寝苦しい夜だった。
寝返りに飽きて、隣を起こさないように気遣いながら、望美はむっくりと、薄い布団を這い出た。
(こういうの、何て言ったんだっけ)
夏になると、夕飯時の報道番組で、よく聞いた言葉だった。
水族館みたいな名前だった気がする、なんて思いつつ、水を一杯飲みたくて、
きしきし軋む廊下を歩く。
これでも特に古い家という訳ではないが、高校に通っていた時に住んでいた家、
つまり望美の産まれて育った家だと、廊下などは機械で切り揃えられた板が嵌め込まれていたもので、
特に新しい家という訳ではなかったが、きしきし言うこともなかった。
(……そうそう、居間も全然狭くて、ソファ置いたらいっぱいこになっちゃってたっけ。)
いま住んでいる所は、弁慶とふたりひとつ屋根の下、
歩いていける範囲にある、九郎や景時の邸ほど立派ではないが、それでもなかなか大きな家なのだった。
日々の雑巾掛けだけでも、午前中一杯ちゃんと掛かる。
『君は、働きに出なくていいんですよ。』
と弁慶に言われて、平成育ちの望美としては、せめてバイト的な、なんて率先したけれど、
ではお願いしますという結果にならなくてほんとうに良かったと今では思う。
専業主婦ってたいへんなんだ、なんて、
まだ主婦でもないのに思ったりするのにも慣れた。
「そう、幸せだよ。ちゃんと。」
誰に向かって言うのだろう、と、
少し広すぎる居間を左目に過ぎながら思っていた。
あの辺にテレビがあって、古いゲーム機もビデオボードに入ってたっけ。
(あ………。)
何故、いま思い出したのかはわからない。
けれど、思い出してしまったものは仕方がない。
―――金曜ロードショー、トトロだったのに。
ここに、初めて来た日、あの日は金曜であったのだ。
母に頼んでも機械音痴だから、朝から大慌てで、大好きな番組を録画予約して来た日。
なんであと五分早く起きなかったんだろうって思いつつ、食パンを齧りながらリモコンを操作した。
これで、例え学校帰りに外食とか、不慮の事態が起こっても、明日は土曜だからゆっくり見れるって
思っていたのに。
DVD導入前の、狭いながらも楽しい我が家、
昔のビデオに重ねて録画しようって思って、映した画面がニュースで、
母に、これ消していい?って聞いたのだった。
洗いものをする水の音が五月蝿くて、なかなか聞いてもらえなかったから、
よく覚えているその画面。
冬だったのに、夏のニュースだったから、またこれがイライラした。
―――鎌倉では今年いちばんの真夏日を記録しました。今夜は熱帯夜になりそうです。
そう、熱帯夜。
今夜は、酷い熱帯夜。
ふたりで寝るのも、暑いんです。
でも、ひとりでも、やっぱり暑くて、
柄杓一杯にすくった水を、数回がぶがぶと飲んでから、
縁側の、風の通り道を選んで寝転がっても、何だか全然眠れない。
七夕は終わったのに、早く梅雨が明ければいいのに。
むしむしして、星がない夜。
ぼんやりした月だけが浮いている。
湿度のせいで、涙が出るの。
私は、ここにいて、なんで、ここにいて――――
時々、どうしようもなく、淋しい。
「ちゃんと、綺麗に撮れてたかな。」
ぐすんと鼻をすすった望美の、だらりと投げ出した指の先、ちゃぷん、と小さく水が跳ねた。
「あ、望美さん!」
その日、その場所で、弁慶が珍しくはしゃぎ気味な声を上げ、
りんご飴に夢中になっていた望美はハッと隣を見返った。
「金魚、ほら。」
「わ!」
四月に入った頃だったろうか、弁慶と望美は熊野に旅行に出掛けていた。
旅行、と弁慶は前ぶれたが、その実彼の両親の墓に参るという、シークレットな種明かしがあったり、
墓石を前にしてプロポーズじみたことをされたり、しみじみと、とても良い旅だった。
折角来たのだから、熊野でゆっくりという流れで、
丁度本宮で行われていた『湯登神事』とかいう春祭に参加することになったのである。
参加と言うと大仰だが、その実観光と変わりなく、ヒノエや湛快に挨拶したあとは出店をまわるのにたいへん忙しかった望美である。
3〜4歳ほどの男児が、父親に肩車をされて、温泉で身を清めるとか何とか、
あまり内容は覚えていないくらい、一般参加者と化していた。
金魚小屋を前にしたとき、丁度一組の父子が目の前を通り過ぎて、
望美はふと弁慶を窺った。
