2月14日が何の日なのかということについて、
僕にもう少し関心があったなら、第一声はきっと、違っていたはずだ。
先輩がその日、きょう、放課後、
どうしてわざわざ1年の教室に来る必要があったのか、
それならばきっと、僕にもピンと来ただろうから。
暦の上での2月14日、
星奏学院では三学期の学年末考査を控えた試験前週間でもあった。
だから授業は午前中までで、昼を前にして生徒たちは早々と教室をあとにする、
そんな日々がここ何日か続いていた。
先輩が僕を訪ねて来たのは、僕が鞄に教科書などをすべて詰め終わって、
まっすぐ帰宅して勉強にかかろうと、ちょうど教室の敷居を跨ごうとしたときだった。
その出会い頭危うく鼻先に額がぶつかりかけて、僕は思い切り背を反って顎を引いた。
その額は先輩のもの、そして今にして思えば、
そのときの先輩の歩調はすこぶる弾んでいたのだろう。
「きゃ……!」
僕も驚いたが彼女はもっと驚いていた。
僕の目線のすぐ下でまるい目が更に大きく見開かれて、
反らせたはずの背が思わず引き戻されそうで―――
僕は、ぶつかりかけたのがかなで先輩だったということを、
このとき確かに再確認した。
「……かなで先輩」
僕の第一声はひたすら怪訝だった。
もしこのときに、きょうがバレンタインだということを意識していたなら、
期待に満ちたこころをひた隠しにするような声音で呼びかけたはずだ。
が、そのときは頭になかったから、あまり愛想のない顔で愛想のない言葉を繰り出した僕だ。
「急にごめんね。良かった、まだいて」
「……何かご用でも? 随分急いでいたようですが。メールでももらっていましたか」
「ううん、突撃」
「……」
僕は沈黙して考える。まず、試験期間中は部活がない。
だから先輩は部活に誘いに来たわけではないはずで、
それなら試験勉強の誘いだろうかと、そのような思考回路だった。
「困っているのは楽典ですか? 連絡を下されば僕から出向いたのに
「ううん、楽典じゃない」
「……音楽以外の教科ということなら、2年生の問題にはさすがにお答えしかねます」
「……そ、いうことじゃなくて、あの…」
言いかけながら口ごもりがちな先輩のことを、
いつものことだくらいに思いながら、僕は一歩踏み出して敷居を跨いだ。
教室を出ようとしている生徒が一番多いタイミングだったから、
いつまでも入り口を占領しているわけにはいかない。
ちょうど後ろから、勢い良く走り出て来たふたり組がいて、
僕は先輩の肩を手のひらで少し押して脇へ退かせた。
「じゃなー水嶋ー」
「あぁ、また明日」
妙にそそくさと過ぎたのを僕が目線で追った向こう、友人たちはにやけ顔で振り返る。
こそこそと噂する内容は、実は僕にも先輩にもつつ抜けていた。
声量の工面ならもう少し確実にするか、もしくはいっそしないか、どちらかが好ましい
と僕は思う。
“いっこ上らしいって話”
“マジか、ハルに年上のオンナ?”
