受験生にゴールデンウィークはない。


「ふぁ〜〜〜あ」


楽典の補習が終わり、隣の席の幼馴染みがいつものようにあくびをする。
授業中はあんなに眠いのに、終わった途端ばっちり目覚めるのはなんでだろうな、
と聞かれて、私も同じ疑問を抱えていたばかりなので、彼の望むような答えはできなかった。


「んじゃま、帰るか」


今日の補習は午前中で終わりだ。
ゴールデンウィークだから、せめて午後は遊べるように、という配慮なのか、
午後は各自実技試験に向けてがんばれよ、という叱咤激励なのか
恐らく後者だろうなというような話をしながら、寮までの道を歩く。


「じゃ、私はここで」


寮の手前の交差点で、私は響也にそう告げた。
ん、と不思議そうな顔をするが、私にだって予定のある日くらいある。
今日は5月4日、ゴールデンウィークの中日でもあるが、忘れてはならないことに、彼氏の誕生日でもあるのだ。


「あー、ハル今日だったか。休み中の誕生日ってのは、どうも忘れられっちまうんだよな〜。
 オレがいい例だけどよ、彼女がいると祝ってもらえるってわけか。アリだな、それ」


響也の誕生日は、いつも私と律くんと、もしくは私とおじいちゃんとでちゃんとお祝いしたはずだ。
覚えていないのだろうか。


「ま、そうだけどよ」


響也は、それとこれとはちょっと違う、みたいなことを言った。
残念だが、ちょっと違うなら仕方がない。では来年は遠慮しようかと申し出てみると、それは困ると言う。


「っつーか、来年はお前もオレも、大学行ってんのか。うまくいきゃ、だけどな」
「じゃぁ前倒しでやろう。春休み入る前にみんなで」
「まじかそれいいな! あ〜、つか立ち話してる場合でもねーか。じゃーな、浮かれ過ぎてっと車に当たるぜ」
「はーい。じゃまたー」
「おー」


そう、休み中の誕生日だから、きっとふたりで過ごせるだろうと思って、
どうせならびっくりさせたいから、誕生日のことは敢えて話題にしないで今日まで来た。
これから買い物に出て、ハルくんの好きなものをいろいろ作る為の材料を買って、
ケーキとかも作るとだいたい晩ご飯の時間になるように、寮のキッチンで料理することに決めている。


買うものメモは昨日のうちに作っておいた。
鞄からそれを出して、指で辿りつつ、どの店にしようかなぁと考えていた。
髪を揺らし、紙の端をパタパタとめくっていく緑の風が気持ちいい。
この季節に生まれたひとか、爽やかなはずだ。なんて、ハルくんの顔を思い浮かべた。


「おーい、かなで、待てって!」


先程別れたばかりの響也の声だ。
靴音から、走っているらしいことがわかる。
何か忘れ物でもしたのだろうか、ありがちだと思って振り返った。


「どうしたの? 何か忘れてた?」


響也は背を折り、ヒィヒィと呼吸している。
よほど急いだようだ。


「忘れてたもなにも、オレもだけどよ、今日って、昼休みに部会なかったか?」
「…………うー…あ!!」


初夏に開かれる体育祭のフォークダンスの生演奏の曲の選定とかだった気がする。
2年生が中心になって決めているはずだが、「3年の先輩方も補習が終わったら参加してくださいね」と、
確かキリッと申し述べたのは次期部長候補であるハルくんのはずだ。
私は顔から血の気の引くのを感じた。


「だろ? ッか〜〜〜〜だよなやっぱ! ヤッベ全力で抜け落ちてた!」
「どどどどうしようか」
「いまからじゃ間に合うはずもねぇが、とりま走るっきゃねーだろ」
「わ、わかった!」


私たちは、来た道を逆方向へ、全力で駆け抜けた。
街路樹の新緑が、まるでカラーテープみたいになって、どんどん後ろへ流れていく。
無論、楽しんでいる余裕なんか、なかった。




* The Seventeenth 0504 *






思ったとおり、ハルくんはとても怒っていた。
部室の、立て付けの悪い扉を、響也が蹴るようにして開けたこともその一因だったが、
瞬間に向けられたきついまなざしは、遅れて来たのが私たちだということを容易に予想していたことを示していた。