墓の前で、父親が苦手だった、と弁慶が言ったのを思い出したのである。
「ねぇ、弁慶さん。」
「はい?」
弁慶は既にすくう為のモナカのような器具を二つ持って、ひとつを望美に差し出していた。
「わ、モナカ……?」
「どうしたんです?」
「私、紙のほうだったら腕に覚えがあるんですけど……。」
まぁ個人的な事情で済まないが、モナカか紙かは結構重要である。
「あぁ……ごめんなさい、紙は、遊びに使うものではないんですよ。」
「―――!」
そうである。それこそ九郎や景時くらいしか紙に文字を書く者はいなかった。
他の一般大衆は口づてで伝えるのが常なほど、この世界では、紙はほんとうに貴重品で、
よくわかったつもりなのに、こういう時にすっぽり抜けてしまうのは何故なのだろう。
「あぁ、気にやむことはないんです。モナカで笑ってくれればもっと、嬉しいかな。」
言われて素直に笑い、弁慶は自分も、ふんわり笑っていた。
そして、それより何?と聞いてくれる余裕さえある。
望美が何か言いかけていたのを、ちゃんとわかってくれているのだ。
が、その時には先程の父子は、遙か遠くへ、小さくなっていた。
「ううん、弁慶さんも、お父さんと来たかな、って思ったから。」
「あぁ。」
視線を延ばした先で、同じものを見るというのはいいものだな、と思う。
さめざめ、なのか、ほのぼの、なのか、弁慶はどちらとも取れる顔だった気がする。
「えぇ、でも僕が、あの頃もっと素直だったら良かったなって。」
「……じゃ、一緒には来たんですね!」
「ふふ。」
「良かった。」
「はい。」
そんなことを話してから、ずっと気持ちが軽くなって、
いざ、とばかりに挑んだ金魚すくいであったが、やはりモナカの苦手は克服できず、
望美はたった一匹、弁慶に至ってはゼロであり、
テキヤのお兄さんがオマケにくれた一匹がなかったら、何とも淋しい帰り道であっただろう。
その金魚が、季節がひとつ、巡った今も、元気に泳いでいるのは嬉しいことである。
ちゃぷんと跳ねたのはその金魚で、
夏には水中もそれなりに暑いんだろうか、大きくなった二匹はかわるがわるに、
望美が目をやったそばからぴちぴちと跳ねてはひとしきり泳いで、時間を置いてまた跳ねた。
「んー?餌でも欲しいって?」
望美は腹這いになって、肘で這うては金魚鉢のそばににじり寄る。
今でこそ縁側だが、向こうの家では玄関に置いていた。
やっぱり望美がすくったもので、当時は紙だったのでもっとたくさん泳いでいたものだ。
「黒いヒラヒラのもいたんだよね。」
同じ形の鉢がいいと言って、市をまわる度に弁慶を困らせたりした。
そして、とてもとても苦労して、もうだめだと諦めかけた日、
縁がナミナミになっている、青い硝子の金魚鉢を、
弁慶がほんとうに手に入れて帰って来た夕暮れには、
晩のおかずをいつもよりふたつ多くした。
それも、弁慶の好きなものばかり、丸い食卓一杯に並べたのだ。
そう、このかたちを、毎日毎日見ていた。
学校に行く前に、遅刻しそうになっても餌だけは、
望美があげることに決まっていた。
もう、二度とあげることができないけれど。
「…………。」
ぬるくなった床板に、涙がぽつぽつ落ちて来る。
違う、違う、幸せなのに、
私はここで、とても幸せに暮らしているのに――――
腕を左右から、顔の前に並べて、その上に突っ伏せて、望美はノドできゅうきゅう泣いた。
その、小刻みに震える頭の上に、温かな手が乗ったのは、それからどれくらい経ってからだったろうか。
「そんなふうにしていては、餌をあげられないですよ。」
「―――。」
きり、と目だけを上げると、弁慶の夜着の膝がある。
「望美さん。」
上から降る声は、聞いた事もないほどに優しかったのである。
もともと、物腰の柔らかな男である。
けれど、それでも、こんな声は初めてだ。
だから余計に涙が出て、返事も出来なかった。
「僕が、もっとたくさんすくえれば、君を泣かせずに済んだのかな。」
「…………。」
「僕も望美さんのことは言えないぶきっちょ具合なんですよね。」
「……そんな。」
「ふふ、喋ってくれた。」
その言葉尻の笑みに、促されるように顔を上げた。
涙だらけの頬を、すっぽり包まれる。
「けれど僕は、やっとの二ひきでも、良かったって思ってるんですよ。」
「……どうして、ですか?」