はいはいよくわかりました
「ハルに年上のオンナ」がいるのはそんなにおかしいことですか
というかどういう意味だ 失礼な
僕は髪をかきあげる。
先輩は僕と違ってなんだかおもしろそうに、
口許に手指を緩く曲げて当てながら、くすくす笑っていた。
「……で、なんです?」
「あぁ、うん。やっぱりハルくん気付いてないでしょ」
「……は?」
「きょうバレンタインだよ」
言われて、僕の脳はあまりに素早く動き始めた。
「バレンタイン」という、
それはいままで僕にとって、さほど縁のなかった言葉なのに、
耳にした瞬間に意味を理解して頬がかっと染まったのを感じた。
そんな僕に、ポンと小気味よく差し出されたものがあった。
それまでスカートの後ろだかに隠していたらしい、
可憐なラッピングの施された箱だ。
「せ、せんぱ…こ、これというのはつまり、その」
「そうです。これというのはつまりその、かなで先輩からハルくんにあげる、
ちなみに手作りのチョコレートなのです」
「―――は、はぁ」
先輩は僕と違って落ちついていて、
僕は先輩と違って非日常で、
いつもの廊下が全くよそゆきの景色になっていく。
受け取る前に、僕はズボンで手を拭う。
チェロを抱えてステージにのぼるときよりも、ずっと、
持ったものを取り落としそうな手のひらをしていたからだ。
「あ、あり、ありがっ」
何をどもっているんだ僕は。
こういうとき、一体、どういう態度を取るべきなんだ僕は。
「あ、りがとうございます」
それしか言えなかった。結局。
決して大きくはない箱が、なんて重く感じる。
そして先輩は笑う。それもすこぶるおかしそうに。
「ふふ」
「は」
「かわいい」
「…!」
あいた口が あいた口が 塞がらなくて困る
その言葉は、先輩、若干、
僕にとって地雷なのですが。
「ごめんね、かわいい」
蟻の子が散る如く、クラスメイトの衆目の中、
そんなふうに駄目押しに、通算二度も言った先輩のことが、
それでも僕は、誰よりも好きだ。
◇
そんな彼女は、いま僕の隣で居眠りをしていた。
正確に表現するなら隣でなく、
彼女の背中ではストーブが焚かれ、僕はその赤々とした炎を横目に見る角度。
居間の丸いちゃぶ台は年季の入った濃い褐色で、
僕たちはその上に音楽史の教科書とノートを開いていた。
2月14日に、初めて本当に好きなひとからチョコレートをもらった僕は、
それも手作りと聞いて恐らくかなり舞い上がっていたんだろう。
帰り道はほぼ無言で歩いて、いつもそこでわかれる交差点まで来てしまって、
やっとのことで隣の手を握って引いた。
理由はシンプルに、どうしても、彼女をまだ帰したくなかったからだ。
一応試験期間中だからそれらしい理由を付けながら、
自宅に連れ込こむ術を模索した。
『わからないところは、ほんとうにないんですか』
『……えっと、なんの話?』
『で、すから、その、明日の試験範囲の、なかで』
『あ〜……ごめん』
僕は落胆した。
非常にわかりやすく、誰から見ても落胆しているとわかる表情で落胆した。
それまで暢気に流れていた横断歩道のメロディが、ふつと切れたのもそのときだ。
夏ならアブラ蝉の羽音くらいは残ったろうが、
水を打ったように静かとはこういうことを言うんだと思った。
『……そうですよね、すみません。いまのは忘れて―――
『わからないところたくさんありすぎて選べない』
悪戯に満ちた先輩の顔だった。
そりゃ、憤慨した。いらつきもした。
けれど、それよりも安堵のほうが勝って、悔しさが引いたあとには嬉しさのほうが幾らも残って、
横断歩道がまた青になって音楽が流れ始めても、
その短いゼブラを小走りに渡りきってからも、
家までずっと、繋いだ手を離すことができなかったなんて、
勝負ごとならもうとっくに、僕の負けが決まっているんだろう。
そんな僕の傍らで、彼女と言えば暢気なものだ。
いまのいままで熱心に質問を仕掛けていたかと思ったのに、
今や頬杖で、こくりこくりと船を漕ぐ。
さっき祖母と一緒にとった昼食を、ともすると僕より盛んに摂取したことと、
背中に背負ったストーブのぬくもりとが連携して、