「響也先輩に…小日向先輩も、遅れて来てなにを突っ立っているんですか。はやく席についてください」


流石の響也も反論しない。私はもっと反論できなかった。
俯き加減に、空いている席に適当に腰を下ろす。
ハルくんは、既に曲は決定している旨と、いまから異議は認めない旨を告げながら、
コピーされたパート譜を持って近づいて来た。
心なしか、目が合わない。


「これが楽譜です」
「お、おう」
「……はい」


響也の席に置く置き方と、私の席に置く置き方が、心なしか違う気がしてしまう。
かなで先輩でなく、小日向先輩と呼ばれた私は、
少し考えすぎなくらいにハルくんの態度のことを意識していた。
前に戻るときの踵の返し方とか、髪の掻き上げ方とか、


(……あれはすっごい怒ってる)


項垂れるより他になかった。
とても前を見て話を聞けない。
胸は始終ドキドキと打っていて、説明の声も、黒板にチョークの滑る音も、ただのBGMになってしまい、
あれからハルくんが何を話したのか、部員たちが席を立ち始めても、まるっきり頭に残っていない。
私は俯きながら、スカートの裾をぎゅうと握りしめていた。


どうしたらいいんだろう
どうして忘れてたんだろう
どうしてよりによって今日なんだろう


こんなことでは、誕生日のことなんて
言い出せるわけがない。


「かなで、終わってるぜ」
「……しってる」
「あー……なんだ、その、オレからもハルにちょっと言っとくか?
 遅れたのは確かにオレらがわりぃけど、ちと厳しすぎんだろ」


私は首を横に振った。
ハルくんが厳しすぎるのではない。私が甘すぎるのだ。
ひとつのことに夢中になると、他のことが後回しになってしまうところがある。自覚はしている。
いまだって、ハルくんが怒ってる、ということに頭の中を占領されて、
体育祭までの練習の日程とか、次の集まりはいつかだとか、全部右から左だ。
ああ、わかっているのに、きっとまた怒られてしまう。


泣きそうになっているから、とは言わないで、
少し頭を冷やしたいからと言って、響也には先に帰ってもらった。


不思議なことに、少しもお尻が浮かない。
楽譜を机に置いたまま、スカートを握りしめたまま、
私はもうどれくらい、こうしてるんだろう。
部室は静かになっていて、隣の練習室から、練習熱心な部員の奏でる音が漏れくるだけになっていた。


キュル、とおなかの虫が鳴く。
こんなときにでも、お腹はちゃんと減るんだなぁと思うと、情けない。
結論は少しも出ていないのに。


そんな私が、ふと顔を上げたのは、ぼんやりと眺める楽譜の上に、
コンビニの袋が置かれたからだった。
その、ふわとした音から、パンかなにかが入っているようだ。


「……ハルくん」


ハルくんは、私の呼びかけには答えずに、前の席の椅子を横にして座った。


「炭酸と炭酸じゃないの、どちらがいいですか?」
「……炭酸で」
「では、こちらですね」


ハルくんは、左手に二つ持った缶のうちのひとつを、空いた方の手でとって渡してくれた。
つい、大きな手、とか、言ってしまった。


「チェロ弾きですからね。右手より左手のほうが少し大きいんです」
「そ、そうなんだ」


会話をする度に、心臓が駆け出しそうになる。身体中に力が入って、肩が凝ったようになっていた。
ハルくんの態度は、とはいえ随分軟化したように思える。
けれど、私はまだ謝っていないし、許されたとはとても思えない。
それなのにジュースとか、パンとか、私のぶんも買って来てくれているのはどういうことか、とか
それでもまだ本当は怒っているんだろうなとか、
疑問が疑問を呼ぶようで、少しも喉のつかえが取れない。


「かなで先輩」
「―――」
「……どうしたんです? ぽかんとして」
「だ、だっていまかなで先輩って」
「何かおかしいですか」
「え…だって……おかしくは、ないけど」