「だって、これで、この子たちはひとりぼっちじゃないですよね。」
その、たった一言が、望美の気持ちのぜんぶだった。
腹這いだった姿勢を、そそくさと起こして、弁慶の白い夜着の胸に、
望美は縋りつくみたいにして顔を埋めた。
「あのとき僕がヘタだって、君は笑ってくれましたが、宿へ着いて寝る時になるまで僕は気付けなかったけれど、
ほんとうは、君はとても、淋しかったんでしょう?」
旅先で、金魚すくいをしたのはいいけれど、いざ宿に着いてみて、これをどうすると思った。
とりあえず宿のひとにタライを借りて金魚を入れたのだけれども、
タライは洗濯用かなにかので、二匹が泳ぐ背を見ていて、あまりに広すぎるように思った。
けれどほんとは狭すぎる。
だから持って帰らずに、紀州の清らかな水の流れに、還してしまったほうが良かったのかも知れなかった。
いまでも、後悔しているのかも知れなかった。
そんな望美を見透かしたように、弁慶は顔をひとつ近づけると、
小さく小さく口付けて、水音がするより先に、柔らかに離す。
「………ん?」
「君が、あのとき泣けずに、何を思っていたのか、わからない僕じゃないんです。」
そのときふと、弁慶の目元から笑みが消えて、
同時に肩を滑る、きぬずれの感触。
月明かりが望美の肌を、灰がかった藍に染めた。
まるい胸を、凹凸のとおりに陰が撫でて、追うようにして弁慶が手のひらを這わせる。
それは頂きに届いて、ひとさし指と親指の間にふわと摘まれた。
「っん……!」
「わかっていながら僕は、どんな手段を使っても、この陽の色の魚を、京へ運びたかったんです。」
星はない夜だ。
けれど、月が、見ているのでないのか。
それに、金魚鉢だって透明で、遮光するものは何もなくて、
振り返ればただ、ネコの額ほどの庭が、この世界に向かって開けている――――
「べ、んけいさん、だめだよ、こんなとこで…!」
「いま聞いて欲しいんです。」
「って……!」
ひらりとかどわかされるように、 望美の目線が反転する。
見下ろしていたはずの、青いナミナミの金魚鉢は、
いま弁慶を見上げる視界の端っこで、ほとんど見切れている。
帯を何処で解かれたのか、自覚のないままに望美は、
はらり、開かれた衣の中央、産まれたままの姿を、月光に晒してしまっていた。
「僕では、あなたの家族になれませんか。」
「―――――。」
「無理矢理にでも、帰してしまったほうが良かったのかな、なんて、弱気になってしまうんです。」
弁慶が一段肩を低くして、緩く巻いた髪の先が、ふわりと望美の鎖骨に降りる。
する、と滑って、甘い甘い痺れをつくる。
癖のある毛が、こんなに柔らかいことを、
何度も抱きしめられたあとで、やっとやっと気付くなんて。
「ごめんなさい。」
言ったら、溢れた。
春の熊野、澄みきった海を望むところに、墓石になった両親にでも、会いに行ける弁慶のことを、
少しでも羨んだこと。
「ごめんなさい……!」
「っ、望美さん……?」
隔てたものは、生きる場所、それはなにも、かわらないのに、
時空と、黄泉の狭間、どちらも目盛では測れないのに、
二度と、すすむことのない記憶に、声さえ届けることができないのは同じだというのに、
どうしてこんなにも、嫉妬していたのだろう。
「弁慶さん。」
だからせめて。
「私は―――」
もう、その先をちゃんと言いたいのに、
弁慶はふわり、やわらなゆびさきを望美の唇に押し付けて止めた。
「――――僕があなたの家族になりたい。」
その指を、離してくれないと返事が言えないから、
少し無理くりに押し返したことを、どうか怒らないで。
「私は、弁慶さんのおかあさんにはなれないですよ。」
「僕も、父上では複雑です。」
「お兄さんは?」
「あぁいう粗雑なのは歓迎できませんね。」
「ふふ、湛快さんに怒られる。」
「……でも、真似できるようなものでは、つまらないでしょう?」
弁慶は自分の夜着もはだけてしまって、前触れもなく望美に侵入した。
「っ、ん……!」
「僕だけにできることを、考えていたんです。君が、僕の隣を抜けてからずっと。」
まるい先端は、迷いなく熱くなり、望美の内壁を擦りながらも膨張する。
申し訳程度に胸を触れられただけ、それ以外は全く、通常の身体である望美である。
いつもする時のように、濡れてもいない。