徐々に徐々に僕から彼女を盗んでいった。
彼女の後ろでやかんがしゅんしゅん沸騰する音
健康な祖母が境内で竹ボウキを掛ける音
時折不揃いに鳴らされる、誰が引くのだろう、希いの篭もった鈴の音
いまはただ、そんな静寂と
微動だにしない長い睫毛と
そればかり気になる。
僕のことをかわいいなんて、あなたはそう言うけれど
それでも、やはりにいま、僕はこう思う。
悪いけどあなたのほうが、ずっとずっと可愛いですよ
なんのことはない、僕なんてただの男子だ。
つきあっている彼女に対し、真正面から可愛いとは言えなくても、
自覚すればそのとおりに、心は、身体は、そういうふうに動いてしまう。
それらしく見えないところがまたタチが悪いな、なんて自分でよくわかってさえいる。
わかっていて直せない。
(本当に、可愛い)
演奏しているときとは別人のように、
―――演奏のときはかわいくないと言っているのではない
そういうときは、かわいいよりも綺麗だと思う
あなたのようになりたいと、つい見蕩れて、
弓を引く手がときに止まってしまいそうな―――
けれど、そうして演奏でなく居眠りをしている彼女に、
僕はいまにも、止まっていた手を動かしたくなっている。
僕の手を塞いでいるペンなんか置いて、
あなたをもっと、僕のものにしたくなる
ペンを置いた手で彼女の髪に触れた。
夏のときよりも伸びて、肩より少し下になった、ときどき結んだりもする髪だ。
指の間でするり、滑らせながら、ちゃぶ台に身を乗り出して唇を近づけていく。
起こさないように、これでも気を張ったつもりだった。
ささくれのひとつ感じられない髪に、唇を押し当てて、
きっと一秒だかそれくらいの間こっそりと満悦した僕が、
伏せたまぶたを上げたとき、なぜか先輩と目が合ってしまうことの口惜しさと言ったらない。
「ハルくん…?」
「―――なっ、なにも」
「……うん?」
まだ眠そうな瞬きをしているくせに、
なんだっていまこのときを選んで起きてしまうんだろう、この可愛いひとは。
僕は髪からぱっと手を放した。
まるで悪いことでもしたようにして、その実そう悪いことではないと主張しながら、
それでも捨てんばかりに放してしまう、未だ少しも慣れない手だ。
誤摩化しでもないけれど、僕は手もとに置いていたチョコの包装を解きはじめる。
既にもらったものなのだから、別に開けたって、罪にはならない。はずだ。
「可愛いでしょ、昨日遅くまでがんばったんだよ」
「……けっこう、苦労するものなんですか? 僕にはあまり知識がないもので」
「ううん、苦労じゃないけど。あ、けど好きなひとにじゃなかったら、苦労だと思う」
「………そ、そうですか」
手つきがままならなくなり、幾重にも掛けられたリボンをそれこそ苦労してほどいた僕は、
中から出てきた更なるラッピングに肩を落とした。
本音で言わせてもらえるなら女子のこういうところが僕にはよくわからない。
食べて欲しいと思っているに違いないのに、
口にできるまでに男子はかなり疲労する。
本人を前にしてなら途中で休憩を挟めないから余計だ。
これからは、本人を前にして開封するのはよすのが良策かもしれない。
縦長の巾着状のビニール包装は、
金色の短冊を細く縦に切ったようなものを捻って留められていた。
ポッキーのようなものが入っているらしき影が見える。
僕はその金封を開ける方向に捻りながら、更なる無駄口を叩く。
「試験、余裕なんですか?」
「……そういうふうに見える?」
「『モーツァルトが1762年から開始した音楽旅行で訪れた最初の都市はどこでしょう?』
はい、答えて下さい。出そうな問題です」
「………るくせんぶるく」
「ほら、そんななのに居眠るんですから。僕には到底理解できません」
少し言葉がきつったか、先輩はしゅんと俯いた。
けれど彼女の試験範囲を鑑みて、これは正しく答えて欲しい問題だった。
可愛いけれど、ここはこころを鬼にしないと、
高校に於いての定期考査は、ひいては受験にも関わってくる。
彼女は僕よりも1年先に、そう、来年の今頃は、その行事を迎えているだろうひとだから。
そのころもバレンタインだろうから