私はなにか、へんなことを聞いたろうか。
ハルくんは首を傾げながら、ビニール袋の中からパンを取り出して封を切った。
ぱふ! といい音がする。


「さっきから、随分元気がないようですが」


元気のない理由は、ハルくんが一番よくわかっているはずだが、心配するという口調ではなかった。
ハルくんの視線はパンに向けられていて、私ではない。
けれども、嫌味を言っているふうにも聞こえない。
言うなれば、まっすぐ、いつものハルくんだ。


「……怒ってないの?」
「怒ってますよ。あなたが遅刻して来たことについては、まだ。当たり前でしょう」
「やっぱり……」


折角買って来てくれたが、とても手を付けられる気分ではない。
私はまた、目を合わせられなくなって俯いた。


「遅れてごめんなさい。あの本当に……忘れてて」
「そうですね、あなたが悪い」
「そ、そんな…! ……って、うん、私が、悪い」


わかっている。
それは重々にわかっている。
けれど、だけど、そうだけど


私は彼女なのに
ハルくんは



どうしてそんなに厳しいの



特別扱いして欲しいなんて、思わないけれど
逆にとても、よそよそしくされているみたいで
彼女じゃないよりも、厳しくされているみたいで


膝で、スカートの裾を握る手の甲に、涙が落ちた。
ああ、これでは、言い訳をしているみたい。
女の子だから、泣けば済むって、態度で示してしまったみたい。


「ふ」。と、そのとき聞いた、ハルくんが喉から出した声は、
溜め息ではなく、少しの笑みが混ざっていた。


「本当に、仕方のないひとだな。あなたというひとは」
「……」
「僕に少し小言を言われたくらいで、そんなにがっかりしてしまうなんて。そんなでは思いやられる」


なにが思いやられるのだろうか、聞きたいけれど、嗚咽が邪魔して少しも声にならない。
彼女として連れて歩くのに、めんどくさすぎるということだろうか。
自分で思い詰めることが、泣き癖に追い討ちをかける。


「あなたは今年受験生なんですよ」


言われて、少しだけはっとした。涙だらけの目を上げると、
ハルくんは全然怒った顔をしていなかった。
意外すぎる、その柔らかい笑みに、甘えてはいけないと思っていた気持ちは途端に負けてしまい、
そっと伸ばされた手のひらを、私は性急に掴むようにして、指は水かきまで絡めちぎった。


「受験会場に、万一遅れて入るとどうなるか、わかりますか」


激しく首を縦に振る。何度も何度も頷いた。


「音大を受けるなら狭き門ですし、レッスンだってそれ相応に厳しくなる。歯に衣着せぬ教授陣もいるでしょう、
 レッスン室から泣いて出てくる先輩方を、僕は去年何人も見ています。僕の勘だと、あなたは確実にそうなる」
「うん、うん」
「けれども、僕は、どれほど心配でも、受験会場にはついていってはあげられないんですから」
「―――うん」


まるで、子どもにするように、ハルくんは私の頭を撫でた。
本当に私のほうが、ひとつ年上なのだろうか。
これは、つきあってから何度も思ったことだ。
そう、そんなだから、こんなことになっている。
私は、この、一年に少し足りない間、ハルくんに心配ばかり、かけているということなのだ。


「ですから、僕はまだ、あなたを甘やかす癖を、つけるわけにいかないんです」


私は、改めて思っていた。
これが、彼の優しさなのだと。
誰にもできない厳しさは、誰にも負けない優しさから、うまれるものなのだと。


「泣かせたことは、すみませんでした」
「ううん、もう泣かないって、決めたから」
「ふふ、そうですか。それなら、良かった」


仕切り直すように手をほどいたハルくんは、
新しいパンの袋を取り出して、さっきと同じようにいい音を立てて開けた。
小さなシュークリームが幾つか入っている。
それは、私が好きなもののうちのひとつだ。
泣いたカラスはこのようにして笑うのだと、我ながら思った。


「どうぞ、かなで先輩」
「えっ」


ハルくんはそれをひとつ摘んで、私の口許へヒョ、と近づけていた。
これはもしかして、もしかしなくても、はいあーんという、あのシーンなのだろうか。
私は思わずまごついて、顔をひとつ後ろへ引いてしまった。
ハルくんがするには、あまりにそれは、そぐわない気がして。


