* We Shall Hope It Sweetend *
歩きながら本を読む。
教科書であれ、漫画であれ、楽譜であっても
それはあまり褒められたことではない、というのが悠人の見解だ。
にせよ、彼女がせがむなら、そうするより仕方がない。
「そうですね。僕の見解だと、ここはむしろテンションとしてぶつけていくくらいのほうが効果的ではないかと」
問題の音符を指差して、譜面をかなでのほうへ近づけた。
校門のところで背を持たせかけながら、
それを矯めつ眇めつしながら悠人を待っていたかなでは、
悠人がやってくるや否や「どう思う?」と突きつけて、いまに至る。
「テンションって…?」
「本来のスケール上では不響かもしれない音に対する考え方のひとつです」
「……むずかし」
「え、難しいですか?」
「ハルくんの言い方、楽典の教科書みたい」
「……ではどう言えば」と、悠人はもう一度楽譜を自分の手元へ持ち直す。
それを、かなでが隣から覗き込むような恰好になり、
悠人はチラリと目線をやる。
長い睫毛は真剣そのもの。
帆布を貼付けたヴァイオリンケースを、両手で持つのが愛らしい。
さほど重いとは思えないものを。
2学期の中間試験の期間中だ。
アンサンブルの実技試験を控え練習を積んで来たが、
明日に迫りどうしても解釈できない箇所があると言うのである。
互いに試験中の身であるから、しばらく一緒に帰れないというのは前に言ってあり、
かなでも望むところだと受けて立ったが、
いよいよ切羽詰まった、ということらしい。
ホームルーム直後に届いた「音楽のことなのでどうか助けて欲しい」という要旨のメールは、
読むに連れて、かなでの困った顔が目に浮かぶようで、
とても断わりきることができなかった悠人である。
せっかく頼ってくれたのだから、学校から寮までの間に、
どうにか答えに繋がる導線を、引き出してやりたい思いがある。
ゆえに、行儀が悪いと知りながら、歩きながら譜面を開くしかなかった。
「クラシックではやや斬新の感もありますが、ガーシュウィンはジャズの演奏家とも交流があったようですし、
そういった背景から考えると、ここでは少し羽目を外したアプローチも、ナシではないと思います」
「うーん……響く?」
「逆に、響かせない、という意味で」
悠人は言い切って、かなでに譜面が渡る。
説明したことを鼻歌に乗せ、何度も同じところを繰り返しうたう、
やや調子はずれのかなでの声に、耳許の髪が揺れるようだ。
午後の街路を並んで歩く、本来そこでわかれるべき交差点を、
かなでと同じ方向へ曲がる。寮の門が見えてくる。
―――試験中のイレギュラー発生
その、短い短い距離ならば、
それはわかっていたのだから
もう少しゆっくり歩けば良かった。
想定外の事態に対しては、もっと、計算して臨むべきだというような、
悠人の中では馴染みの薄い気持ちが、一足ごと、
ふつりふつりとわいていた。
「あぁ! そういうことか」
かなでが膝を打ったような声で見返ったのは、
まさしく菩提樹寮の門前であった。
その二本の支柱の真ん中で、クッキリと足を止めている。
「本当にわかったんですか?」
「なんとなくだけど、うん」
「……そうですか」
わかってくれたなら、安堵するべきなのに
できればもう2〜3度くらいの押し問答を引き出したくなってしまう。
まだいいじゃないですか
そんなふうに、声をかけたくなってしまう。
けれども。
「それなら良かった。では、かなで先輩、僕はこれで。またあした」
悠人はキリッと踵を返した。
つい、家とは反対方向へ歩いてきてしまった、僅かなイレギュラーの街路を、
いまから戻る。いつもの道へ、戻るために、気持ちに折り目が必要だ。
「待っ…!」
「えっ」
思考の追いつかないうちに、かなでの靴音が追いついていた。
というか、まだ三歩さえ歩いていない。景色のほとんど変わらぬうちに、
背中をくんと引かれて、振り向いた。
「……前にも言いましたが、ベストが伸びます」
「ご、ごめんっ」
パッと指先が離れる。
思うよりも先に、咄嗟につかまえたのだろう、