来年はこんなことで苦労して、時間を無駄にしないでくれるといい
来年だけは 忘れていてくれていいですから
「正解を知りたいですか」
「……はい」
「正解はウィ
「あああ待って! ……待ってやっぱりかんがえる」
正直に言うと、その反応は、
正座した膝が思わず崩れてしまうくらいに可愛かった。
なんというか、もう普通に陥落してしまった。
が、僕はやっとのことで膝は崩さずに、
彼女が考えあぐねている時間を利用して封をようやくすべて解き放ち、
ポッキー風情のカステラ色のぶぶんをつまんで一本取り出した。
居間に降り注ぐ白昼の陽光に、僕はその細身のチョコレートを矯めつ眇める。
カステラ色のぶぶんは普通のポッキーだったが、
チョコの部分にはなんだか飾り付けがされている。
少し不真面目な種類の女子がよく爪にやっているような飾りというか、
ところ狭しとくっつけられたそれらが、反射にきらきらと輝いて本当に綺麗だ。
うっかり見蕩れていた僕に彼女は何度か呼びかけていたらしく、
思い出したように反応すると、うなだれる。
「……やっぱりわかんない。かも」
「そうですか。ではこれは僕よりむしろあなたが食べるべきですね」
「―――ん?」
僕は宝石のようなポッキーを彼女の口許に近づけた。
意外なことだったが、彼女はもっとしゅんとした。
どうやら彼女は僕の思惑を、正しく理解していないらしい。
「……いらなかった? ハルくん甘いの嫌いとか」
「いいえ。ですが、居眠りには甘いものが良いと聞いたことがあります。
停滞した脳の活動を素早く活性化するのに、特にチョコレートは効果があるそうです」
「でもそれはバレンタインに」
「あなたが僕に下さったものですよね」
僕がこんなに近づけているのに、唇をかたくなに引き結ぶ。
不出来な腹話術のようにして、困ったように発話するのだ。
「……そうだよ」
「僕を幸せな気持ちにするために」
「そうだよ?」
「だから、それならあなたも一緒に」
僕は先端のほんのひとかけらを、前歯でカリとかじった。
そして、少しだけ短くなったそれを、改めて彼女の口許へ、
今度はちゃんと唇に触れさせて、ふくらな弾力を半分ほど押しつぶした。
「僕が一人占めにするよりも、あなたとふたりでいただくほうが、きっと幸せです」
「……ハルくんってときどき、」
「はい?」
「……すごくドキドキする」
「なんとでも」
かわいいとばかり言われていたのでは、
男として立つ瀬がない。
それだけの、これはある種僕の意地だ。
だめ押しに唇をつつくと、先輩は何かを決したようにして、
僕の噛み跡へ向かって小さな唇に隙間をつくる。
食べるというのでない、むしゃぶりつくのでもない、
ただ、一端を支えるように含んで口を窄めた。
「さて、残りを僕はどういただきましょうか」
このままぽきんと折るのがいいか、
彼女の口腔で甘みが蕩けて、ふやけてほろりと崩れるのを待つのがいいか、
それとも、或いはこちらのカステラ色を、さくさくと噛み砕いて攻めていくのがいいか。
赤いあかいその顔が、
僕と同じ正解を導いているといいと思った。
「こういうのはいかがでしょう」
「……」
銜えたままでは答えられない、わかっていて更に問う。
「僕がそちらに届くまで、そのままおとなしくしていて下さったなら、
さっきの正解をお答えしてもいいかと」
「―――!」
「悪い条件ではないはずです」
言って、僕は指の代わりに唇で噛みついた。
前歯でカリ、と高い音を立てると、10センチ向こうの彼女が明らかに狼狽する。
いまから僕が何をしようとするのか
気付いているなら3秒だけ
どうか 先輩 逃げないで
飾り立てられた宝石を、ひと噛みずつ短くしながら、
一向に動かない彼女の唇を見ている。
カカオの味か、イチゴの味か、なんだかよくわからない味でいっぱいにしながら、
最後の1ミリを期待する、やはり動かぬ彼女の目線に絡んでいく。
触れるその、一瞬の直前に
既に蕩けたような彼女の指先のほうが先に
この場でいちばん熱いだろう僕の頬に届いた。
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