「どうしたんですか、赤くなって」
「だ、だってだってこんなの…!」
「食べ物が喉を通らないほど落ち込ませた責任を感じているんです」


ハルくんは本気のようだ。
ずい、とまるいシューのもこもこ感が迫り来る。


「……えーと…」
「ですから、はい、素直に口を開ける」
「……はい」


なるだけ小さく開けたつもりの口の中へ、上手に含ませられて、
ほろりととけゆくそれは、初めて食べたなにかのように、甘いあまい味がした。




折角来たので、練習してから帰りますと言うハルくんの、邪魔にならないように帰って来た。
本当は、一緒に練習して音を合わせたりもしたかったのだが、
私は部会のあることを忘れていたくらいなので、ヴァイオリンなど持って行っていなかったのである。


午後も深い時間になっていたから、それから材料を揃えてケーキとかいろいろを作る時間もない。
いや、正確には書き付けたメモをどこかで落としてしまったようなのだ。
部会に遅れて、あれほど急いで戻ったから、途中ではらりと風にあおられたのだろう。
なくても買い物ができないわけではないが、なんと言うか、めげてしまったような、
今日という日に、私は完全に敗北してしまったような気がしたのだ。
夕焼けはとっくに西へ押されて、あと数時間で、5月4日は終わろうとしていた。


「あ"ーーー最悪」


私は、制服のまま寮の共用ラウンジで伸びていた。


「って言ってる場合じゃない電話しよう!」


あと数時間しかないのだ。
プレゼントが用意できなかったのもさることながら、
彼女なのに、お誕生日おめでとうのひとことさえ、言うのが最速でも明日になってしまうなんて、
そんなことがあってはならない。



ハルくんの誕生日は5月4日。どうがんばっても、今日しかないのだから。



アドレス帳から、ハルくんを見つけて通話ボタンを押した。
話し中のようだ。
少し待ってから、リダイヤルをしてみた。
やはり、話し中のようだ。


「……」


誕生日の夜だ。私以外に誰がハルくんを占領しているのだろうか。
ツーツーとイライラをあおる電子音は、耳から離してもまだ聞こえていた。
私は、素早く切ってもう一度リダイヤルする。
それでも、話し中のようだ。


「もぉぉぉ! こうなったら行く!」


がたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、
私は一路、月下の瑞島神社を目指す。
めげてなんて、いられない。
どうしても、今夜中に伝えたい。


17歳おめでとうって。









「あぁ、……あぁ。……は? ちゃんと聞いてるだろ。というかもういいか?」


電話の向こうはなかなか話を切らない。
連休を利用して泊まりに来ていた従兄弟が、いま着いた的な電話を寄越してからもうじき1時間になる。
今朝の食事まで一緒に食べたというのに、よくそれほど話すことがあると思う。
渋滞に巻き込まれていままでかかっただの、まぁそれは報告すべき事情だとしても、
ぜったい買おうと思っていた土産をひとつだけ買い忘れただの、
連休が終わったらまた朝練が始まるのでモーニングコールをして欲しいだの、
特に僕にとって得になるような情報はない。


「もうわかったから、いい加減……あ? ……わかったかければいいんだろかければ。何時なら間に合うんだ」


耳と肩の間に携帯を挟み、デスクに腰掛け、
指定のモーニングコール時間をふん、ふん、とメモしていると、
窓ガラスがごんごんと叩かれる音がする。
こんな時間に妙だな、と言うか、こんな時間でなくても、
玄関に回らず僕の部屋の窓が叩かれるとは不審きわまりない。


「5時半だな、じゃ、切る」


新は何だかと苦言していたが、それどころじゃない。聞かずにボタンを押し、僕はゆっくりと立ち上がった。
常時立てかけてある竹刀を後ろ手に用意して、足音を立てぬようカーテンへ忍び寄った。
「心・技・体」との三文字を思い浮かべつつ神経を集中した僕の直前、いい度胸だと思うが、再び窓は叩かれた。
カーテンの重ね目に、ひと揺らしもせずに手を沿えて、そのまま一気に開ききった。


