らかだった。
シングルのベッドできゅうきゅうになりつつも、九郎は毛布の中で服を脱ぐ。望美の肌が、空気に露にされぬよう、常に包み込みながら、彼女の着衣も全て脱がせた。
ぴたり、と重みが重なると、いつもは吸い付くようなその肌が、やけにさらりと感じられる。気持ちいい、と思った。
「熱があるというのに、どんなだ、お前は。」
「九郎さんがオレンジだからいけないんだもん。」
「何だ、それは。」
「、、、別に。」
脱がせておきながら、寒くないか、と聞く九郎が可笑しくて、そしてかなり愛しかった。
夢の続きが現実になることが、これほどに気持ちいいとは思わなかった。
火照り醒めやらぬからだが、微睡みの続きで熱くなることが、これほどに幸せだとは思わなかった。
「熱いな、お前は。」
そう言いながらも、九郎は決して肌を離さなかった。
常に片腕は肩や首筋を抱いて、降ろした髪で覆うようにして、望美の体温を逃がさぬように包み込む。
だから、愛撫は全部、指なのだった。
そこを見てはいないのに、九郎は望美の、一番いいところをちゃんと探り当てる。
「あ、、、いい、、、っ、、、。」
「これほど濡れれば、熱も下がるんじゃないか?」
とろとろと溢れる望美の愛液を、指に纏わりつけるようにして、九郎はさらにそこを攻める。
「や、、、だ、、、っ、、、そこ、、、すごく感じる、、、、っ、、、」
ほんの少しずつ指を動かして、甘い痺れを誘いながら、もうイくかもしれない、と思ったところで、九郎はちゃんと挿れて来る。
これは計算なのだろうか。
望美はこの瞬間を、欲しくてたまらなかったのだ。
ギリギリまで高められた熱が、九郎のさらりとした、先端の丸みの滑らかなもので広げられて、内壁に充満する瞬間、体中の液体が全て漏れ出てしまうのではないかと、そんな風にさえ感じてしまう。
夢でこれを挿れられるときより、今の方がもっともっと感じる、そう、確信した。
「これか?お前の、欲しかったのは。」
そう問われて、ただひたすらに頷くことしか出来ない。ゆっくりと掻き回される奥から、熱が渦巻いてからだをのぼって、項にじっとりと汗が滲んで来る。
奥を突くのは何度かに一度。
しかしその一度が、確実に高みへ誘う一点を繋ぐ。
腰の下がひんやりと、それほど望美は濡らしていた。
「すごいな、、、熱くて、俺の方が溶けそうだ。」
「だって、、、風邪、、、なのに、、、っ、、、あ、、、ん、、、」
「間違うなよ、お前がしたい、って言ったんだからな?」
やや苦痛そうに笑って、九郎は律動を緩める。
「正直予想外に、これはいいかもしれん。」
「ん、、、、何、、、?」
「保たんから、もういかせる。」
答える暇などあるはずがなかった。望美は、痛いくらいに抱きしめられた。
そして、広い背にしがみつくような姿勢にされて、深く、深く挿れられた。
九郎に初めて知らされた、一番奥の、感じるところ。
じんわりと、泣けるような波を広げる、ゆっくりと弧を描くようにして堕ちてゆく、ひたすらエロティックに感じるところ。
そこを、九郎が自身でもって、丸く螺旋に侵入する。
「ああ、、ん、、、、ねぇ、、、だめ、、っ、、、そこ、、、いや、、、!」
「ああ、だめなのを知ってるから、やってる。」
「や、、、、もう、、、!」
涙が零れて、絞る声で喉が涸れる。
「いって、、、いい、、、?」
九郎は頷いて、角度をさらに、深度の深いものにした。
「−−−−−−−−っ、、、、!」
しっかりと、抱きしめられているから、望美は喉をそらせなくて苦しかった。絶頂の熱を吐き出す場所が、狭苦しくて切なくて、だから代わりに背を掻いた。
泣きながら、きりきりと、恨めしそうに引っ掻いたら、大きなその背が震えて崩れ、望美の上に堕ちて来た。
「今日は学校だったんじゃなかった?」
「こんなお前を置いていけると思うか?」
「だけど。−−−−−−−−じゃあ何処行ってたの?」
「少しくらい喰った方がいいと思ってな。」
九郎はするりと毛布から出ると、一枚穿いてから台所へ向かってゆく。
長く一緒にいるのに、こういうところが律儀で可笑しい。
「冷蔵庫に入れようと思ってたのに、忘れたらしい。」
「何で?」
「−−−−−−−お前の所為だ。」
シンクとガス台の間、申し訳程度のスペースに、近くの八百屋の紙袋が置かれており。
わら半紙色のその中から、九郎は、ころりと可愛い柿を二つ取り出した。
ベッドからむくりと起き上がると、幾分スッキリ爽やかになっていた望美である。