きつく閉ざされていると言って過言でない場所を、弁慶は無理矢理に奥へ奥へ、
はいってくる。
「弁慶さん、痛……い、んです、」
「ごめんなさい、今夜はこうしかできなくて。」
「っん……!」
それでも、覚え尽くしたかたちで深くいれられると、
届くところはたくさん感じるようになっていて―――そのように教え込まれていて
弁慶が望美に繋いだ箇所は、痛いといったそばから湿潤して、零してしまう。
「ん、あっ、あ……!」
「感じてる?」
「ん、すごく……だめ、なんです……っあ…!」
いろいろさわって欲しかったのは最初だけで、
いまでも、始める時にはさわって欲しい所もあるけれど、
いちど、そのかたちがはいってしまうと、
身体はちゃんと、それを覚えている。
弁慶が中ですることを、イヤというほど知っていて、
する前に予測して、肌を珊瑚の色に染めてしまう。
「あっつ……」
弁慶の言葉が崩れて、夜着をすべんと滑り落として、ふくらとした肩が露になる。
時折その童顔を、かわいいひとと思うことも、嘘だったんじゃないかと思うほど、
こうなってしまってからの弁慶は男のひとの顔をする。
唇の隙間から、舌をほんの少しだけ出して、
望美の首筋に銀の痕を付けてゆくのも、痺れるように甘くて、泣きたくなる。
「あ……っ、だめ、そこは……!」
「だめですよ、外まで聞こえる。ここじゃ。」
「だって弁慶さんが―――」
さっきまでとは違う理由で、涙を零した。
感じる甘みを全て声にして、喘ぐだけ喘いでしまいたいのに、
唇はすっぽりと、同じく唇で吸われてしまう。
出口がなくて、また泣いた。
弁慶の、瑪瑙のようなまるい瞳は、望美のそれより幾分大きな気がして、
睫毛も、何ミリか長い気がして、
いつも全てを見透かされるような気がしていた。
「んん―――!」
弁慶の一番先のまるい所が、いちばん奥の柔らかい所にぐ、っと埋まって、
狭いはずのそこが更に狭くなって、瞬間にひくひくと中が収縮する。
はいっているものの輪郭まで、わかるほどに密着する。
そこでようやく唇が解放されて、新しい空気が入る。
「いったんですよね?」
「あ、あ、……まだ、いってるの……!」
何を考えているんだろうと、
望美の知らない所で、知らないうちに、
知らないことをしようとしているのではないかと、
けれどそれは
逃げていたのは望美だということなのかも知れなかった。
ひとしきり、身体の震えが治まった後で、弁慶はまだ望美の中にいて、
口付けたり、髪を撫でたりしながら宥めていた。
「父上にも、兄君にもなれませんが、僕は、いつか君に――――」
弁慶は耳許で、小さく小さく、
けれど渦巻きの中に、確かに甘く囁いた。
「――――君にややを。」
「――――っ!」
ふたりで住むには、少し広い縁側の、朧なる月明かりの下で、
床を一杯に濡らしながら聞いたこと。
いつか、さんにんかそれ以上の、ほんとうの家族になりたい。
「僕は、君と。」
「私も、あなたと。」
なんて、京で、未だにウダツの上がらない僕は、君と、
なんて、京で、雑巾掛け往復してるだけの私は、あなたと、
したいだけのふたりなのかもしれない。
「望美さん。」
「はい。」
「愛しています。」
しながら言われる台詞の中で、一番恥ずかしいことだと思った。
「弁慶さん。」
「はい。」
言おうとしたら更に恥ずかしさが増して、
望美は、再び沸き上がる、じんじんとしたあまみを堪えた。
「だい、す、き……!」
声のうちのはんぶんが喘ぎに変わってしまったから、
代わりにつよくつよく念じた。
―――――あなたに、ぜんぶ、まかせてしまおうとおもうので
だからお返しに、赤く赤くなるあなたの顔を、
朧な月影に見る権利を、これからしばらく、私に下さい。
月から来た姫は、月へ帰って、
それから幸せになったかどうかは
どの文献にも残ってはいません。
だから私は、あなたが苦労してみつけてきてくれた、このナミナミの金魚鉢のそばで、
暑い暑い日常と、やがて冷えゆく季節の中
それを、永遠に繰り返しながら
あなたに幸せにして欲しいと思っている。
それはあなたとしか、できないと思っている。
「ん……ねぇ、」
「……はい?」
「あとで、餌あげるの忘れないで下さいね。」
「その台詞、君にそっくりそのまま返します。」
長い長い夜が、更ける。
|