「曲者かッ!」
「ハルくん!」
「―――――な」


僕は、これほどの脱力を知らない。
あわやガラスをひと突きにせんとしていた竹刀が、手のひらからごろりと畳へ落ちてゆく。


「かなで……先輩」


制服の上半身だけが見えていた。
浅い息をしているのは走って来たのだろうか、瞳もやや潤んでいるように見える。
どうして、と、返す返すわからない。
彼女は、口をぱくぱくとさせながら、カギを開けろとそのように指先で示した。



全く、突拍子もないひとだ。



怒るに怒れない、ほろりと頬を綻ばせるくらいしか、僕にできることはなかった。
先程の新もそうだが、ことごとく僕というのは、こういうタイプに好かれるらしい。


カギをくい、と下ろし、ふたりを仕切るガラス窓を開いた。
長年の雨ざらしに、やや錆び付いたサッシが砂を噛んで軋んだ、
このとき僕は、彼女の上目遣いを初めて見た気がした。
屋内と野外の段差がそうさせるのだが、いつもは同じくらいの目線で合わせる顔が、
こうしてななめ上から見下ろすことで、酷く頼りなく、可愛く見える。


「とにかく入ってください。玄関に回りますから」
「ううん、ここがいいの!」
「…先輩?」
「ここから……」


確かに、早寝の祖父母、及び家族はもう寝んでいる。
玄関の灯りの消えているのを察してこちらに回ったのだろうが、
彼女ひとり招き入れる間、電気をつけるくらいは難があるはずもない。
そう言っても、彼女は聞かなかった。


「やってみたいのそういうの!」


めげずに明るい顔を作る、けれども、どことはなく、必死さが見え隠れた。


「……走って会いに来たんだから、玄関まで待てないって、それくらい言って欲しいよ」
「そ、そういう我が儘を」
「私は、ずっと、話し中のハルくんを待ったんだから」
「―――」


なにかが、彼女をせき立てている。
これほど真摯な恋人の、わけはわからないにしても、願いのひとつくらい。
玄関でも窓からでも、彼女がコソドロでないと僕さえわかっているならば、
どこから招き入れるかは、目くじらを立てるところでもないのかもしれなかった。
おねがい、とねだる声に、ついに僕は腰を折り、手を伸ばしてくる彼女の脇の下へ腕をさしいれた。


「いいですか、しっかりつかまっていてくださいね」
「ん」


彼女が、割れるような笑顔に変わる。
「心・技・体」とは、こういう時にこそ、使うものだと知る。
抱き寄せた途端、鼻腔に侵入するいい匂いについては気付かないふりをしながら、
下腹に力をしっかり込めて引き上げると、
思うよりずっと軽く、ふわ、と浮き上がる身体に、
接した骨格へ、柔らかくふにゃと沈んでくる感触に、どきんと胸が鳴り。


よく晴れた月の下から、こっそりなにかを盗むような、そんな気分にさせる。


「……っと!」


上手に降りた彼女は、まずは靴を片足ずつ脱いで、窓からことんことんと落とす。
そして、いったいなにをと僕がぽかんと思う間に、一気に距離を詰めた。
ぎゅう、とまるで力任せに抱きついてくるのは、
これが昼間泣いたひとだろうか、とても、同じ人物だとは思えない。


「せっ…んぱい!」
「17歳おめでとう!」
「―――え」
「誕生日だから、どうしても今日じゅうに言いたくて」


きつくきつく絡まる腕に、彼女の言葉を反芻して、
思い返せばそうだった。5月4日は親戚の帰る日、かつ部会のある日、
僕の誕生日でもあるなんて、バタバタとしてすっかり忘れていた。


自分の誕生日でも、これほどは喜ばないだろうというようなふうで、
(―――あくまで僕と比べた場合の話だが)
本当は、もっと、他にしたかったこともあったとか
遅れたのはそのことばかり考えていたからだとか
あらためてごめんなさいだとか
彼女は僕の胸の中で、しきりに言葉を継いだ。


そんな彼女の様子に、僕の中で思い当たるものがあった。


「……もしかして、これのことですか」


ポケットに入れていた紙切れを取り出して、
未だ貼り付いている彼女の目線へ、ピラリと、読めるようにして見せた。
帰り際、部室を出たところに落ちていたのを拾ったのだ。