「柿。」
九郎が脱いでそのままの形で放られていたハイネックを、すぽりと被ってベッドを出た。自分の脱がされた汗まみれのパジャマは、再び着る気がしなかったのである。
喉も渇いていたし、柿の橙色に惹かれるように、ぺたぺたとフローリングを歩いてゆく。そのひんやり具合がかなり心地よかった。
ペティナイフを器用に使う、九郎の腰から手を回し、ぐうと首を覗かせる。
「お前の調子が悪い、というと、これしか思いつかないんだ、俺は。」
「何だか、懐かしいね。」
「ああ、あの時も、そうだったか。しかし熱には本当に効くんだぞ。」
「そうなの?」
「酔いが残った時にもいい。」
「ああ、それで。」
望美は、あの時空のことを、九郎が相当酒の上戸であったことを思い出した。
何かあるとは弁慶や、景時や、大切な仲間と呼ぶものと、酒を交えて遅くまで語ったりとか、そういうことが好きだった。
酒がというよりは、そのような場が、好きだと言うべきなのかもしれない。
「寂しくない?九郎さん。」
言うと、ペティナイフが一瞬止まり、そしてまたするすると、進んで皮を長くした。
「それより寂しいことが一つある。」
「何?」
望美はさらに乗り出して食らいついた。もとよりひとの寂しさや、哀しみなどには滅法弱い。何かあれば進んでなんとかしてやりたいクチである。
「危ないから少し下がれ。」
「、、、、、。」
しかし腰からは離れたくなかった為に、むうと背中にデコを付けて膨れた。
「お前は高熱のあまり、どうも忘れているようなのがな。」
「?」
背中の温もりを、おデコに感じつつ反芻する。
何のことだ。何を忘れているのか。
「あの時空にいた頃は、戦の最中にも関わらず、おめでとうと言って俺を驚かせてくれたというのに。」
「−−−−−−−−あ!」
「ひとの誕生日を祝う習慣があるなどと、わざわざ教えてくれたお前が、なあ。」
「ちょちょ、、、ちょっと待って!超ホントに??今日、、、、、だ。」
「そうだ。」
「、、、、、ごめん、、、なさい、、、、。」
再び、熱が上がって来たような気がするのであった。
力なく腰から手を離し、ベッドへ戻ろうとする足が既にふらついていた。
何ということだろう。悔やんでも、悔やみ切れなどしない。
望美は、完全に意気消沈した。
そのとき、ふわりと目線が上がった。
同時に、九郎の顔を見上げているのであった。
「そんな心もとない足取りで歩くな。そして、そんな恰好で出て来るな。その脚は罪だぞ。」
「こ、、、こんなことしてもらわなくても、、、!ベッドまでくらい歩けるよ!ワンルームなんだから、、っ!」
バツが悪くて仕方がないのである。恋人の誕生日を忘れた上に、恥ずかしい寝言を聞かれ、あげくその夢を現実にされた上で熱を上げ、お姫様だっこにて寝室に運ばれるようなのを、世間では決して名誉とは言わない。
「忘れてもいい、お前が元気になってくれる方が余程嬉しいのだからな。」
「、、、、ごめんなさい。本気で、何も用意してないよ、、、。」
うなだれた姫は、腕の中で俯いた。
そんな望美の髪に、九郎はそっと口付ける。
「いや、とても良いものを、もう貰ってる。」
「、、、、え?」
「あんなに熱いお前は、初めてだった。」
「ーーーーーーー!!」
ぐんぐんと、九郎は歩き、再び望美をベッドへ寝かせ。
そして、自分もそのままふわりと覆い被さって、毛布を引き寄せるのである。
「あの、、、九郎さん?」
「大分熱が引いたようだ。存外効果があるらしい。」
「ちょと、、、ま、、、そ、そうだ柿!!柿食べよう!!せっかく剥いてくれたんだもん!!」
必死の抵抗の、最後の方はキスで完全に塞がれた。とろけるような唾液が、舌に、歯に、絡まって。
望美はまた、意のままにならぬ身体を恨むことになるのだ。
「思い当たってみれば、柿は酔い覚ましだからな。今喰われて、俺への熱まで冷められては困るんだ。」
「感染る、、、よ、、、?」
「それならそれで、本望だ。」
陽は傾きかけていて、冬の冷気が降りて来る頃。
こんな季節のこの時間、人肌に包まれて溶かされること、これほどの幸せは他にないけれど。
橙色の部屋が、漆黒の闇に溶けてゆくのを、幾分名残惜しく見送った。
どうかこの風邪が、九郎さんへの贈り物になりませんように、と、それだけが気がかりなのだった。
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