楽譜はケースを持つ方の手と一緒に握られていて、くしゃ、と皺が寄っている。
ああ、そんなにして
同じ思いを抱いていたなら、とても苦言などできない。
まだ帰りたくないのは、むしろこちらのほうだったのだから。
どうしたんですか、なんて尋ねるのは、意地が悪いだろうから。
「もう少し、話しましょうか」
「―――いいの?」
「きゅうに、寄り道をしたくなったようです」
言って再び踵を返す。
かなでは、引き上げた顔を満面の笑みにする。
中へ、とか、庭へ、とか、誘うかなでをひとつひとつ断わって、
門の支柱の片方へ、寄って話すことを選んだ。
かなでは、ヴァイオリンケースをことんと足元に置いていた。
コンクリートに背中を預け、楽譜の皺を手のひらでなぞる彼女の傍に立ち、
ここへきて、音楽の話題が少しも出て来なくなったことの不思議。
「いつから好きだったのー?」
「しっかりしたひとだなあと」
「………いつのこと?」
「ですから部長が手首を……負傷されたというのを」
そこまで言えば思い出すかと思ったのだったが、
かなではそれでも考え込んでいる。
そうなのである。
あのときは、覚悟を決めたかなでの前に、自分の頬を打ちさえしたが、
あのときのように、しっかりしたひとだなあと思うようなことは、
このように本当に、たまにさえ起こらない。
それは、相当レアな一面を見せてくれたのだという意味で
とても忘れられないという意味で
しかしながら確かに、彼女の中にあるものだということ。
「っ、覚えていらっしゃらないなら、いいですそれで」
「ここまで出かかってるんだけどなぁ、うーんとどうだっけ?」
「も、もうその話はいいでしょう! どうしていきなりそんなことを」
「うん」
かなでは、なにかを思い出すように、横顔で空を仰いだ。
夏の頃より、随分と角度を下げて、柔らかになった白いひかりをみつめる。
「初めてここまで送ってくれたときは、雨が降ってたんだよね〜って。ほら、私カサがなくて」
「あぁ、ありましたね、そんなことも」
「雨の日ね、いまはもっと好きだよ」
「……そうですね、僕も」
「うん?」
「好きですよ」
しっかりしていないあなたのことも
しっかりしているあなたのことも
(どちらも本当に、好きですよ)
腰を落ち着けて、夕焼けが浮かぶ頃までもいたら、かなでも悠人も試験に負ける。
それではこの、イレギュラーの意味がなくなってしまう。
後ろ髪の引かれる想いの意味が、灰燼に帰してしまう。
秋の午後は短くて
しかし、続いていく時間は、これからいくらもあるのだからと
簡単なことを、こころに言い聞かせることの、難しさ。
「……ありがと」
頬を赤くしたかなでに、ひとつ近づいて、
その顔を正面から捉える。
その前に、寮に出入りする人影が、一つもないかどうかを確かめてから
二本の腕でかなでを、そっとそっと囲うようにする。
コンクリートは手のひらにひんやりと沁み
やはりに季節は、少しずつ回っていることを知る。
そして、近くちかくした唇で、聞こえるだけの大きさで言った。
「外では困りますか」
「困らない」
揺るぎない返事が、もしやほんのり、動いてしまわぬ間に
こっそりと伏してゆく睫毛に、引かれるようにして
重ねるだけのキスを盗み取る。
頬にするつもりが、寄せればやはり唇は、おなじく唇を選んだ。
「っ…、すみません」
「う、ううん…」
こうでもして、勢いをつけなければ、とても帰ることができないので
日常に戻ってゆくことが、できないので
揺れる瞳に思うことは、悠人にしては多分に言い訳じみた。
身体を離した隙間を、一筋の秋が渡る。
「では、今度こそ、またあした」
「うん、がんばって!」
「先輩こそ」
まだ夕焼けが来ないから、隠せない頬のいろのことは、
しっかりと笑むことで、迷いない想いとして伝えられるだろうか。
背中を向ける、唇に残る、すこしのほろ苦さを飲み込む。
− We Shall Hope It Sweetend・完 −
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