「恐らく、部の中の誰かが落としたのだろうと思って、時効かもしれませんが一応取っておきました」
「……そ、そうだよこれ!」
「買い物メモのようですが、何だか、僕の好きなものばかりが書いてあるな、とは思ったんです」
「内緒で作って、びっくりさせようって、思って」


まるで、目に浮かぶようだった。


このひとは
日がなそんなことばかり、考えていたというのだろうか
突如、締めつけられる思いがする。



なんだ
そういうことなら
あんなに叱ったりしなかったのに



泣かせたりしなかったのに


「……誕生日って、そんなことで、夜中にひとりで走って来たんですか」
「ふふ、ごめん」


いつからだろう、彼女には、すぐに謝る癖がついた。
謝って欲しいわけではないのに、困った顔をさせたいわけではないのに
僕の言葉は、余計なものを削ぎ落としすぎて
まっすぐに彼女へ、届きすぎてしまう。


今日も、説明のほとんどを記憶に残していないようなのを、見ていてよくわかっていた。
けれど、それを、僕にまだ言えないでいる。このひとは。
言えばまた、怒られるのではないかと
僕が、仏頂面をするのではないかと
言い出すタイミングを、彼女はいつからか窺うようになっていた。


気付いている。本当は、ずっとずっと、それを知っていて、僕は
やはりに僕は、厳しすぎるのかもしれない。


「かなで先輩」


少しだけ顔を傾けて、なるだけ優しく口付けたつもりだ。
言葉にできないぶんは、キスでごまかそうとするなんて、僕もただの男でしかない。


「ありがとう」
「……怒らないんだ」
「怒ってるはずないでしょう。それより無事で良かった」
「びっくりした?」
「それはもう、寿命が縮むほどに」
「なら、よかった」


不思議なことに、腕を少しもほどけない。
二人きりの部屋で、夜がとっぷり更けてから、女性にこんなふうにするのは



いけないことですよね、先輩。



理性が保つうちに、あなたから、離れてくれたら
幸せに過ぎて、僕からはとても、離せそうにないので、
どうか、あなたから


「びっくりは今年十分いただきましたから、今度またこういうことがあったなら、
 迎えに来いとだけメールしてください。どこにいても、何時になっても、必ず迎えに行きますから」
「うん」


僕の腕は、ただあなたのためにあるのだから


「……では、送りましょうか」
「じゃぁも、もういっかい、だけ」
「キスですか?」


こくりと頷く彼女の頬は、今日いちばんの赤さに染まった。
断わらなければ、してしまえば、僕はきっと送っていくことができなくなる。
今度こそ、触れるだけのキスでは、終われなくなる。



わかっていて、十分に、わかっていて



彼女の柔らかい唇の、なかみをしっくりと押しつぶすように、
ゆっくりゆっくり口付けた。
初めはついばむように、ぷると離れる粘膜を、離れきる前にもう一度捉えて、
舌で濡らすようにした。


「……っん」


酷く甘い気がした、薄いうすい表皮に滑らせて、
緩く閉じられた隙間にさしいれる。
彼女のあかい舌先を掬い上げるように、くるりと唾液ごと絡めとった。


「んぁ……ふ…」


浅い息は、僕も同じで、
堪えきれない気持ちを、息継ぎの合間に言葉にした。


「送っていくと言いましたが…」
「……うん」
「やっぱり、泊まって……行かれますか」
「い、いいのかな」
「好物もいいですが、今日の日を、祝ってくださるというなら、僕はあなたをいただきたい」
「じゃ、じゃぁ……」


ほんの、しばらくのあいだだけ
あなたと同い年でいられる間に
17歳のあなたを、17歳の僕が抱ける間に


その初めを、今夜のあなたと始めたい。






− The Seventeenth 0504・完 −





コルダ3きってのオトコマエ担当は意外な伏兵ハルちゃんだったわけですが、もうほんとに……かわいい顔してまじでやられた!!
子猫うんぬんの件でマジギレされたときは本気で泣きそうになりました…
けど彼女のことちゃんと叱れる男の子って、そうはいないですよね。
プレイ後になってじわじわきいてきたハル毒。もうね、これそう簡単には抜けない。
ハルちゃん大好き! おめでとう−!

2010.05.03 ロココ千代田 拝